無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2005年10月31日(月) 負けないこと・投げ出さないこと・逃げ出さないこと・信じ抜くこと/映画『機動戦士ΖガンダムⅡ A New Translation 恋人たち』

 休日出勤したので、今日は仕事は休み。これ幸いと映画に行くことにする。初日 に三日遅れて、シネ・リーブル博多駅で、映画『機動戦士ΖガンダムⅡ A New Translation 恋人たち』(ZGⅡ―Lovers―)。
 多分、昨日一昨日はお客さんもいっぱいだったんだろうけれど、朝一番の回は七、八人。見た感じ、大学生かなんかのオタクだろう。ゆったり見られてこれは助かった。

 いつもなら、ここで長々と感想を書きたいところだけれど、実は書いた文章、ふと思い立って『ガンダムエース』の感想文募集に送っちゃったんだよね。賞金10万円にちょっと釣られた(笑)。
 全国で五人しか入賞しないから、それはまずありえないんだけれども、一応、「未発表原稿に限る」という規定なので、そのままここに載せるわけにはいかないのである。落選が決まったらあらためてアップしようと思うので、一応、簡単な要旨だけを記しておく。

 ・本作の再編集は前作以上に「コラージュ」的である。
 ・カミーユとフォウの恋愛は全体の「露払い」でしかない。
 ・旧作画は、フォウの場合もサラの場合も、カミーユとの関係が最も密着した時に使われている。新作画に挟まれているために、どちらの場合もテレビとは違って、より濃密な情感が付け加えられている。
 ・サラは池内千鶴が声をアテているために萌えキャラになっている(笑)。
 ・真打ちの恋愛はたったヒトコトしか発しなかったハマーン様。愛は相手を支配することである。彼女の登場で、それまでの恋愛群蔵劇が全て吹っ飛んだ。
 ・ラストシーンは第一作のネガ。アーガマはシャアやカミーユたちを乗せた「棺桶」である。

 本文はこれの100倍以上書いてるんだけど、まあ、あと二、三ヶ月はお待ちください(笑)。


 予定では、今日はさらに天神に回って、もう一本映画を見て、父の見舞いをして荷物をいくつか持って帰って郵便局にも寄ってブック・オフにも行く予定だったんだけど、しげが「気分が悪い」と言って愚図ったので全部中止。
 帰宅してしばらくしたら、父から「何で今日、来んやったとや」と電話がある。「しげの具合が悪くて」と答えたら、「だったら明日はもう迎えに来んでもいいぞ」と拗ねられる。
 しげに「見ろ、お前がわがままばっかり言うけん、親父が拗ねたやないか」と怒る。まあ、これくらいのことで拗ねる親父も親父なんだが、いつものごとく、前日にきちんと寝てなくて体調崩したしげもまた考えなしなのである。
 「こないだ叱ったばかりなのになんで同じ失敗を繰り返すとや」
 「ごめんなさい」
 「謝ってももう遅いやないか。これからどうすればいいか、考えきらんか?」
 「分からん。どうしたらいいか頭がパニックになって考えきらん」
 「だったら外行って、頭冷やしてこい!」
 しげを叱って、いったん外に追い出す。しばらくして、携帯に「ちゃんと考えて行動するようにするから」とか細い声で電話がかかってくる。なんだかまだアテになりそうにはなかったが、とりあえず部屋の中に入れて、「何も考えきらんて言うけど、『明日ちゃんと迎えに行きますから』って親父に連絡入れればすむことやないか」と言うと、「どうしてそんな簡単なことが思いつかないのか自分でも分からない」と言う。
 思いつかないのも当たり前だ。しげには「相手の立場を考えて行動する」経験が殆どないからだ。すぐに謝って、失敗をどんな形でやり直せばいいか、考えればいい。私はいつもそう言っている。しかし、考えるためにはその基盤となる「経験」がなければならないのだが、それがしげには決定的に欠けているのだ。
 分かりやすく言えば、「どうすれば人の心を思いやれるのか」が分からない。そして「分からない」と思った時点で考えることを放棄するから、「分からないものは分からないまま」で放置されてしまう。
 しかし誰だって、他人の心がお見通しってことはあり得ないので、だから「自分の内面に照らし合わせて、相手はこのように考えているのではないか」、と類推しているだけだ。その過程を、いつまで経ってもしげが辿ろうとしないのが私にはどうにも理解不能なのである。

 しげはすっかり自信をなくして、「もう芝居もやめようか」と言い出す。キャストがいつまでも集まらないことについて「見通しが甘かった」というのだ。甘いも何も、私から見れば本気でキャストを集めようとしているようにはとても見えない。ちょっと声をかけてみて「出たいけど出られない」と返されて、それですぐに諦めるのであれば、本気で誘っているとは思われないだろう。
 忙しいのは誰だって同じだ。私だって、これまでにしげのいい加減さに腹を立てて、途中でリタイアしたことは何度もある。それでも自分に芝居を作る熱情があって、「君と一緒にやりたい」と伝えてこそ、人は心を動かされるものなのではないのか。しげはすぐに諦める。相手を説得することを面倒くさがる。そんなことでは、人は心を打たれはしない。しげの言葉には、人を動かすための「実」がないのである。
 そうでなければ、今まで一緒に芝居を作ってきたPPPの連中が、今回、「誰一人参加しない」という事態にどうしてなってしまったのか。仲間と本気で語ったことがどれだけあったか。それがなかったから、みんなももうやる気を失ってしまっているのではないのか。
 「言いだしっぺがそんな無責任なことを言うのか。
 芝居作りで壁にぶち当たらないなんてことがあるのか。
 いつだって壁があることは前提だろう。壁にぶち当たったらそこで考える。考えたらきっと何かいいアイデアが生まれるよ。考えても何も方法が思いつかないなんてことはありえない。それは、考えるのをやめるから答えが見つからないだけだ。
 実際、お前だって、曲がりなりにも『考えて』きたからこそ、ここまでこぎつけてきたんだろう? だったらどうしてそれが自信に繋がらないんだよ。
 キャストが見つからない? それがどうしたよ。もっと探せよ。探しても見つからないって? だからまだ熱心さが足りないんだよ。
 それでも見つからなかったら、どうするかって? そのときは脚本を変えるさ。一人足りなくても成り立つように考える。
 そんなことできるのかって? できる。諦めなければできる。逆境は考えるためのきっかけだよ。逆境があるからアイデアも生まれるよ。俺だって自分には才能なんてないと思ってる。俺はお前以上に芝居作りには自信なんてないんだよ? なのにどうして自分には必ずアイデアが思いつけると思えるのか。
 あきらめないからだよ。お前も諦めるな。絶対に諦めるな」
 俺は大事MANブラザーズバンドかい(笑)。ぺらぺら喋ってるうちに、しげの顔に少しだけ笑顔が生まれる。
 これでちっとは気が落ち着いてくれたのならいいのだが。


 自宅のマンションから歩いて五分ほどのところに、新しく「マックスバリュ」というスーパーマーケットができている。24時間営業なので頗る便利になった。便利にはなったのだけれど、こうなると近所のセブンイレブンが結構な打撃を受けるんじゃないかと、今度はそれが心配になる。品物は確かにスーパーのほうが安くて品揃いもよいが、セブンアンドワイで本やDVDの通販を頼んだり、未払いのお金を払ったり(苦笑)、それができなくなるような事態にはならないでほしいのである。
 とは言え、今日も泣きやんだしげと、そこでラーメンやカレーなど非常食をたっぷり買い込む。駐車場も広いし、やっぱ便利だわ。ただ、11時を過ぎると裏門が締まるのには気付かず、その駐車場でちょっとウロチョロしてしまったが。

2002年10月31日(木) 食い損ねた話/『あたしンち』8巻(けらえいこ)/DVD『ジャングルはいつもハレのちグゥ デラックス』3巻
2001年10月31日(水) すみません、ちょっと疲れてます/『蝙蝠と蛞蝓/睡れる花嫁』(横溝正史・児島都・長尾文子)
2000年10月31日(火) 母さん、もうすぐ側に行くよ


2005年10月30日(日) あさりよしとおサイン会/『仮面ライダー響鬼』三十八之巻 「敗れる音撃」

 昨日が休日出勤だったので見られなかった『ウルトラマンマックス』、録画しておいた第18話「アカルイセカイ」(幻影宇宙人シャマー星人登場)を見る。タイトルは『アカルイミライ』のモジリだろうが、内容はまるで無関係。つか、文字通り闇を嫌う宇宙人が、巨大な反射板で世界から夜をなくして明るくしちゃうお話。
 シャマー星人を演じるのはワハハ本舗の佐藤正宏さん。いささか悪乗りのし過ぎで、こういうのが楽しい人には楽しいのだろうが、私にはダメとまでは言わないまでも、「外している」ようにしか見えない。佐藤さん、もっと愛嬌のある役柄をやらせてもいいと思うのだが、今回のシャマー星人はDASH隊員たちを徹底的にバカ扱いしていて、あまりいい感じはしない。まあ、所詮は侵略宇宙人だから、いい人っぽくなっちゃっても困るんだろうけれど。『ウルトラマンタロウ』はこんな感じのエピソードが多かったよなあと思いつつ、また三池監督が復帰しないかなあとか思う。


 『仮面ライダー響鬼』三十八之巻 「敗れる音撃」。
 さて、30話以降、思い切りトチ狂ってしまった、「旧」響鬼ファンの皆様、脚本家が井上敏樹から米村正二氏に代わりましたよ。これで安心してまたヒビキを見続けられますね。
 と、簡単に言ってのけることもできないんだろうけれど、目を覆いたくなるような雑な展開はかなり減った。桐矢君から散々バカにされ続けてもなぜか優柔不断なままだった明日夢君も、吹奏楽部の落ちこぼれになりそうだと気付いてようやく、「特訓」を始めるようになる。それはあくまで吹奏楽部の特訓なんだけれども、これで「鬼の弟子」になるきっかけはようやくできてきた感じだ。
 って、やっぱりここまで来るのに40話近くをかけちゃったってのは、いくらなんでも長すぎだよなあ。せっかく投入した桐矢君がいまいちお笑いなキャラで、明日夢君を鼓吹するにはいたらなかったのはやはり脚本の井上敏樹の失敗だろう。思い付きで「面堂終太郎」をぶち込んでみたものの、明日夢君は「諸星あたる」じゃないんだから、桐矢君のツッコミにツッコミで返すような器用なマネはできない。
 つか、明日夢君はもともと鬼になる気はなかったんだから、「俺がヒビキさんの弟子になる!」と意気込まれても、すぐには反発できないんだよね。「そう言われても僕は鬼になるべきなんだろうか」とか悩むばかりで。
 多分、井上敏樹は、脚本を書きながら、「しまった、桐矢に何をやらしても明日夢が動かねえ!」と頭を抱えたに違いない。どっちかと言うと、桐矢君が「動かした」のはあきらの方だった。明日夢君と違って、あきらは既に鬼の弟子になっていて、自分の復讐心と鬼としての資質との狭間で行き詰まりを感じていて、だから桐矢君のストレートで不躾なモノイイがぐっさりと胸に刺さることになったし、朱鬼の元に走ることにもなったのである。わずか二話で急激に。
 やっぱり29話でいったん『響鬼』を終わらせてしまったのは、後を引き継ぐ人たちにとっては相当困った事態だったんだ、と思わざるを得ない。つか、あの幕切れは、ある意味「いやがらせ」ですらある。「別に鬼の跡を継がなくてもよくなった」明日夢君に、「弟子になること」を決意させるのは、いったん死んだ沖田館長を蘇らせなきゃならないことくらい、難しいことなのである。
 でもこれからの展開、ザンキは爆弾抱えたままの体で、恐らくは自らの死と引き換えにあとに何を残せるか模索することになるだろうし、あきらに去られたイブキ、ザンキに突き離されたトドロキは、どん底から這い上がるための必死の努力をしいられることになるだろう。ようやく『響鬼』は「ドラマ」らしくなってきたと言えるのである。
 まあ、29話までのまったり路線も悪くはなかったけどよ、やっぱり「石ノ森章太郎の遺志を継ぐ」のであれば、ライダーはライダーらしく、「さんだらぼっち」にしちゃいけねえよな、と思うわけよ。とんぼがお志摩と所帯を持ったのって、連載の終盤だ(笑)。
 これでようやく『響鬼』は「第三部」に突入、明日夢の決心と謎の男女との最終対決が描かれていくのだろう。実際、29話のように、最後まで明日夢が弟子にならないで終わってたら、やっぱりファンの多くが怒ったと思うんである。
この更なる路線変更がどのような結末を迎えるのか、それとも更に路線変更とか井上敏樹復活があるのかとか、興味は尽きないのである。。


 今日こそは『機動戦士ΖガンダムⅡ 恋人たち』を見に行くつもりで、しげとも約束していたのだが、またまた夕べ寝つけなかったしげ、いくら揺すっても起きてこない。
 「午後から出るか?」と聞いたら、寝ぼけ声で「うん」というので、仕方なくそのまま放置。どうしてこいつはどこかに出かける直前になると

 今日は2時から天神の福家書店で、あさりよしとおさんのマンガ家生活25周年、『るくるく』5巻発売記念のサイン会がある。しげもあさりさんのファンなので、当然サインは欲しいのだが、こういうサイン会の列に並ぶのは大嫌いである。何たって集まってくるのがキモいオタばかりだから(笑)。だもんで、一人で出かけるしかないのである。私はもうキモオタの中には自然に溶け込むので、何も怖いものはない。オタクはどうしたってキモオタにしかなれんのだ。
 天神コアに到着したのが1時45分。ここの福家書店は、一応、地下一階(普通書籍・文庫)、地下二階(コミック・同人誌)と2フロアあるものの、それぞれご近所の本屋程度の面積しかなく、二、三十人も人が来ればかなり狭苦しくなってしまう。
 実際、地下二階に行ってみると、カウンターから店の奥にかけて、『るくるく』5巻を手にした、あまり手入れの行き届いていない髪型にメガネのオタクオタクしたオタクばかりがズラリと並んでいた。
 案内の人が、「整理番号順に50人ずつお呼びいたします。2時までお待ちください」と何度もおらんで(=叫んで。あえて博多弁を使うのは、本当は「叫ぶ」「怒鳴る」というほど強くはないし、かと言って「呼ぶ」ほど弱くもないからである)いたので、目をやると、書店の入り口から2階への階段に、ポールが立てられている。「限定200名」と聞いていたので、いったいこの狭い書店のどこでサイン会が開けるのか疑問だったのだが、なるほど、階段に列を作ったとはうまい手である。
 ふと、サイン本は何冊も書いてもらえるのかどうか、と思いついて、書店の人に聞いて見たところ、「それは構わないと思います。ただし、冊数に限りがありますから」と言われた。確かにみんながみんな、五冊も十冊もサインを頼んでいたら、あっという間に売切れてしまうだろう。それで、ギリギリまで本が売れ残るかどうか待つことにした。どうせ私の整理番号は「52番」で、2時きっかりにはサインはもらえないのである。
 「整理番号50番以降の方は、2時15分から案内します」と係の人がまたおらぶが、実際に呼ばれたのは30分過ぎて。早めに終われば『Zガンダム』に行こうか……とか、考えていたのだが、まず無理であった。慌てて『るくるく』を更に二冊買って、列に並ぶ。更に待たされること30分、一時間経って、ようやくあさりさんの前に出た。あさりさんは渡される本に、顔を上げもせず、矢継ぎ早にサインしていく。俯いているので顔はよく分からないが、トレードマークの禿頭に、サングラスにヒゲと、こんな個性的な人が、あさりさん以外にいるはずがない。
 「三冊お願いしたいんですが」と言うと、あさりさんの横に立っていた書店のお姉さんが「一人一冊までです」と言う。「え、でも、メガネの店員さんが『何冊でもいい』と仰ったんですけど」と聞き返すと、『確認します』と、地下二階に降りていった。ほどなく、「確認できました」ということで、三冊、サインしてもらえることになった。
 ところが、店員さんが本のカバーを取りながら、「あと2冊のご署名はいかがいたしましょうか」と聞いてきたので、私は虚を突かれて一瞬、口ごもってしまった。実はこれ、この日記のキリ番ゲットの人のためのプレゼントにしようと思っていたのである。けれども、そう聞かれてしまうと、誰かの名前を言わないわけにはいかない。とっさのことで名前がすぐに思いつかず、慌てて携帯を取り出して、  「この名前でお願いします」と、“履歴の一番新しい人二人”の名前を見せた。
という経緯で、プレゼントを送られる人は決まってしまったのである。だから、これは全くの偶然というか「運」だったのであって、決して「友情順」で選ばれたわけではない。「フジワラはそんなに私のことを思ってくれていたのか」とか勘違いして、余り感謝しないで頂きたいのである。
 更に、ちょうど私のところであさりさんのサインペンのインキが切れてしまったので、あさりさんが描いてくれてたろくちゃんのイラスト、マツゲのところが少し薄くなってます。重ね重ねすみません(汗)。


 いったん帰宅、それから福岡市文学館(赤煉瓦文化館)で、次の芝居の会合。 
 父の入院などのゴタゴタで、脚本は少ししか進んでいないが、そろそろはっきりとゴーサインを出さなければならない。今日は参加者を最終確認するための集合である。と言っても未だに最後の一人が見つからないのだが。
 主要キャストは、男性が小田さん(本日は欠席)、川田さん、渡邉さん、ラクーンドッグさん、私の五人、女性が池田さん、堤さん、小林さん、細川さん、よつばさん、しげの六人である。
 ともかく最後の一人が決まらないので、「暫定」の配役を決めるが、しげが「もし来月いっぱいであと一人が見つからなかったら企画は流すことにしようと」などと言い出すので、「いや、それはしません」と私が反対する。「ここまで集まっていただいて、流すことはしません。もしあと一人、男性が見つからなくても、手はあります」と企画を勧めることを約束する。本当にいざというときの手は二つ三つ考えてあるのだが、現段階では時期尚早なのでまだ書かない。
 ひととおり役になってもらって、一部脚本を読み合わせ。もちろんまだ形にはならないが、イメージは掴める。テンポがよくなればかなり面白くなりそうな手応えだ。
 人手が足りないので、私も出演することになってしまったが、私が当然一番下手である。セリフを喋りながら、イヤな汗をかいてしまった。三月までには「見られるもの」に仕上げて行かなければならない。プレッシャーを感じる。
 その他、こまごました打ち合わせをして、1時間半ほどで散会する。

 以上のような事情で、当劇団では、来年3月11日(土)、12日(日)に舞台に立てる人で、福岡近辺にお住まいの方を探しています。男性の役ですが、女性でも構いません。お話に興味があるという方にはシノプシスもお送りします。ぜひとも参加ご希望を。

2002年10月30日(水) DNAに値段ってあるのか/『源氏物語』第弐巻「帚木」(紫式部・江川達也)
2001年10月30日(火) ベランダでフラメンコる女たち/『狼には気をつけて』3巻(遠藤淑子)ほか
2000年10月30日(月) 仕事がたまっているのに眠いぞコラ/ドラマ『名探偵金田一耕助・トランプ台上の首』ほか


2005年10月29日(土) せっかちになるのもわかるけど/『辣韮の皮 萌えろ! 杜の宮高校漫画研究部』4巻(阿部川キネコ)

 休日出勤。
 今日は『機動戦士ZガンダムⅡ 恋人たち』の初日であるが、無粋な仕事をこなさねばならないので、諦める。どうせ狭苦しい劇場に暑苦しいオタクがひしめきあっているのである。ちょっと間をおいて出かけてもよかろう……というのは初日に行けなかったことの負け惜しみ。くそう。
 
 昼間、父から突然、職場に電話がかかってきた。
 「今日、病院に来れんや」
 「もともと行くつもりだったけど、どうして?」
 「病院の先生が、話があるげな。本当は月曜日にしてもらおうと思いよったとばってん、今日の方がよかろうて先生が言いござるけん」
 父の声が沈んでいるので、悪い知らせかと、いささか不安になる。
 しかし、父も何の話か聞かされてはいないのだから、勝手にマイナス思考で思い込んだって仕方がないのだ。
 「じゃあ、仕事が終わったらすぐ来るけん」
 「五時ぐらいに来れんや」
 「まだ仕事終わってないよ。六時は過ぎるから。でもできるだけ早うする」
 電話を切って、バタバタと翌日の仕事の準備。

 今日の仕事は、昼間ずっと、ある種の「肉体労働」をしなきゃならなかったので、40の坂を越えた身にはかなりなハードワークだった。
 バテたというか、ダルいと言うか、ともかく全身が重く感じて仕方がない。もともとデスクワークが主の我々が、どうして「肉体労働」しなきゃならなくなったかというと、役員同士で連絡の不徹底があって、関連業者に作業を依頼する時間が取れず、何の技術もない我々が肉体を酷使せねばならなくなったという次第なのである。
 肩を回すと、コキコキとイヤな音がする。ひと仕事終えた後はちょっと風呂にでも入ってからだをほぐしたい気分であったが、そんな時間の余裕はない。ともかく仕事を終えたら、病院に向かってすっ飛んで行った。多分、精神的にもかなりキツキツの状態だったのだろう、あまりに慌てて、職場に携帯電話を忘れていってしまった。
 よくあることだと言われるかもしれないが、これまで、職場に携帯を置き忘れた経験なんて、私は一度もないのである。

 博多駅に着いた時点で、父からまた電話が入る。
 「今、お前どこにおるとや?」
 「博多駅だよ」
 「まだ博多駅や? 先生、もう待っとらっしゃあぞ」
 時計を見ると、まだ5時40分である。
 「六時は過ぎるよ、もうちょっと待っとって」
 「何時までや?」
 父の「せっかち病」に先生の方がかかってしまったのだろうか。でもどう急いだって、これ以上早く博多駅まで来る方法はないのだ。「待ってる」のなら、「待たしとけ」と言うしかない。言うしかないけど、口をついて出てきた言葉は、「もうすぐだから」なのであった。
 で、病院に着くなり、父がナースセンターまで私としげを連れて行く。主治医の先生が更に「家族相談室」という密室に親子三人引き連れて行って。雰囲気は更に物々しくなる。もしかしたら、何かまた悪い検査結果でも出たのか……と思ったら。「来週の火曜日に退院していいですよ」。
 別に脳梗塞が治ったわけではないが、あとはもうこれ以上動脈硬化などが進行しないように気をつけるしかないので、入院し続ける必要はない、ということである。
 「かかりつけのお医者さんで投薬や点滴を続けてください」と言われて、ついさっきまで暗い表情だった父の顔がぱあっと明るくなった。「仕事に戻れんごとなるかと思いよったとです」と、いかにも胸のつかえが取れたように晴れ晴れとしている。
 ちょっと安心しすぎじゃないか、腕の感覚異常がなくなったわけじゃないだろう、と思うが、口に出しても父はマトモに聞きそうな雰囲気ではない。とりあえずは退院の準備について打ち合わせをしに病室に戻る。
 何時ごろに退院するつもりか父に聞いてみると、「午前中やろうな。請求書もそのころに来るやろう」と答える。私は仕事で迎えには来られないので、しげに荷物運びを頼む。しげ、一応頷きはするのだが、相変わらず父の前では殆ど口を開かない。愛想よくしろなんて言うつもりはないけれど、いい加減で挨拶くらいはマトモにできるようになれないものかね。


 マンガ、阿部川キネコ『辣韮の皮 萌えろ! 杜の宮高校漫画研究部』4巻(ワニブックス)。
表紙は八乙女泉のルパン三世と伊達牧子のクラリス“お姫様抱っこ”コスプレ。泉が絶対コスプレ拒否派である以上は、本編ではあり得ないシチュエーションなんだけれど。
 イタいオタクの現実を活写して笑い飛ばすマンガと言えば、堂高しげるの『全日本妹選手権!!』が思い浮かぶが、あっちはもう雑誌もろとも終わっちゃったので、今やオタクいじりマンガの代表はこれくらいになってしまった(『げんしけん』はただのオタクマンガで、オタクいじりマンガではない)。
 こちらも続いてあと1、2巻かなあという雰囲気なので、ネタも満載、既に1巻当初の「脱オタクを目指した滝沢少年が、なぜか漫研に入ってしまってそこのかわいい月子先輩に恋しちゃったけれど、最強のオタク・新寺部長に徹底的にからかわれ翻弄されてしまう」という設定はもうかなりどこかにすっ飛んじゃってしまっている。つか、脇キャラや新キャラの活躍が目立っていて、新寺部長の悪辣ぶりがちょっと目立たなくなってきたんだね。
 でも私は塩釜女史のファンなので、出番が増えてたのが嬉しい。SFやファンタジーが好きなことにもシンパシーを感じるが、『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルンのことを「馳夫(はせお)」とちゃんと原作本の訳そのままで「喋る」こだわりもね。決して、巨乳の眼鏡っ子だからではない(笑)。
 ともかく、まさに「今」しか分からないであろう「ギャグネタ」を次々と繰り出して来るその情熱には脱帽である。

 表紙は八乙女泉のルパン三世と伊達牧子のクラリス“お姫様抱っこ”コスプレ。泉が絶対コスプレ拒否派である以上は、本編ではあり得ないシチュエーションなんだけれど。
 イタいオタクの現実を活写して笑い飛ばすマンガと言えば、堂高しげるの『全日本妹選手権!!』が思い浮かぶが、あっちはもう雑誌もろとも終わっちゃったので、今やオタクいじりマンガの代表はこれくらいになってしまった(『げんしけん』はただのオタクマンガで、オタクいじりマンガではない)。
 こちらも続いてあと1、2巻かなあという雰囲気なので、ネタも満載、既に1巻当初の「脱オタクを目指した滝沢少年が、なぜか漫研に入ってしまってそこのかわいい月子先輩に恋しちゃったけれど、最強のオタク・新寺部長に徹底的にからかわれ翻弄されてしまう」という設定はもうかなりどこかにすっ飛んじゃってしまっている。つか、脇キャラや新キャラの活躍が目立っていて、新寺部長の悪辣ぶりがちょっと目立たなくなってきたんだね。
 でも私は塩釜女史のファンなので、出番が増えてたのが嬉しい。SFやファンタジーが好きなことにもシンパシーを感じるが、『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルンのことを「馳夫(はせお)」とちゃんと原作本の訳そのままで「喋る」こだわりもね。決して、巨乳の眼鏡っ子だからではない(笑)。
 ともかく、まさに「今」しか分からないであろう「ギャグネタ」を次々と繰り出して来るその情熱には脱帽である。

2002年10月29日(火) A fluit of “H”/舞台『Bad News ★ Good Timing』/『超少女明日香 学校編』1巻(和田慎二)
2001年10月29日(月) 「ばびゅーん」の語源は『宇宙少年ソラン』から/『黒鉄 <KUROGANE>』5巻(冬目景)
2000年10月29日(日) まあスクルドがかわいかったからいいか/アニメ『ああっ女神さまっ 劇場版』ほか


2005年10月28日(金) 16万ヒット♪/『キノの旅Ⅸ ―the Beautiful World―』(時雨沢恵一)

 この日記もついに16万ヒットです。
 1万ヒットごとに「なんか豪華プレゼントを用意しますよ」と掲示板で告知しているのですが、全然応募がありません(笑)。通りすがりさんが踏んでる可能性も高いし、常連さんでも「別にほしくもないし、住所を教えなきゃなんないのがイヤ」と仰る方もおられるでしょう。だからまあ仕方がないかなあと半分諦めているのですが、こういう零細サイトには「キリ番ゲット」くらいしかさしたるイベントがありませんので、今後も一応続けようとは思います。
 知り合いなら、何か欲しいものの希望を聞く、という手もあります。でもあまり高いものは無理ですので、お手柔らかに(笑)。


 2005年度の文化勲章受章者に女優の森光子さんが、文化功労者にはリハビリ中の長嶋茂雄さんが選ばれたというニュース。おめでたい、というよりは「まだもらってなかったのか」という印象の方が強い。森さんなんか、85歳の現在まで『放浪記』の舞台を務めてこられたからいいようなものの、もし亡くなられていたら、文化勲章の歴史に残る禍根になっていたところだったと思う。本当なら記録を達成していた十年前には叙勲してておかしくはなかったよね。つか国民栄誉賞だって差し上げて構うまいと思うのだが、役者に対する日本人の見る目はまだまだ低すぎるからなあ。
 森さんは来年はまた博多座に『おもろい女』の公演に来てくださる予定なので、これはもう絶対に見に行かなきゃならんと思っているのだが、果たしてチケットが入手できるかどうか分からないのである。博多座は15人以上の団体なら、予約期間以前でも優先的にチケットが取れるのだが、誰か「一緒に行ってもいいよ」って仲間がいないものかね? つか、そういう呼びかけをFPAPあたりがやってくれると嬉しいんだけれど、ぽんプラザとつるんでるとそういうことはしにくいかなあ。
 かと言って、この日記上で呼びかけたって、まず15人も人が集まるわきゃないのである。毎日、100人から200人の方が覗きにきて下さっているようで、それはもちろん嬉しいことなのだけれど、その内訳として、マンガ好き、アニメ好きの方はまあまあいらっしゃるようであるが、それに比べて、演劇好きの方は殆どいらっしゃらないような感じなのだ。つまりさ、アクセス解析で「何のキーワードで辿りついたか」を確認すると、舞台のタイトルや作者名とかで検索かけてきてる人が殆どいないんだよね。「ヌード」とかはやたらと多いんだが(とか書いたらやっぱり「ヌード」で検索してくるやつが増えるんだろうなあ)。ネットの繋がりって、なかなかうまくいかないもんだなあというのはいろんな出来事を経験した上での述懐。

