ケイケイの映画日記
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2024年12月30日(月) |
「2024年 年間ベスト10」 |
今年のラストは、22日に観た「ロボット・ドリーム」なので、(楽しみました!)ベスト10、行きます。今年は53本映画館で観ましたが、良かった作品もバンバン感想落すという体たらくで、情けない限りです。では行ってみよう!
1 シビル・ウォー
2 二度目のはなればなれ
3 大いなる不在
4 花嫁はどこへ?
5 侍タイム・スリッパー
6 サウンド・オブ・フリーダム
7 落下の解剖学
8 ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリデイ
9 PERFECT DAYS
10 枯れ葉
9と10は、去年から公開だけど、今年1月観たのに、良い作品だったとまだまだ感慨充分なので、入れさせて貰いました。今年一月は、「NOCEBO/ノセボ」、「カラオケ行こ!」も、今も忘れ難い好きな作品で、今年は幸先良いなぁ、とホコホコしておりました。
しかし好事魔多しで、その後周囲であれこれトラブルが勃発。映画どころじゃない日々が続きました。老いてくると何が良いかというと、「まぁ何とかなるやろ」が心に根付いている事。今まで何とかなったんだから、これからも大丈夫という、根拠があるんだか無いんだかの感情に支えられての、一年でした。
「シビル・ウォー」は、観た直後から今年の一番はこれに決まりだなと感じました。私は子供の頃から、アメリカのドラマや映画にまみれていて、ヒューマニズムはアメリカから学ぶ事が多かったです。そのアメリカで、このような大いなる内省とも言える作品が作られ、まだまだアメリカも捨てたもんじゃないと、感慨深かったです。
奇しくもアプローチは違えど、「二度目のはなればなれ」も、深々と心に響く反戦映画でした。反戦と同時に、物事を観る力は、幾つになっても老いてはいけないなと、そこも学ばせて貰いました。
観たい作品がどんどん減っていく中、今年はたくさん邦画も観て、たくさん感動も貰ったのに、こうやって選んでみれば、ほとんど洋画ばっかり。もうこの性は仕方ないのか?(笑)。涙を呑んでベスト10は落としましたが、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」は、心待ちにしていた観たかった洋画です。本家アメリカでも、ヒーロー疲れなる言葉が出来ているようで、今後はこの手の秀作の製作が増えればなと思います。
元々私は感受性は豊かですが、神経は結構太く、打たれ強くもあります。娘を理解しない母親に「あんたは繊細で神経質」と、間違った事を言われ続け、その呪詛から逃れられたのが、映画のレビューでした。映画から受けた感情を文章にすると、自分が見えてくるのです。感想を書く事は、自分自身の成長を促す事だと、思っています。
なので、これからも細々ですが、書いていきたいと思っていますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。どうぞ良いお年をお迎え下さい。来年は出来るだけ、感想を落さず書きたいなぁ。
2024年12月18日(水) |
「劇場版ドクターX FINAL」 |
実はね、このシリーズは、初回から最後まで、ずっと観ているのですね。特に大ファンではありませんが、ファンではあります。劇場版は、もういいかなぁと思っていましたが、蛭間重勝役の西田敏行の遺作となってしまい、これはもう、観に行かなくちゃとなった次第です。テレビドラマの拡大版の粋は超えていませんが、ファンなら色々感慨深いシーンもあり、観て良かったです。監督、脚本は、ドラマ版と同じく田村直己と中澤ミホ。
東帝大学病院では、新病院長の神津比呂人(染谷将太)が経費削減のため、強権を発動。非人道的なスケジュールで手術を組まされ、多くの医師や看護師が退職していきます。海外から日本に帰国した大門未知子(米倉涼子)は、比呂人の先輩で元同僚の森本(田中圭)の願いにより、東帝大に戻ります。森本が未知子の過去を辿っていくうち、比呂人と双子の弟多可人(染谷将太)は、未知子の師である晶(岸辺一徳)との因縁に、辿り着きます。
