今日図書館で釈迦来迎絵図など、仏教関係の本を見た。 私は仏教絵画が好きだ。曼荼羅なんかだと解り易いけど、 あの絵には、ある一定の方が決まっている。
これはタロットカードの絵柄やキリスト教絵画でも同じで、 要するに型が決まっているという訳。例えばある人を描く時、 この人だったら、この人を象徴する、物だったり、ポーズだったり、 向きだったりが決まっていて、どの絵であっても(あえて型破り をしているものは除くが)それが徹底されている。
…同じ題材を同じパターンで描いていく訳だけれど、だからこそ 描く人のセンスやら癖やら工夫やらが見れるので、それを考えながら 見ていると、とても楽しいのだ。
んで、今日はそういう画図を見ていて、その解説にあたる部分を 読んでいたら、そこにちらりと書かれていた文章に、少し魅せられた。
人は、何で神様の絵を描きたがるのか、という説明の中で、筆者は語る。 人は、「目に見えないもの」だけど、きっと存在すると思われるモノを 信じているのだそうだ。で、それを見たいから、絵に描いて、 見えないものを目に見える形で表現している、とのこと。
見えないものを見ようとする。その為に絵を描く。強く思い描く事。 これらはそのまま、人の夢をみる力に影響するんだそうだ。 なるほど、と思った。
現在の人達は、欲しい物や見たい物を、ちょっと苦労したり何かを使えば 簡単に見る事が出来てしまう。それも、他人の力でだ。誰かが 作った物。誰かが提示する物。既にそこにあるイメージを、簡単に、 手軽に拝見し、拝借する。そういう課程のなかで、私たちは夢を見る “力”や、心に思い描くものを失ってきているような気がする。
今、何をして良いのか解らない。何が欲しいのか解らない。 空っぽの心の飽和状態。外から何かを入れてこないと、いつでも 心は空っぽが溢れてきて、どんなにどんなに詰め込んでも、それらは時間と ともに流れていってしまうの。だから、多分淋しいんだ。
もっと強い夢が見れる世の中になると良いと思う。 そして私自身もそうした強い夢がもてると良いと思う。
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