ケイケイの映画日記
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2025年06月15日(日) 「フロントライン」




五年前この作品の舞台である、ダイヤモンド・エリザベス号の船上で起きた事は、まだまだ記憶に深い事です。この作品は、事実を元に作られた作品で、感動を呼ぶために作られたのではなく、、当時の事を語り継ぎ、貴重な教訓にするための作品なのだと、鑑賞後、深々と感じました。真摯で誠実な作品です。監督は関根光才。

2020年2月。未知の新型ウィルスに世界中が怯える中、横浜港に集団感染が始まったダイヤモンド・プリンセス号が入港する。ウィルス災害の専門分野で構成されるチームがなかった神奈川県は、災害専門の災害派遣医療チーム“DMAT(ディーマット)に出動を要請します。専門外だと悩んだ末、出動を決めるリーダーの結城(小栗旬)。厚労省から出向してきた立松(松坂桃李)と共に、陸で指揮を執ります。船に乗り込んだ医療者たちは、仙道(窪塚洋介)をリーダーに、医師の真田(池松壮亮)たちは、未知のウィルスとの闘いが始まります。

最後に出てきますが、きちんと事実を元に作られています。映画を観ていて、何も知らなかったんだなぁと、痛感しました。次々と感染者が現れ、パンデミックの様相を呈する船を、遠巻きに観ていただけだった私たち。船上は混乱はあっても、乗客は粛々と隔離されていたくらいに思っていました。なんて私の想像は貧困だったんだろう。

乗客はほとんど外国人。クルーも外国人。まず医療者側と言葉の壁があります。そして持病を持った人たちは、2週間の隔離で薬が足りない。素人には本当に盲点でした。コロナで亡くならなくても、薬が足りずに亡くなる人、過労で亡くなる人がいるのです。そして次々増えていく感染者。パニックにならない方が、おかしいです。

当初は仕事は出来るながら、冷徹な役人気質なのかと思っていたら、意外な熱さを見せる立松。結城をアシストするため、狡猾な手も使う。結城は結城で、国とDMATの医師たちとの板挟みに、迷いながらの指揮です。その時仙道は、「結城ちゃんは、どこを観てんの?厚生省やマスコミなの?観るのは患者でしょう!」と言い切ります。これは怒りではない。檄です。檄を飛ばしたんだよ。そして「みんなが結城ちゃんの”やれる事をやるだけ”という気持ちの元に集まっている」と言う仙道。

指揮官の迷いに、鈍る決断を後押しするのが、自分の役目と解っているのですね。あぁ「チーム」だなと感じ、胸が熱くなりました。チームみんなが結城を信頼しているのが、解かるのです。そしてリーダーだけではなく、リーダーに忌憚なく物申す事が出来る片腕が重要なのも、仙道を観ると、実感を持って解ります。

感染対策が手探りの中、防護服を着ながら診療に当たる医療者たち。観ていて、緊張と疲労が、如実に伝わってきます。感染症専門の医師(吹越満)の専門家からの観点のDMATへの非難をYouTubeにアップ。彼らへのバッシングを呼び、家族も含めての誹謗中傷が、世間からDNATの医療者たちに向けられます。DMATは皆ボランティアで、勤務先の許可を取って診察に当たっています。それが勤務先から出向を止められ、あげく謝罪にまで追い込まれる。

真田がその中傷に、何故反論しないのかと憤る。自分のために、妻子が巻き込まれるのが、耐えられないのです。ここも胸が痛む。妻が真田を心配しながらも、快くDMATの活動に送り出すのは、妻も夫の行いに誇りを持っているからでしょう。真田だけではなく、DMATの人たちが、医師という仕事を権力ではなく、社会的に責任ある仕事だと認識しているのが、手に取るように伝わってきます。

プライベートの充実が声高に叫ばれる世の中ですが、社会人として世の中に何が出来るのか、ほんの些細な事でも良いから、一人一人が行う事。それは尊い事なのだと、DMATや立松を観て、教えて貰いました。立松の「僕だって世の中の役に立ちたいと思って、役人になったんです」という台詞も、本当に痺れる想いで聞きました。