 勲章で思い出したが、先日、伯父が何かの勲章をもらうことになった。
 沈金師を辞めた後、いくつかの仕事に就いて、それから地域の監察士を20年か30年、勤め上げたのだが、それで表彰されることになったのだそうな。
 ところが伯父はこれを辞退してしまったのだ。
 理由が「東京まで行くのが面倒臭いから」。そんなの信じられない、と仰る方もおられるかもしれないが、実話である。父などは「貰っときゃいいのに、天皇陛下に会えるんだから」と言ってしきりにもったいながっていたが、博多の人間は(特に職人は)、基本的に名利とか名誉とかそういうものに殆ど執着がないのである。父が「もったいない」というのも「勲章」についてではなくて、「天皇陛下に会える機会」を反故にしたことがもったいないと思っているのである(しかもそれは父が天皇礼賛者だからではなくて、単に「有名人好き」なレベルでものを言っているに過ぎない)。
 そんな機会はまずあり得ないが、もしも私が「勲章をもらえる」のならば、一応もらいはすると思う。ただそれは「タダで東京に行けるから」でね(旅費と宿泊費くらい出してくれるよねえ?)。合間に友達に会えたり、芝居が見られるならそっちメインで行くわな。
 それに「勲章は食えないし金に換金できない」もんな(笑)。名利は求めないが金利はちょっとほしいのである。


 JRのダイヤ変更のおかげで、『ケロロ軍曹』も見られるようになった。
 今日は2本ともケロロVS夏美もの。
 『623 僕のラジオに出ない? であります』は、ムツミのラジオの1日アシスタントになろうと、二人がオーディションを受けるのだけれど、最終的に勝ったのは……というお話。ムツミの正体はまあ、「彼」なんだから、勝つのがあいつだったのはまあ当然だね。
 『ケロロVS夏美 1/6ガチンコバトル! であります』。ケロロプラモと夏美プラモの対決、原作では省略されていたのをしっかりやってくれたのが嬉しい。
 細かく感想を書いていくとまた膨大になるので、このへんでカンベンして(誰に向かって謝ってるのか)。

 あと、『ドラえもん』に『クレヨンしんちゃん』はいつもの定番。
 『クレしん』は、普通は二本立てだけれども、今週に限って、しんちゃんと藤井隆共演の『マシューが来たゾ』がラストにオマケでくっつく。サブタイトルどおり、藤井隆は日本のジョニー・カーソン「マシュー南」として登場。でも二人のかけあいは全然面白くないのであった。
 マシュー「今度ゴールデンに進出するから、ゴールデンの先輩のしんちゃんに挨拶にきたのよー」
 しんのすけ「ゴールデンと言えばこれだぞ~!(パンツを脱ぐ)」
マシュー「ゴールデン!」
しんのすけ「ゴールデン!」
こうしてゴールデンの雄叫びは地球上に響き渡るのであった。
 ……ってよう、せっかく藤井隆を呼んだんだから、何か芸させろよ。『クレしん』は映画版もそうだけど、特別ゲストのシーンはイザムと言い、コサキンと言い、なぜかあまり面白くないものが多いのだった。丹波さんくらいかな、まあ面白かったのは。


 時雨沢恵一『キノの旅Ⅸ ―the Beautiful World―』(電撃文庫)。
 アラビア数字に疎い方に説明しておくと、「Ⅸ」は「9」です(笑)。第1巻を買ったころにはこんなに人気が出るとは思わなかった。電撃文庫系のライトノヴェルを全て読んでるわけじゃないが、ここまで読んでて飽きが来ないというのもたいしたもんだと思う。基本的にいつまでも続けられる終わりのない物語だから、無理に大きな物語なんか描かないで、このままずっと「ちょっと棘のある」寓話をずっと書き続けていってほしいと思う。
 前巻は久しぶりにキノたちとシズ様たちが再会したエピソードがあったが、今回はまた別々の旅。シズ様と忠犬・陸には、新しく「静かなる爆弾娘(笑)」ティーが加わった。この「爆弾娘」が比喩でないところが、オタク的には「萌えポイント」であろう(最近、「萌え」概念も何となくつかめてきた気がする)。けれどもシズ様は全くフラグを立てようって気配がない。「むかしの話」のエピソードでは、ある国の王子からティーが求婚されるのだが、シズ様はティーの幸せを思って、「悪い話じゃないと思う」とうっかり言ってしまう。当然、ティーは怒って無言でシズ様をドツクのであるが、もちろんシズ様は、なぜ自分が殴られなければならないのか(しかもグーで)、皆目見当が付かないのである。
 でも恋愛シミュレーションゲームなら、一度は鈍感なところを見せておいた方が、ターゲットがプレーヤーの方に目を向ける(つまりはプレーヤーに惚れている)ことを自覚するきっかけになるから、これはこれでよいのである。ティーは絶対イイオンナになるぞ。そのうち絶対ドレスアップして、シズ様が「ティーってこんなにきれいだったのか」って驚くシチュエーションが出てくるに違いない♪ 
 総じて寓話的な(しかもシニカルで殺伐とした)要素の強いシリーズだけれども、こういうラブコメ的というか、小噺的なエピソードが時折、緩衝材として差し挟まれているところが、このシリーズを単調・マンネリになることから回避させていることになっていると思う。
 主人公のキノの話に触れなかったが、「自然保護の国」で、腐って倒れた巨樹について、その国の人たちに何一つ「真実」を教えずに去っていく「傍観者」ぶりは、いかにもキノである。キノはもちろん、冷酷でそうするのではなく、「旅人」である自身の分限を守っているに過ぎない。「愚かさ」もまた、その国の人間たちが引き受けるべき責務であるという視点が揺らがずに持続している点に惜しみない拍手を送りたいと思う。

2002年10月28日(月) また上京……?(゚゚)/DVD『刑事コロンボ 魔術師の幻想』/『スパイラル 推理の絆』1~3巻(城平京・水野英多)ほか
2001年10月28日(日) 至福の休日/アニメ『サイボーグ009』第3回『閃光の暗殺者』/『碁娘伝』(諸星大二郎)ほか
2000年10月28日(土) AIQってボランティアだったのね/CGアニメ『バグズ・ライフ』


2005年10月27日(木) 肉体年齢はどうしようもないげど/アニメ『蟲師』第一話「緑の座」

 深夜アニメ『蟲師』第一話「緑の座」。
 某テレビ雑誌には放送するって書いてなかったから、てっきり福岡じゃやらないのかと思ってたよ。つか、東京より5日遅れての放送なんで見損なうところだったんだな。番組表を新聞でチェックしてよかった。

 人里離れた山奥の屋敷に隠棲する、左手で筆描きした「絵」をすべて具象化させてしまう特殊な能力を持つ少年・五百蔵(いおろい)しんら(三瓶由布子)。両親をなくし、祖母の手で育てられた彼は、最近その祖母もなくして、天涯孤独の身になっていた。しかし、彼の周囲には絶えずあるものの「気配」があり、普通の人には見えない「何物か」が見えていた。しんらを訪ねてきた、白髪の青年・ギンコ(中野裕斗)は、それを「蟲」と呼んだ。動物でも植物でもない、微生物や菌類とも違う、もっと命の原生体に近い「もの」。そして彼もまた「蟲」を見ることのできる人間であった。ギンコは、しんらの家に、少女の形を取った「蟲」が住まっていることに気付く。ギンコは彼女(伊瀬茉莉也)に声をかける。「お前の名前は廉子(れんず)だろう」……。

 製作会社がアートランドってなってるけど、これってあの『超時空要塞マクロス』『メガゾーン23』『銀河英雄伝説』の? 正直、作画的にはあまり期待できるアニメスタジオとは言いがたいのだが(『マクロス』だって、テレビ版の方は、作画がしょっちゅうボロボロだった)、総作画監督が『おジャ魔女どれみ』シリーズの馬越嘉彦であったおかげか、非常に安定した作画である。演出の長濱博史は、これが監督デビューということだが、これまでにも『少女革命ウテナ』のコンセプトデザインなどを手がけている。今回の演出も「堅実」という言葉がぴったりと来るような印象だった。
 というわけで、「はてな日記」(最近ではこっちの方が完全にオモテ日記になっちゃったね)の方では絶賛したのだが、実は私はその出来栄えに全然満足していない。「ああ、やっぱりこうなっちゃったか」という予測の範囲内、もっと厳しい言い方をしてしまえば、「想像力が何ら喚起されない」ことに失望すら覚えたのである。
 ただし、ご注意して頂きたいのは、私はアニメ『蟲師』が駄作だなんて言うつもりは全くない。客観的に見れば、テレビアニメでこれだけのクォリティを保っている作品は稀有と言ってもいいくらいなのだ。ネットの感想を拾っていっても絶賛の嵐で、何だかもう、ちょっとでも貶したら、熱狂的なファンからカミソリが送りつけられるんじゃないかと心配になるくらい、みんなが誉めちぎっている。
 では何が不満なのかというと、要するに「原作にハマッちゃった痛いオタクほど、映像化されたもののちょっとしたイメージの違い、瑕瑾にすら過剰に反応するビョーキ」に罹ってるってだけのことなので、普通の『蟲師』ファンなら、無視してる(シャレではない)点に過剰反応しているだけなのだ。だからまあ、これから書くことは、ある程度の根拠がありはするんだが、多分に主観的なことは自分でも分かっていてあえて書くことなので、あまり真剣に捉えられると困るのである。いつもの駄文だと思って読み飛ばしていただいて構わないんで、逆に私の文章に過剰反応しないで頂きたい。

 つまり何が不満かって言うと、原作の極めて淡くぼんやりとしたペンタッチ、諸星大二郎風の幻想的な味わいが、アニメやCGのハッキリした描線や動きによって殺されてしまってるってことなんだね。原作の絵は絵としては決してうまくはない。部分的には描き殴りのように乱暴な線も多々見られ、人物の描き分けも不十分で、「荒削り」と言えばまだ聞こえはいいが、要するに「下手」と言った方が妥当な絵であるのだ。
 しかしその「下手な絵」の線が持つ読者への想像喚起力にはすさまじいものがある。暗闇の底に流れる「蟲たちの川」、私が原作を読んだ時に圧倒されたのが、「天の川とは全く違うぼやけた光の群れの、蠢くような流れ」であったのだ。それはまさしく根源的な「生物」としての「生々しさ」と、逆に極めて静謐かつ清浄な「透明感」との、相反する要素が不思議に融合している、何とも言えない「モノ」の気配が漂っていたことにであった。
 ハッキリ言っちゃえば、どんなに作画監督の腕が一流であっても、それがセルアニメやCGである以上は、到底表現し得るものではない。「蟲」の生物感、浮遊感を表現するには、アニメは「きれい過ぎる」のである。
 なんつーかね、空中に浮遊してる蟲だけどさ、あいつらなんであんなに「遠くにあるものも近くにあるものも全てきれいにピントが合っていて、完全に調整された速度とベクトルを持って動いている」んだよ。機械かお前らは。つまり生命感が全く感じられないのである。空飛んでるブヨだって、もっとフラフラと頼りなげに飛んでいるんだが、「CG蟲」にはそれがない。ただキレイなだけである。「生命感」というか、「暖かさ」がなければ、人間はそういうものに簡単に感情移入できるものではない。だからしんらの、「蟲が見えることが嬉しかった」という述懐に説得力が生じていないのである。
 もっと悲しかったのが、まるで映画『蛍川』のような、CGでございって感じの「蟲の川」だ。そりゃ点々の一個一個を手描きしてたらアニメーターが死ぬのは分かってるんだけど、あんなに規則的に動く蟲の群れなんて、あってたまるか。私にはあんなのは蟲じゃないとしか思えないのだが、あのアニメを絶賛してる連中、モノ見る目が麻痺してるんとちゃうかいな。
 も一つ、声優さんの演技についてなんだけれど、これもイマドキの癖のあるアニメ声じゃなくて、できるだけ自然な、かなり押さえ目の演技はしちゃいるんだけど、やはり昔の空気というか、その時代らしさと言うか、そんなものを感じさせるほどには至っていないんだよね。「廉子」を「レンズ」って発音していいのか? それともこの名前は蟲を見る「虫眼鏡」って意味か? 細かいアクセントにまで気が配られてないんだよね。

 いろいろゴタクを並べはしたが、これは要求としては殆ど「ないものねだり」に近い、ということを付け加えておかねばならない。
 だってテレビアニメ製作の予算と時間で、CG使わないで「蟲」を表現できるわきゃないし、演技に関しては私の要求するレベルに達してる声優なんて日本にゃいない。ベテランの声優にだってみんな悪いクセが付いているのである。現在のテレビアニメとしては最高水準にあると思われる作品に対して、私は難癖を付けているのだ。
 もちろんそれは「もっと向上のしようがあるんじゃないのか、日本のテレビアニメはこれが限界なのかよ」という不満には違いないのだが、フツーにアニメを楽しむ分には特に遜色のある作品ではない。自分自身、難儀な性格をしているなあと思うのだが、気になった点について、「それはそれでいいんじゃない?」とナアナアな物言いができないのだ。

 今までに何度も日記に書いたことがあるが、小説と映画、マンガとアニメは、表現するもののベクトルが全く違う。マンガによって喚起されたイメージと、アニメのそれがズレていたって、それは当然なのである。
 なのに、私があえて「原作のイメージに届いていない」と主張しているのは、「原作を見事に映像化している」と言って絶賛している巷のファンが、まるでアタマを働かせていないことに慨嘆しているからだ。彼ら彼女らは、メディアの違いについて何一つ基礎教養を持っていない。静止している「絵」が観客に喚起するイメージはまず「動き」である。それと逆にアニメには既に「動き」があり、それが喚起するものは「そのように動くものの意志」である。当然、そこにズレが生じないはずはないのだが、例えばギンコの演技に、テレビの視聴者たちは少しもそういった「ズレ」を感じなかったのだろうか? 私には、彼ら彼女らが、「絵がよく動いている」事実のみに目をくらまされているだけで、その動かし方が本当にそのキャラクターの、引いては作品の「精神」を表現するのにふさわしいものであったかどうかという点にまで立ち至って考えてはいないようにしか思えないのである。

 しかしこんな文句ばかり書き連ねていると、「はてな日記」の方がオモテ日記で、こちらは完全に「ウラ日記」って感じになってくるな(笑)。でもこれは「タテマエとホンネ」という仕分けではなくて、視点を換えて見たものにすぎず、全く正反対に見えてもどちらも私自身の意見であることに違いはないことは明記しておきたいと思う。
 だから安心して来週も『蟲師』を見ようね♪


 先日購入した使い捨てのコンタクトレンズを初めて装着してみる。
 見え具合はどうかというと、確かにちょっと遠くまではより見えるようにはなってはいるのだが、乱視までは矯正できていない感じで、焦点を合わせようとしてもどうしても「ちらつき」がある。メガネの時には画像がもともとぼやけていたから、その「ちらつき」も気にはならなかったのだが、見えるようになったことで自分が見えないことが自覚できるようになったという皮肉な結果である。
 手元はやはり老眼が進んでいるのだろう、少し手元から離さないと文字も読めない、ふと気が付いて、裸眼、メガネ、コンタクトと、それぞれでどれくらい「近づけたら」モノが見えなくなるか、老眼の度合いを確認してみたのだが、概ね裸眼では5~6センチ、メガネだと10~12センチ、コンタクトだと15~16センチより近くなると、もう見えない。読書の場合はコンタクトだとかなり手が疲れそうな気配である。もっと離れると今度はモノが小さくなって細部が分からないということになってしまうので、実際にモノがハッキリ見える範囲はかなり狭いということに気がついた。
 まさかこんなに老眼が進行していたとは思わなかったので、正直ショックなのだが、これもまあ運命というものなのである。「40で目が潰れるかも」と言われたこともあるから、まだ持っているほうだよな、とマエムキに考えたいと思うが、となるとやっぱり目の見えるうちに本やら映画やら見ておきたいなあと目を酷使する方向にしか発想は向かないのである。

 
 昨日のMRIの結果、しげが聞き損ねていたので、今日は見舞いに行く。
 父の表情が何ともよくない。いつも思うことだが、隠し事ができない性格と言うか、察してもらいたいからバレバレの演技をしてしまう性格と言うか、聞く前からMRIの結果がよくなかったことがすぐそれと知れてしまう。
 だからと言って、聞かないわけにはいかないから、「どげんやった? MRI」と聞くと、「悪かった。右の動脈硬化がもう50%くらいあるげな」と言って首を指差してみせた。「俺は左の方が悪かとやろうと思いよったとばってん、右やったけんね。左なら血が脳に回った後やから、何とかならんかなあと思うとったったい。それが右やけん……」。
 何だか明日にでも死ぬか寝たきりになるかという勢いであるが、ここで「何とかなるよ」と言ったところで気休めとしか受け取らないことは分かりきっているので、「動けんごとなったらなったでしょうがないやん。運命やけん。みんないつかはそうなるっちゃけん」。
 父も「70やけんな。糖尿になってから30年、よう持てたと思わないかんとやろうな」と腕を組む。
 そのあとはまた姉の悪口になるのだが(苦笑)、「話はせんといかんと思いようとばってんがな。姉ちゃんは『げってん』やけんな」と思い切り博多弁が出る。ふとしげに「意味分かるか?」と聞くが、広島生まれのしげにはやはり全然分からない。と言ってもこれも他県人にはなかなか説明することが難しい言葉なのだが、ヘンクツとか意地っ張りとかヒネクレモノという意味で、言い方としてはかなりキツイのである。しかしキツイけれども博多の人間はちょっとしたことでも相手をこう非難することがよくあるので、腹蔵がないとも言える。自分が言われると怒るが、他人には平気でこういうことを言うという困った性格の人間は博多には多いが、父はその典型と言ってもいい。
 退院後は姉と一席設けるつもりらしいが、波乱は避けられないような感じである。

 読む本がなくなったというので、いったん病院の外に出でジュンク堂へ。
 『銭形平次捕物控』数冊ほか、自分用の本も買い込む。しおり型の籤をくれたので、中を覗いてみると、それぞれがトランプのカードの体裁になっていて、ワンペアごとに「景品」が貰えるということであった。何がもらえるかと思っていたら、これが何と『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』上・下巻セット。だぶついてることがよく分かった(笑)。


 帰宅して、『熟年離婚』第3話。確かに渡哲也は傲慢だが、家族のことを真剣に考えている。単に愛情のベクトルがズレているだけだ。ついに松坂慶子は家を出てしまうのだが、それも「勢い」という印象が強い。世間知らずなくせにワガママだけは通そうとする妻の方が夫よりもバカの度合いで言えばはるかに高く思えるんだけど、このドラマもやっぱり「バカには勝てない」って話になっちゃうわけかねえ。

2002年10月27日(日) そりゃテレビは全部宣伝でしょ/DVD『ほしのこえ』/DVD『100%の女の子』/DVD『刑事コロンボ 仮面の男』ほか
2001年10月27日(土) どこまで行くのかな、クラリス……天神まで行きました(-_-;)/DVD『STACY』ほか
2000年10月27日(金) 頼むから一日12時間も寝るのは止めて/映画『少年』ほか


2005年10月26日(水) 別に皇室ビイキじゃないんだけどさ/ドラマ『相棒』第3話「黒衣の花嫁」

 昨25日、小泉首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」で、皇位継承の資格者を女性皇族に拡大することで意見が一致した。これに基づいて来年の通常国会で皇室典範が改正されることはまず確実で、もう長いこと紛糾していた皇位継承問題も、女性天皇、女系天皇が容認されることで解決する見込みである。
 まあこれもねえ、政治がらみの話になっちゃうからあまり突っ込んだこと言うと既知外連中が噛みついてくるんで、できるだけ「易しく」書いとこうと思うんだけど、この件について「充分な議論がなされてきてない」と主張する連中の言は殆どデタラメなんで(だいたい、どんなに議論されて結論がとっくに出ていても、こう言って話を蒸し返す負け惜しみの強い馬鹿は必ずいるものだ)、うっかりマトモに聞いたりしてたら振り回されることになるよ。女性天皇の問題はそれこそ昭和天皇の若いころから、識者の間で何十年も議論され続けてきてる「天皇家存続」に関わる大問題だったのだが、そんなことも最近の若い連中は知らずに偉そうにモノを言うのだから困ったもんなんである。
 だってなあ、もう議論自体はとうの昔に終わっていて、いつかは女性天皇も容認するしかないのは運命であって、けれどもこれまでは「奇跡的に男性、男系相続が続いていた」から、あえて皇室典範をいじくらずにすんでいただけなのだ、ということは馬鹿以外はみんな熟知してることなんだよね。けれど、なぜか未だに難癖付けてくるやつが後を絶たないんだよなあ。
 皇位継承順において、長子相続を優先するか男系相続を優先するかでまだ意見が分かれてるんだけど、これが未だに「ダンケイ、ダンケイ」と鬱陶しいくらいにうるさい連中のことも一応考慮してやらなきゃならないと、仕方なく議題に乗せているだけにすぎないことに、「男系相続派」の馬鹿どもは気が付いていないのである。
 男系相続だと、いったん即位した女性天皇があとで生まれた弟に譲位を迫られるような事態にもなりかねない。しかもその時点で結婚していたら、夫ともどもいきなり皇族から排除される可能性もある。昨日、天皇で、翌日は平民って、「男系相続」に拘るとそういうことも起こりうるんだよ? そうなったら大問題になることは「目に見えている」から、馬鹿以外は誰も男系相続を主張してないわけだ。長子相続が一番妥当で混乱はないってことは火を見るよりも明らかなのに、その理屈がどうして「男系相続派」の連中には分からんのかね?
 私には未だに男性天皇、男系天皇にこだわる人々の意図がよく分からないのだが、現在の天皇家に、「女性以外に跡を継げる人間がいなくなっている」事実をどう考えているのか、聞いてみたいよね。でも多分、「何も考えてない」か「天皇家が途絶えた方が面白いと考えている」かのどっちかだろうから、何も答えられないんじゃないかな。
 実際、私が会話したことのある「男系相続派」の人で、ある人は、もう頭がすっからかんになっていて、考える力を完全になくしておられました。「いーや、雅子さまはきっと男の子をお生みになる!」とご主張なされるのですが、もちろん、その目はあさっての方角を向いておられたのでございます(笑)。あるいは、例のホモオタさんですが、「私には未来が見えます。天皇家は次の代で途絶えます」と嬉々として予言しておられました。でもって「自分は天皇家の血筋である」とも主張されてましたから、あわよくば自分が天皇になれるから、「今の」天皇家の血統が絶えればいい、と、内心、期待していたようなんですね。熊沢天皇か、あんたは。「男系相続派」の人たちは例外なくこんなんばっかです。
 言うまでもなく、男系天皇が何とかここまで存続し得たのは、天皇家においてのみ「一夫多妻制」が許されてきていたからである。誰もが知っている通り、大正天皇の生母は明治天皇の皇后である昭憲皇太后ではなく、柳原愛子妃であった。昭和天皇もまた香淳皇后との間になかなか皇太子が生まれなかった時期に、側室を持つことを勧められたという経験を持っている(香淳皇后を愛していた昭和天皇はこれをきっぱりと断った)。
 男性天皇、男系天皇に拘るならば、この「側室制」も復活させなければならなくなるのだが、天皇が日本人の「象徴」としての意味を持つ以上は、そのような「特別扱い」は許されるはずもない。本当は「国民に隠れて子供作らせちゃえば」とか「男系相続派」の人たちは思ってんだろうけれど、天皇の人格よりも伝統(それも自分たちの妄想の産物でしかない)の方が大事と考えてる既知外どもには、いくら「あんたら狂ってるよ」と言っても通じないんだろうなあ。
 男系にこだわる人は「養子論」まで持ち出してきているが、つまり「血が途絶えても男系相続が望ましい」と言っているわけである。「男系相続にこだわる」ってそういう意味なんだよ? だったら「誰が天皇になったって構わない」と言ってるのと同じじゃないか。ホモオタさんにも可能性があるというのは困ったことに「男系相続」に拘る場合、何万分の一かの可能性としてはあったりするのだ。ああ、恐ろしい。
 実際、そこに拘って、天皇家はこれまでに何度も「断絶」しているのである。最も有名なのは26代継体天皇で、いったん途絶えた皇統を、「15代応神天皇の五世の孫」という触れ込みで、どこぞから連れて来ているのだが、そんなのは何の根拠もないのである。およそ150年前の天皇の子孫って、そんなの、戸籍もない時代にどうやって調べたよ(笑)。
 そのように、天皇家が「万世一系」なんてのが大ウソだってのは、マトモな歴史学者なら先刻ご承知だから、逆に言えば、この言葉を使っているだけで、そいつが歴史の捏造に気付いてないか、あるいは捏造と知っててあえて加担してる詐欺師かのどっちかだってのはすぐに分かる仕組みになっているのである。でも、若い人たちの中にはそんな基礎知識もない馬鹿が多くなってるから、すぐに騙されてしまうのである。
 雅子さまに男子誕生を望めない可能性が高まっている現在、女性天皇、女系天皇を容認せざるを得ないのは、血統の存続の観点から言って不可避な選択である。「血なんて途絶えたっていいじゃん」という自由が許されない家に嫁いだ上は、「男の子」を要求されることは仕方がないことではあったろうが、かと言って誰ぞの思惑通りに男の子が生まれるはずもない。こればっかりは誰にもどうにもならない運命である。雅子さまにこれ以上、実体のない「伝統」とやらのプレッシャーを与えることが国民としてのあるべき姿かどうか、「男系相続派」の馬鹿どもは、ちったあ考えてもらいたいものだよ。あんたらに「人の心」ってものはあるのかい?
 一つ、注を付け加えておかねばならないことだが、「男系相続派」がイデオロギーに凝り固まっているのと同様に、逆に「女性天皇派」にもイデオロギーの観点からそれを主張する連中が巷に溢れている。つまり、戦後民主主義に毒されて、「男女平等」の観点から女性天皇を、と声高に叫ぶやからがやたらいるのだ。阿呆だなあと思うのは、「平等」の観点で言うなら、「長子相続」だって、平等じゃないってことになることに気が付いてない点である。継承資格のある女性全員にジャンケンでもさせなきゃ「平等」にはならんと思うが。結局、「平等思想」に基づいたそれも、「天皇」の概念をサヨク的思想に引き寄せた我田引水、牽強付会の説でしかないということになる。
 私はそういう観点で「女性天皇」を推奨しているわけではない。これはそんなイデオロギーに基づいてなされてはならないものだ。天皇を日本人の、あるいは国体の「象徴」として考えるのなら、その「存続の義務」に関してだけは皇族のみなさん個々人の意志がどうあろうと、男性女性を問わず優先されねばならない、というだけのことである。
 女性天皇は所詮、男性天皇の急死に伴った場つなぎ的なものに過ぎなかったのだからダメだ、という意見も昔からずっと言われていることではあるが、これも既に何度も反論されていることで、全ての女性天皇がそうだったわけではない。推古天皇は明らかに実権を持って即位しているし、神功皇后もいくつかの歴史書では「天皇」扱いされている。男系に拘りたい人々は、たとえ天皇家の血統が絶えようとも、かつての伝統とやらを捏造したいもののようだが、それがいかに本末転倒なモノイイであるかは、よっぽどの馬鹿でない限り、すぐに気が付くことであろう。こんなイデオロギーに取り憑かれて現実を見る目を無くしてしまっている連中は、実は反天皇制のアカ野郎じゃないかとも思うのだが(笑)、ま、自分たちの意見が逆に天皇家を危うくしかねないという事実も理解できてないだけのことなんだろうね。
 問題は、愛子さまが女性天皇になったとして、その婿殿下になろうって奇特な男が出てくるかどうかということだが、紀子さま雅子さまだって、結婚を決意するには紆余曲折があったのである。天皇家の存続は、女性、女系天皇を容認したからと言って全てが解決することにはならない。大昔のコトバではあるが、立派な「ご学友」を同時に育成してくことでしか対応はできないんじゃないかねえ。