冒頭はお約束の荒唐無稽な設定でスタート。その後も大小小ネタで笑いを取り、まるでお茶の間で観ているかのような懐かしさで、楽しみます。笑いの中に、過去の出来事が挿入され、未知子が何故医者になったかが明かされます。晶さんとの関係も、ドラマファンが薄々感づいているのを、そのまま踏襲。私がグッと来たのは、「私、失敗しないので」の、一見尊大とも言える未知子の台詞秘話です。私はこのセリフ好きでね、手術前に医師に言われたら、どんなに心強いか。大門未知子にして、オペに怖気づく自分に喝を入れるためなのですね。自分に言い聞かせるのは、大切な事よ。
神津兄弟の晶さんへの感情は逆恨みです。ここはちょっと理由が陳腐だと思いました。時代の寵児の二人ですが、人格的には低い模様。だから医師あるまじき私怨で、病人を見棄ててしまう。
後半はその比呂人の医師としての未熟さに引っ掛けて、未知子やお馴染みの海老名(遠藤憲一)加地(勝村政信)原(鈴木浩介)の医師たちが一致団結、医師の矜持を見せてくれます。ここは素直に感動しました。鑑賞前は、染谷将太がファイナルのラスボスとは、ちと若造過ぎるなと思っていましたが、若い医師の未熟さと、ベテランの見せる、医師の真髄との対比のためだったんだなと、腑に落ちました。
予告編でチラッと映る未知子の「晶さーん!」の号泣は、観客をミスリードしておりますので、展開をお楽しみに。こうやって感想を書いてみると、監督と脚本のお二人は、ドラマファンにもご新規さんにも楽しめるよう、抜群の安定感で作りこんでいるなぁと、感嘆します。
城之内先生役の内田有紀ばかり若さを褒められますが、米倉涼子も充分若々しいままです。12年間、一貫してキャラのぶれない未知子を演じて、充分ファンを満足させて、私は大したもんだと思っています。変に貫禄が出ないのも良かったな。あっ、城之内先生も大好きですよ。というか、レギュラー陣はみんな好き。
晶さんも、最初の方ではオネエ言葉ではなかったですが、いつの間にか変わっていました。回想場面ではメイクが若過ぎて若干笑ってしまいました(ごめんよ)。晶さんに限らず、シリーズが変わるごとに悪役は入れ替わり、当初悪役の東帝大の先生方が、愛すべきキャラに移行したのも、脚本の妙味です。今回なんて、蛭間先生が未知子を守るんだもん。
西田敏行は、登場場面は多かったですが、全て着席。印象もいつもより老けていましたが、これが彼の見納めかと思うと、センチメンタルな感情が湧いてきます。最後に英語の追悼文が出て、「we miss you」の箇所には、思わず泣けてしまいました。うん、私もとても寂しいよ。
ラストはドラマ版で思い出深い登場人物が、当時の映像で出て来て、懐かしさがいっぱいでした。長く観てきて、良かったなと思います。何となく次に続く希望が見えるラストでしたが、ドラマでいいから観たいです。「メロンです!」は、晶さんも未知子バージョンもあるので、お楽しみに!
熱の籠った、超のつく力作でした。出ずっぱりで、ぐいぐい画面を引っ張っていく、主演の横浜流星の渾身の演技は、感動的ですらありました。正義とは権力とは何なのか、観客に深く問う作品です。監督は藤井道人。
18歳の時に、凶悪な殺人事件の犯人として、死刑判決を受けた鏑木慶一(横浜流星)。病気を装い脱獄した彼は、日本中を変装しながら、逃走します。行く先々であった人々の野々村(森本慎太郎)、紗耶香(吉岡里帆)、舞(山田安奈)は、凶悪な犯罪者とはかけ離れた鏑木の姿に、凶悪な事件との隔たりに違和感を覚えます。そしてその違和感は、鏑木を取り調べ、今また逃走中の彼を追う刑事の又貫も、持ち続けていました。
動機など全くなく、逃亡中の優秀さを鑑みれば、慶一は高校時代も同じだったと想像出来ます。ロクな捜査・取り調べではありません。時は18歳が成人となった時。刑罰も成人扱いです。又貫の上司(松重豊)は、「世間に見せしめが必要だ」と言います。18歳の少年たちの犯罪抑制のためでしょう。慶一は児童施設育ち。抵抗してくる親もおらず、都合が良かったのでしょう。世間の施設育ちへの偏見も、目論見に入っていたはず。なんて卑劣なんだろう。
冤罪の可能性を告げる部下の又貫に、上司は「真実はどうでもいい。犯人は鏑木だ。今更違うと言えるか」と言い募ります。耳を疑うようなセリフ。権力者側の蛮行に、震撼します。
お話しは幾つかのパートに分かれており、様々なエピソードが描かれます。冒頭、決死で脱獄する慶一の様子では、まだ彼が何を目的に逃亡するのか、判りません。その後の行く先々の職場での様子で、私が痛感したのは、彼の飛びぬけた優秀さと生真面目さ。そして高潔。野々村のために殴られ、恋する紗耶香と同居しても、ふたりは清い間柄だったと思います。混乱から嘘の証言をした由子も、決して責めない。彼を支援する人々を動かしたのは、慶一の人間性だったと思います。
