神様の決めた法律には色々なものがあって、例えば 自分に与えられた命を自ら絶ってはいけないとか、 与えられた性は変えてはいけないとか、色々あるのだけど、 所詮神様というのは、人の心の生み出した良心や善心の変化した もので、それを意識するみんなが作り出した、戒律の象徴的存在 といえる。んで、その中で、それに逆らったからどうだ!というと、 社会的な問題を除けば別に何でもないのである。 だけど人の心の中には必ずなにか、そういう「みんなの戒律」に 反した時には、何らかの後ろめたさや、良心の呵責を感じるという 実に都合のいい回路が埋め込まれている。
そして、その回路はどうして働くのか?というと・・・、それは ちょっと私にも解らないなぁ。けれど、誰かを好きになるのは 罪ではないと私は思ってはいる。キリスト教では、むやみに異性と 馬桑ってはいけないというきまりがある。今のように街中で カップル同士でいちゃいちゃ、なんてのだって、もってのほかなんだよ。
だけど、誰かを好きになったり、交尾したいと思う気持ちは 衣食住の欲求と同等に置かれるべき欲求のひとつなんだって 事を忘れちゃいけないと思う。大事なものでないのなら、あんなに 気持ちがいいはずないもん。生きていく上で、辛い事や悲しいこと を誤魔化して、忘れさせてくれる、大事な大事な動物機能なんだ。 脳みそはエンドルフィンだしまくって、心を健康な状態に戻そうと してくれる。ありがたいなぁ。
恋は罪ではないのだよ。でも、ね。自分の心の中で、自分の理性が 悪とするものがあるなら、それは社会的な要素を抜きにして罪だと 言えなくも無い。誰かを好きになって、でもその人には他の配偶者 がいて、それの何が辛いかって言ったら、人から見てどうだとか、 それが背徳だとかではなくて、心の中で、自分の理性がそれを悪だと しているから、「してはいけない事」をしている自分に対して 自分がツライと感じるからなのだと思う。そういう人の事も、好きに なってもいいんだよ、本当は。自分を苦しめてるのは、自分なんだ。 私が私の戒律を違反しているのが、辛いんだ。そう、思う、今日この頃。
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