 千葉ロッテマリーンズVS阪神タイガースの日本シリーズ、結果は4タテで千葉ロッテマリーンズの圧勝。3度目31年ぶりの優勝、と聞いて、あれ? と思ったことが二つ。
 一つは、3度目って、2度目じゃないの? 確か昔、金田正一監督の時に「初優勝」って言ってたような……、とかすかな記憶が残っていたからなんだが、これは「毎日」時代を含んでのことだった。
 「毎日オリオンズ → 大毎オリオンズ → 東京オリオンズ → ロッテオリオンズ → 千葉ロッテマリーンズ」という変遷だけれど、私の記憶は「ロッテオリオンズ」から始まっているので、それ以前のことは「歴史」としてしか認識していないのである。永田“ラッパ”雅一さんがオーナーだった時代もあったんだよなあ。もし永田さんが球団を売却しないでそのまま持ち続けて、徳間から角川にオーナーが移っていたら、今頃、球団名は「角川なんとか」になっていたのだろうか。で、徳間時代の球団名が「大映トトロズ」で、今だったら「角川フェニックス」とか「角川イージス」とか「角川スピリッツ」(←「妖怪」ね)になってたのかなあ、とか妄想してみる。全部戦わずに負けそうだけど(笑)。
もう一つは、前回の優勝からもう31年も経ったんだなあという時の流れの早さである。1974年、あの時の私ははっきりとロッテを応援していて、それはなぜかと言うと、巨人が10連覇を逃して長嶋茂雄が現役引退し、セ・リーグを制した中日ドラゴンズに対する反感から、「元巨人」のカネやん率いるロッテが雪辱を果たしてくれることを期待していたのである。あのころは私もまだ野球好きの巨人好きだったんだよなあ。
 長嶋と王の引退で野球に興味がなくなってしまってもう久しく、今回の日本シリーズではどっちが勝とうと応援する気にはならなくなっていたのだが、やっぱり4タテってのは、ちょっと阪神を待たせすぎたせいだよなあ、と思う。ソフトバンクホークスとのプレーオフの時も思ったが、公式戦から日本シリーズの時まで、片方のチームが異様に待たされる状況はよくないよ。
 でもって、もう一つの「あれ?」はというと、やっぱり「もう31年も経っちまったのかい」、ということ(笑)。ホント、ついこないだまで20代だったような気がしてたんだけどなあ。


 今日は父の見舞いには行かず素直に帰宅。『愛のエプロン』が紅白スペシャルだから見逃したくなかったのね(笑)。
 男軍団と女軍団の対決で、大竹まことさんが出演することは先週の予告から分かってたんで、てっきり「作る方」だと思い込んでいたのだが、食べる方であった。「男の手料理」本も出されているくらいだから、当然、味にはうるさい。つか、いくら最高級品のズワイガニを使ってるからと言って、堀越のりの料理を食べさせるというのは拷問ではないのかな。このムスメは、インリンとタメ張ってる驚異の料理ベタ&学習能力ゼロムスメなんだから。案の定、「お前は番組来るな!」と怒鳴られていたよ(笑)。
 田嶋陽子の料理もたいしたことなかったんだけれど、こういうところで生活能力の低さを露呈してしまうと、フェミニズムもやっぱり自分の無能を覆い隠すための言い訳に過ぎないって気がしてしまうのだよね。それこそ男だろうと女だろうと、「食えるものを作って食う」は生活の基本でしょうが。
 最高に美味い、店を開けと絶賛されたのが杉本彩の料理だったのだが、色気と食い気と両方で迫られたら男はたまらんだろう(笑)。いや、色気だけの人ではないのだよと言いたいわけで、その点でいろいろ誤解を受けることの多い人だけれども、役者としてもこの人はもちっと評価されて然るべきだと思うんだけどね。


 ドラマ『相棒』第3話「黒衣の花嫁」。
 サブタイトルの元ネタはウィリアム・アイリッシュ……じゃなかった、コーネル・ウールリッチだね。「ブラック・ウールリッチ」だから。って、何のことだか分からない基礎教養のないエセミステリファンは去れ。ジャンヌ・モロー賛江。
 こういうサブタイトルを付けられると、この「黒衣の花嫁」に当たる人物が実はムニャムニャなのではないかとつい想像してしまうが、そこまで芸のないことを『相棒』のスタッフはしない。しないけれども、じゃあ、もっと面白くしてくれてるかというと、そうでもないのが今回のエピソードの弱いところ。遠野凪子をわざわざゲストに呼んどきながら、ほとんど出番がないって、そりゃないよってなものであるが、真犯人の設定も新味がないし、犯行の動機が解明される手順は、もっと精密に行われなければミステリーとして成立し得ない。それができなかったのは「一時間枠」という制約のせいだろうけれども、だったら最初から遠野凪子に関する部分はカットして、真犯人のアリバイ崩しと動機探しだけに物語を絞ってた方がよかったと思うのである。でなけりゃ全く逆に、遠野凪子メインにドラマを仕立て直すとかね。
 『古畑任三郎』がトリックに弱点があっても「一時間枠」で見られるものになっていたのは、倒叙形式を取っていたために物語を「古畑対犯人」の対決ものとしてシンプルに仕立てられ、本格ものの場合の「犯人探し」の要素を省略することができていたからである。前半は犯人捜し、後半は犯人との対決プラス動機探しなんてのをたった一時間でやろうなんて「詰め込み」ミステリー、土台、成功するわきゃないのである。
 だからまあ、「物的証拠はこれから見つけます」で幕切れにしなきゃならなかったり、冷静な右京さんをあえて怒らせてむりやりドラマチックに仕立てようとしたりと、姑息な手段ばかりが目立つことになってしまうのである。
 なんかこの「冷静な探偵が怒る」ってパターンも、いつから始まったのかね。うまく成功している例というのをあまり思いつかないんだけれども。『古畑』や『機動警察パトレイバー2』は明らかに『刑事コロンボ』の影響下にあるんだけれども、遡ってくと、ドストエフスキー『罪と罰』のポルフィーリー判事にまで辿りつきそうだ。けれど、これをやれるのは犯人がよっぽどヒドいやつじゃないと無意味で、今回も「どうしてこの程度の犯人相手に右京さんともあろう人がそこまで激昂しなきゃならないの?」と不自然に感じられてしまうのである。こういうネタでやるんなら2時間枠の時にやろうよ、ねえ。
 それからゲストの一人、坂田聡(さかた・ただし)さんだが、『ケータイ刑事 銭形舞/シベリア超特急殺人事件』の時も似たような印象の役を演じていらっしゃった。慌て者風なキャラクターで結構好きな役者さんなのだが、もうちょっと幅広い役を演じてくれないかなと、ちょっと気になった。

 『蟲師』の感想は深夜アニメで翌日になるのでまた明日(笑)。

2002年10月26日(土) 確信犯だったのか柳美里/DVD『ビリイ★ザ★キッドの新しい夜明け』/『新暗行御史』第四巻(尹仁完・梁慶一)ほか
2001年10月26日(金) それは愛ゆえの殺人か/『孤島の姫君』(今市子)ほか
2000年10月26日(木) さすがに櫃まぶしは英語字幕になかった/映画『ラヂオの時間』ほか


2005年10月25日(火) どんな夢を見た?/『奇談(キダン)』(諸星大二郎・行川渉)

 映画の話題を二つ。
 夏目漱石『夢十夜』を原作とした映画『ユメ十夜』が撮影中である。
 見る前からあまり文句を付けるのはよくないことだと承知してはいるのだが、タイトルが一部カタカナになっているのはちょいといただけない。字面のバランスというか、座りがどうにもよくないように思えるのだが、このあたりはセンスの違いってことなのかなあ。
 まあそれは些細な問題なのだが、『夢十夜』の映画化、と聞いて、「えええ?」と驚いた人はかなりいると思う。「できるのそれ?」と。
 夏目漱石の全小説の中でも、本作を最高傑作と推す人は少なくない。漱石は『猫』や『坊ちゃん』や『三四郎』や『こころ』や『明暗』だけの人ではないぞ、ということで、特に幻想小説、怪奇小説のファンにとっては『夢十夜』は内田百閒の『冥土』などと並んで、バイブルのようになっている。お読みになっていない方もそうはいないと思うが、『夢十夜』ほど、活字の持つ想像喚起力を発揮している小説も滅多にない。だからこそ「映像化不可能」な部分は多く、それを映画化しようというのだから、これはかなり無謀な企画ではあるのだ。
 しかし、これまで本作が全く映像化されたことがないというのも、日本映画の不毛を象徴しているようなものである。安っぽいCG映像でお茶を濁されちゃうんじゃないかとか、不安はあるのだが、ともかくもそのチャレンジ精神は賞賛しても構うまいとは思う。
 一夜ずつ10分という、オムニバス映画の形式を取るので、十夜をそれぞれ別の監督で撮影するそうだが(共同監督もあるので11人とか)、今のところ発表されているのは「第一夜」の実相寺昭雄監督のみ。主演は松尾スズキと小泉今日子である。役者はそう悪くはない。
 「第一夜」は、「百年待って下さい」と言い残して死んだ女の墓に、男が星のかけらを供える話である。未読の方もそうはおられまいから、ラストの文章をそのまま引用する。

 〉すると石の下から斜(はす)に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂(いただき)に、心持首を傾(かたぶ)けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。そこへ遥(はるか)の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁(はなびら)に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 〉「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

 視覚的だから、映像化は簡単だろう、というのは短絡的な思考である。活字の喚起するイメージと、映像が喚起するイメージはベクトルが全く違う。映像で茎を伸ばして花を咲かせても、それを観客が「すらりと」「ふっくらと」と受け取るとは限らない。ましてや「骨に徹えるほど匂った」様子など、映像演出と役者の演技でどれだけ表現できるものか、まず無理だろうというのが常識的な判断というものである。
 そしてこれはもう、絶対映像化不可能なのが「百年はもう来ていたんだな」という男の述懐である。セリフでこれを役者に言わせてしまったら、雰囲気はもうぶち壊しである。ナレーションを入れるのではただの解説にしかならない。「百年経った」という事実は、役者が「演技力」で観客に伝える以外にないのだが、さて、その実力が松尾スズキにあるかどうか。
 いや、そもそも「幻想の住人」たちに実体を与えること自体、原作のイメージをどうしたって損なってしまうものである。ミーハーなオタクや腐女子がすぐに騒ぐ「イメージが原作と違う!」というのは、言ったって仕方がないことではあるけれども、「原作を完全に映像化することなど不可能だ」という点では紛れもない事実ではあるのだ。
 文学は基本的に映像化できるものではない。映像化できないからこそ、文章で表現しているのである。それをあえて映像化しようとするなら、正攻法な映像演出は全く役に立たない。ならばどうするか。それにはウラワザというか、脇から攻めるような「搦め手」を考えるしかない。実相寺監督は、果たしてこのことに気付いているのだろうか。『姑獲鳥の夏』ではまさにその「搦め手」を駆使してみせてくれたから、期待はしたいのだけれど、漱石は一筋縄で行く相手ではない。以前、実相寺監督が泉鏡花の『沼夫人』を映像化した時には(『青い沼の女』)、役者(特に主演の山本陽子)の演技が安っぽくて目も当てられないシロモノになっちゃってたからねえ。期待半分、不安半分ってところだねえ。
 それにしても実相寺監督は、ここんとこ、『姑獲鳥』と言い、『乱歩地獄』と言い、映像化が難しい作品にばかりに挑んでいる。失敗する可能性の方が高いというのは分かりきっているのに、この意欲、気概はいったい何なんだろう。単に何も考えていないだけかもしれないが、こういう挑戦は若手の監督さんこそやるべきことじゃないのだろうか(その意味では『バトルロワイヤル2』の深作健太監督や、『CASSHERN』の紀里谷和明監督などは、作品の出来とは別に評価してやらなきゃならない面はちゃんとあると思う)。

 もう一つの映画の話題は、諸星大二郎の『妖怪ハンター/生命の木』の映画化である『奇談 キダン』の続報である。
 行川渉によるノヴェライズを読んでみると、30ページほどの短編を長編にするために登場人物を増やし、主人公にまつわるサイドエピソードも付け加えたりしているのだが、概ね原作通りの展開になっている。ただ、「おらと一緒にぱらいそさ行くだ」のセリフが「おらと一緒にぱらいそさ行くんだ」になっていたのは誤植だと信じたいが。
 公式サイトもいつの間にか出来ていて、阿部寛扮する稗田礼二郎のルックスも紹介されているのだが、さすがに原作通りの長髪は無理ではあったが、全身黒服なのは前作『妖怪ハンター ヒルコ』の時の白服・沢田研二よりも原作のイメージに近くなっている。黒ぶちメガネも悪くないアイテムである。
 しかしそれよりも脇のキャストが凄くて、スチールを見る限りでは、「重太」は神戸浩で、「三じゅわんさま」が白木みのるである。ナイスキャストっつーか、本人そのものじゃないかと言うか、こんなにインパクトのあるキャストは空前絶後だろう(笑)。これだけでもこの映画が「異端映画」になることは約束されたようなものである。
 あとのキャストは、神父が清水紘治だとは分かるのだが、殆どが何役をやるのか不明。でも公開日も近いし、そのへんは見てのお楽しみということで。土屋嘉男さんや堀内正美さんと、特撮ファンにもお馴染みのキャストを揃えてくれているのが嬉しい。「超星神グランセイザー」のちすんちゃんを第二のヒロインに持ってきてるのも特撮ファン動員を狙ってのことだろう。
 肝心の「善次」を誰が演じるのかが公式サイトを見てもよく分からないのだが、これはシークレット・キャストなのか、それともCG映像にでもする気なのか(笑)。まず間違いなく駄作になることだけはないと思われるので、ジャパン・ホラー映画にいい加減飽きてきたお方も、諸星大二郎の世界に浸ることで渇を癒していただけたらどうだろうか。でも「珍品」になる可能性もあるので、見て腹が立っても怒らないでね(笑)。


 いつものように父を見舞いに行ったら、会うなり、「根上淳が亡くなったなあ」と「おおごと」のように呟いた。

 俳優・根上淳、24日、脳梗塞で死去、享年82。
 もう20年以上も糖尿病に苦しみ、最初の脳梗塞を起こしたのも8年前、それから「まだらぼけ」も起こして、夫人のペギー葉山さんもかなりご苦労なされていたとのことである。

 ちょうど、父の病状とも重なるので、父が不安になるのは分かる。まだらぼけとまではいかないにしても、父の記憶の混濁はこの数年、かなりひどくなってきているのだ。これももしかしたら動脈硬化かがあちこちで進行しているせいかもしれない。
 けれど、父にかけるべき適切な慰めの言葉があるかといえば、そんなものはないのである。

 帰宅して、ネット検索してみると、追悼を述べていた日記やブログの8割が「『帰ってきたウルトラマン』の伊吹竜隊長の……」と記述していた。ほかは一部が『稲妻』に触れている程度。
 もちろんそれは間違いではないのだが、根上さんは特撮だけの人ではない。伊吹隊長を演じた時、既に役者としてのキャリアは充分以上に積んでおられた方だ。根上さんが隊長を演じた当時、まだ子供だった私ですら、「特撮ドラマに出演する人は決まり切っていると思っていたのに、ほかの畑からキャスティングされることもあるんだ」と思ったくらいである(実際には初期ウルトラシリーズの隊長役は、ベテラン役者の方を使うことが多かったのだが)。そういう人が亡くなったときに、「特撮番組だけ」で語られてしまうというのはどう考えたらいいのだろう。日本での映画やドラマのファンの意識の低さを表していると糾弾することも今更詮無いことで、ただ悲しみが弥増すだけである。
 一般的なイメージは『連想ゲーム』の方が強いはずなのだが、それに触れている人すら少ない。もちろん『連想ゲーム』のみで語られることも根上さんにとっては嬉しいことではあるまいが、根上さんのようなベテラン役者ですら、こんなに「忘れられている」ことを思うと、役者っていったい何なんだろうな、としみじみと思うことである。特撮ファンに覚えられていただけでもよしと考えるべきなんだろうか。

 初期『ウルトラ』シリーズの隊長さんたちも、大半が鬼籍に入られてしまった。時代が移り行くのが運命とは言え、過去の記憶を共有する人はどんどん少なくなる。私よりも年下の人の方が、人口で占める割合が増えようかという年になってしまっているのだ。若い人からうるさがられようが、小言幸兵衛になってしまうのも自然、無理ないことだよなあと思ってしまうのである。


 『1リットルの涙』『鬼嫁日記』『タモリのジャポニカロゴス』と続けて見る。
感想全部書いてるとツライので、『1リットルの涙』についてだけね(笑)。
 第3回にして、亜也はついに自分が「脊髄小脳変性症」であることに気付く。「どうして病気は私を選んだの?」という彼女のセリフを聞くと、まるで自分がその言葉を聞かされている医師になったような気分にさせられてしまう。そして、答えようもない現実に打ちひしがれて、気がついたらくやし涙を流してしまっているのだ。
 実は毎回見ながら私はこのドラマで泣いてしまっているのだが(笑)、同時にこんな演出過多なドラマで泣く自分にも腹が立つというか、やや嫌気がさしているのである。『セカチュー』や『いまあい』で泣いてるバカオンナどもを笑えやしない。
 なぜこういうドラマで泣くことが恥ずかしいかというと、例えば難病のヒロインが沢尻エリカのような超美少女じゃなかったら、果たして泣けていたろうか、というミもフタもない偏見が自分にあることを自覚せざるをえないからだ。これが、主演が泉ピン子だったら私はまず泣かない。また、ヒロインが優しく意志も強く、病気に立ち向かおうとする健気な子でなかったら、やっぱり私は泣いていなかっただろうと思う。これが守銭奴で性格の歪んだ因業ババアが「何であたしだけがこんな目に」とか言おうものなら、天罰が下ったんだとしか思うまい。
 要するに、「美しく健気な美少女」が難病にかかっているから私は同情しているだけなのである。病気に苦しむ人全般に対して気遣う気持ちなんてない。しかしこれは私だけの感覚ではないのではなかろうか。相手の美醜、境遇、人種などに関わらず博愛精神を抱けるようなマザー・テレサのような人間が、そうそう巷に溢れているとは思えない。ドラマに感動する大半の視聴者は、「アイドルやスターの純愛ドラマ」を疑似体験して感動しているだけなのである。難病と闘う人の心の気高さなどに感動しているのではない。
 もちろん、製作者側だってそんな一般人のエゴイスティックな同情心は先刻ご承知だろう。大半の視聴者が、ドラマを見たからと言って別に難病者に対する理解なんて示しはしないと分かった上で、営々とキレイゴトのドラマを作っていく。その視聴者を「乗せていく」心理誘導の過程は、「ヤラセ」番組と本質的に少しの変わりもないもので、「まず視聴率ありき」の姿勢は苦々しい限りだが、みな、それにまんまと乗せられてしまっていることが悲しいのである。。私もまたその愚かな大衆の一人に過ぎない。
 そう自覚していながら、やっぱり沢尻エリカと薬師丸ひろ子の今後に注目している業の深い自分がここにいる。いや、だって沢尻エリカ、『パッチギ』のころの三倍は美しくなってんだもの。ちょっとこれは見入っちゃいますよ。うん。

2002年10月25日(金) 巨とか貧とか実はさほど気にしてない。ホントよ/『敬虔な幼子』(エドワード・ゴーリー)/ドラマ『時をかける少女』(内田有紀版)ほか
2001年10月25日(木) わが名はロドリゲス/映画『眠狂四郎人肌蜘蛛』『旗本退屈男 江戸城罷り通る』ほか
2000年10月25日(水) 今日は三度も昼寝した。やっぱ体変だわ/『冬の教室』(大塚英志)ほか


2005年10月24日(月) 子役が大成するには/『諸怪志異(四)燕見鬼』(諸星大二郎)

 終戦60年スペシャルドラマとして制作された日本テレビ系列の『火垂るの墓』(2005年11月1日(火)21:00~ 23:55)、正直、見るかどうか悩んでいたのだけれども、キャスト表を見て、これはぜひとも見ねばならない、と決心した。いえいえ、松嶋菜々子目当てではありません(笑)。
 野坂昭如の原作小説や、高畑勲監督のアニメ版をご覧になった方ならばお分かりいただけると思うが、この物語のキモは二人の兄妹の「子役」の演技如何にかかっていると言っていい。ただ、名子役というのもそうそういるわけではないので、学芸会的な演技でお茶を濁されるんじゃないかなあという心配が子供を主役にしたドラマでは常にあるのだ。
 ところが、節子役が先日『ウルトラマンマックス』「第三番惑星の奇跡」でそれこそ奇跡のような名演を見せてくれた佐々木麻緒ちゃんだと知って、年甲斐もなく興奮してしまった。いえ、ヘンな意味ではありません(笑)。1999年6月1日生まれというから、まだ6歳、それであれだけ感情を抑制した演技ができていたとは驚異の才能だが、もしかしたら今度の『火垂るの墓』の演技次第では、日本のダコタ・ファニングになれると踏んでもいいんじゃないかと思っているのである。
 一応はタイトルロールの松嶋菜々子、ナメてかかってふやけた演技をしようものなら、麻緒ちゃんに「食われる」んじゃないかと思うが、私としてはぜひ麻緒ちゃんに「食って」ほしいと思う。いやさ、日本の社会ってのは子役に厳しいからね。ちょっと芽のある子役だと、仕事の上でもライバルから足を引っ張られるし、私生活でも親の過保護とか学校でのイジメとかストーカー被害に遭うとかで、せっかくの才能が潰されてしまうことが往々にしてある。杉田かおるにしろ安達祐実にしろ、そんな目にあってなお、しぶとく(笑)生き残ってきたのだ。麻緒ちゃんにもたとえ大人の社会のドロドロに巻き込まれようと、それを弾き飛ばすくらいの「逆境に負けない心」を持ってほしいのだ。
 6歳の子供にそういう「図太さ」を要求するのは酷かもしれないが、そうでなければ海千山千、魑魅魍魎が跳梁跋扈する芸能界で、決して生き残れはしない。「逆境すらも己の糧とする」という姿勢は、たとえ子役であろうと、「役者」である以上は身につけなければならない必須条件なのである。
 今回のドラマ出演をきっかけに、麻緒ちゃんにはぜひ何かの映画に出てほしい。日本の子役出身者は、なぜか「映画」では今ひとつ代表作を残せない感じがあるんだが、これも「子役は大成しない」というジンクスの原因の一つになっている。だから、もう五本も十本も映画に出ている神木隆之介君の後を、ぜひ追っていってほしいのである。
 ほい、そこのロリコン中年のオタクおじさんよ、少しばかり自分の欲望を抑制して、見た目の可愛さだけではない「役者」としての女の子を見る目を養ってみたらいかがかね。


 週明けで何か新しい検査結果でも出たかと、病院に父の見舞い。
 しげとの待ち合わせはいつもどおり博多駅でだが、紀伊国屋に寄って取り置きしてもらっておいたDVD『エマ』の3巻と4巻を買うので手間取り、時間に遅れる。と言ってもせいぜい2、3分なのだが、「遅い~!」としげは頬をふくらませる。
 こんなふうにしげの機嫌が悪いのはたいてい空腹なせいなので、見舞いの前に食事に誘う。「何が食べたい?」と聞くと、開口一番、「豚カツ」。
 「じゃあ、天神コアの上でいいか? そこなら福家書店にも寄って行けるし」
 実を言うと、「いいか」と聞いてはいるが、そこ以外に天神に豚カツ屋があるかどうかよく知らないのである。最近は博多駅より南側の方が活動テリトリーが広くなってきているので、天神方面はすっかり地理不案内になりつつあるのだ。
 福家書店に入ると、カウンター横に、あさりよしとおさんの特集コーナーができている。見ると、今度の日曜日にサイン会が開かれるとか。『るくるく』5巻の発売記念だそうで、こりゃもう『元祖宇宙家族カールビンソン』以来のファンとしては、万難を排してでも参加せざるべけんや、である。
 整理券を発行してもらうと、200名限定なのに番号はまだ52番。ちょっと「えー?」って感じである。福岡のオタクどもはいったい何をしてるんだと少しばかり憤りを感じたが、考えてみればあさり作品がオタクマンガの先陣を切って突っ走ってたころって、もう10年、いや、20年近く前なんである。今の若いオタクには『カールビンソン』がかつてはアニメ化されるくらい人気があったことや、『エヴァンゲリオン』の第三使徒サキエルほか、いくつかのキャラクターをデザインしたこととか、そういう基礎知識もないんだろう。
 まだ整理券の発行期間は5日ほど残っているので、もうちょっと数は増えると思うけれども、あさりさんのサイン会が百人足らずというのはちと寂しい。ファンの人でまだこのサイン会の存在に気付いてなかった人は、ぜひ今度の日曜に福家書店まで足を運んでいただきたいと思う。
 まだ買い損なっているマンガの新刊を数冊購入して、七階のトンカツ屋で食事、その後、病院へ向かう。

 今日は昼間、小倉の親戚が父の見舞いに来たそうだ。
 例の借金まみれの親戚で、申し出を断ったり、ほかにも細かいことで何やかやとトラブルがあったので、少し疎遠になっていたようなのだが、どこかから父の入院を聞きつけて、駆けつけてきたものらしい。
 「親戚が病気になっても、こっちは気付かんままのことが多いとに、こっちの病気はすぐ親戚に知れ渡るんやね」
 「そうたい。仕事しよって休んどったら、すぐに『店に出とらんけど、どげんしたとね?』って言われっしまうけんなあ」
 「見舞いには何か持ってきたとね。酒?」(この親戚は父の糖尿を知っていてもあえて酒を土産に持ってくることが多いのである)
 「今度はさすがに持ってこんやった(笑)。ばってん、来る見舞いがみんなおんなじことば言うったい。『もうこれで酒ば飲めんごとなったな』げな。俺はお母さんが亡くなる前もやめるときはちゃんと酒はやめとうとに」(もちろん母が亡くなってからの父はしこたま飲んでいるのである)
 「僕は何も言わんよ。『やめろ』って言っても、こっそり隠れて飲むのはいくらでもできるっちゃけんね。お父さんが自分で『やめる』って思わな、どうもならんやん」
 「飲んでも飲まんでも、まあ、俺もあと十年やな」
 「そこまで行ってやっと平均寿命やない」 
 父が本気で断酒するつもりがあるのか、どこまで信用していいかは分からないのだけれども、病院に自分から来たということはやっぱりもちっと長生きしておきたいという気持ちはあるのだろう。自重してもらえるならありがたい。たとえこちらがいい年をした大人になっていようと、いざというときに「たかれる」親がいないというのは寂しいものであるから(笑)。


 帰りにコンビニに寄って、『週刊文春』を立ち読み。
 小林信彦の『本音を申せば』、「『下妻物語2』をなぜ作らないのだ」とか「長澤まさみはいい!」とか、昭和7年生まれとは思えないような若い発言の連打。基本的な意見としては私も賛成なのだけれど、『下妻2』を作ろうってほどの力が今の日本映画界にはないし、長澤まさみをちゃんと女優として育てられるだけの監督がどれだけいるのかってことを考えると、先行きには不安要素の方が多い。
 小林さんは金子修介に期待してるようだけれども、その金子作品に長澤まさみが出演していたことを覚えている人がどれだけいるだろう。『ガメラ』の評価が高いために錯覚されているけれども、実際には金子作品五本のうち四本半くらいは駄作か珍作だ。金子作品がきっかけでブレイクした女優さんや美少女って、そんなにはいないと思うのだが。巷間言われてるほどには金子修介が女の子を魅せるのが上手い監督だとは思えないのである。


 帰宅して、昨夜録画しておいたNHKBS2の舞台中継、劇団ダンダンブエノ公演の『礎』を見る。東京まで公演を見に行って、最前列で堪能した芝居だが、私たち夫婦が映っていたかどうかは暗くてよく確認できず。つか、見てる間に芝居に引きこまれてしまっていたので、自分が映ってたかどうかなんて気にしなくなるのである。
 円形の舞台だから、生で見た時には役者さんがこちらに背中を向けている時には当然、顔の表情は見えない。テレビだとそれをカメラが追ってくれているので、テレビの方がお得のようだが、舞台はやはり一人一人の芝居が舞台全体の空気を作っているものである。切り取られた画面だけではその空気はどうしても伝わらない。たとえ背中を向けていても、セリフを喋っていなくても、その人がそこにいる、それを見ている私たちがいる、その「空気」を味わうことこそが、舞台の醍醐味なのだ。
 でなきゃ、誰が東京まで往復の旅費だってバカにならないのに毎年毎年、芝居を見に行くのか、ということなのである。テレビは所詮、舞台の疑似体験に過ぎない。
 それなら、テレビで舞台を見ることは無意味なことなのかというと、それも断言はできない。舞台が一期一会のものであることは事実なのだが、視聴者に「テレビに映っていない部分」までも想像し好奇心を抱く心がありさえすれば、舞台の本質が奈辺にあるかを理解することはできるからである。逆に言えば、テレビの舞台中継は漫然と流し見するだけではその魅力の十分の一も伝わりはしないものである。
 テレビ中継の意味は、もっと即物的に言ってしまえば、舞台を見るのにはどうしてもかなり高額なお金がかかるから、せめてテレビででも見られればってことの方が重要であるだろう。
 若い人はね、すぐに「お金がないから舞台を見にいけない」って言い訳するけどね、テレビ中継が毎週あるのにそれすらもチェックしない人がたくさんいるからねそんなのがウソだってことはすぐにバレるの。つか芝居好きって言うんなら、そんな見え透いたウソついてんじゃねえよ。私が腹が立つのはね、本当は芝居を好きでもないやつ、芝居をやる気がないやつが、そのくせあの芝居はどうの、この芝居はどうのと、批評にもなってない独りよがりな感想を居丈高に一席ぶちやがったりするからだ。
 まあ、NHKBSもWOWOWもシアターチャンネルも、全然見られない地上波オンリーのど貧乏な環境にあるから仕方ないんですって言うやつもいるけど、そんなやつに限ってゲーセンにだけはしょっちゅう行ってムダ金ばっかり使ってやがるんだわ。まったく、簀巻きにして那珂川に叩きこんでやりたいよ、マジで。