感染者含め医療者側も、まるで黴菌のように扱われた事は覚えていますが、勤務先にも同じような対応をされているとは、思いませんでした。この部分は、医療者側のご苦労が知れて、本当に知れて良かったです。

その中で、ホスピタリティを忘れないクルーたち。森七菜演じる寛子は、英語が話せる日本人なので、獅子奮迅の働きです。マスクだけして働くのは、とても緊張した事でしょう。乗客たちが船室のドアに、クルーたちへの感謝の手紙を張り出しているシーンにも、胸が熱くなりました。ここも全く想起しない事だったので、知って良かったです。

上記仙道や立松、結城の「やるべき事をやるだけ」等、名セリフがいっぱいの今作。船の人たちを受け入れた藤田医科大学の理事長(滝藤賢一)は、無症状ばかりと聞いて受け入れたのに、道中で発症者続出で怒り心頭です。しかし真田に、「先生は貴重な経験をしたんだよ。次は俺にも教えてね」と、笑顔を向ける。私はお医者さんたちは皆、彼らに成ろうしていると、信じたい。

感染症専門医に対しての意見で、「先生は正論を仰っているが、あの手探りの中、正論が決して正しいわけではない」との、DMATの声明。専門医が、導くつもりが出来なかったのは、あの喧騒の中では仕方がない事ですが、状況を見守る知性があっても、良かったかと思いました。それはマスコミも一緒です。

感想の冒頭に、「語り継がれるべき」と書きましたが、戦争と同じだと思いました。日本は島国で、歴史的に長らくの鎖国もあり、感染症にはパニックに成りがちです。意味不明のバッシングも、今思えば、偏狭な感情よりも、得体の知れない物に対しての恐れだったのだと思います。

この作品は、もし次にパンデミックが起こったら?その時の心構えが、いっぱい詰まった作品です。是非観て貰って、各自当時の検証をされて下さい。







2025年06月10日(火) 「国宝」




170分の大作ですが、鑑賞後に最初に想ったのは、今からもう一度観たい、でした。映画の感想は人それぞれなので、秀作や佳作と書く事が多い私ですが、この作品は、傑作と言い切りたいです。監督は李相日。

長崎の任侠の家に生まれた喜久雄(少年期・黒川想也、青年期・𠮷沢亮)は、抗争で父親(永瀬正敏)が亡くなり、素質を見込まれ、上方歌舞伎の花形役者・花井半二郎(渡辺謙)に、15歳の時に引き取られます。そこには御曹司の俊介(少年期・越山敬達、青年期・横浜流星)がいました。半二郎の妻幸子(寺島しのぶ)は、喜久雄を引き取る事に反発するが、その底知れぬ素質を理解し、引き取る事を認めます。まるで兄弟のように励まし合いながら稽古に励む、喜久雄と駿介。半二郎が怪我で舞台に立てなくなった時、半二郎は代演者に喜久雄を指名した事から、二人は周囲を巻き込み、数奇な運命に翻弄されます。

私が感嘆したのは、ほんの少ししか出演のない登場人物に心のひだまで、きちんと届く脚本(奥寺佐渡子)です。大河ドラマでも作れそうな時間の流れの中、原作(吉田修一)は膨大だと思います。喜久雄の父が死に様を喜久雄に観ておけと叫ぶのは、極道の道へは行くなという思いです。それなのに息子は、背中一面に刺青を掘り、復讐を誓う。継母(宮澤エマ)が、喜久雄を手放したのは、返り討ちに遭うのが目に見えていたからで、決して生さぬ仲の喜久雄を、面倒に思っていたわけでは、ないでしょう。喜久雄の素人とは思えぬ舞台をしっかり映しながら、完璧の出だしでした。

共に精進して芸を磨く喜久雄と駿介。親友でライバルで、心の底からの友情があるが故、愛憎もぶつけあう二人。この作品は、日本で有数の伝統芸能である歌舞伎を題材にしながら、ドロドロと生臭い。下世話で、世間から思われる高貴さも感じません。それは、舞台に出る事のない女性たちとて、同じです。半二郎の妻幸子、長崎から喜久雄を追って出て来た恋人春江(高畑充希)、喜久雄に恋心を抱く舞子の藤駒(見上愛)、重鎮役者(中村鴈次郎)の娘・彰子(森七菜)。自分の感情を押し殺し、男たちが芸の道を極めるため、過酷な日々を支え続ける女たち。その姿を肯定的に観てしまうのは、ふんだんに描かれる、舞台の場面の挿入です。その圧倒的な美しさが、理解させてしまうのです。