訳アリの人々が集まる飯場で出会った和也は、事件後初めての友人となり、フリーライターとして出会った紗耶香には、ほのかな恋心を抱き、老人施設の同僚の舞からは、その誠実な仕事ぶりで、憧れられる。343日の逃亡生活は、常にいつ捕まってしまうかと緊張感を抱く中、生きるという事の、手応えも描きます。立ち振る舞いが上手になり、コミュニケーション能力も上がっている慶一。彼の成長ぶりが、「生」を体現しているように思います。
冤罪というと、今年無罪が確定した袴田氏が思い起こされます。私は袴田氏以上に、氏のお姉さんの印象が強いです。無実を訴えるも誰からも信じて貰えなかった慶一。紗耶香の「あなたを信じる」と言う言葉に、涙します。孤立無援の孤独の中、「信じる」という優しく解り易い言葉の重みを、とても感じます。袴田氏のお姉さんも、弟に「信じる」を言い続けたのだろうと思います。時代は今より50年前以上。冤罪裁判は、弟と一緒に汚名を着せられたお姉さんにとっても、戦いだったと思います。「信じる」とは、折れそうな相手の心を、支える言葉なんだと、痛感しました。だからこそ、言う方も、相手の期待を裏切っちゃいけないのですね。
何が又貫の心を動かしたのか?正直で純粋な、慶一の言葉だったと思います。市井の人々の安全と命を守るのが警察。慶一の言葉は、宮仕えのしがらみを吹き飛ばし、刑事としての初心を思い出させたのだと、私は思いました。
ところで飯場、フリーライターは解かるのですが、老人施設へはどうやって雇われたのか?社会保険が発生するはずですし、今はどこの職場も住民票の提出が当たり前です。夜勤もやっていたフロアリーダーだったし、多分正職員。介護の資格はどうしたのかとか、筋とは関係ないですが、引っ掛かりました。
それと多分国選でしょうが、弁護士も描いて欲しかった。普通の腕前なら、警察の杜撰な捜査も、幾つも綻びを突けるはず。それさえしなかったのは、怠慢です。誰も支援する人の無い慶一に対しての世知辛さは、それも世の中の本質のはずです。なので、ここは描いて欲しかったです。
原作は未読ですが、ラストは原作と違うなと感じます。監督は希望に満ちた、エンディングにしたかったのでしょう。最後のシーンに出て来た又貫は、いつもの黒では無く、ライトグレーのスーツ。警察を辞めたのかと想像しました。職を辞さなければ、話せない事があったのだと思います。他者の人生を救う事は、警察を辞める事より重いと、彼が思ったのだとしたら、又貫の人生もまた、誇れるものになると思います。
とにかく横浜流星が素晴らしい!お芝居は若手の中でも上手いと思っていましたが、俳優人生の集大成のような、様々な顔の慶一を演じ分けています。きっと彼の代表作になると思います。又貫と会話した時の慶一は、清廉で美しかった。これが本当の鏑木慶一なのだと思います。
冤罪で死刑囚になる事は、本当に稀だと思います。でも無実の事で罪に問われることは、少ない確率でもあるでしょう。その時、自分を信じ、大事な人を信じられるようでありたいと、切に思った作品です。
2024年12月03日(火) |
「ふたりで終わらせる」 |
DVとは、どういう状態であるのか、何を差していうのか?そこが綿密に繊細に描かれている作品。扇情的に描くことなく、抑制の効いた、知的な作風で、とても感銘を受けましました。監督は相手役で出演している、ジャスティン・バルドーニ。今回ネタバレです。
花屋を開くのが夢の若い女性リリー(ブレイク・ライブラリー)。店を手伝ってくれるアリッサ(ジェニー・スレイト)の兄で、医師のライル(ジャスティン・バルドーニ)の真摯なアプローチに、身持ちの堅い彼女の気持ちもほぐれ、付き合う事に。リリーの母と三人で食事に行く事になります。その店は、偶然にもリリーの初恋の相手アトラス(ブランドン・スクレナー)のお店でした。
リリーとライルの出会い、ライルの妹アリッサが働くきっかけ、リリーとライルの再会。まるで古めかしい恋愛映画を観ているようで、少々退屈です。その後の、順調に愛と仕事を育むリリーの様子も、ライル兄妹が裕福なので、(ライルは脳神経外科医、リリーも市長の娘)ゴージャスな二人の愛の交歓の様子に、もうお腹いっぱい(笑)。それでも見目麗しい妙齢の男女のロマンス風景は、それなりには楽しめます。