 マンガ、影崎由那『かりん』7巻(角川書店)。
 アニメ放映直前発売の7巻だけれど、ここで一応第一部完、といった雰囲気。果林と雨水君の誤解も解けたし、雨水君の「不幸」も一応、なくなったし。アニメはここいらあたりまでを目途に映像化する予定なのかな。小説版も合間に挟めば、充分半年から1年は放送できるだろう。いいもん作ってくれると嬉しいけど、製作のJ. C. STAFF、作品によって作りにムラがあるからなあ。
 しっかしまー、あれっすねー、ついに果林が雨水君の血を吸い……じゃなかった、逆に血を送り込んじゃったわけだけど、このあたりのシーンはもう、描写としてはまんま「初体験」っすねえ(笑)。
 果林、心臓はどっくんどっくん鳴ってるし、顔は紅潮して涙流してるし、何より震えて痙攣しながら吐息を漏らしてる様子がもう、何というかひたすらエロい。いや、もともと「吸血」は性行為のアナロジーなわけだから、「増血」もまたそれっぽいのは正しいのであるが、作者がそこまで考えてこのマンガを描いているかどうかは知らない。
 でも未だにどうして果林だけが「増血鬼」という吸血鬼一族の中の「異端」であるのか、その謎はまだ解かれない。そこがハッキリしないと、へたすりゃ物語全体がアイデア倒れにもなりかねないので、次巻以降、それがちゃんとドラマに絡んだ形で説明されることを期待したい。


 マンガ、諸星大二郎『諸怪志異(四)燕見鬼』(双葉社)。
 掲載誌であった「漫画アクション」の路線変更および休刊で、連載が途切れてしまっていたシリーズが描き下ろしつきで完結……しなかったけど、続きの5巻は完全描き下ろしで出してくれるのかな? 前巻から小さかった見鬼の阿鬼ちゃんも、立派な美少年・燕青眸に成長した。タイトルの「燕見鬼」は青眸の通称である。
 予言書『推背図』を五行先生から託された見鬼。青溪県にそれを渡すべき人物がいると言われ、江南に向かう途中で、かねてから「推背図」を狙っていた仇道人、十四娘といった盗賊たちとの攻防を繰り広げる。幾度かの戦いの末、傷ついた見鬼は、ついに「推背図」を奪われてしまう……。
 初期の短編シリーズだったころの、それこそ『聊斎志異』を意識していたころの作品が好きだったので、続きものになってしまった今のシリーズは、正直いまいちであるのだが、一度完結させたものを復活させると、どうしてもかつての味わいが失われてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。呂太公の娘・小玉の、気丈な活躍ぶりなんかはカッコイイのだけれど、日常の中に潜む「怪を志す」面白さは消えてしまつているのである。
 初期の味わいを残した短編が巻末に二作、収録されてはいるが、これも昔日の勢いはない。それでもつまらないというわけではなく、水準に達しているのはさすが諸星さんなのだが、できれば以前のような「中国版 妖怪ハンター」の路線を復活させてほしいと思うのだが。

2002年10月24日(木) 多分、心の壁を作ってるのは私の方なのだろうが/『空前絶後のオタク座談会3 メバエ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか
2001年10月24日(水) こぉのー、むねのとぉきーめきぃー/『彼氏彼女の事情』12巻(津田雅美)ほか
2000年10月24日(火) 年取ったシワをCGで消すってのは無理?/ドラマ『ウルトラセブン・地球より永遠に』ほか


2005年10月23日(日) 父との遭遇/『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』6巻(星野桂)

 椎名高志の『絶対可憐チルドレン』を読み返していて、ふと、キャラクターのネーミングには何か意味があるのかなあ、と考えていて、急に脳内に電撃が走った。
何だこれ、『源氏物語』じゃん!
 そう、二日間、全く気がつかなかったのだが、あのマンガのキャラクター、『源氏物語』の登場人物の名前をモジって付けられていたのである。

 明石  薫(あかし・かおる) → 明石君(あかしのきみ)+薫大将(かおるのたいしょう)
 野上  葵(のがみ・あおい) → 葵上(あおいのうえ)
 三宮紫穂(さんのみや・しほ) → 女三宮(おんなさんのみや)+紫上(むらさきのうえ)
 皆本光一(みなもと・こういち) → 光源氏(ひかるげんじ)
 柏木  朧(かしわぎ・おぼろ) → 柏木(かしわぎ)+朧月夜(おぼろづきよ)
 桐壺帝三(きりつぼ・たいぞう) → 桐壺帝(きりつぼのみかど)
 明石秋江(あかし・あきえ)&好美(よしみ) → 明石君+秋好中宮(あきごのむのちゅうぐう)
 花井ちさと(はない・ちさと) → 花散里(はなちるさと)
 東野  将(とうの・まさる) → 頭中将(とうのちゅうじょう)
 あと、1・2巻には登場していないが、兵部京介(ひょうぶ・きょうすけ) → 兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)。

 ネットを見ても全員の符合がよく分かってない人も多いみたいなので、一応書き出してみた。つか、ここまであからさまなのにどうして私は二日間、この事実に気がつかなかったのだ。本気でボケてきたのか。可能性を否定できない年になってきたことがコワイ。
 『源氏』は「元祖恋愛育成もの」と言えなくもないから、それで「チルドレン」の育成係が皆本さんということになるわけだなあ、とその符合のさせ方に感心。でもそうなると三人娘の中で終の相手となるのは紫穂ってことになりそうだけれど。薫の性格がオヤジなのは、薫大将がオトコなせいなのか?(笑)
 けれどこれで、敵対組織の名前が「普通の人々」な理由が分かった。こいつらみんな貴族だもんな。ちなみに、『源氏物語』には「磯野」や「幸楽」なんてキャラクターは出てきません(笑)。となると、これからは、六条やすみさんとか宇津瀬美子さんとか浮舟匂さんとか出てきそうだなあ。いや、楽しみだ。


 『仮面ライダー響鬼』三十七之巻「甦る雷」。
 殆どギャグらしいギャグもなく、シリアスに「朱鬼編」が完結。もしかしたら脚本段階ではギャグが一つや二つ、あったのかもしれないが、現場でカットされたってことも考えられなくもない。
 とは言え、しょーもないギャグがなくなったからと言って、「凄く面白くなった」わけではない。つか、結局今回のエピソードはあきらの心の葛藤を描いた程度の「番外編」だったわけで、あと十何回かしか話数が残ってないってのに、何をモタモタやってやがるんだともどかしくなる。朱鬼とあきらを絡めるんだったら、朱鬼は生かしておいて、猛士の分裂を描いていく伏線にしなきゃ意味がないだろう。
 でもそこまでの知恵がこのスタッフにあるとも思えないので、「平成ライダーは所詮はこの程度のレベル」と割り切って、お気楽に見るのがよかろうと思う。文句を付けようと思えば、ありきたりのストーリーだのなんだの、そりゃ、腐るほど出てくるから。
 朱鬼の死に顔を見せてなお斬鬼に「美しい」と言わせるだけの現実を厳粛に受け止めさせようって度量がスタッフにあったなら「面白い」と言ってあげてもいいんだけどね。
 役者さんの熱演があればこそまだ見続けているのではあるが、スタッフの首を挿げ替えてもまだこんなにストーリー展開がもたついてるのはどういうわけなのかね。


 昼から父の見舞い。
 休日で、特に検査もないし、主治医の先生もいらっしゃらないので、本当は見舞いを予定してはなかったのだが、朝方、父から電話がかかってきて、「今日は出かける予定はあるとや?」と聞かれたのである。
 「いや、別にないけど?」
 「出かける予定があるとやったら、読む本ばまた持ってきてもらおうかと思いよったとばってん……」
そんな寂しい言い方をされては、行かないと罪なような気持ちになるのである。
しょうがないので、昼メシを食いに出るついでに病院にも回ることにする(笑)。

 家にある本を引っ張り出すには山をまた一つ二つ崩さなきゃならないし、私の持ってる本は昔のものが多くて、概して活字が小さい。父が希望する捕物帳の有名どころはたいてい持ってはいるのだが、大きい活字版で買い直してもよかろうかと、博多駅の紀伊国屋に寄る。それに嶋中文庫から出ている『銭形平次捕物控』シリーズは、私が以前買っていた「富士見時代文庫」版とは作品のセレクトの仕方が違うのである。富士見版には何と平次第一作の『金色の処女』が収録されていない。これは多分、第一作のころは平次とお静も結婚してないし(タイトルの「金色の処女」はお静のことである!)、ガラッ八も出てこなくて、後期の平次とイメージが違い過ぎるという理由もあったのだとは思うが。
 『銭形平次』の11,12巻と、同じ嶋中文庫の『人形佐七捕物帳』1巻、光文社文庫の『半七捕物帳』1巻、新潮文庫の『再会 慶次郎縁側日記』の五冊を購入、病院に向かう。

 病室では父は前に貸した『銭形平次』を読みふけっていた。熱中していて、私たちの訪問に気がつかなかつたくらいである。
 「あともうちょっとで読み終わるぜ」と得意げである。テレビは全く見ていないらしい。「今度は本ば読もうと思ってな」と楽しそうである。持ってきた本を見せて、「前の『桃太郎侍』とかはどうだった?」と感想を聞いてみる。「テレビと全然、違うとったろ?」
 「ああ、テレビばどうしても思い出すもんやけん、何か違うとるなあって感じしかせんやった」
 「『一つ人の世生き血をすすり』とかも言わんしね」
 「そうたい。ドラマにする時に変えたとやろうな」
 「映画は高橋英樹やなくて市川雷蔵がやっとるんよ。こっちの方が原作に近いんやね」
 母の生前は、父とこんなふうに時代劇の話をすることは殆どなかった。本や映画を見ているのはいつも母だったし、私の昔の映画の知識は、殆ど母や祖母から(それこそ「目玉の松ちゃん」の昔から!)聞かされるうちに自然と身についたものである。
 しかし、父もまた戦前生まれであって、父の青春時代と「映画の黄金時代」とはぴったり重なっている。父と昔の映画の話をあまりしてこなかったのは今更ながら痛恨のことで、「時代の財産」を聞き損なってきた、という忸怩たる思いに駆られてしまう。
 父とこれから先、こんな他愛無い話がどれだけできるかは分からないが、本をきっかけに昔のことが聞けたらいいなと思う。もっとも父が記憶を辿ることができればの話であるが(笑)。
 


 唐沢俊一・おぐりゆか『唐沢先生の雑学授業』(二見文庫)。
 コンビニでも「~の雑学」みたいなタイトルの雑学本が何種類も出回っていると、何かもう一つ「読ませる」コンセプトがないとなかなか手に取ってみようという気にならないものだが、これは唐沢センセイに対して「うわの空・藤志郎一座」の女優、おぐりゆかさんを生徒に仕立てるという趣向が見事に生きていて、これまでの唐沢さんの雑学本の中でも一番読みやすく楽しい一作になっている。
 唐沢さんがお一人で書かれた本については「生徒」はどうしても読者になってしまうわけで、先生に対して「それ、ホントですか?」とか「○○が○○だとすると××は××なんですか?」とか聞き返すことができずに、「お説ゴモットモ」と受け入れるしかなかったわけである。雑学本というのは、専門的な知識書じゃないんだから、読者はどうしてもそういうツッコミを入れたくなるものなので、そこが弱点になってしまうが、これはおぐりさんが生徒の役目を見事に果たしていらっしゃる。この場合、生徒がバ……いやいや、素朴で基本的な疑問を発してくれればくれるほど、一問一答の面白さは弥増す。あまりに素朴すぎて虚を突かれて、唐沢センセイが咳払いで誤魔化したりケツまくって逃げたり、そのあたりのやり取りも楽しい。インテリな先生というものは、インテリだってだけで権威的で横柄で、ヒゲなんかピンと立ててるけれども、それが生徒の疑問にまるで答えられなくて返事に窮して四苦八苦する、その様子を笑って見るのが面白いのである。
 雑学はその信憑性においては眉唾的なものをかなりなパーセンテージで含んでいるものだから、それを前提として、知識としての真実性よりも「話のネタ」になる程度のもので構わない。唐沢さん自身も「雑学ブーム」については自分が仕掛け人の一人であるにもかかわらず「日本人にも知に対する好奇心がちゃんとある」とか「トリビアは真実である必要はない」とか、意見が揺れまくっていて、何が言いたいのかよく分からないくらい混乱しまくっていたのだが、おぐりゆかさんを「生徒」に選んだということは、ご自身の混乱自体もネタとしてエンタテインメントを仕掛けるだけの余裕が生まれてきたということなのだろう。それらのトリビアに関する発言の変遷も含めて読んでいくと、この本、めっぽう面白いのである。
 だもんで、「青写真は冬の季語である」というトリビアについて、本文に書かれている通り、「変なもの」も多いので、そういうものは「実際には使われることが少ない」し、「入試にも出したら文句が出るので出されない」とか、「『馬鹿』という格言が中国発祥であるにも関わらず、現代の中国で通用しなくなっているのはなぜか」という疑問に対して「漢民族が一回滅亡してるから」というフォローはしなくてもいいことかもしれない。聞かれたら答えるけど、私の言ってることも眉唾だからね(笑)。

 
 マンガ、田中圭一『鬼堂龍太郎・その生き様』2巻(集英社)。
 1巻の感想を書きそびれてるうちに、2巻が出ました。いや、感想書いたからと言って、「ほう、面白そうだな、いっちょ買って読んだろか」と思う人がたくさん出てきそうなマンガじゃないんですが。ともかく、下品なギャグ、シモネタ、オヤジギャグ、ともかく下らなくてしょーもなくて、そのしょーもなさがかえって快感、なんて感じることのできるバカなアタマの持ち主でないと、これは楽しめません。田中圭一ですから。
 社内抗争で平社員に格下げされた元役員の鬼堂龍太郎が、再び役員に返り咲くまでの闘争を描く……というのが基本コンセプトだというタテマエになっているけれども、実際はどんどん出てくる異常なシモネタキャラたちによって、鬼堂が翻弄されるのを笑って見る、という展開になっている……つか、それが最初からの狙い。原作者としてクレジットされている、実際に自分の降格をネタにビジネスジャンプにマンガ企画を売り込んできたという「古賀たけひこ」なんて人物は実在しないに違いない。
 最近の田中圭一マンガについてはもう知ってる人は知ってると思うが、絵柄を手塚治虫、本宮ひろ志、永井豪、藤子・F・不二雄といった巨匠から拝借して、元ネタのネツレツなファンであれば激怒しかねない紙一重のギャグを展開してくれている。
 こういうことを言うと、私の人格まで疑われそうだから本当は言いたくないのだが、手塚女性キャラどうしの「Hスポーツ」シリーズ、特に「ハメハメ川下り」が私は大好きだ。あと今巻新登場の鬼堂のムスメの萩菜(別名バギナ)が発明する危ないクスリの数々も。
 それでも一応、これだけは言っとこう。
 おいこら、そこの「ハメハメ川下り」でグーグル検索かけてきた通りすがりさんよ、俺は別にお前の同志なんかじゃねえから、間違っても「あなたもハメハメ川下り、いっぺんやってみたいとか思ってたんですね!」なんてメール、寄越してくるなよ。おりゃー、「くだらないギャグほどギャグの基本」と思ってるだけだ。
 あと気に入ったギャグは、「執務室に閉じこもって『自叙伝アニメ』を製作している小泉首相」。アサハラショーコーか、おまいは。って、それをイメージしてるんだろうなあ。しそうだよ、あの人は。いやねー、小泉首相って中曽根さん以来、マンガにしやすいキャラって気がするよね。いしいひさいちのマンガでも一番生き生きしてるもの。


 星野桂『D.Gray-man(ディー・グレイマン)』6巻(集英社)。
 「ジャンプマンガは6巻越したら(連載1年を越したら)つまんなくなる」というのは実際にいくらでも例を挙げることができるジンクスだけれども、つまりは「1年以上連載が続くとは作者も思っていなかった」「だもんで、慌ててテコ入れの設定を考え出した」ってのが理由だったりする。
 前巻で、クロス元帥を追っかけてたアレンとリナリーの前にいきなりアクマの大群が押し寄せて、実はそいつらは「咎落ち」したエクソシスト、スーマン・ダークを狙っていたのだった……って展開、まるでこれまでと繋がりがないんだけれども、その「慌てっぷり」が実に分かりやすくて、「現象」としては面白い。これが最初から計画されていた構成だとするなら、この作者、ストーリー構成力はまるでないと言い切るしかないんだが、もっともジャンプマンガの「人気がなければ即打ち切り」システム自体が、マンガ家さんから等しく「構成力」を奪ってるんで、作者を責めにくいところもある。
 慌てたおかげで、これまで一面識もないアレンが、スーマンにいきなり感情移入するのが不自然極まりないなど、欠陥だらけの物語になっちゃってるんだけれど、絵がキレイでキャラだけは魅力的だから腐女子のファンはストーリーがワヤでも全然いいんだろう。この「絵とキャラだけ」の伝統も萩原一至『BASTERD!』以来のジャンプマンガの悪癖なんだが、かえってその方が腐女子には妄想を逞しくする余地が生まれるから、人気は出るということになる。
 でもなー、フツーのマンガファンが読みたいのは「マンガ」なんであって、「イラスト」じゃないのよ。マンガが腐女子に支えられるような現状は、正直、いつかはマンガを滅ぼすわな。
 それでも『D.Gray₋man』は今みたいな「引き伸ばし」などの迷走が収まれば千年伯爵との決戦まで物語を引っ張って行ける要素は充分持ってると思うのである。思いっきり「パクリ要素」丸出しだった一巻のころに比べれば、キャラクターがだんだん「生きて」きた。
 特に千年伯爵とノアの一族、ロード・キャメロットにティキ・ミックといった「敵方」は、黒の教団のエクソシスト全員をひっくるめてもかなわないくらい、ダークな魅力に溢れている。これも言うまでもないことだけれども、主人公を「成長」させるものは魅力的な敵が主人公の心を揺さぶってこそなんでね。単純に「私は神だ」なんてほざくだけのバカを配置しちゃいかんのよ。
 今巻のティキ・ミックのセリフ、「勇敢な奴は死ぬまでにほんのちょっぴり時間を与えてやった方がいい。心臓から血が溢れ出し体内を侵す恐怖に悶えて死ねる」、悪の魅力はこれくらいでないとね。
 つまりはこのマンガ、決して「子供向け」なんかじゃないので、今回の「咎落ち」エピソードみたいなありきたりで余計な回り道なんかしないでいいのである。ティキ・ミックにスーマンを殺させる結末があるから、何とかキレイゴトのハッピーエンドにならずに済んだ点は評価したいが。「スーマンは助からなきゃいけなかったんじゃないか」なんてキャラのみに偏ったファンの独りよがりで腑抜けた意見なんかは無視してよい。

 そう言えば、言語学の専門雑誌『言語』11月号に、ついに「腐女子」が載ったぞ(笑)。
 「アニメやコミックス、コスプレなどに熱中しているオタクの女性たちが自虐的に称しているもの。(中略)男性のオタクに比べて『女性オタク』たちはファッショナブルで、コミュニケーションが上手で、美しいものに憧れているという特徴があるとされている」んだそうな。
 あー、そうなんスか? ボーイズラブ系同人誌って、男の目から見るととても「美しいものに憧れている」とはとても思えないんスけど。
 まあ、男のオタクがたいていキモ過ぎだから、反作用的にはそう見えるというのもあるかもしれないねえ。実際、ブログや日記開設してるオタクって、女子の方が圧倒的にハバ利かせてるもんな。
 けれど、だからと言って「コミュニケーションが上手」って意見に対して首を傾げざるを得ないのは、彼女たちの見ている世界と視点が異常に狭いからなんだけどね。四十を越してるんじゃないかという女性オタクであっても、世間知や分別が感じられない人がやたらいるのだ。
 やっぱさー、「自分が生まれる前にあった、小説、ドラマ、映画、マンガ、アニメなどに対しても、今あるものと同等かそれ以上の愛情と見識を持っている」人でないと、オタクとは言えないし、いつまでも「腐ってる」と自虐的な態度しか取れないんじゃないかね。

2002年10月23日(水) 『ハリポタ』ホントに面白いか?/『呪いのB級マンガ ~[好美のぼる]の世界~』(唐沢俊一&ソルボンヌK子監修)
2001年10月23日(火) 凡人礼賛/DVD『エイリアン9』2巻/『魔獣狩り』(夢枕獏・木戸嘉実)ほか
2000年10月23日(月) 浮かれたホークスファンは情けない/アニメ『犬夜叉』『人造人間キカイダー』第2話ほか


2005年10月22日(土) いそがし日記4/DVD『香港国際警察 NEW POLICE STORY』。

 父の入院はひと足先にブログ日記の方に書いていたので、お読みになった方の何人かから、激励の優しい言葉をいただきました。謹んでお礼を申し上げます。

 『ウルトラマンマックス』第17話「氷の美女」(宇宙古代怪獣エラーガ登場)。
三池監督の後を受けたのでは、どうしても見方が厳しくなってしまうのだが、気になる点はありつつもまあまあの水準作は仕上げて来ている。
 30分番組なんだから、「どうしてニーナは氷の中に閉じ込められていたのか」とか「なんでコバ隊員はひと目見ただけで得体の知れないニーナにそこまで惚れたか」とか「怪獣一匹で世界が破壊しつくせるのか」とか「人間が失敗作って、殺戮してるお前の方がよっぽど性格破綻者じゃないのかニーナ」とか「ニーナがどうしてコバ隊員には自分を撃てないと思ったのか、そんなことまで彼のDNAを見れば分かるのか」とか「マックスであるカイトに『人間は失敗作じゃない』と言わせるなんてずるくないか」とか、そこまで突っ込まなくてもいいと思う(笑)。
 一目惚れってことだってあるし、人間はやっぱり失敗作かなって人間である自分だって思うし、氷の中に何万年もいたのだって、30分では語りきれない何か深いわけがあったのだろう(笑)。多少、説明不足のところがあったって、説明過多でつまんなくなるよりはマシである。語んなきゃいけない部分以外の省略の仕方はまあまあ悪くはなかったと思う。
 エラーガの活動を止める手段が定番過ぎるのにはもうちょっと工夫がほしかったかなとは思うけれども、これも間違ってるわけではない。でも、ニーナの発見者がどうして彼女に「ニーナ」と名づけたのかは本筋に関係ないけど気にはなるね。細かい点では、そのニーナが面と向かってニーナと呼ばれたり、自称したり、というシーンがなかったのはよかった。
 ニーナ役の上良早紀(かみりょう・さき)のクール・ビューティーぶりはなかなかのもの。


 昨日からしげを叱ってばかりいる。
 いつものことで家事をサボってばかりいることは遠因としてあるが、腹が立つのは、父の見舞いに行くのに、「天神は車を停めにくいから」とかほざいて、往復を面倒くさがっていることである。おかげで父からも「無理して来んでいいぞ」と言われるし、姉も「お父さんの着替えは私が持っていくから」とか、気遣われてしまっている。見舞い客が病人の方に気遣われてどうするか。
 天神の交通状態が悪いのはそりゃ分かる。だったら、バスと地下鉄を乗り継いで行けばいいのである。そう言われても出渋るのだから、ただ単にワガママを言っているだけだ。ワガママを言っていい時とまずい時のTPOが未だに分からないというのはどういうわけかねえ。
 父の手が自炊しにくい状況になっているのは事実なのである。父は「レトルト買えばいいんだから」と言うが、糖尿病のことを考えれば、ちゃんとした食事を作った方がいいに決まっている。モヤシと鶏肉を茹でただけの晩飯を半年も続けるような今の手抜き料理じゃ困るので、「何か別のもの買って、練習しとけよ」と言ったのに、今日もまた同じ食材で同じ料理を作ってきたのだ。
 「どうして注意したこと無視するんだよ」と叱ったら、「言われたことと、料理のことと、繋がってない」と答えるのだ。つまり、私に言われたことは理解しているのだが、いざ買い物をして、料理を作ろうとすると、たとえ直前にインプットされた情報であっても、それは忘れ去られてしまって、今までと同じ料理を機械的に作り続けることになってしまうと言うのである。しげには、こういう、「時計を見ようと思って時計を出したら、時計を出したという行為が終了して安心したので時計を見ないまま仕舞ってしまう」というクセが頻繁に、それこそ毎日何十回も起こるのだが、しげの通院している神経科の先生は、しげのこういう病状を理解しているのだろうか。

 今日はしげ一人が父を見舞い、下着などを取り替えに行く。
 父から「HCUから一般病棟に移るぞ」との連絡あり。回復に向かっていると判断してもいいのかも。


 DVD『香港国際警察 NEW POLICE STORY』。
 初回限定生産で、DVD二枚組みの特典仕様。ジャッキー・チェンの最高傑作との呼び声も高い本作で、50の坂を越えてもなおアクション映画を撮り続けるジャッキーの真摯な姿勢を見ていると、こりゃ通常版は買えないというのがファンとしての心意気だろう。
 でもメイキングを見ていたら、さすがのジャッキーも「もう年だよ」と呟いて、共演のニコラス・ツェーから「それを言っちゃ……」と言われてしまう一幕もあった。最近は「韓流の悪口を言った」とかデマも流されてしまったジャッキーであるが、インタビューでも答えていた通り、ハリウッドで10本以上の映画に出演することを契約し、もちろん『香港国際警察』シリーズの続行や他の企画、日本との合作などの計画もあるジャッキーには、韓流がどうのこうのなんて、そんな小さなことに拘ってるヒマはないのである。
 実は本編の映画を劇場に見に行った時には、糖尿がひどくなってた時期で頻尿で、途中、二分ほどトイレに行ってて見てないシーンがあったのだが、なんと警察本部内での爆弾騒ぎの真っ只中、チャン警部(ジャッキー)が、恋人のホーイー(チャーリー・ヤン)に愛を語るところを見逃していた。ああっ、くそ、こんないいシーンの時に俺の膀胱、我慢できなかったのか。今まで私のこの映画の評価は80点くらいだったのだが、このシーンを見たら90点くらいにアップした。これこそジャッキー映画、エンタテインメントの王道だよねえ。

2002年10月22日(火) 愛の賛歌(^o^)/『金色のガッシュ』7巻(雷句誠)/『焼きたて!! ジャぱん』4巻(橋口たかし)/『眠狂四郎』5巻(柳川喜弘)
2001年10月22日(月) 野だいこ敬語/『源氏物語』第壱巻「桐壷」(江川達也)ほか
2000年10月22日(日) 時代劇なのにカップルが多いとは珍しい/映画『五条霊戦記』ほか


2005年10月21日(金) いそがし日記3/『絶対可憐チルドレン』1・2巻(椎名高志)/映画『チャーリーとチョコレート工場』

 昼から、久しぶりに病院回り。本当はもっと頻繁に行かなきゃならないのだが、なかなか余裕がない。
 最初は内科に回って、検尿と採血。結果が出るのが後日なので、また来なきゃならないのだが、そうやって診療費を余計に取られるのも癪なので、また一月後に来よう。
 さらに眼科に回って、コンタクトレンズの試着。十年くらい前にもしたことはあるのだが、私の近視に合うだけの度数のものが開発されていなかった(裸眼では0.01を切ってるのである)。それが使い捨てでもギリギリ何とか目に合うものができてきたので、この際思い切って購入することにしたのだ。科学の進歩もようやく私に追いついてきたようである。
ところがその過程で視力検査をしていたら、老眼が進行していることが分かった。何だかどんどんジイサンになりつつあるが、心は枯淡の境地には程遠い。

 病院に行くと、叔母夫婦が見舞いに来ていた。父より年下だからまだ60代のはずだが、仕事を辞めたとかで髪を染めていなくて完全に白髪である。して見るとうちの家系は早く白髪になりやすいのかな。
退屈だと言うので父に貸しておいた『桃太郎侍』、もう読み終わったそうである。検査以外は本当にすることがないところだからなあ。