「連獅子」から始まり、「娘道成寺」「曽根崎心中」「鷺娘」など、私のように舞台を観た事がない人も、誰しもが一度はその場面を観たであろ、有名どころの演目が、画面に数々刻まれます。圧巻の「鷺娘」を踊る田中泯は舞踊家で知られますが、𠮷沢亮と横浜流星は、歌舞伎においてはズブの素人。なのに、なんなんだこの麗しさと、それと相反する、底から湧くような力強さは。いつまでも観ていたいほど、素晴らしい!二人とも売れっ子なのに、いつ稽古したんだろう?俳優という仕事の凄みを、脂の乗った40代〜50代の俳優ではなく、30前後の若手に感じるなんてと、そこにも感動しました。

「この世界で、親がおらんというのは、首が無いのも一緒や」と言う半二郎。喜久雄は初めてお初を演じる時、俊介に「俺には頼る血がないねん。お前の血をごくごく飲みたい」と、慟哭します。歌舞伎の世界に脈々受け継がれる血筋。才能は、血筋を超えられるのか?も、この作品の大きなテーマです。

血筋とは、私はお守りのようなものだと思う。血筋を信じれば、きっと自分は大丈夫。それを裏付けたいのが、休みなく続く、毎日の厳しい稽古なのでしょう。血筋は尊重されるべきものであって、守るものではないと思います。何故守りたいのか?他の優れた才能が入り、自分たちを脅かすからでしょうか?その強固な砦を壊したのが、田中泯演じる当代一の女形、小野川萬菊です。

あばら家に住む引退後の萬菊の姿は、落ちぶれたのではありません。舞台を降りて、あらゆる「美」を手放した事で、やっと安寧した日常がやってきたのです。壮絶な孤高の日々を潜り抜けると、そこにはまた、壮絶な孤独に、自ら身を投げねばいけない。血筋のない歌舞伎役者の覚悟です。今の喜久雄なら、その覚悟があるはずだと、自分の後継者として喜久雄を呼び寄せたのでしょう。

様々な人を翻弄して、「人間国宝」として頂点に達した喜久雄。自らもその才能に翻弄されたのに、「順風満帆の役者人生」と、的外れな評価にも微動だにしない。そんな喜久雄が、ある景色を観たいのに、観られないと言う。「上手い事、説明出来ません」と言う。その景色を見せてくれたのは、喜久雄の隠し子として生まれた藤駒の娘、綾乃(瀧内公美)。

「あんたなんか、父親と思た事、あらへん」と、自分を捨てた父に憎しみを隠さない、成人した綾乃。しかし、「お父ちゃん」と呼び掛ける彼女は、「お父ちゃんの舞台を観ると、お正月が来た時の、華やぐ気持ちになる」と言います。それは、憎いはずの父の姿を肯定してしまう、「親子の血」なのでしょう。歌舞伎役者として血筋の無い娘に、人として祝福して貰った喜久雄は、初めて観たかった景色を観る。それは大向うでした。娘に「声」をかけて貰ったのでしょう。これが血筋に対してのアンサーであると思います。

涙ながらに終えた鑑賞後、何故李監督が選ばれたのか?「悪人」「怒り」と、吉田作品との相性の良さだと思っていました。でも違うと思う。日本の伝統である歌舞伎の美しさと、相反する過酷な内幕を描きながらも、やはり歌舞伎は超一流の芸能だと、私は痛感しました。李監督は在日朝鮮人三世。日本人の血がなくとも、こんなに素晴らしく描けるのです。

俳優や監督だけではなく、作り手全ての渾身の作品です。この感動を、どうぞご鑑賞下さいませ。


2025年06月07日(土) 「サブスタンス」




うーん、オスカーはデミにあげたかったなぁ。元々俳優としては根性のあるタイプの人ですが、ここまで頑張るか?の熱演&怪演でした。美や若さに妄執・固執する様子は、私には共感出来ませんが、同性として充分理解は出来るもの。なので、暴走して爆発する結末にも、哀愁さえ感じてしまいました。監督はコラリー・ファルジャ。