それが一時間ほど続いたあと、これはこのお話しの壮大な序章で、後で思い返す時に必要だったんだなと、痛感します(なので、苦手な人は我慢してね)。
冒頭の出会いの時に、手術が上手く行かず、盛大にライルが椅子を蹴っ飛ばす様子で、テーマのDV男は、この男性だなと思いました。アトラスとリリーが恋仲だったのは、高校生の時。不仲で別れたわけではなく、懐かしさいっぱいの二人。私たち観客には、リリーは郷愁に駆られているのであって、過去の男性だと一線を引いているのが判ります。それがライルには判らない。
徐々に変貌していき、リリーに執着し始めるライル。二人がまだ恋愛関係で無かった時は、彼女の意思を尊重し、行為には及ばなかった人なのに。どこが線引きだったのか?私は「あなたを愛している。私はあなたのものよ」と、リリーが甘く囁いた時からだと思う。リリーには愛しい人への誓いの言葉だったのだけど、ライルはあの時からリリーの事は、愛しさでも、所有物めいて思えたのでしょう。
切欠は、毎回リリーからです。少々誤解されるようなシチュエーション、正直すぎる返事。一見上手く立ち回れない彼女に非があるように、作品は描きます。でもそうでしょうか?リリーはいつもライルの顔色を窺い、本心を言わないのは、正しいのか?違います。妻から自分の思う返答が無かったとして、暴力を振るうのが正しいのか?違います。結婚後、知らなかった相手の異性遍歴が露になった時、自分がバカにされたと、相手に暴力をふるって良いのか?違います。愛しているなら、パートナーを信じる、ではないかな?
暴力性は、人間なら誰しもが持つものだと、私は思っています。夫に暴力をふるう妻もいるし、他者に暴力をふるう人は、男女ともいます。それを抑制するのが、知性や理性ではないか?ライルは医師です。疑う事無く知能は高いでしょう。そこに惑わされてはいけないのでしょう。
実はリリーの亡き父親も、リリーの母である妻を殴る人でした。妻だけではなく、娘であるリリーをも傷つけていました。リリーは母に、何故離婚しなかったのかと問うと、「離婚は面倒だった。それに夫を愛していた」と答えます。
今の時代なら、問答無用で離婚でしょう。でもリリーの母は私と同世代。DVなんて言葉はなく、夫が妻を殴っても、殴られるような事をした妻が悪い、と言われた時代です。敬意を持たれるのは夫だけ。家庭の中で上下関係がある。人権意識も薄く、養って貰っているという負い目に、人として尊厳を奪われ続ける日々が、思考を鈍らし、離婚が面倒になる。そして経済的に自立していた女性は、圧倒的に少なかったはずです。
愛情は確かにあったのでしょう。でも「情」が強かったのでは?夫がある日を境に大人しくなるのですよ。それは妻が自分の母親になった時。夫として君臨するより、夫としてではなく、息子として妻に甘える方が心地よくなる。そして上下関係は逆転する。妻無くしては生活出来ない男の出来上がり。そこには男女の愛ではなく、家族の情は確かにあるでしょう。
私の姑は、これを「女は泣いて泣いて、泣き果てて、初めて幸せになれる」と言いました。でもそれは、妻としての幸せかしら?家庭の幸せと、妻の幸せは、イコールではありません。リリーの母の選択も、今の時代なら、違ったかもしれません。
リリーは確かにライルを愛していたと思います。アトラスよりも。生まれた娘に、ライルの亡き兄の名前をつけたのは何故か?不幸な形で兄を亡くした夫を、罪の意識から解放してあげたかったのでしょう。ライルのDVの原因も、そこにあると私も思います。彼を自制できる、知能と理性の比例する人に戻って貰うには、自分たちの存在は邪魔になるとの思いが、あの選択だったと思います。そこには情ではなく、痛みを伴いながらの、確かな愛があったと思います。
DVする人(次いでモラハラも)ってのはね、私は劣等感の強い人がするもの、だと思います。自分の過去を紐解く事から始める事も、映画の中で示唆しています。
敬愛する映画友達に、「ふたりで終わらせる」のふたりは、誰を指すのかと問われ、劇中の台詞通り、私はリリーと娘だと思うとお返事しました。でも原題のタイトルに入っているのは、「わたし達」。この方が作品には相応しいと思います。リリーを取り巻く人々が抱えていた葛藤は、全てDVに繋がっていたと思うから。リリーとライルの別れは、勇気あるものだと思います。
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