 博多駅の「GAMERS」で、買い損なってたマンガなどを一括して買う。
 椎名高志さんの『絶対可憐チルドレン』(小学館)は、待望の1、2巻同時発売。既に略称は「絶チル」となってるそうで、「GAMERS」でも手作りのポップにそう書いてあった(笑)。椎名さんのファンならば、「GAMERS」で買えばポストカードもオマケについてくるので、そちらでの購入をお勧めする。
 なんたって読みきり連載のころからもう、出るのを一日千秋で待ってたからね。10巻くらい進んでまだ人気があったら、ぜひアニメ化を望む。いや、マンガのアニメ化については基本的には反対の立場なんだが、椎名さんのファンならば、『GS美神』のアニメが打ち切られたあと、マンガの方で、おキヌちゃんが「またアニメになったりして」と言ったのに向かってヨコシマが血の涙を流しながら「それはない。ないんだよ」と呟いていたのを思い出すだろうから。
 読みきりのころから椎名さんが進歩してるなあと思うのは、接触テレパスの紫穂に、皆本が心を読まれることを厭わずに手を触れることを「コトバ」で説明してるんだけれど、連載版になると、それを紫穂の「微笑」だけで表現している。ジャンプとサンデーのマンガの何が違うって、ジャンプは本当に「説明」ばっかりで絵の表現力ってものを信じてないんだよね(『デスノート』が面白いのはその「説明」を逆手に取った心理戦を展開してるからだ)。子供はジャンプばっかり読んでるとバカになるぞ。
 果たしてエスパー三人娘は、成長して天使となるか悪魔となるか、何だか永井豪テイストが入ってるあたりもお気に入りなんである。……と思っていたら、おまけマンガでホントに『デビルマン』のパロディやってくれちゃってたよ。早く3巻が出ないかなあ(多分三ヶ月先である)。


 ダイヤモンドシティで、映画『チャーリーとチョコレート工場』。
 あえてある程度のネタバレを承知で書くけれど、これも多分、お子様や馬鹿親はあまり気がついてないことだと思う。ウィリー・ウォンカに招かれた五人の子供たちのうち、最後に四人の子供たちが助かったのは、あれ、ファミリーものとして仕方なくくっつけてるオチなんで、あれは「ないもの」として見ないと、本当の本質を見損なうからね。ウィリーの心の闇は、「親に溺愛されている子供たちを憎む」ほどに深く暗いんだから。子供たちは当然「殺されたもの」として見るのがウィリーの心を理解するよすがになるんである。
 じゃあどうしてチャーリーだけが助かったかというと、彼は「溺愛されている」わけじゃないので、そこも勘違いしないように。なんにせよ、イマドキは食玩を「大人買い」してフィギュアをコンプリートしたものを子供にどんどこ買い与えるような馬鹿親は世間にゴマンといるだろうから、そういう親子はこの映画を見ればさぞや苦虫を噛み潰したような顔になるだろうことは請け合いである。
 ラストの「取って付けた感」で拍子抜けした人もいるかもしれないが、メインは子供たちを次々と「殺して」いくところにあるんで、ラストをおざなりにしたのはわざとなの。えっ? ティム・バートン監督はそんなこと言ってないって? そんな、正直なこと言ってたら、映画を作らせてもらえるわけないじゃないの(笑)。
 それから、もともと原作が「奇妙な味」のブラックな作家であるロアルド・ダールだってこともちゃんと理解しておいた方がいいよね。この物語が、チョコレートが本当に子供たちにとって甘美な、極上のお菓子だったころの、そしてだからこそ一種の「麻薬」として恐怖されていた時代に書かれた物語であることを考えて、チョコレートをチョコレートとして見るのではなく、子供を快楽に導くものの象徴として見ないと、その寓意は理解できないのである。だからまあ、現代のおとぎ話としてはちょっとズレは生じているかな。
 『水着の女王』や『オズの魔法使』、『2001年宇宙の旅』などのパロディは好き好きでしょうねえ(笑)。

2002年10月21日(月) 今から2ヶ月後のプレゼントで悩んでいる男の愚痴/『華麗なるロック・ホーム』(手塚治虫)ほか
2001年10月21日(日) もう6年/『背後霊24時!』3巻(がぁさん)ほか
2000年10月21日(土) 仔牛のテールは美味かった。♪ドナドナ/『火星人刑事』4巻(安永航一郎)


2005年10月20日(木) いそがし日記2

 今日も見舞いはしげだけの予定だったのだが、「キツイから行きたくない」とか言い出したんで、仕事を早引けして、予定外の見舞いに行く。
父がかえってしげを気遣って「無理して来んでもいいぜ」なんて言い出すものだから、本当に困るのである。


 ドラマ『熟年離婚』第2回。
 前回同様、離婚の言い分は妻側の方が筋が通ってるんだが、夫への対応の仕方、松坂慶子がやるとただの嫌がらせにしか見えない。これはまあ、渡哲也が料理に苦労したりゴミ出ししたりする日常の可愛らしさを楽しむドラマだと割り切って見よう。

 マンガ、加藤元浩『Q.E.D.』22巻(講談社)。
 「春の小川」と「ベネチアン迷宮」の二作を収録。
 「春」は、随分単純な謎だなあと思わせておいて、あのネタで落とす。同じネタを扱ったあの作品やあの作品よりも語り口がうまいので、見事に引っかかった(笑)。考えてみれば、この作者がこんな陳腐なネタだけで勝負するわけがないのである。油断したなあ。
 「ベネチアン迷宮」も、いくつかの誘拐もののネタを複合して、なかなか複雑に、さらにはアランの恋物語まで混ぜて(笑)いるにもかかわらず、見せ方がコンパクトかつスムーズなのは構成力の妙だろう。
 何度も言うけど、今、ミステリーマンガで一番「読める」のは『コナン』でも『金田一』でもなくて『Q.E.D.』だからね。そろそろアニメもよかないか(笑)。


 天樹征丸・さとうふみや『探偵学園Q』22巻(完結/講談社)。
 はっきり「子供向け」を志向していたので、『金田一少年』ほどには抵抗感がなかったこのシリーズ、終わり方もまあ定番でよかったんじゃないですか、という印象。最後が館の爆発で終わるのは、江戸川乱歩の『少年探偵団』だねえ、というのはもうロートルの感覚。もちろん生死不明のキング・ハデスのおっちゃんや、これは確実に生きてるケルベロスが再登場する可能性はあるわけだが、もうこれでキリよく終わってほしいね。
 それはそうとキュウ君の旧姓は分からずじまい。読者の想像におまかせ……って、ストーリーの本筋と何の関係もないそういうおまかせは意味がないよ。で、次の連載もまた『金田一少年』なわけだが、時代的にはもうひ孫の世代でおかしくなくなってるのに、まだ続けるんだから、全くお前は『ルパン三世』か、と言いたくなるね。

2002年10月20日(日) クレーマー・クレーマー(^_^;)/『COMAGOMA コマゴマ』3巻(森下裕美)/『フルーツバスケット』10巻(高屋奈月)ほか
2001年10月20日(土) 泣くなしげっちゅ/『眠狂四郎』1巻(柴田錬三郎・柳川喜弘)ほか
2000年10月20日(金) カシューナッツと水木の世界とパーティと/『大熱血』(島本和彦)ほか


2005年10月19日(水) いそがし日記1

 忙しくなってきたので、また短めに。

 森田雄三さんとイッセー尾形さんの小倉ワークショップのレポートが全てアップ。
考えてみればあれからもう一月が経っているのだが、読んでいるとあの充実の日々のことが蘇ってくる。ワークショップの中まで、あれから仲良くなれた方もあり、どうも嫌われちゃった人もあり。人生模様だね。
 イッセーさんはドラマと舞台、ワークショップもありで、かけ持ちして忙しそうだ。

 末次由紀の少女マンガ『エデンの花』(講談社)の中に、井上雄彦作『スラムダンク』(集英社)からの盗用シーンがあるということで、講談社は末次さんの全作品を絶版、回収。連載中の『Silver』も打ち切りを決定した。現物をテレビで見たけど、言い訳の利かないレベル。このマンガ家さんのファンだった人には気の毒だけど、処分は穏当。まあ十年もしたらどこかの出版社が改訂版を出版するとは思うけどね。

 今日も仕事帰りに父の見舞い。
 本当は行く予定はなかったのだけれど、昼間、見舞いに行ったしげが、入院届けを出そうとしたら、父の住所も電話番号も知らないことに気がついて出せなかったとか。
「だったら姉ちゃんに聞けばよかったじゃん」
「おお」
 おお、じゃないよな。


 ドラマ『相棒』第2話「殺人講義」。
 サブタイトル、倒叙形式であること、犯人が心理学者であること、ストーリーの仕立て方や、犯人が自分の講義に探偵をゲストで招くオアソビまで、全部『刑事コロンボ』の影響が大。けれどこれが「盗作」にならないのは、パターンやスタイルを継承しているだけで、作品のオリジナリティを犯してるわけじゃないからなんだね。「初めからあなたが犯人だと思ってました」ってのはもうミステリーでは定番のセリフだけれど、「そう判断した理由」がオリジナルであれば、剽窃にはならないというわけ。
 だから『古畑』だって「『コロンボ』のマネ」ではあっても「パクリ」「盗作」にはならないわけ。倒叙形式はそもそもオースチン・フリーマンの創始した形式だって基礎知識も知らないでミステリーを語るやつが多すぎ。


 夜、東京のグータロウ君と電話。イッセーさんとこに小倉レポートがアップされたことを報告するだけの予定が、父の入院の話、『響鬼』の話、メイドカフェの話(笑)など、気がついたら一時間以上喋ってる。
 しかし、なんでみんなそんなにメイドカフェが気になるのだ(苦笑)。

2002年10月19日(土) 多分今日は死にかけていた/映画『千年女優』/『ロード・トゥ・パーディション』
2001年10月19日(金) 逆探知されました(^_^;)。/『コータローまかりとおる!L』1巻(蛭田達也)ほか
2000年10月19日(木) 異端審問と放火魔タマキと消えたメールと


2005年10月18日(火) 古畑VSイチロー/ドラマ『1リットルの涙』第2回

 来年正月に、3夜連続のスペシャルでシリーズが完結予定の田村正和主演のドラマ『古畑任三郎』。犯人役に第1夜・石坂浩二&藤原竜也、第3夜に松嶋菜々子の出演が決定していたが、残り第2夜の犯人になんとマリナーズのイチロー選手が本人役で出演することが決定したとか。
 聞けば、イチローは『古畑』の熱狂的なファンで、シリーズも全て見ており、そのことを知ったプロデューサーが出演をダメモトでオファーしたところ、二つ返事で快諾したのだそうな。
 演技経験の全くないシロウトを主役級の役どころに抜擢するというのは、日頃研鑽を積んでいるプロの役者に対する冒涜ではないかとか、所詮は人気取りが目的ではないかとか、揶揄する声は多いと思う。下手をするとプロの役者や評論家がそんなことを言うことがあるのだが、残念ながら、演技とかドラマというものは実はそういう一見理が通っているように見えるインテリぶった批評モドキを越えたところに存している。
 つまり、「シロウトの演技がプロの役者の演技を越える」ことがこの世界には往々にしてあるのだ。例えば「子供と動物にはかなわない」なんてのもそうだろう。「巨匠」と呼ばれる監督がある時期から全くのシロウトや新人を使いたがるようになるのも、「プロを越えた演技」を期待しているからだ。正直、「プロの演技」を標榜する人間ほど「先の読める定番な」演技しか披露できない。心を打つ演技というものはどこかに予測不可能な「シロウト」の要素を含んでいるものである。
 もちろん、イチローに演技ができるのかどうか、というのは全くの未知数である。しかし未知数というのは「どう転ぶか分からない」ということであり、ともかく「結果を見てみなきゃ分からない」ということであるのだ。
 いやね、もうネット始めて仕入れる情報量が格段に増えてからはね、世の中、ここまで余談と偏見に満ち満ちてるもんなんだと驚いたし、それが「見識」なのだと勘違いしてる馬鹿だらけなのだということに暗澹たる気持ちにもなったのである。「シロウトに演技ができるのかね」程度ならばともかく「シロウトに演技させるんじゃねえ」と、「見る前から」文句を付けるのは、いったいどういう神経をしているのか。全く、「カミサマ」だらけの世の中である。
 ま、見た後で「シロウト使うな!」と怒るんだったらそれは問題ない(笑)。
 

 仕事が終わりかけてた午後5時。
 ふと気が着くとしげからメールが入っている。いつもの「何時に帰れる?」コールかと思って開いてみると、たった一言書いてあったのが「父ちゃん入院」。
いつものことだが、しげのメールは電報より短いのでいったい何が起こったのか全く分からない。夕べ一緒にスシを繰ったばかりだと言うのに「入院」?
 折り返ししげに電話をかけてみたら、「父ちゃん、脳梗塞だって」。
 「脳梗塞? 倒れたんか?」
 「いいや、病院には自分で行ったって。朝から父ちゃんが『手が痺れる』って言うから、お姉さんが無理やり病院に行かしたら、CTスキャンで脳梗塞だってことが分かったって。今、○○病院にいるよ。『倒れたわけじゃない』って伝えといてって。今から病院に行く?」
 「そうだな。博多駅まで出て来てくれん?」
 そのあと姉にも電話をかけてみたが、概ねしげの話の通りだった。何度か手に持っていたハサミを取り落としていたので、これは様子が変だ、と病院を勧めたそうである。
 脳梗塞かあ、昨日、寿司を食い過ぎたのがよくなかったんだろうか。あるいはホークスの敗退がショックで頭に血が上ったか。いろいろ考えていても仕方がないので、ともかく病院に向かうことにする。

 病院に着いたのは六時少し前。
 病室を訪ねると、そこは重いドアで仕切られていて、救急医療センター「HCU(high care unit)」という物々しい文字がガラスに躍っている。何となく不安な気分で、中に入ってみるが、受付で教えられた病室にはまだ父の名札がない。しげが 「部屋が違うんじゃないと?」と言うが、「まだ名札が間に合ってないだけだろろ」と中に入ってみると、案の定、父が別途に寝ていた。
 「おう、来たとや。てっきり来んやろうと思って、お医者さんには『息子は来ましぇん』て言うてしもうたとこやったが」
 どうして私が来ないと父が思い込んだのかは定かではないが(笑)、口は全然満足に利けるようである。「どげんあると?」と聞くと、「朝からなんか手の感覚がなかったけん、あ、ついに来たとかいなと思って、病院で見てもらうことにしたったい」
 「姉ちゃんは『無理やり病院に行かせた』って言いよったけど?」
 「なんがもんか。私が自分で来たと」
 どっちの言い分が正しいのか、そりゃどっちでも構わないのだが、とりあえず命に別状はないようなのでホッとする。
 「最初は××病院に運ばれるところだったとぜ。ほら、××病院はお母さんが倒れて、最初に運ばれて、ここじゃ治療できませんからって、こっちの病院に運ばれたろうが。だけん、××病院はやめてくださいって頼んでこっちにしてもらったったい」
 事実、母が死んだ時に呆れてしまったことなのだが、救急車の職員は、手近な病院に患者を適当に運び込むだけで、そこが脳出血の治療設備があるかどうかなんて全く知らないのである。つか、脳出血や脳梗塞の治療設備もない病院が救急病院の指定なんて受けてること自体、問題なんじゃないのか。ともかく西方沖地震の時もそうだったが、福岡の病院事情は全くデタラメなんである。
 とか考えてたら、主治医の先生が来られた。メガネをかけた細身の、袴田吉彦にちょっと似た感じの先生で、心の中では「こいつも藪じゃねえかな」とか思いながら顔はにこやかに「父の具合はどうなんでしょう?」なんて聞いてみる。
レントゲン写真を見せながら、「この右側の部分に白いのがあるでしょう。視床下部なんですが、ここに脳梗塞ができていて、それで手の感覚がなくなってるんですね。けれど、麻痺とは違います。脳梗塞の中では一番軽い症状だと考えてください」
 「それはまた元通り動かせるようになるということですか?」
 「元通り、というのは難しいと思います。後遺症が出る可能性もありますし。けれど、放っといたら悪くなるばかりですから、それをこれ以上悪くならないように止めることですね。今はともかく点滴をして、検査をしているところです」
 要するに、「まだどうなるか分からん」ということなのだろう。心なしか、父の表情が曇ったように見えた。また仕事ができるようになるか、不安なのだろうと察していたら、先生が退出したあとで、「これでしばらく酒が飲めんなあ」と言ってため息をついた。
 この期に及んでまだ「酒」かよっ! 半身不随になるとか、言語障碍を起こすとか、植物人間になるとか、そういう心配もあったのに、呑んだくれはこれだからもう。

 数少ない読者のみなさま、途中までは思わせぶりな書き方になってしまいましたが、覚悟しなきゃならないような状況ではなかったようでホッとしてます。まだ容態が急変するんじゃないかとか考えると油断はできないのですが、とりあえずは父がそんなに落ち込んではいないようだったのが幸いでした。
 しかし、病院に行く途中、しげが「来月、父ちゃんと一緒に旅行に行くの予定しとったろ? キャンセルせんといかんね」と言ってたのを「いや、意識があるなら意地でも行くよ、あのオヤジは」と返事していたら、病室で父は本当に「来月の旅行には行くからな」と言い切りました。その時までには絶対に退院できる、いや、「退院する」つもりでいるんですね。全く、懲りないオヤジ殿であります(苦笑)。


 ドラマ『1リットルの涙』第2回。

 亜也(沢尻エリカ)は自分が脊髄小脳変性症であることをまだ知らない。母の潮香(薬師丸ひろ子)がその現実を受け入れることを拒んで、未だに本人に伝えられないでいるためだ。担当医の水野(藤木直人)の診断を拒んで、セカンド・オピニオンを脊髄小脳変性症の権威である宮下(森山周一郎)に求めるが、結果は変わらない。ついに潮香は夫・瑞生(陣内孝則)に亜也の病名を告げる。そして二人は亜也の、恐らくはこれが最後になるだろうバスケの練習試合を家族で応援に行く……。

 苦手なのに今週も見ちゃったよ、『1リットルの涙』。
 『愛と死を見つめて』以来、この手のドラマは極力避けるようにしてきたのに、一回目をうっかり見ちゃったら、次の回も気になって見ちゃうんだよね。かつて伊丹万作が映画『小島の春』に苦言を呈したように、こういう「難病もの」が「見るものの涙を振り絞りはしても映画としては何の価値もない」ことは党に喝破されてるのは分かっちゃいるんだけどね。要するに脊髄反射でまさに記号的に「感動」のボタンを押されてるだけなんだけどね。
 見ない見ないと思ってはいても、どんなドラマにも「お涙頂戴」要素は含まれているものだから、いつの間にかそのパターンやセオリーは見えてくる。だから、こういうドラマがいかに現実に取材していようが、ドラマのために都合よく事実を改変され、人物の心理もどこか緊張感、切実感を欠いたものになってしまうことは否定のしようもない。みんな、下手な役者さんじゃないんだけど、やっぱり「お芝居」を見てる感じしかしないのね。
 私自身も怪我や病気で何度も死の淵をさまよった経験があるから思うんだが、そういう経験をすれば、限りある命を大切にしようと希望を持つかというと、そんなことはないのである。じゃあ絶望して自暴自棄になるかというと、そうでもない。どちらの場合も、そんな「ありきたりなドラマみたいな心理展開を自分がなぞるなんてこっ恥ずかしいマネ、とてもじゃないが自分自身で耐えられなくてできない」のである。
 つか全世界の難病の人に聞いてみたい。「あなたは親に向かって『どうしてこんなカタワなからだに生んでくれたんだよ』と文句をつけたことがありますか」と。多分、1%もいねえよ、そんなアホは。ドラマってヤツがどれだけ適当に作られてるか分かりますね。
 それなら病気になって何を考えるかというと、自分のことは殆ど考えなくて、医者や看護師に対する文句と悪態だけだったりするのだね(笑)。実際、何十人もの医者にかかってきたが、その8割は藪で無能で、残り2割は「フツー」でしかなかった。私が何度誤診で死にかけたと思ってるのだ。腹立たしさの方が先に立って、自分の残りの人生の短さを憂える余裕なんてありゃしねえよ。
 ま、私の場合は特殊かもしれないが、実際、希望と絶望は常にコインの表と裏で、どっちか一方に傾くってことはないんじゃないのかね。まあそれじゃ首尾一貫したドラマにゃ向かないんだろうけれど。

 続けて『鬼嫁日記』を見ている最中に眠くなったので寝る。いつもの就寝時間よりも2時間ほど早い。疲れてないつもりだったけど、心労はやっぱりあったのかな。

2002年10月18日(金) 今日はノロケじゃないと思う/『プリンセスチュチュ』10AKT.「シンデレラ」/DVD『鬼畜』ほか
2001年10月18日(木) 風邪、続く。気の利いたタイトルなんて思い浮かばねーや/『トライガン・マキシマム』6巻(内藤泰弘)ほか
2000年10月18日(水) オニギリとわらび座とフリカケと/『彼氏彼女の事情』10巻(津田雅美)


2005年10月17日(月) お隣さんがアレなのは分かっちゃいたが/映画『柳生武芸帳』(近衛十四郎主演版)

 小泉総理の靖国参拝がまたまた問題になっているが、スーツ姿で拝殿までで記帳もなし、という「私的参拝」を強調してもやっぱりお隣さんは難癖をつけてくるのである。予想通りではあるけれど。
 「私的参拝であろうとその精神において変わりはない」と言うが、世の中、「人の心が分かる」と称する方は実にたくさんいらっしゃるようで、いつの間にそんなテレパスだらけの世の中になっちまったのかね。私ゃちーとも知らなんだ。
実際にあの人が何を考えているのか、真意なんてものは分かりゃしないし、多分、小泉批判を繰り返してる人たちだって、「分かってやってる」わけじゃなかろう。政治はいつの時代だってどの国だって、他人の意向を忖度しないところから始まるもんである。
 結局、この事態が好転する機会なんて、近々は望めない。なあなあ外交をいつまでも続けたところで、あちらさんはハナからイカレてるんだから、話が通じる見込みなんてありゃしないのだ。かえって、一部の既知外連中がもっと興奮して、テロでも起こして取り締まられれば、運動は自然と沈静化することもありうる。それを期待するしかない、と言うか、そんな形で「犠牲者」が出ないと、何も変わりゃしないというのが、悲しいかな現実というやつなのである。


 イッセー尾形さんのホームページの小倉ワークショップの更新がなかなかないなあと思っていたら、一度書かれた原稿が操作ミスで消去されてしまったとか。ようやく四日目および公演初日の内容がアップされたのだが、ほかの地域のワークショップほどには内容が詳しくない。「優等生のレポートを期待する」旨のことが書かれているのだが、しまった、こんなことならもっと詳しくメモとか取ったりしてまとめておけばよかった、と後悔することしきり。とても参加者投稿できるほどの内容を覚えてはいないのである。
 公演前日、なかなかうまく回らない状況に森田さんが苛立ち、椅子をバンバン叩いて手が丸一日痺れてしまったり、その晩、奥様の前で涙を流されたりとか、我々の不甲斐なさのせいでかなりご心労をおかけしてしまったのだが、断片的にはそういうことを覚えてはいるのだが、いざまとめてレポートを書こうとすれば、首尾一貫しない支離滅裂なものにしかなりそうもない。私はとても「優等生」とは言えないから、やっぱりどなたか優秀な方のレポートがアップされるのを待つしかなさそうである(←こういう遠慮しいなところが森田さんが怒る原因になってたんだけどもね)。


 行ったこともないのにしょっちゅう情報を書いてる福岡市天神のメイドカフェであるが、福岡県警が15日までに、2店に対して、メイドさんの行為が「接待」に当たるとして、風俗営業の許可を得るよう指導したというこりゃまたビックリの展開に。東京の秋葉原のメイドカフェが風営法に引っかかるなんて聞いたことないのになんで福岡だけが?
 事情は別に警察がメイドカフェに目を付けて取り締まりの機会を虎視眈々と狙っていた、というわけではなくて、メイドカフェ側が「うちの商売ってもしかしたら風営法に引っかかる?」と心配して県警に相談しに行ったら、「客の接待をして客に遊興または飲食をさせる営業」として許可の申請をするよう指導されたというのだから、何だかヤブヘビな話なのだが、「いらっしゃいませ、ご主人様♪」って挨拶が既に「接待」になるってことなのかねえ。オムライスにケチャップをかけてあげるなんてサービス、これはもう完璧に「接待」に当たるんだろうな。確かにこの程度でもオタクにとっては天国に上るような心地であろうから、フーゾクじゃないかと言われても反論はできないのかも(んなわけあるか)。
 私は風営法には全然詳しくないので、ふと気になったのだが、となると普通の居酒屋や温泉旅館なんかで、おかみさんや仲居さんがお酒を注いでくれたりするのは、あれも風営法に引っかかってるのか? そういうところに行くのも「フーゾク店に行った」ということになるのか? おさわりバー(死語)の類とは全く違うんじゃないのか?
 何だか今ひとつ納得が行かないものを感じはするが、これで客足が落ちるとか、損害を被る事態にもならないような気がする。行くと決めたら何があろうと行くのがオタクだ(笑)。ちょっとばかしミソをつけられた印象ではあるが、今後も逞しく商売繁盛であれば問題はないんだろうね。
 私も、こんなことなら風俗指定を受ける前に行っときゃよかった、と思わないでもないが(笑)、前にも書いた通り「メイドさん萌え~」な属性は私にはなくて、こういう店が求められる文化的背景に興味があるだけなので、実際に行ってオムライスにどんな字を書いてもらうか求められたら、何を書いてもらうか分からずに困ってしまっただろう。どうせ福岡のオタクでブログやサイトを開いてないやつの方が少なかろうから、検索かければ「今日もメイドカフェ通い」なんてレポートは腐るほどヒットするだろう。そういう「濃ゆい」のを読むだけで充分お腹いっぱいにはなるから、無理に足を運ばなくても充分(笑)。


 仕事が終わって、しげと父のマンションまで出かけて行く。
 「給料日前だし、腹も減っとろう」と言われたので、素直に奢られに行くのである(笑)。なんだかんだで父と会う機会が増えてきているが、父に言わせれば「思い出作り」なのだそうだ。「最後に頼れるのは血の繋がった身内だ」なんてことも言うのだが、血が繋がっていても心が繋がってない例の方が世間には多いというのが現実である。
 ダイヤモンドシティの回転寿司屋で、たらふく食事。昨日もこの店に来たのだが、待ち客が20人以上いたので、あきらめて別の店に入ったのである。以前はこの店、そんなに混んでいなかったのに、いつの間にかダイヤモンドシティでも一番人気の店になっていた。理由はよく分からないのだが、テレビや雑誌で紹介されたとか、そんなことかもしれない。
 私と父は流れてくる寿司を目ざとく見つけては食べるのだが、しげは好みのネタが来ずにモジモジしている。
 「好きなのが来よらんとね?」と父が聞くと、コクン、と頷くので、「注文ばすればいいとたい」と言って、呼び出しボタンを押した。しげが店員さんに「穴子の一本握り」を注文するのを見て、父がまた「一つでいい?」と聞くと、「じゃあ二つ」と訂正する。既にそれは流れていたのを食べているのだが、しげは好きなネタの数が少ないので、気がつくと穴子と穴子とサーモンと穴子とサーモンと赤身とサーモンと穴子と穴子と赤身とサーモンと穴子と、同じものばかりを食べることになるのである。で、結局この日は穴子を五、六個は食べたみたいである。
 以前、上京した時も、帰りの土産に穴子寿司を丸ごと一本買って行って、殆ど全部一人で食いつくしたことがあったが、多分しげは世界で三本の指に入る「穴子フリーク」であろう。どうせなら芸名も「穴子」にしてしまえばよかったのに。


 福岡ソフトバンクホークスと千葉ロッテマリーンズのプレーオフ第五戦、2―3でホークス敗退。最初リードしていたので、守りに入った途端に負けたって感じ。こういうときは「負けてもいいから攻めていけばいい」ってのがセオリーだし、本当の野球ファンなら結果論よりもプレー自体を盛り上げてくれることを期待すると思うので、ホークスは最後に来て自ら墓穴を掘ったって感じである。
 解説の野村克也が「ホークスは引き分けでもいいんですからね」とか「ロッテが逆転するには、強攻策よりはバントでしょう」とか言ってたが、ことごとく外れていた。こういう口だけさんが楽天の監督になってもチームはたいしてよくもならんと思うが、なぜか妙に信頼されてるよね、この人。


 録画しておいたBS映画『柳生武芸帳』を見る。
 近衛十四郎の代表シリーズの一作目だが、この役者さんが時代劇史上、最高の剣戟役者だってこともだんだんと忘れ去られて行ってるんだよなあ。マトモなチャンバラ時代劇ってのはホント、昭和40年代で死滅してしまつてるんだよね。
この映画についても以前日記に感想を書いた気はするが、見返してみていくつか発見したこともあったので、覚書程度のことを書いておくことにする。
 全11作が作られた近衛十四郎の「十兵衛」シリーズだが、五味康祐の原作小説をちゃんと映画化したのは実はこの一作だけだということだ。ほかの作品は、タイトルに『柳生武芸帳』と冠してはいるのだけれど、殆どが設定を借りただけのオリジナルである。何たって十兵衛のライバルの山田浮月斎(原健策)が、この一作目で死んでしまうのだ。完結してるやん(笑)。だいたい原作自体が未完に終わってしまっていて(五味康祐の才能が枯渇したせいである)、柳生武芸帳の謎もほったらかしになっちゃってるのだから、映画はオリジナルの道を辿るほかはなかったのである。
 昔、テレビで見た時には画面の両端がトリミングされている「不完全版」だったから、今回初めてシネマスコープサイズで見ることができたのだが、このワイド画面を駆使してもなお、カメラは近衛十四郎の殺陣を追い切れていない。つまりそれだけ殺陣が激しくかつ超速度のものであったということであるが、忍者ものを意識したせいだろう、部分的に特撮を使っているのはいただけない。殺陣は殺陣のみで画面にその迫力を定着させてこそ価値があるというものだ。
 今回のNHKBS2での放映は、全シリーズの放送ではないが、シリーズ最高傑作のみならずチャンバラ映画史上屈指の傑作との誉れも高い『十兵衛暗殺剣』も放送予定である。これもレターボックスサイズ(16:9)での放送を見るのは初めてになるので、ようやくその真価を確認できるというものだ。いや、ホントは劇場で見るのが一番だってことは分かってるんだけどね。

2002年10月17日(木) フェチじゃないモン!/『東京少年物語』(羅川真里茂)/『冷暗所保管』(ナンシー関)ほか
2001年10月17日(水) 踊る私と寝る私/映画『十兵衛暗殺剣』/『ザッツ・ハリウッド』ほか
2000年10月17日(火) 博多弁とベターハーフと女好きな女と/映画『知らなすぎた男』


2005年10月16日(日) 九州国立博物館、開館!