元人気スター俳優だったエリザベス(デミ・ムーア)。今はエアロビクスのテレビ番組を持っています。しかしディレクターのハーヴェイ(デニス・クエイド)は、加齢による容姿の衰えを理由に、彼女を解雇。失意のエリザベスは、怪しげな再生美容薬サブスタンスに手を出します。その薬を使うと、エリザベスから、新たに生まれたのが、スー(マーガレット・クアリー)。二人は同一人物なので、一週間ずつの交代が必要なのですが、段々と美と若さを謳歌するスーが暴走し始め、決まりを守らず、エリザベスの存在を踏みつけにし始めます。

実物のデミは60過ぎで、エリザベスは50歳。ハリウッドは綺麗な人ばっかりで、実際の50では説得力が欠けたのかも。単体で観ると、まだまだ充分に美しいデミですが、マーガレットと比較すると、これが残酷なんだなぁ。二人とも全裸が映りますが、垂れたバスト、萎んだヒップのデミの後に、バーンと!張りと艶のあるマーガレットの全裸が出てくると、デミと同世代の私は、彼女の哀しい気持ちが良く解る。

でもこれはね、かつて超がつく美しかった人だから、昔が忘れられないの。私なんかは、若さからくる可愛さはあったけど、美人では決してなかった。そのせいか、加齢によって、衰えた容姿を嘆くより、知恵も知識も思考も深くなった今の自分が、昔より好きです。女性としてエリザベスの絶頂期には、足元には及ばなかったであろう私ですが、今の自分が大嫌いな彼女に対して、私は今の自分が好きです。人生は公平だよね。

かつての美人女優だって、老いを味方につけるように、円熟した演技や美しさを身にまとい、老女になっても素敵な人はたくさんいます。翻ってエリザベスを観ると、今はエアロビの番組だけで、芝居もしていない。美に頼った人生で、他に学ぶ事はなかったんだなぁと思うと、つくづく「美しさは罪」だと思うよな(「パタリロ!」の歌詞でもあったよね)。

それと若さは傲慢だも感じます。二人は同一人物であっても、お互いの記憶は曖昧で、スーはエリザベスの化身です。しかし若さは何事にも代え難く、自分の親とも言うべきエリザベスの存在が、段々邪魔になる。エリザベスはエリザベスで、若さを謳歌するスーに嫉妬し、嫌がらせもします。この辺、血を分けた母と娘の確執にも見えるのです。

特に印象深いのは、この関係を終わりにしたいエリザベスですが、どうしてもスーを手にかけられない。彼女は自分自身だから。しかし、スーは躊躇なくエリザベスに激しい暴行を加えます。自分自身だと解りながら。若い時は分別が無いのよな。それが以降の惨劇を招く事になると、頭が回らないのでしょう。

デミだけがクローズアップされていますが、マーガレットも体当たりの大熱演です。際物に傾きがちな内容と演出を、寸止めにしたのは、デミとマーガレットの好演あってこそです。クエイドの役名のハーヴェイは、ワインスタインを意識しての事かしら?エリザベスをババァ呼ばわりする彼ですが、充分お前もジジイだよ。「バトル・オブ・セクシーズ」で、権力ある男が好きなのは、キッチンとベッドの女性だけの台詞は、数十年経っても同じなのだと思うと、本当に腹が立つ。そんなクソジジイを、クエイドも好演しています。

私が哀しかったのは、エリザベスが絶頂期には歯牙にもかけなかったであろう同級生を、自分から誘いながら、容姿の衰えを隠せず、結局行けなかったシーンです。本当にね、年取ると、あれ?この服去年は似合っていたはずなのに?が、続出するわけね。だったら、そんな服は捨てて、新しく今の自分に似合う服を買えばいいんだよ。若さに固執するより、今から円熟も進化も出来るはず。容姿ではなく、内面のアンチエイジングを目指す方が、建設的ってもんです。私はそれが言いたい作品だったと思っています。


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