 昨晩、ようやく寝付けたと思ったら、真夜中にいきなりアタマにガツン、と衝撃を感じて飛び起きる。私はしげと父に挟まれて真ん中に寝ていたのだが、父が寝返りを打って、その時振り上げた拳骨で私の頭を殴ったのである。
 父と一緒に寝ることなんて滅多にないことなんで、こんなに寝相が悪いとは思わなかった。仕方なく、少し離れて寝よう、としげの方に体を寄せたら、今度はそっちの方からもガツン、とやられた。しげも寝相はかなり悪いのである。
 両方から殴られてはたまらない。仕方がないのでもう起きることにして、玄関先まで出て、本を読んで朝まで過ごす。起こされたのが午前三時なので、朝風呂が開く六時まで、三時間、ゆっくり本が読めた。……って、おりゃー、眠りたかったんだよ。

 朝風呂でようやく展望風呂もお湯が出ている。
 六時ジャストに入ったのに、一番風呂かと思ったらもう二人もどこぞの爺ちゃんが談笑していた。ものの五分もしないうちにドヤドヤとお客さんがやってくる。昨日はガラガラだったのにどうしたんだろうと思ったのだが、要するに、父と同じで、「酒飲んで寝る前に風呂に入っていた」のだろう。酒飲みの心理は分からない、というよりは温泉宿に泊まりに来て、全く飲まない私のような客の方が珍しいのだよね。
 父もやってきて、「早かったな」と言うので、「寝てないよ。夕べ、殴られて起こされたから」と言ったら、「誰にや?」なんて暢気なことを言ってくれる。これだからヨッパライはなあ。
 「しげは起きた?」
 「まだ寝とるぞ」
 しげも11時には寝てたはずだから、7時間は寝ている計算になるが、もちろんそんなのはしげにとっては「寝不足」なのである。けれど、今日行く予定の九州国立博物館は、今日が一般公開初日である。どれだけ人が集まるか見当がつかないので、早めに出かける予定なのだ。そろそろ起きてもらわなければ困る。
 ちょっと早めに風呂を切り上げて、部屋に戻る。布団をとっちらかしてカニみたいに足を広げてだらしなく寝ているしげの姿がそこにあったが、これを父に見られているのだよなあ。普通、そういうのが恥ずかしくて一番早く起きてもよさそうなものだが。

 ようやく起きた寝ぼけ眼のしげと父と、食堂で朝食。
 鮭の切り身、海苔、明太子、温泉卵、湯豆腐ほか。朝からお腹いっぱいである。
 給仕のおばさんから「今日は九国に行かれるんですか?」と聞かれたので、「ええ、そうです」と答えたら、フロントで前売券を売っている、と教えてくれた。「何百円か安くなるはずですよ」ということなので、出かける時に三人分買い求める。
 「先に前売り券を買っとけば、そんなに並ばないですむと思うよ」と言うと、父は「お前が聞いてくれてよかったな」と言って笑った。でも実は私の考えは、「現地に行って行列ができていて、「こんなに並んどうとなら、もう帰ろう」と父が言い出しやしないかと、それが心配だったからである。35年前、大阪万博で月の石を見られなかった時の恨みを私はまだ忘れてはいないのだ(笑)。


 フロントでは、駐車場の場所なども教えてもらった。九国の駐車場自体はバス専用で、一般の車は停められないそうだ。知らずに行ったら、門前払いを食らうところだった。まずは大宰府駅前の駐車場に停めて、それから参道を通って、天満宮を突っ切って、更に連絡トンネルを潜って行かなきゃならないらしい。駐車場からも20分かかるそうである。これは是が非でも参道でお客さんにオカネを落としていってもらおうって魂胆なんだろうか。
 7時45分に出発、10分ほどで大宰府駅に到着。それから九国までは確かに20分かかった。
 連絡トンネルってのも歩かなきゃならないのかと思ったのだが、これはエスカレーターと動く歩道で繋いでいた。三人で歩道に乗っていると、後ろから女の人が走ってきて、右側にいた父に向かって、「右側は空けておくものですよ!」と怒鳴った。父は一応避けはしたが、走って行った女の人の背中に「そんな決まりはないとですよ!」と怒鳴り返した。
 「あれ、マスコミの人だよ」と私が言うと、「ああ、それで急いどったとか」と頷いた。歩道の横にだって道はあるのだから、急ぐのならそこを走ればいいのに、わざわざトシヨリをどかしてまで先に行きたがるような非常識な(しかも開場一時間も前に)人間なんて、マスコミの人間以外にいるわきゃないのである(案の定、あとで、場内で取材してる姿を見かけた)。
 博物館に到着してみると、開館までにはまだ一時間以上あるのに、既に50人ほどが並んでいた。先頭は小学生の三人組である。父がそれを見て「あれはヤラセやな。誰が小学生で博物館とかに興味があるもんか」と決め付ける。その可能性もないわけではないが、小学生でも美術品とかに興味のある子供がいてもおかしかないと思うけどね。

 しげがすっかり退屈して、かと言って父がいる手前、「帰ろう」とも言い出せずにぐったりして来たころにようやく開場。まずは三階の開館記念特別展示「美の国 日本」展に行く。オープニングセレモニーで、あちらこちらのお偉いさんが10人ほど、寄ってたかってテープカット。例の三人組の坊ちゃんたちが「一番乗り」ということでインタビューされて中に入ったあと、ようやく入れてもらえる。
なんたって何百点という展示物があるのだから、内容を詳しく書いているとキリがない。ごくかいつまんで紹介することにする。
 二部構成に分かれた第一部は「アジア古代王朝の精華」。正倉院の御物や「漢委奴國王」の金印も見られる。近年発見された、阿部仲麻呂と同時期に唐に渡って客死した日本人「井真成」の墓誌もある。このくらいの漢文なら何とか読めるなあと一所懸命読んでいたら、隣に現代語訳の説明の看板が立っていたのであった(笑)。
 第二部は「大航海時代の日本」。
 室町・安土桃山時代の屏風絵や武士の兜・鎧・具足、また武士たちの肖像画など。父はやはり道具箱に描かれた山水や、屏風絵の風俗、花鳥風月などに興味を惹かれている。私の祖父は沈金師で、父は本当はその跡を継ぎたかったのだがそれを果たせなかった思いが、今でもこういう工芸品、美術品への憧れと拘りを抱かせているのである。
 「お前の爺ちゃんはこういう展覧会があると必ず来て、絵を見て行きよったもんなあ。それで家に帰ったら、早速、絵を描いてみるとやけど、それが真似にならんで、ちゃんと爺ちゃんの絵になるとたい」 
 「爺ちゃんの絵は凄かったもん。ここにある絵のいくつかには負けとらんよ」
 「跡ば継いだお前の伯父さんは十年しか続かんやったもんなあ。伯父さんには爺ちゃんのような格調はなかったけん」
 身贔屓でなく、祖父の絵は、そして家具・調度に刻まれた金箔の鷹や、虎や、山水は、魂を与えられ、生きて動き出すかのような迫力と精気と、獰猛と慈愛とに満ちていた。残念ながらその血は父と私に伝わってはくれなかったようだが。

客はどんどん増えてきていて、一つの展示物をじっくり見ようにもどんどん押されていくような感じになる。最後の展示は信長や秀吉ほかの戦国武将たちの肖像画だったが、立ち止まっているとこちらの方が迷惑をかけているような感じになる。予定より早めに次の会場に移ったが、それでも一時間以上は経っていた。
四階の「文化交流展示室」。旧石器時代から近世までの美術品、博物資料の数々を展示している。
でもその中で一番印象に残ったのは、出入り口にあった「水城のジオラマ」の中に、誰がイタズラしたのか、「トラクターのミニチュア」が置かれてあったことだ。ガラスケースの中に密閉されているから、やったのは関係者以外にはいない。楽しいことをする人もいるものだが、誰かが気が付いて撤去しないかどうかが心配である。九国に行かる方は御早めに。どこにそれがあるか探してみるのも一興だろう。
世界地図を見て、地名が全て漢字で書いてあるので、学生さんらしき人二人が一所懸命解読しようとするのだが歯が立たない。「……てい・あ? どこだこれ?」なんて言っている。「あのね、それはね、『応帝亜』と書いて『インディア』と読むんだよ」とよっぽど言ってやろうかと思ったけどやめた。だって「分かった、メキシコだ!」とか言いやがるんだもん。

このころになると、しげは疲れ果てて会場内の椅子に座りこんでいる。そろそろ退散しないと辛かろうな、と思って、蒔絵の壷に勝手に触って係員さんからたしなめられている父を見つけて、一階まで降りる。沖ノ島の映画もシアターで上映していたのだが、人も何十人も並んでいたし、それは涙を飲んであきらめる。これは次回のお楽しみ、ということにしておこう。
一階は「あじっぱ」という体験ゾーン。世界各国のパズルをやったり、ドラを鳴らしたり、壷に触ってみたり、民族衣装に着替えたりすることができる。お子さん連れのお客さんは、子供をここで遊ばせておいて、自分は会場を見て回れる、というそういうコンセプトだろうか。
 ここで偶然、職場の同僚がボランティアで働いているのを見つけて驚く。軽く挨拶を交わしたが、休日もこうして働いているとは、この方、いったいいつ休んでいるのだろうか。

 会場を出て天満宮にお参り。そのあと参道の蕎麦屋で蕎麦と梅が枝餅を食べて帰る。
 父は天神に用事があるというので、帰りはちょっと遠回り。「三越で北海道物産展があるって言うけん、覗いてみる」ということなので、三越前で父を降ろして帰宅。
 ところが、じきに父から電話が入ってきた。
「物産展があると思うとったのは勘違いやった。家に帰って片付けしよったばってん、やる気が失せたけん、一緒に食事せんや」。
奢られ飯は遠慮しない。ダイヤモンドシティのパンのバイキングの店でたらふくパンを食った。
 
 
 帰宅して、録画しといたアニメや特撮を見るが、そこまで感想書いてたら時間がいくらあっても足りないのでもうホントに簡単にヒトコトだけ。。
『BLOOD+』第2話「魔法の言葉」。
 普通のアニメなんだけど、I.Gが作ったと思うとクオリティが低いように感じてしまう。
『仮面ライダー響鬼』三十六之巻「飢える朱鬼」
 あきらはあきらのままでイメージがあまり変わってない。よかったよかった。
『おジャ魔女どれみ な・い・しょ』第2話「N.YのMAHO堂 ~ももこのないしょ~」
 メアリーはアメリカのたまきさん♪
『地獄少女』第2話「魅入られた少女」。
 よくある話だけれど絵はきれい。ノトマミ、こんな声も出せるんだなあ。

2002年10月16日(水) 合宿落穂拾い・その他盛り沢山/『ナジカ電撃作戦』2巻(田代琢也)
2001年10月16日(火) ココロを濡らす雨……詩人だなあ(どこが)/『エンジェル・ハート』1巻(北条司)ほか
2000年10月16日(月) ファジー理論とエスパーとサイボーグと/アニメ『犬夜叉』『人造人間キカイダー』第一話ほか


2005年10月15日(土) 温泉だ♪温泉だ♪/『ウルトラマンマックス』第16話/『野ブタ。をプロデュース』produce1

 『みのもんたのサタデーずばッと』に森喜朗前首相が出演、今後の政局について語ってたんだけど、例の小泉チルドレンの杉村大蔵議員のことに触れて「自民党結党50周年の年にね、50年心血注いで一緒にやってきた議員さんたちとね、ああいうのが一緒にされちゃうってのはどうかとね」とかなんとか言っている。50年やろうが1年生だろうが、杉村さんと当の「失言首相」森さんとの間に人間的な格差があまりあるようには感じられないのは私だけだろうか。
 みのもんたの「まさか35番目で当選するとは思ってなかったんでしょ?」という質問に「そりゃそうですよ」と即答するんだから全く真っ正直な人である。
 「一般から候補を公募するってことはいいことだと思うんですよ。けどね、私も経験あるけどね、レポートだけ見て面接もしないで採用したらしいんですよ。解散選挙ってなって、とてもそんな暇なかったんだから」
 えーっと、それって自ら「いい加減な選び方してた」ってこと告白してるだけで、何の言い訳にもなってないんですけど。馬鹿が馬鹿を候補に選んてだという、実に平仄が合ってる話で、杉村議員に対して「こんなのを議員にしちゃっていいのか」とか言ってる連中は、自分もかつて(そして今でも)そう言われたことをすっかり忘れてしまっているのだろう。
 小泉さんがまだその手の失言をしてないのは、なんだかんだ言っても、あの人が一番、大衆意識を読むのに長けてるって人なんだろうね。いいことなのか悪いことなのかは知らんけどさ。


 『ウルトラマンマックス』第16話「わたしはだあれ?」(宇宙化猫タマ・ミケ・クロ登場)。
 先週に引き続き、NAKA雅MURA脚本・三池崇史監督作品。
 これがまた、ギャグ編と見せかけながら、最後はきちんとヒーローもののツボを抑えた演出で、さわやかな感動を残してくれる傑作になっていたのでオドロキ。
 タイトルが前作同様、『ウルトラセブン』から取られていて、「あなたはだあれ?」(フック星人登場)のモジリになっているから、やはり旧作へのオマージュとしての思いが託されているのだろう。『セブン』は小林昭二が「見知らぬ人」になって「あなたはだあれ?」と言われてしまう話だったが、今回は登場人物が全員「わたしはだあれ? ここはどこ?」となってしまう話(笑)。

 宇宙から飛来した三個の隕石。その直後から、人々の記憶力が激しく低下するようになった。団地の主婦は、今、自分が何をしようとしていたのかを忘れ、キャスターは原稿の漢字が読めなくなり、犬は「お手」も「待て」も分からなくなり、九官鳥は言葉を忘れた。
 加速度的に記憶喪失が蔓延する中、三体の怪獣が出現する。宇宙化け猫のタマ・ミケ・クロであった。一連の事件は怪獣が有機生命の記憶を乱す波動を撒き散らしているためであった。
 DASHは戦闘機ダッシュバードで出動しようとしたが、途端に操縦の仕方を忘れてしまう。コバはミサイルを乱発して基地を破壊し、隊長もスイッチを押し間違えて戦闘機でくるくる回っている。トミオカ長官とヨシナガ教授もなぜか出撃して、くるくる回って笑っている。アンドロイドのエリー以外は、みんな役立たずだ。
 あろうことかカイトまで変身の仕方を忘れて、ウルトラマンマックスに変身できない……。

 前回、東京を破壊しつくしたのに対して、今回は一種の精神攻撃。
 みんなが次々に記憶をなくしていく冒頭は、殆ど特撮を使わず、破壊がないにもかかわらず、短いカットをテンポよく繋いで侵略のイメージを明確に伝える描写力は実に見事。
 一斉にみんなが記憶を無くしてしまうなんてアイデアはよくあるじゃないかとかいう批判もあるかもしれないけれど、要は「見せ方」なんでね。九官鳥だけがなんで人形なんだと思っていたら、これがちゃんとオチに効いてくるのも上手かった(笑)。
 三体の化け猫怪獣の名前がタマ・ミケ・クロというのも人を食っていて楽しい。毎回、怪獣のネーミングはDASHがやってるんだろうが、多分、記憶力が減退していたので、いい加減な感覚で付けたのだろう(笑)。

 役者さんたちのボケ演技はもう抱腹絶倒ものである。完全に記憶が消失してしまうのではなくて、中途半端に消えるので「何かをしようとしてそれが喉まで出かかってるんだけれども思い出せないもどかしさ」が笑いを誘う。
 たとえば、カイトがマックスパークをどこに装着しようか迷って(それでマックスに変身しなきゃならないということは覚えているのである)、頭に付けたり、胸に付けたり、足の裏にまでくっつけようとしたりするのだ。いくらなんでもそりゃありえねーって(笑)。
 ようやく「偶然」変身できたあとも、どうやってマクシウムカノンを発すればいいか分からず、変なポーズばかり取りまくる。「命!」をやってみせたのには、「お前は『命』のポーズだけは忘れんのか!」と、画面に向かって突っ込みたくなった(笑)。
 しかもこの「中途半端さ」が実は後半の伏線になっていたのだから脚本の上手さをこれは賞賛しなければならないだろう。
 旧ウルトラファンには、トミオカ長官が「カレーライスを食ってる最中に呼び出される」ギャグに思わずニヤリとすると思う。
 これも若い人には説明が必要になるのだが、『ウルトラマン』第34話「空の贈り物」(スカイドン登場)で、ハヤタがやっぱりカレー食ってる最中に出動して、ベータカプセルと間違えてスプーンを挙げてしまうというギャグがあるのだ。
 今回、黒部進さんはスプーンと間違えてカレー皿の方を挙げてしまう(笑)。当時、こういう「ギャグ編」を撮ったことについて、監督を担当した実相寺昭雄氏は、脚本家の金城哲夫氏から文句を言われたそうだが、『ウルトラQ』のころからたまにある実相寺監督や中川晴之助監督のこういうギャグ編を、視聴者の子供たちは楽しみにしていたのである。
 つまり今回は「こんなウルトラもあっていいじゃない」っていう三池監督のメッセージでもあったわけだね。シリーズものってのは回を重ねるたびにどうしても動脈硬化を起こしてしまうものだから、こういうぶっ飛んだ異色エピソードがあった方がよいのである。

 みんながイカレていく中、何とかマトモだったのはミズキで、完全にボケと化したヒジカタ隊長に突っ込みを入れるのだが、だからと言って役に立つわけではない。
 唯一便りになるのが、アンドロイドのエリー。ミケたちの波動は、当然キカイであるエリーには効果がない。エリーは何とか事態を好転させようと孤軍奮闘を強いられるのだが、逆にそのおかげで今話は、彼女が最も魅力的に描かれたエピソードになった。
 感情のないキャラクターに少しずつ感情が芽生えていく様子を描くのは定番であるが、これまでのエピソードではそれを効果的に描いていたとは言えなかった。
 それが今回は、表情こそは鉄面皮の無表情なままだが、隊員たちのテイタラクに「もう戻ってこないでください」と諦観し、「ええかげんにせいや」と激怒し(誰が関西弁をインプットしたんやねん。「こんなこともあろうかと」、自分でデータ収集してたんかな)、マックスに「守りたい仲間のことだけを思い出して」と、一番大切な「心」を訴える。
 これだけの「感情」を積み重ねているから、最後の「涙」と、「笑顔」が生きるのだ(この笑顔をさりげなくしか見せないのもイイよねえ)。何だか今回で一気に満島ひかりのファンになっちゃったぞ(笑)。
 もっともオタクにはM男君も多いから、「クール・ビューティーにヒドいこと言われたい」という歪んだファンを狙った演出なのかもしれない(笑)。いや、よしながふみの『フラワー・オブ・ハウス』にもそんなキャラが出てきてたもので。

 「中途半端な記憶喪失」という設定であるからこそ、マックスが「仲間を守る心」を思い出しても決して不自然ではない。ご都合主義にだって、その「都合」を納得させられるだけの基本設定は必要なのだ。
 マックスが「新必殺技」を編み出したのも、ほかの技を思い出せずにやってのけた、やけのやんぱちの「火事場の馬鹿力」のようなものだし、一回こっきりで忘れちゃうというのも平仄が合っている。何よりその清々しさ、潔さがヒーローらしくていい。
 最近の辛気臭いアニメや特撮ドラマにありがちな本当の正義はどっちにあるかとかいう余計なゴタクは必要ねえ、そんなものを考えるのは大人になってからでいいじゃないか、今、子供たちが考えなきゃならないことは、「仲間のために勇気を奮い起こす」その一つだけでいい。まるで、三池監督はそう言っているようである。しかもそれは決して子供に媚びた童心主義の産物ではないのだ。
 三池監督作品がこの二作で終わるのは惜しい。ぜひとも後半シリーズでの再登板を期待したい。つーかほかの脚本家に監督、予算がねーのかもしれないけど、それでもこれくらいのものは作れよな。


 日本映画専門チャンネルで録画しておいた映画『ピーマン80』を見る。
 『8時だョ!全員集合』のプロデューサー、故・居作昌果の監督作で、劇場版『エースをねらえ!』の併映(つか添え物)作品だったんだけど、当時はなぜだか長編アニメに実写作品を組み合わせる形式が多かった。興行側がアニメだけじゃ売れないと見てたんだろうねえ。でも、集客力のない実写作品を付けたって、かえって足を引っ張ることにしかならないというのは、たとえば『ルパン三世カリオストロの城』に『Mr.BOO!インベーダー作戦』を付けるなんてデタラメな例のほか、枚挙に暇がない。
 実際、ずうとるびの新井くんと谷隼人の怪盗モノというコンセプトは名ばかりで、ともかくドリフレベルのしょーもないギャグがだらだらと流れるばかりで、劇場でこれを見せられたら拷問でしかない。こんな珍品はその「つまらなさ」をかえって楽しむという被虐的な精神が必要になるであろう(笑)。まあなんだね、バラエティのギャグをそのまま映画に乗せてもつまんないということがわかってないんだね。一応、新井くんも頑張ってはいるのだけれど、手にパンを持って銃のように構えて「パンパンパン!」とか、ピンクレディーに「借金返して!」と迫られて、逃げるついでにブラジャーを掏ってくるとか、美女に見とれてプールに落ちるとか、ビア樽のフタを取ったら勢いよく噴出してビアホールがビールまみれになるとか、「吉野家の牛丼はいつまでも八十年なの?」とか、ここまでつまんないギャグを百連発くらいした例は、後は『金田一耕介の冒険』くらいしか私は知らない(笑)。もちろん私はこういうのが大好きである。
 多彩なチョイ役ゲストは監督の人脈だろうけれど、『クイズダービー』関連の人が多かったのはちょっとした発見。竹下景子、はらたいら、篠沢教授、楳図かずおといった解答者は当然のことながら、脚本家で声優の故・井上瑤さんが顔出し出演していたのにはビックリ。昔見た時にはちっとも気がつかなかった。超珍品でビデオ化も全くされてないしテレビ放送も殆どなかったから、これを見逃したら二度と見られないだろう。まあ、普通の映画ファンはこんなの見なくてもいいもんなんだけど。
 しげは途中まで見て飽きてしまいました(笑)。


 そうこうしているうちに時間が迫ってきたので、父を店まで迎えに行く。
 父は仕事を早上がり、六時ちょっと過ぎに二日市に向かう。いつもは三十分ちょっとで着く距離なのだけれど、渋滞に引っかかって、目的地の「大観荘」までたどり着くのに、結局まる一時間かかった。特に大野城あたりでやたら信号に引っかかってしまうのには往生した。しげが「一時間半かかるよ」と嘆いていたのも案外、間違いではなかったようだ。
 でもほぼ一本道をナビされなきゃ辿りつく自信がないというのはやっぱりよくわからない。
 仲居さんに部屋まで案内されて食事は七時半だと告げられる。父は「酒飲んだらあとは眠くなるから」と、先に展望風呂に入りに行く。私としげは浴衣に着替える。
 記念に写真など撮るが、最近めつきり太ったしげが浴衣を着ると、まるっきり相撲取りである。
 料理がじきに運ばれてきたので、父を呼びに行こうとしたら、烏の行水で上がってきた。全くせっかちなことである。
 料理はそれほど高くない宿泊料のわりにはなかなか豪勢。

 先付  酒煎り松茸・菊菜・水菜・菊花和え
 椀   清汁仕立・甘海老巻・松葉独活・青梗菜・柚子
 作り  刺身盛り合わせ・土佐醤油
 八寸  青唐ちりめん山椒和え・尾倉紅葉和え・鮭生寿司・酒盗玉子・銀杏松葉刺し・公孫樹丸十
 煮物  紅葉鯛吉野煮・大根・人参・キャベツ・煮豆
 蒸し物 栗蒸しおこわ・しめじ・紅葉麩・三つ葉・銀餡
 洋皿  牛モモの蒸し焼・山芋・秋豆・人参・くるみ・大根卸しのソース
 揚げ物 帆立と舞茸俵揚げ・稲穂・アスパラ・味噌だれ
 酢の物 蟹・穴子金紙巻・蕪あちゃら漬・黄味噌
 お食事 白御飯・香の物
 デザート フルーツとケーキ盛り合わせ

 「八寸」というのが何だかよく分からなかったのだが、「本来は容器の名で、八寸(約24cm)四方の器のことで、懐石料理で2~3品の料理を盛った酒の肴を指す」だそうである。
 料理に舌鼓を打ったあと展望風呂へ。と言っても外が見えるわけではなくて、風呂の窓の向こうに山水が設えてあるのである。何と私以外にはお客さんが誰もいない。もう8時を過ぎていて時間が遅かったせいがあるのかもしれないが、温泉宿に客がいないというのはちょっと信じられない風景である。ゆったりできたのはいいのだが、お湯がいくら出しても出てこない。体を洗うのはあきらめて浸かるだけにする。


 部屋に戻ると寝床が敷かれていて、父はもう高いびきだった。
 テレビで『野ブタ。をプロデュース』produce1を見る。
白岩玄原作の文藝賞受賞作の連続ドラマ化ということだけれど、小説の方は未読。作者がかなり若いこともあって、あまり誉められてはいないようだが、タイトルの付け方はなかなかのもんじゃなかろうか。
 ストーリーは、クラスの苛められっ子の転校生を見かねた男子二人が、何とか彼女を「プロデュース」することで勇気を持たせようってお話。と言っても、原作ではプロデュース対象の「野ブタ」の性別が男の子で、渾名どおりデブなのを、ドラマでは女の子に変更している。
 原作を読んでないのに言い切っちゃうのも何なんだが、この変更はドラマとしては正解ではないだろうか。ミもフタもない言い方であるが、ビジュアルとしてデブな男の子より、ちょっと暗めだけれども実は美少女をプロデュースする方が、視聴者も一緒になって応援のしがいがあるってものである。
 でも、正直、そんなに期待してなかった、というよりはアイドルを表に立てただけのキレイゴトなお話ではないかと思ってたんだが、必ずしもそう断定もできない雰囲気である。ギャグとシリアスのバランスがよくって、かなり「手応え」がいいのだ。ジェイコブズの「猿の手」(もちろん本物ではない)をモチーフに使っているアイデアも悪くない。
 主役の亀梨和也くんと山下智久くんはとりあえずソツなくやってる感じだけれども、意外にもすごくよかったのが信太ならぬ信子を演じた堀北真希ちゃんだった。
 『銭形舞』や『逆境ナイン』を見ていた時には、ちょっとこの子はアイドルとしても役者としても伸びていくのは苦しいかなと感じていたのだけれども、いじめられっ子たちに追いかけられ、追いつめられ、水をかけられ、突き飛ばされ、それでも助けも求められず、反抗もできず、ひたすら暗く、落ち込み、自虐の言葉を吐き続ける。
 しかし、その心が安穏なはずもなく、「猿の手」を手に入れれば、呪いの言葉を唱えることになる。いじめっ子の首謀格の女の子の死を願うのだ。彼女の目はいつも垂らした前髪に見え隠れしていて表情がよく分からない。その「暗さ」が苛められの原因にもなっている。しかしその陰の向こうの目は、恐らく、憎しみの光で妖しく輝いているのだろう。そううかがわせるほどに、彼女の呪いの声は恐ろしいのだ。
 しかし、彼女を支えようとする男の子二人の励ましに、やがて彼女は呪いを取り消してくれと「猿の手」に願うことになる。その時のうって変わった穏やかで優しい、慈愛の声。ああ、こんな振幅の激しい演技のできる子だったんだなあ、と思わず彼女に見入ってしまった。
 この「プロデュース」が成功するかどうかは分からない。ラストの「人間の悪意との戦い」を示唆するナレーションを聞くと、「まさかバッドエンドなの?」と気に掛かりはする。けれど、最近の新番組ドラマの中でも、第一回だけの比較だとこれに一番惹かれるものを感じるのだ。ともかくイチオシ。来週も真希ちゃんがあまり苛められないことを祈りながらチャンネルを合わせることになるだろう。
 あああ、録画仕掛けて来りゃよかった。


 たらふく食って眠気が来たのか、私もじきに寝る。
 ことにしたかったのだが、父としげのダブルイビキに挟まれて、なかなか寝付けなかったのであった。明日は早起きして九州国立博物館に行かねばならないというのに。

2002年10月15日(火) トンデモ傷つきブリッコの世界/ドラマ『鬼畜』/『辣韮の皮』2巻(阿部川キネコ)/『ななか6/17』8巻(八神健)
2001年10月15日(月) カチカチ山の……/ドラマ『着ながし奉行』
2000年10月15日(日) ステーキとモーレツとSFミステリと/『海底密室』(三雲岳斗)ほか


2005年10月14日(金) さよならカトウ君/NHKドラマ『慶次郎縁側日記2』第2回「正直者」

 さて、その後のカトウ君であるが、しげが「ブログ消してるけど、どうするの?」とメールを送ったにもかかわらず返事がない。こちらから連絡を入れても反応がないので、しようがなく、しげは其ノ他君経由で連絡を取ってもらうようにしたそうなのだが、やっぱり音沙汰はないようである。
 だもんで、劇団ホームページからもカトウ君のページは削除されてしまったし、よしひとさんもリンクを外してしまった。私ももうここまで来たらしょうがないかなと思ってリンクを削除した。これ以上、こちらがカトウ君のことを気にしているようなそぶりを見せると、彼はまたぞろ我田引水的妄想フィールドを展開して、「そんなに俺が必要か」なんてつけあがりかねないので、このへんでアプローチをするのもやめた方がよかろうと判断したのである。自分で決断できないやつを気にかけてやったところで、こちらの体力と気力が無駄に消費されるだけだ。
 劇団を辞めるなら辞めるで、もともとうちは「出入り自由」なのでそう言えばよいだけのことだ。こちらも別に引きとめるつもりはないのだが、多分「引き止められない」ことが本人にも分かっていて、そのことを自覚するのが辛いので、「なし崩し的にいなくなってしまおう」という姑息な手段に出たのだろう。「自分の意志で切る」ことができないので「切られた」とこちらに責任転嫁したいのである。マンガキャラみたいにヒレツだが、まあ、人生の参考にしてるのがマンガとアニメと特撮しかないやつだからしょうがないのかもしれない。
 何だかここまで情けないと、怒るよりも先に哀れになってくる。誰かに似てるよなあ、カトウ君って、と思ったら、『ちびまる子ちゃん』の「藤木君」にそっくりなんだと気がついた。自分の卑怯さに落ち込んですぐに永沢君に愚痴るのだが、それも無意識に同情を買うためのポーズだったりする。そういうところを永沢君に見透かされているのだが、周囲に「僕のことを構ってよ」オーラを発しているところまでそっくりである。
 まあ、藤木君タイプの人間には永沢君タイプの人間がトモダチとしてはちょうどよかろうから、そういうトモダチを探していただければよかろうかと思う。ただ、男ならばともかくも、世の中に永沢君タイプの女の子がいるかどうかは定かではないが。


 昨日、寝が足りなかったせいで、終日、軽い頭痛。
 朝方も少し寝過ごした。目は覚めていたけれども、体が動かせなかったのである。どうにか遅刻せずに出勤しはしたものの、今ひとつ調子が乗らない。
少しばかり頑張って一仕事片付けて、早引けする。迎えに来てくれるようにしげに連絡をつけたが、「早く帰れるの? わーい♪」なんて言って喜んでやがる。
 早く帰れるんじゃなくて、疲れて早く帰るの。そんでもってそりゃお前の夜泣きのせいなんだって。情緒不安定なヤツとくらしてるとこれだからなあ。


 NHKドラマ『慶次郎縁側日記2』第2回「正直者」。
 話はいきなり前回の一年後。皐月(安達祐実)はもう立派な森口家のご新造さんである(関係ないが、「新造」くらいちゃんと漢字変換してくれよ。「しんぞう」じゃないんだよ「しんぞ」だよ)。ところが夫の晃之助(比留間由哲)は、付け届けの類を一切受け取らず、正直、森口家の賄い方はかなり苦しい。皐月は慶次郎(高橋英樹)に何か仔細があるのではないかと相談する。
 当の晃之助は、賭場の使いっ走りでかっぱらいを繰り返す若者の直太(浅利陽介)を、まっとうな道に戻そうと説得していた。以前の直太はアサリの剥き身売りで、釣り銭を誤魔化さない正直者と評判だったのだ。なぜ直太は悪の道に転落したのか、そのきっかけは実は慶次郎にあった。
 今回も前回に引き続き、「仏の慶次郎」の「仏心」がかえって仇なす物語。と言っても、そもそも「馬鹿正直」な直太が、勝手に慶次郎のことを頼みに思って裏切られたと思い込んだだけの話だから、慶次郎に責任なんてありゃしないのだが、慶次郎だって「正直者」だからそこで悩んでしまう。全く、正直者だらけの世の中というものは始末に悪い。実際、だいたいにおいて「誰かのため」に何かをすることは殆ど裏目に出るものだ。それが分かっているのにあえて「正直者」であろうとするのは、失敗しても「正直だったんだからいいじゃない」って言い訳ができるから、その中に逃げ込んでいるだけではなかろうか。
 慶次郎は自分もまた「正直者」であることで悦に入っている。だからいつでも「偉そう」である。けれどもそんなものが「仮面」に過ぎないことは簡単に暴かれる。人を傷つけておいて、そのことに鈍感なのが正直者の正体なのだ。慶次郎は自分自身の「偽善」に悩むのだが、こういうときに「救いの手」が差し伸べられるのもまた「現実」というヤツで、全く、世の中は一筋縄ではいかない。
飯炊きの佐七(石橋蓮司)が「正直でいいじゃないですか。言葉にしたってことは、その時はそんな気持ちがあったってことなんだから」みたいなことを言うのがまさにその「救いの手」で、これでまた慶次郎は心が癒されて、またまた元の「正直者」に逆戻り、「正直の頭に神宿る」なんて言い出してしまう。もちろん、佐七は正直者でもなんでもなくて、本人の言どおり、「その時にはそんな気持ちで言った」に過ぎないので、そのあと、正直者の魚屋に駄賃をやった慶次郎に向かっては「賄いも苦しいのに」とたしなめることになるのである(笑)。
 正直者も悪党も、人間である限りはやはりどっちも厄介な存在でしかない。どちらが信用できるかとか言い出せばどっちも信用できないとしか言いようがない。いい加減で無責任かもしれないが、結果がどう転ぶかは誰にも分からないものだ。正直に行動するかあえて悪党になるか、その場限りの勘で動くしかないのだから、どっちが正しいのかなんて問われても答えようがない。
 このドラマの気持ち良さは、そんな善人・悪人も等価で「人間」として扱っている点だ。「深刻」という評判もあるようだが、深刻なのが現実ならばそれが「普通」ということである。それでもまあ人は生きていくのだ。前回、慶次郎に迫られグダグダになってしまった常蔵(若松武史)は、巡礼のたびに出た後もグダグダであった。何だかまた中島らもの歌を思い出してしまったが、どんなやつだって人間なんだから「いいんだぜ」なのである。

2002年10月14日(月) 若本規夫賛江/映画『サイン』/『エドワード・ゴーリーの世界』(濱中利信編・柴田元幸・江國香織)
2001年10月14日(日) 新番紹介、大トリ!/アニメ『サイボーグ009』第1話「誕生」
2000年10月14日(土) 「野草」刈りと漂泊者と生ベルばらと/『あこがれの遠い土地』(トーベ・ヤンソン)ほか


2005年10月13日(木) 確執なのかなんなのか/ドラマ『熟年離婚』第一話

 朝方メールでグータロウ君とやり取り。
 またまた『神様ゲーム』についての激論だが、どうしてグータロウ君が自説に拘るのかと訝んでいたら、逆に彼から「どうしてそんなに自説に拘るんだよ」と言われてしまった。全く「どっちが」という話である。
 グータロウ君は「どう見ても鈴木君は神様だろう」と主張するのだが、昨日も書いた通り、「鈴木君を神様だと信じてしまった芳雄君の一人称で書かれた物語」なのだから、鈴気君が神様のように見えるのは当たり前なのである。どこぞの宗教の信者が「教祖様は御釈迦様の生まれ変わりでございます」と書いてるようなもので、これを真に受けるというのは常識的な判断力を失ってると言われても仕方があるまい。
 じゃあ、「鈴木君は神様ではない」と断じるのが正しい常識的な読み方かと言われると、もちろんそちらの方がより妥当性はあるのだが、それもまた決して合理的な見方ではない。何しろラストで芳雄君は完全に冷静な判断力を失っているのである。そんな状態ではあの出来事が現実かどうかも断定はできないだろう。だからあれをどう解釈するかについては「わからない」としか言いようがないのだ。
京極さんではないが、UFOやら幽霊やら、それらの殆どは錯覚だったり妄想だったり、合理的に説明できるものばかりだが、だからと言って「そんなものは『絶対に』いない」と完全否定できるものでもない。それを「見た」と人が信じる以上、それが外的なものか内的なものかは分からないが「何かがあった」ことは事実なのである。
 自然科学的な判断と、合理主義的なものの見方とは、必ずしも一致するとは限らない。「神様なんているわけないじゃないか」と言い切ることは簡単だが、「人間」が「心」を持った存在である以上、その心の隙間に「カミサマ」が入り込んでくることを完全に止めることは不可能だ。この世はありとあらゆる「悲惨」で成り立っている。不幸が、災厄が、裏切りと迫害が、孤独が、運命が、人を苛むとき、どんなに理性的な人間であろうと心に揺らぎを覚えない人間はいないだろう。近しい人が亡くなろうとする時、信仰を持たぬ人でも神に祈りはしないだろうか? それくらい、人の心は弱くて優しい。
 『神様ゲーム』は、そんな「揺らぎ」を初めて覚えた少年の物語である。グータロウ君だって、かつて芳雄君と同じような孤独と悲しみを経験したことはあるはずだ。にもかかわらず、芳雄君の心に思いを馳せるまでには至らなかったというのは、「鈴木君は神様である」という芳雄君の判断をそのままに鵜呑みにして、一歩引いて彼がどのような心理の過程を辿ったかを見損なってしまったからだろう。ミステリファンが陥りやすい落とし穴であるが、謎の「解釈」に拘るあまり、その背景にある人間の心理にまでは思い至らないのである。端的に言ってしまえば、傲慢が心を支配してしまっているために思いやりの心をなくしてしまっているのだと言っていい。
 「ミステリとしてどうか」なんて疑問もグータロウ君は呈していたのだが、これについては江戸川乱歩の『陰獣』が「結末が曖昧」と批判されたことに対して、中島河太郎が「論理的な結末は一旦付けられている」と反論したことを想起してもらえれば、決して『神様ゲーム』もアンフェアだと非難することはできないだろう。事件の解明は一度、合理的になされている。あの衝撃の結末は、芳雄君が自己喪失してしまったあとの出来事なのだ。にもかかわらず、その結末を基準に、過去の事件の解釈まで曲げようというのは、我田引水に過ぎる。
 もちろん、芳雄君の悲しみを理解した上で、「あの出来事の意味は、本当はどういうことだったのだろう」と想像することは読者の自由である。しかしそこに「真実」や「絶対」はない。鈴木君を神様だと見る場合でもその逆でも、それなりの解釈は成り立つし、またどちらの解釈にも否定的な事実が付随して謎を更に深めることになる。グータロウ君はネット上の「解釈」をいろいろあさったようだが、そんなものは全て推理マニアの自己陶酔の粋を出るものではない。いくら読んだところで、何の意味もないのである。まだしげのように、「よく分からなかった」で考えるのをやめてしまった方がマシというものだ。
 『エヴァ』騒動の時には私もさんざんホモオタさんから「解釈」を執拗に語られたものだったが、最近のグータロウ君はそのイメージに重なってしまうのである。「語られていないもの」については「真実は読者の数」だけあるということなのだから、「解釈」に「遊ぶ」ならばともかくも、「それはおかしい」とか言い出して自説に固執するのは困った「信者」でしかない。私は、どうせならグータロウ君には「いや、鈴木君は実はハウルで(性格悪いしいろんな姿を取れるそうだし)、ラストのアレはカルシファーの仕業なんだよ」くらいのことを言ってくれることを期待していたのだが(これでも辻褄は合うぞ)、そんな心の余裕も彼はなくしてしまっている。本当にいったいどうしちゃったのだろうか。未だに『響鬼』30話ショックが尾を引いているのだろうか。
 再度、繰り返すが、「鈴木君が神様だったのかどうか」という点に固執していては、あの小説の本質を見失う。芳雄君は過去の私たちである。私たちが大人の現実を垣間見、ある時はそこで反抗し、ある時は傷つき、ある時は勇気を奮い起こし、ある時は逃げ出したように、芳雄君は「冒険」を繰り広げた。そこに『神様ゲーム』がジュブナイルとして書かれる意義があったとも言えよう。今まさに「傷ついている」子供たちにとっては、芳雄君は自らの分身として映るはずだ。彼の末路に共感を覚えるか反発を覚えるか、その反応は極端だろうが、それはまさしく芳雄君が読者の鏡として機能しているからである。
 私は別に、『神様ゲーム』を世の親たちに対して「ぜひ子供に読ませろ」なんて言うつもりはない。前にも書いた通り、子供は読みたいものは勝手に読む。その理屈が分かっているはずのグータロウ君が、あえて「子供に読ませたくない」というのはあまりにも傲慢だし、「読書」は何のため誰のためにあるものなのか、その意味自体を見失っている。読書は読む当人のためだけにあるものだし、その意味も当人にしか考えられないことなのだ。
 親として、毒のある物語を読ませたくないと感じる気持ちは分からないでもないのだが、それを言い出したら毒だらけのSFやミステリーはみんな読ませちゃいかんだろう。じゃあ彼は何を子供に読ませたいのだろうか。それって子供を純粋培養するために「ディズニー映画だけを子供に見せていたい」と言ってるのと同じだってことに気が付かないのだろうか。せいぜい「うちの子にはまだ早いな」って言うんならまだ理解できるのだが、「必要ない」と言うに至っては、もう彼自身が「カミサマ」になっちゃってるにようにしか見えないのである。
 グータロウ君がなんでまたそんな思考停止状態に陥ったのか、定かではないのだが、やっぱりネットを漁ったのがよくないんじゃないかな。言葉だけが浮遊しているネットってのは、情報伝達の方法としては非常に単純化されてるために、受け取る側はその送り手の他の要素を鑑みて客観的に判断することができにくい。そこに自然と「洗脳」効果が生まれてるんだよね。
 だからまあ、ネットなんてのは顔見知りのブログ見るくらいに留めといた方が無難なんじゃないか。とか何とか言ってたら、話が横に逸れてきたんでこのへんでやめとこう。


 仕事帰りの私を駅まで迎えに来たしげが、とんでもないことを言い出した。
 「あさっての二日市温泉行きだけどさあ、調べてみたけどここからだと車で一時間半かかるみたいよ?」
 「何言ってんだよ、三十分かそこらで着くよ」
 「あんた、うちから行けるところはみんな三十分だと思ってない?」
 そんな馬鹿なことがあるわけないのだが、大野城まで二十分弱、大宰府まで三十分くらい、二日市はもう目と鼻の先だ。多少渋滞に引っかかったとしても、一時間はかかるまいというのが目算なのだが、出かけるのが夜だし、初めての道なので自信がないと言う。
 それなら午後六時の出発予定を少し繰り上げる必要があるかと思い、父に電話してみる。
 「しげが『二日市まで一時間かかる』って言いようっちゃけど」
 「そげな馬鹿なことがあるか。三十分」
 確かにそれが常識的な判断なのではあるが、常識が通用しないのがしげであるから、油断はならないのである。
 狙っていたわけではないが、相談も兼ねて、食事に誘われる。
 「空港の国際線に行く道の途中に、焼肉屋ができとろうが、そこへ行かんや」。
しげに「どうする?」と、“一応”聞いてみたが、「どう…」の段階で既にしげの目は爛々と光っていたのであった。

 父を店まで出迎えて、件の焼肉屋に向かう。
 車の中で、父が「あさっての温泉行きのことは姉ちゃんにはまだ言うとらんったい」と言うので驚く。
 「なんで?」
 「言いたくないと」
 そう簡単に言われてはミもフタもないが、頑固というよりは駄々っ子という感じだ。年を取ってきて、もういくらワガママを言っても構わない気分になっているような感じだ。
 「お前には言うとらんばってん、姉ちゃんとの間ではいろいろあっとうと。お前が聞いたら絶対怒るけん、言わんけどな」
 「なら聞かんよ」
 父は私の性格をからっきし理解していないので(親くらい子供に幻想を抱いている存在はあるまい)、そんな風に勝手に決めつけるのだが、多分、私は何を聞いても怒らないと思う。どうせ姉が私の悪口を言ってたとか、その程度のものだろう。内容も「ボケ老人(=父)を私に押し付けやがって」とか「本当は店を私に譲るのが惜しくなったんだろう」とか、見当がつく。けれど、あの頑固な親父のそばにずっといれば、それくらいの愚痴は出て当然だ。それなら聞いても聞かなくても、姉を恨みに思うことはない点では同じである。
 しかし、毎度毎度、会うたびに姉の悪口を聞かされて「店を辞める」と聞かされてもう一年くらい経つ気がするが、いっこうに仕事を辞める気配がない(辞めると言って廃業広告まで出したのに取りやめた)。腹を立てながらも、毎日姉と顔を着き合わせてやっぱり一緒に仕事をしているのである。短気な癖にのんびりしているので、私にもこういう父の優柔不断な性急さはなかなか理解しがたいのである。

 焼肉屋はかなり分かりにくい位置にあって車も停めにくかったが、回転して日も浅いので、今のところはなんとか繁盛している様子である。
 しかし、値段がバカ高かったのには恐れ入った。ファミリーセット、ロース、カルビ、豚バラ、ウィンナーに焼き野菜、四人前で7000円というのはちょっとねえ。いい肉使ってたのは食べてみて分かったから、ダメな店ではないのだけれど、庶民にはやはり「ウエスト」でちょうどいいと実感したことである。

 
 ドラマ『熟年離婚』第一話。
 アニメの新番組があまり見られない分、ドラマの新番組を漁って見ている感じの最近であるが、『ブラザー・ビート』とどっちを見るか迷って、こっちを選ぶ。まあ、渡哲也で選んだってことだね。
 離婚を切り出す奥さんは松坂慶子なのだけれども、平時子よりは役柄に合っているとは言え、渡哲也に相対するとやはり今ひとつ「軽い」気がしてならない。『義経』に引き続いての夫婦役だけれども、何かこの二人でやらなきゃならない事情でもあるのだろうか。
 台詞を字面だけで追っていると、こりゃもう、渡哲也の方が圧倒的に横暴なのである。家族のことを考えているつもりになって自分の価値観を押し付けているだけだし、息子の交際相手のことを「子持ちで離婚調停中の夫がいるじゃないか」と悪し様に言うのは、息子思いから口走ってしまったにしても、ちょっとひどすぎる。もうちょっと事情を聞いてあげたら、と家族がたしなめるのも当然である。イマドキ、ここまで時代錯誤な親父がいるもんなのかねえ。
 ところが渡哲也が毅然としてこれを言うと、これが全然ワガママに聞こえなくてねえ(笑)。軟弱に「事情をよく聞かせてみろ、お前が本気なら俺も真剣に考える」なんてモノワカリのいい親父なんかを渡哲也に演じてほしくはないのである。でもおかげで「アナタのそういうところについて行けないんです!」と泣きじゃくる松坂慶子の方がワガママに見えちゃうのは困ったもので。
 「夫婦は一生連れそうものだ」とは、今や「絶対」ではなくて「希望的観測」でしかあるまい。今まさに結婚しようという恋人同士であっても、「この人と一生一緒に暮らせるのか」と考え出したら一抹の不安は感じるのではなかろうか。「結婚」という形式、これが必ずしも「家族」を形成するための手法として最適のものとは言えなくなっている現在、「熟年離婚」という題材を単純に「家族の崩壊」として描くのであれば、これは陳腐なドラマに堕してしまうと思う。
 離婚をすることがまた一つの人間関係の形成に繋がるような物語になっていけばいいなあと勝手に予測を立てながら見始めたのだが、第一話ではまだどんな方向に向かって行くのかはよく分からない。変な言い方だが、渡哲也は近年、本当にいい役者になってきたと思っているので、ドラマが多少ワヤになっても、一応これは最後まで付き合って見てみようと思っているのである。


 しげ、夜中に「寝つけない」と言って、奇声を挙げたりドタバタしたり。「足が気持ち悪い」と言って何度も風呂場と部屋を往復する。おかげでこちらも眠れない。
「なんで気持ちが悪いん?」
「多分、珍しく肉食ったせいよ」
 そんな馬鹿なわけあるか。なかなか寝つけないしげにも困りものなのだが、寝たら寝たで、今度は夢遊病癖が出て、やっぱりトイレと寝床を行ったり来たりすることも多いので、やっぱり私は眠られないのである。
 朝がホントに辛いんだよ。頼むから早寝してくれ。特に、土・日の朝は『マックス』と『響鬼』を澄んだアタマで見たいんだよ。

2002年10月13日(日) 芸のためならって問題でもないんだけど/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』3巻/アニメ『サイボーグ009完結編』
2001年10月13日(土) 封印/第三舞台『ファントム・ペイン』(鴻上尚史作)/アニメ『カスミン』第1話
2000年10月13日(金) 病気自慢と白髪三千丈と……ね、眠い/映画『レッド・ブロンクス』


2005年10月12日(水) 人はいかにして欺かれるか/ドラマ『相棒』~シーズンⅣ~スタートスペシャル「閣下の城」

 以前、この日記でも紹介した、麻耶雄嵩『神様ゲーム』であるが、びっくりしたことに吾妻ひでおまでがホームページの日記マンガで誉めていた。これはちょっとした事件である。
吾妻ファンでもあるグータロウ君に早速そのことを教えておいたのだが、途端に現物を購入して読んだというから手が早い(←こういう場合に使う言葉ではナイ)。
 けれども正直言って、新本格以降のミステリにかなり偏見があるらしいグータロウ君には、ちょっと「厳しい」んじゃないかと危惧していた。だから「流し読みしたら面白く読めないぞ」とメールで忠告しといたんだが、彼の日記を読むと、やっぱり流し読みして結末の意味がよく分からなかったようである。
 これって、「意味がわかんない」から「どういうことなのか解釈しよう」とした瞬間に、作品自体の本質が見抜けなくなる仕掛けになってんだけど、その罠に見事に引っかかっちゃったんだなあ。「志が低い」なんて言ってるけど、それは「解釈しようとした読者」の志が低いんであって、作品自体がそうなのではない。だいたい内容がよく理解できていないのにその「志」だけは理解できたというのはとんだ矛盾ではないか。実際には何一つ作品が読めていないのである。
 グータロウ君、最近は何かとトンチンカンな言動が多いので、また勘違いしちゃうんじゃないかと心配はしてたんだけれども、悪い予感が当たった形になって、いささか残念である。

 『神様ゲーム』が難読だと思われているのは、あのとんでもないオチを付けてくれたことに起因しているのだが、もちろん、それが作者の仕掛けた「罠」であることは言うまでもない。たいていの読者が「鈴木君は本当に神様だったのかどうか」という点でアタマを悩ませているようだが、それは実はどうでもいいことなのである。
 ミステリーである以上、ネタバレは控えなきゃなんないのだが(そのあたりを気にせずに平気でオチ書くやつらがネットには多すぎるんだよな)、ある程度は書かないことには、グータロウ君が落ち込んだ陥穽がどんな性質のものなのか、説明ができない。だからギリギリの線で、トリック等についても触れることになるが、諒とせられたい。
 ネットであれやこれやと「解釈」している読者が、ポカンと忘れてしまっているのは、これが主人公・芳雄の一人称で描写されているという事実である。
 ミステリを書く場合、それを一人称で描写するか、三人称で描写するかについては極めて重要な意味がある。即ち、それが「叙述トリック」に深く関わってくるからだ。一人称を採用した場合、その語る言葉にどの程度の客観性があるかは重要なポイントになる。所詮は「主観描写」であるのだから、三人称である「客観描写」に比べれば読者に与えられる情報が不公平になりがちだ、と思えてしまうところだが、実際にはその「穴」を逆利用したミステリの傑作も数多く生み出されていることは周知の通り。この『神様ゲーム』も、そうした先例に倣っている点は多々ある。
 芳雄君は初めこそは多分に理性的だ。猫殺し事件も友達殺しの事件も、小学生とは思えないほどの(笑)理性でもって「真相」に肉薄していく。しかし、「神様」を自称する「鈴木君」にであったことで、その理性にどんどん「揺らぎ」が生まれていくのだ。「鈴木君が神様であるかそうでないのか」という問題も、最終的には芳雄の「理性」に任されていることになるのだが、その芳雄が理性を失ったらどうなるか。
 「オチが理解できない」とか、「多様な解釈が可能だ」という声が出るのは、なぜなのか、ということと絡めて考えてみていただきたい。八割まで芳雄君は事件を「理性的に」読み解いていながら、残り二割については、理性を放棄してしまったのである。だから彼は最終的に「神様の実在」を信じることになる。実は、それを描くことこそが作者の主眼だったと言ってよいだろう。これは言ってみれば、「探偵」が八割方、事件を解決していながら、最後の二割でケツ割って逃げた物語だと言えるのだ。
 どうして作者はそんなことをしたのか? 当たり前の話だが、「現実」の事件は、フィクションであるミステリのように、全てがキッチリ割り切れるものではないからである。「真実が一つ」なんてミステリは、実は小説としては凄くつまんないのだ。読者が「あのオチの意味は?」と様々な解釈を考えるのは勝手だが、それがいつのまにか小説内での「神様の実在」を信じ、「神様の意図を量ろうとする」ことになっていることに大半の読者が気付いていない。読者が、芳雄の心理の過程をそのまま読者もなぞってしまっているということは、そういう読者もまた、「鈴木君」の手にかかれは、簡単に理性を放棄させられてしまう人間だということになるのだ。
 芳雄は、鈴木君が神様であることを否定し、なぜ彼がそれだけ真実を見通せるのかを推理し、鈴木君の「仕掛け」もちゃんと見抜いていた。なのに、結局、「神様はいるのだ」という「信仰」に辿りついてしまう。だから、もはやラストの芳雄君の描写には、客観的な意味を見出せなくなってしまう。あれが現実の出来事なのか、そうでないのか、それすらも信用できなくなってしまっているのだ。
 しかし、どうして芳雄君はそんな状況にまで陥ってしまったのか。芳雄君の心理の過程を丹念に追って行けば、彼が「神」にすがらなければならなくなった理由は充分に納得できる。芳雄君は孤独だった。彼には友達も、大人も、親ですらも信じられなくなってしまっていた。全てが信用できなくなってしまった芳雄君には、鈴木君以外に信じられるものがなくなってしまっていたのだ。そして、「知らなくてもいいことまで全て芳雄君に教えて、芳雄君をそういう心理状態に追い込んだのは鈴木君である」。だから、鈴木君が神様であろうとあるまいと、彼が芳雄君の心に陥穽を作り上げ、そこにうまくつけこんだことだけは紛れもない事実なのである。
『神様ゲーム』を仔細に読めば、「鈴木君」の手口が、他人を信用させるための典型であることに気が付くはずだ。芳雄はその手にコロリと騙された。こうなると、先述した通り、「鈴木君が本当に神様かどうか」ということはどうでもよくなる。芳雄の心の中では、完全に鈴木君は「神様」になってしまった。だから、最後に「鈴木君が神様であることを否定するような」意外な出来事が起こっても、「神様のやることは絶対」と、その事実について分析することを放棄してしまうのである。まるで、論理の徒であったコナン・ドイルが神秘家に変貌してしまったように。さながらオウム信者のように。
 言い換えるなら、『神様ゲーム』を読んで、最後まで「鈴木君が神様かどうか分からなかった」あるいは「鈴木君はやっぱり神様なんだと思った」人というのは、人の口車に乗せられやすいお人好しか、ニセ科学やトンデモ本の類に簡単にはまっちゃうような純粋まっすぐ君か、それこそカミサマを信じているシューキョーの人であろう。タイトルにちゃんと『ゲーム』と書いてあるのに、それは信じないのが不思議だけどね。
 でもまあ、世間ってのはそういう「騙される側の人」がいないと成り立たないものだから、この本に関して否定的な意見が多いってことは、それだけ「善人」が多いってことでもある。善人だらけの世界も鬱陶しいんだが、悪人が多いよりゃあマシかもしれない。
 実際、「鈴木君」のような「カミサマ」は、現実にいたるところにいるのだ。宗教の勧誘だけに留まらない、言葉巧みに信用を取り付け、ツボを売りつけたり土地を売りつけたり、詐欺を仕掛けてくる人間はそこいらじゅうにウヨウヨいる。ちょっとした寸借詐欺なら、身内でも友人でもしょっちゅうやっている(うちの家族も昔からずっとお互いに詐欺をしあっているようなものである)。グータロウ君のような善人には予想もつかないことかもしれないが、信用できる人間なんて、この世にはただの一人もいないのである。

 グータロウ君が善人なのはもう身に染みるほどに感じていることなので、実際どうして私のような悪辣で人情のカケラもないペテン師と友達でいられるのか不思議なのだが、もう日記の感想、善人丸出しで「子供に読ませるのにふさわしくない」とか、本読みが絶対言っちゃいけない言葉を簡単に言っちゃっている。
 保守的と言うよりは、頭でっかちな親は決まってこの傲慢なセリフを口にするのだが、親が何と言おうと、子供は読みたいものは読むものである。グータロウ君ちの子供が『神様ゲーム』を読むかどうかは分からないけれども、世の中にはこれを読んで「何か」を感じる子供は確実にいる。別にトラウマにならずに「何か」を考える子供も必ず現れる。
 グータロウ君が『神様ゲーム』をまるで「読めていない」のは、「解釈しよう」とネットの感想をあさった時点で大間違いなのだが(この時点で自分で考えることを放棄している)、更にはこれを「メタ・ミステリ」と言ってることでその知識の薄さを露呈してしまっている。もう何をかいわんやである。
 多分、間違いないと思うが、彼は意味も分からないでこの言葉を使っているのだ。虚構を虚構として認知することから現実の虚構性までを暴くのがメタの概念だとするならば、『神様ゲーム』はそんな複雑な手法は取っていない。どちらかと言えば、これは笠井潔の言う「アンチ・ミステリ」と見た方が妥当だ。江戸川乱歩の『陰獣』も、中井英夫の『虚無への供物』も、「割り切れないもの」が最後に残った。それはまさに賢しらな人間の知性をあざ笑い、全てが解明されないと気がすまない頭でっかちなミステリファンを嘲笑う「反ミステリ」としてのミステリなのである。
 情けない話なのだが、グータロウ君は、単に「オチがよく分からなかったから、これはメタ・ミステリなんだろう」と思ったに過ぎないようだ(そう思ってる読者も結構いるようである)。これじゃあ、アタマの悪いヤンキーがよく言う「俺がわかんないって思ったから勉強なんて必要ないんだよ」ってリクツと同じで、ただの脊髄反射である。ミヤベ先生の「本を読まない子供は馬鹿な大人になりますよ」という言葉をもちっと真剣に考えてみたらどうか。

 念のために言っておくが、グータロウ君を貶しているようであるが、これは「ミステリ読み」「本読み」としてはであって、人として私が足元にも及ばないことは言を俟たない。
 例えば、もしも私が、グータロウ君から金をせびり取ろうと思ったら簡単である。日記の更新をやめる。しばらくしたら彼から電話が掛かってくる。私はわざと出ないで、女房に出てもらう。「どうしたフジワラは?」。女房はためらいがちに切り出す。「言っちゃいけないって言われてるんですけど、実はまた入院してて……。今度は長くなりそうなんです。半年か一年、もしかしたらもっとかも」。これで簡単に騙せてしまうだろう。「少ないけどいくらか見舞いを送るよ」と言いながら、大枚はたいて書留寄こすに決まっているのだ。
 「トモダチ」だということを利用すれば、こういう騙しは簡単にできる。重要なのは「トモダチ」だということを押し付けがましく語るんじゃなくて、あくまで「つながり」を示唆するに留めることである。鈴木君だって「トモダチ」だということを利用して芳雄君を信用させている。そして自分からは何も要求はしていない。そこがうまいのである。
 私はこういう悪辣な人間なので、グータロウ君との人間の格差というものは歴然としているのである。こんな外道に関わったのはグータロウ君の身の不運ではあるが、世の中、悪人にいかに対処するか、訓練する必要もあろう。『神様ゲーム』も、芳雄君がいかに騙されて行くか、その心理の過程を追って行けば、現実世界で同じ轍を踏まないための訓練になると思う。


 晩飯に、スパゲティを作っていたときに、ガスコンロの火が勢いよく点いて、右手の甲の毛が焼けた。ちょっとチリチリになって、一部分だけミニアフロである。匂いをかいだら、毛の焼けるような匂いがしたが、毛が焼けているのだから毛が焼けた匂いがするのは当たり前なのである。


 ドラマ『相棒』~シーズンⅣ~スタートスペシャル「閣下の城」。
 時々見てはいたんだけれど、なかなか日記の中で触れることはできなかった。昨今のミステリドラマの中では、群を抜いてキャラクターが「立って」いるので、シリーズの再開は嬉しい。水谷豊がこんなに上手い役者になるとはなあ。『バンパイヤ』のころには思いもしなかった……ってもう何十年前だよ。

 元外務省事務次官で「閣下」と呼ばれる傲慢かつ狡猾な男、北条晴臣(長門裕之)。2年前、杉下右京(水谷豊)たちに殺人容疑で逮捕されながら、超法規的取引で保釈され、現在はイギリスから移築したアイアンハート城で悠々自適の生活を送っている。
 その閣下から、右京と相棒の亀山薫(寺脇康文)にパーティーの招待状が届いた。閣下の目的は何か? パーティーには北条の保釈取引に関わった、小野田公顕・警察庁官房長(岸部一徳)と瀬戸内米蔵・元法務大臣(津川雅彦)も招かれていた。誰も閣下の真意が測れない中で、閣下は悪戯っ子のようにはしゃぎながら、突然、若い女性秘書・郷内繭子(高橋かおり)との結婚を発表する。その発表に驚愕したのは、繭子の従妹で城の執事の嵩人(高杉瑞穂)だった。そして翌日、嵩人が殺される。閣下のコレクションの剣で胸を一突きされて……。

 トリックは単純なのだが、ともかく「閣下」長門裕之の怪演が光る。津川雅彦との兄弟共演も、ストレートに突っ込む弟に対して、兄が泣いたり笑ったり、感情表現豊かにすっとぼける様がいかにも楽しそうだ。
 正直、役者としての艶に欠ける人だよなあと思っていたのだが、こんな愛嬌のある糞爺を演じさせて、こんなに映えるとは思っていなかったのである。こんな大ベテランに対抗しようというのは至難の業だが、ゲストの高橋かおり、清楚な美人秘書として登場したかと思ったら、閣下にまんまとハメられたと気づいた途端に「このばかたれ!」とちょっとケンのある顔を歪めての大暴言、まったく大熱演である。
 さて、最後に笑ったのは誰なのか、このままならなんだか「閣下」シリーズもいずれ第三弾がありそうで、楽しみなことである。

2002年10月12日(土) 第一稿完成!/『ちょびっツ』7巻(CLAMP)ほか
2001年10月12日(金) それはそれ!/『ゲッベルスの贈り物』(藤岡真)ほか
2000年10月12日(木) 乳の電話と江戸のエンコーと胃袋女と/『十時半睡事件帖 おんな舟』(白石一郎)ほか


2005年10月11日(火) ほのぼの気分と切ない気分/ドラマ『1リットルの涙』第一回

 出勤途中、同じく通学中の学生さんのなんちゃない会話に耳をそばだてる。
 今日は、朝から涼しい風が吹いていた。駅の横の陸橋を渡っていた時、通り過ぎて行った男の子どうしの会話である。
 「これくらいが涼しくてちょうどいいな」
 「ああ、これなら走っても汗かかない」
 「走ったら汗はかくよ」
 「そうか? 俺はかかないけど」
 「俺はかくよ。冬でも走ったらかく」
 それだけの会話だけれども、ちょっと「秋らしいなあ」と思った。
 ちなみに私も冬だろうと走れば汗はかく。もっともそれは私が太っているからだが。
 こっちの日記でもたまにはこういうほのぼのした話題も書いてみたけど、いかがでしょうか(笑)。 


 とか何とか言いながら、また、殺伐とした話題。パキスタン地震について思うこと。
 発生から三日が経つが、被害はまだ拡大の一途を辿っている。こないだのアメリカのハリケーンと言い、世界規模でこうも自然災害が連続すると、ヒトコママンガじゃないが、「終末は近い」ってプラカードでも掲げたくなる気分だ。今が宗教の儲けどころか。
 やはり一番悲惨を感じてしまうのは同胞の死であって、イスラマバードの高層アパートで亡くなった国際協力機構(JICA)の楢原覚さんと、まだ2歳だった息子さんの輝ちゃんのニュースは、聞くだに暗澹たる気分に陥ってしまう。
もう十日ほど、地震が来なければ、二人は帰国して助かっていた。運命であるとしか言いようがないが、逆に、運良く助かった人もいるわけで、誰を恨むこともできないことがかえって恨めしい。「人間は何のために生まれてきたのか」なんて疑問を抱くだけ詮無いことである。
 奥さんの楢原ひろみさんは、地震発生直後に旦那さんにテーブルの下に突き飛ばされてかろうじて助かったと言う。けれど、こんなに辛いこともあるまい。いっそ、一緒に死にたかったと思いもするだろう。けれど、自分を助けてくれた夫の愛情を思えば、これは死ねない。本当の悲しみは、一生かかったって乗り越えられるような生半可なものではないのだ。
 神様なんていない。そんなことは分かっている。でも、いてほしいと切実に思うことがある。そして、髪に会うことができたらこう言ってやるのだ。「人間を将棋の駒にして遊ぶんじゃねえ」と。


 テレビドラマの新番組を立て続けに見る。
 『1リットルの涙』は、脊髄小脳変性症という難病で、若くして世を去った木藤亜也さんの日記が原作(ドラマでは、名前はそのままに名字だけ変えて「池内亜也」となっている)。昨年、映画にもなっていたのだが、全く気付いていなかった。
 だもんで、私もこれが実録の難病ものだとはついぞ気づかないままに見始めたのだが、主演の沢尻エリカが豆腐を落としたりつまずいたりする描写が重なるのを見て、「ああ、これはもしかすると失敗したか」と後悔した。ドキュメンタリーはまだしも、こういう難病ものの再現ドラマは苦手なのである。
 まさに沢尻エリカが、まだ自分の病気に気付かずに「私たちには時間があるんだから」なんてセリフを言うようないかにもな演出がイヤなんだが、一般的にはこういうドラマこそが「優良品」と評価されることも分からないではないのである。
 日ごろ、病人のことなど考えようともしない健常者のミナサマがたに、彼ら彼女らがいかに生きようとしているか、それを知る機会が与えられる、という点では「闘病ドラマ」というジャンルはあっていいのだろうとは思う。一部の病人が見世物や人身御供にされようが、募金が増えたり行政への働きかけがしやすくなる実利があるなら、我慢しようと考える病気の方々もおられると思う。
 しかし、そう現実的に考えながらも釈然としないのは、結局は「病人の本当の苦しみは、当人にしか分からない」という、これもまた一つのれっきとした「現実」があるからだ。
 ドラマを見た視聴者の多くが、涙を流すことだろう。全国の視聴者の涙を集めれば、それこそ1リットルどころではなくなると思う。けれどもその涙が、亜也さんの流した涙と同質であるはずがないのだ。
 多分、ドラマは、家族の愛に支えられながら亜也さんが病気に立ち向かっていく姿を描いていくことになるのだろう。その姿は恐らくは感動的で、人と人との絆を描く過程はきっと暖かいものであるに違いない。けれども、これまでもう数え切れないほどの「闘病ドラマ」を見てきて思うことは、それでもやはり病人は絶対的な「孤独」の中にいるということだ。その孤独は誰にも埋められない。だから病人はその孤独を人に気付かせないように、それこそ家族にすら悟られないように努力する。でもそうすればするほど孤独は弥増すしかないのだ。
 そこまで踏み入って病気を描いたドラマというのを私は寡聞にして知らない。描けるものではないという気もする。だから私は難病ものが苦手なのである。
でも、沢尻エリカと薬師丸ひろ子が凄くよかったので、次回もつい見ちゃうとは思うけれど。

 続けて『鬼嫁日記』。
 タイトルほどに観月ありさはオニヨメではなくって、健気で可愛かったりする。旦那に「焼肉食いたいから早く帰れ」って言うのも、本当はやっぱり愛してるから、って雰囲気だし。あれならうちのしげの方がよっぽどオニヨメなのである。事実。

 『タモリのジャポニカ』。
 第1回は、敬語の間違いをいろいろ確認してみようって内容。解説が金田一秀穂さんだから、どうしても『世界一受けたい授業』のスピンオフ番組のように見えてしまうのがネックか。
 だいたい、いくら「この敬語は間違ってる」と主張したって、今やそれを恥とも思わないどころか「言葉は時代によって変化するんだから」と開き直る御仁の方が多い時代になっているのである。松嶋尚美はやっぱり「よろしかったですか?」を違和感なく受け取っていたけれど、言語感覚がぶっ壊れている人間に「間違いですよ」と言ったって理解不能なんである。こういうのは小学生までで何とかしとかなきゃ大人になってからじゃもう無理なんでね。

 このへんのドラマをずっと見てたので、裏番組の『終戦60年ドラマスペシャル 日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ』は録画。
 夜中になって見始めたので、前半までしか見られず寝る。
 以前、杉原千畝を加藤剛が演じたのと比べると、反町隆史と飯島直子の夫婦愛を全面に出した印象である。
 けれど、後半見る時間が取れるかなあ。

2002年10月11日(金) 呪う女(・・;)/『お笑い創価学会』(佐高信・テリー伊藤)/『世紀末リーダー伝たけし!』1巻(島袋光年)ほか
2001年10月11日(木) なぁじぃかは、知ぃらねぇどぉ♪/『ナジカ電撃作戦』第1話「華麗なるエージェントは 一輪の薔薇と共に」ほか
2000年10月11日(水) スパイと台湾論とこげぱんと/『こげぱん』(たかはしみき)ほか


2005年10月10日(月) 休日の朝は寝てるってば/『名探偵博覧会Ⅰ 真説ルパン対ホームズ』(芦辺拓)

 体育の日であるが、一日寝転がって過ごす。
 朝方、改装工事がひと段落付いたようで、ベランダから作業員の人たちの声が聞こえる。
 「藤原さーん」
 いや、驚いたと言うか呆れてしまったのだが、玄関先でもない三階のベランダからこうやって人を呼び出したりすることに、この人たちは何の躊躇もないのかね。返事をすれば当然こちらはベランダまで出て、何やら会話をしなければならなくなるわけだが、それは全部ご近所にまる聞こえになってしまうではないか。
 もともと布団の中で寝入っていたのを起こされもしたので、気分も悪い。どうせ話の内容も見当が付く。これまで塗装工事をするので、ずっとベランダに置いていた倉庫を吊るしていたので、それを元に戻すぞという連絡なのだろう。けれどそういうのは前日か前々日にでも、事前連絡してやるもんだろう。朝っぱらからいきなり人を叩き起こしてやるもんじゃない。
 むかっ腹を立てて無視していると、「いいよ、窓、叩いちゃえよ」との声。途端にあっちの窓、こっちの窓をドンドンドンと叩き始めた。「藤原さーん、藤原さーん」「寝てんだな、こりゃ」。
おう、寝てるともさ(怒)。
 工事人ってのはみんなこんな礼儀知らずどもなのかもしれないが、それにしたってひどい。だいたい、この倉庫を吊るすのだって、最初は「家の中に入れろ」だの、「引っ越しセンターに頼んで金出して預かってもらえ」だの、勝手な要求ばかりしてきていたのだ。こっちが「無理だ」と突っぱねたので、中身だけ部屋の中に移して、ようやく、ベランダに吊るして作業に入らせたのである。最初からそうすればいいのに、やたら手間を惜しむのだから始末に悪い。
 どうやら連中は、倉庫の下に敷いていた煉瓦の位置が分からずに、聞こうとしていたものらしい。「このへんじゃないか」とか声がする。自分たちでずらしたんだから、それくらい覚えておけと言うのだ。
 しばらく経って、外を覗いてみると、倉庫もクーラーの室外機も全部元の位置に戻してあった。結局、こちらが一緒にいなけりゃならない意味は特になかったようである。
 だから事前に連絡を入れるくらいの礼儀は知っておけ。


 どこぞにアドレスを知られてしまったのか、またスパムメールが来る。昔みたいに一日何十通ということではなくなったから、そんなに困りはしないのだけれど、これから増えるようであれば、受信拒否とか対策を取らなきゃならなくなるかな。
 
〉突然メールしてしまいましたが、最後まで読んで頂くと嬉しいです。一般的に言われる迷惑メールの類とは違い、会員(女性)自身が個々に送っているのですが、迷惑でしたらお詫びさせて頂きます。
〉http://www.dynamite-×××
〉※本日貴方宛にメールが届いている事が確認されましたので、条約により本文を転送させて頂きました。本文をご確認の上、最適な選択をお願い致します。
〉本文転送:
------------------------------------------------------------
〉ゆぃ 28歳です。
〉はじめまして~!普段はしっかり仕事してます。身長は158㎝その他は秘密…かなぁ(笑)でも以前「バドガール」の経験ありますよ~!見た目でガッカリさせることはないと思いますから安心してください。実家在住なので、親に迷惑かけずに楽しく遊べたらと思い
ます。平日仕事をしていますので夕方から夜に掛けてがいいです。特に週末は出やすいかなぁ。メールでご挨拶の後にお互い良ければ最初は食事からお願いします。それではヨロシクです~!
------------------------------------------------------------
〉※女性の直メッセージにてアドレスの確認ができますので、最初は〇無料登録〇をお願い致します。
〉http://www.dynamite×××
〉簡単な名前検索次第、直メやり取りが可能となります。なお、希望をされない場合は
〉nomore@lovegal×××
〉までお願いします。至急、配信停止の手続きをとらせていただきます。

 あっ、配信停止のアドレス見ると、やっぱり「Lonegal」だ。これで「迷惑メールの類とは違い、会員(女性)自身が個々に送っている」なんて大ウソをよくもコケるもんだ。
 しかし、「バドガール」というのも、オトコを誘うアイテムとして機能してるんだなあと、変なところに感心。
 何度か書いてるけど、コスプレとかそういうの、私ゃ一つの文化的現象としてしか興味がないのよ。もし私にそっち方面の趣味があるんなら、女房を意地でも痩せさせてコスプレさせてるって(笑)。今のしげにはドラミちゃんのコスプレしかできんわ。


 夕方、アニメ『ブラック・ジャック』。『名探偵コナン』など。
 『ブラック・ジャック』は『ピノコ誕生』で、手塚真が脚本を担当。短編を30分に伸ばすのだから、原作にないエピソードがちょこちょこと加わるのだが、まだ体をうまく動かせないピノコが火事に怯えるとか、何かどうもわざとらしいのが多くてね。ピノコが寝てる傍にブラック・ジャックがパイプを置き忘れるとか、ちょっとウカツすぎるんじゃないかね。パチンコして車中に子供置き去りにする馬鹿親みたいじゃないか。
 それとよく分からんのは、嚢種のころのピノコ、声を日高のり子が当ててたんだけれど、どうして水谷優子にさせないのかね?
 相変わらず、そこそこにつまんないんだけれど、こんなんで映画版はちゃんとしたものに仕上がるんだろうか。 


 夜、9時からパピヨンプラザのロイヤルホストで、次回公演の顔合わせ。
 先々週、ホントはキャストが一堂に会する予定だったのが、ドタキャンが相次いで、二人しか集まらなかったという涙がちょちょぎれる事態になっちゃったので、今回が仕切り直しである。
 先日も集まっていただいたKさんWさんに加え、今日は細川嬢、小林嬢、堤さんにラクーンドッグさんも来られる。あと一人見えられる予定だったのだが、20分過ぎてもいらっしゃらないし連絡もない。堤さんが連絡を取ると、「日にちを間違えていた」とのこと。こないだのことがあったから、「連絡は確実に」としげに何度も念を押していたのに、確認を怠っていたのである。そもそもメールアドレスだけで電話番号を確認していなかったのだから、しげが手を抜いていたのは紛れもない事実で、言い訳のできることではない。せわしないのは分かるけれど、それをやれなきゃ公演を打つ意味がないのである。
 と言いつつ、こちらもまだ台本が未完成なので、みなさんには自己紹介とスケジュールの確認およびキャスト希望の連絡をするのみ。どうやらキャストは11人まで集まりそうである。あっとひっとりっ♪
 福岡近辺にお住みの方で、3月11日(土)・12日(日)、一緒に舞台に立ちましょうって方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。


 芦辺拓『名探偵博覧会Ⅰ 真説ルパン対ホームズ』(創元推理文庫)。
 映画『ルパン』に便乗したのか、ようやく文庫本になった。映画の方はそんなにヒットしてないみたいだから、小説の方も売れるかどうか分からないけれども。まあ、こういうパスティーシュ(模倣作)よりも、モーリス・ルブランのオリジナルの方を若い人には読んでもらいたいけれどもね。
 一応は文庫化を待ち望んでいたので、喜び勇んで読んだのだけれど、何と言うか、一読して困っちゃってね。嬉しい部分と悲しい部分が相半ばするというか。
 「モーリス・ルブランの『ルパン対ホームズ』は偽作だ」とか、ルパンのライバル・ガニマール警部と『ルパンの冒険』のゲルシャールは別人だとか、作者独自の解釈はそれなりに面白い。
 特に、「なかなか上手い」と思ったのは、ルパンとホームズが初めてまみえるあたりの「趣向」である。これには思わずニヤリとさせられた。恐らくは、かなりなルパンファン、ホームズファンでも(いや、だからこそ)、かえってこの「趣向」には引っかかってしまう人も多いのではなかろうか(一応、私は引っかかりませんでしたが)。このあたりの「描写」からも、作者がそれぞれのシリーズを結構読み込んでいることは充分に伺えるので、ルパンやホームズのキャラクターをよく生かしている点については、ある程度の評価はしたいと思うのだ。
 けれど、メインストーリーとなると、これががどうにも今ひとつなのである。
 舞台をパリ万博に設定し、川上音二郎・貞奴夫妻を登場させるなど、実在人物を絡める手法もこういうパスティーシュものの定番で、「日本人には」受ける趣向になっている。けど、外人さんに「サダヤッコ」と言って、どれだけ通じるのかね? ピカソが貞奴のスケッチを遺しているのは事実だけれども、そのことを知っている海外のミステリファンがいるものかどうか。
 つまりこの小説の弱点は、外国語訳されてもそんな趣向は全然ガイジンさんには分からないってことだったりする。つまりやっぱ「内輪受け」なんだわな。
 まあ、内輪受けだろうがなんだろうが、肝心の事件と謎解きが面白けりゃ、文句はないんだけれども、これがもう、ルパンとホームズの金看板を背負っといて、こんなチャチな事件かよ、と悲しくなるようなシロモノなのよ(涙)。
 ルパンの師匠が、実は実在の「あの人である」という点がメイントリックに深く関わっていて、それが誰なのかをわざと最後まで隠しているのだが、隠しているからこそ、これが謎を解くヒントになると逆にバレてしまう。つか、超有名人だから、ちょっとした表現で、すぐに誰なのか見当がつくんだよ(涙)。全く、なんで今更、こんなありふれたトリックを臆面もなく使えるのかね。
 トリックもチャチだけど、そもそも語り口のヘタクソさが小説をつまんなくしているのだ。芦部さんの小説、基本アイデアはいいんだけど、文章でいつも損をしている。なんか初期の高木彬光みたいなんだよね。
 一応、ホームズやルパンを読み出した中高生は楽しめるかも、ということで限定付きのお勧めね。長年のルパンファン・ホームズファンほか、ミステリファンにはお勧めしません。

2002年10月10日(木) ゴミとゴミとゴミの間に/『とむらい機関車』(大阪圭吉)ほか
2001年10月10日(水) 新番レポート復活!/アニメ『テニスの王子様』&『ヒカルの碁』第1話
2000年10月10日(火) 失敗合戦と治らないケガと異父兄妹と/『ムーミン谷への旅 トーペ・ヤンソンとムーミンの世界』


2005年10月09日(日) 腹へりスズメ/『仮面ライダー響鬼』三十五之巻 「惑わす天使」

 『仮面ライダー響鬼』三十五之巻 「惑わす天使」。
 プロデューサー&脚本家変更の騒動も、一月半もすればかなり沈静化してくる。まだまだあちこちでくすぶってる感じはあるけれども、そろそろ半可通なオタク諸君も虚心坦懐に物語を見るくらいの心の広さを持ってもいいんじゃないかと思う。なんかもーね、30話以降否定派の人たちの文章って、内容よりもその筆致がムキになってるって言うか、ヒステリックで見てらんない。
 今更、例の『エヴァンゲリオン』騒動を引き合いに出すのも何なんだけれど、ある作品にハマっちゃうと、視聴者は自分の作品に対する好悪の感情が、善悪の判断にスライドされてることに気が付かなくなるものなんだよね。何かを好きになることがいけない、なんてことを言うつもりはないけれど、感情の暴走を抑制するための「もう一人の自分」は心の中に置いとかないと、実生活を送る上で、いろいろヤバいんじゃないか。私が自分自身もオタクだと認めながらもオタク批判を往々にして口にするのは、オタクと呼ばれる人々の大半が相手との会話のフィールドを作る努力を怠っていることを経験的に知っているからである。濃い人薄い人、プロ・アマを問わずにね。いやもう、みんなただの「ワガママ」野郎ばかりだわ。

 「はてな」の「井上脚本」の項目にはこう書いてある。

> 脚本家井上敏樹氏の書いた脚本。
> 特撮番組、それも平成ライダーの時の井上脚本には、カット割りから、挿入されるSE(効果音)、役者の衣装など、演出に関わる事柄が全て指定されている、と思い込んでいる人がたまにいる。そういう人たちはキャラクタやアイテムのデザインすら井上氏が決めているのだと思っていたりもする。

 「井上が」「御大が」とか言ってる連中は、一般人からは「そういう見られ方」をしてるんだけど、全然気付いてないんだろうなあ。
ついでに「ウィキペディア」の井上敏樹解説にはこうある。

〉 「シナリオは映像のための設計図に過ぎない」が持論で、脚本ではそのシーンの大意を示すにとどめ、セリフの解釈(そこに込められた登場人物の感情の機微など)などの詳細は演出家や俳優・声優に委ねるという執筆スタイルをとる。

 緊急招聘の途中参加であるから、今回の脚本も、監督に投げ渡しされたと思しいし、現場での変更も結構あったと思う。すぐに「井上が」と責任を脚本家にのみ押し付けようとする連中は、それだけで既に常軌を逸しているのである。

 まあ、そういう周辺事情はともかく、作品自体は確かにどんどんイカレた展開になっている。29話までも話が異様に進まなくて「この物語はいったいどこに行こうとしているのか」と不安に思っていたものだったが、別の意味で今の『響鬼』はどこに行こうとしているかよく分からない。もしかしたらプロデューサーも脚本家も、「どうにでもなれ」と思いながらやってるのかもね。
 最近、登場人物が次々にギャグキャラになってく大海嘯にザンキもイブキも飲みこまれてしまった。腐海に沈まずにすむやつはいないっつーか、何だか本当に『ゴレンジャー』が『ゴレンジャーごっこ』になっちまったようである。
 でも、ザンキがトドロキに恋のアドバイスをして失敗するのは「おれは数々の女性を愛してきた男だ。それこそ鬼のようにな」「オレは今恋の地獄にいる」などのイカレた発言が楽しかったので、これは許す(偉そうに)。シリアスなザンキさんがお好みのファンはどうせまた「私のザンキさんを返して!」と叫ぶんだろうが、知ったことか。もともとザンキは、「こいつは何だって一人だけカッコつけてやがんだ」というギャグに転ぶギリギリの線にいるキャラクターだったから、これで立場がスッキリしたというもんである。これと、モッチーのラブレターが実は勘違いだったというのは想定内だったので、ショックはない(笑)。
 けれど、イブキが、香須美がほかの男と付き合ってると勘違いするのはかなりムリがあった。遠目で見たって下條アトムはすぐに分かる(笑)。こういうのは実写じゃ向かないベタギャグである。
 井上敏樹の実写脚本の何が腹立たしかったって、子供向けにリテイクするとかいう以前に、「アニメのギャグは実写では通用しない」ということがまだ理解できていないとこなんだよね。子供番組脚本に徹していても、お父つぁんはそんなつまんないギャグは書いてこなかったと思うぞ。
 この「糞ギャグ化ハリケーン」に巻き込まれずにすんでるのは今んところあきらくらいのもんじゃないかと思うが、これはこれまでの展開を井上敏樹が見てきて、「これはイジれない」と判断したってことなのかもしれない。もちろんこれから先、どう転んでいくかは分かんないわけであるが。ああ、ヒビキさんは元からギャグキャラなので問題なし。
 しかしアンチ派の細かい粗探しやツッコミは無視して構わないと思うが、テコ入れ&新展開のためにPD&脚本家交代したはずなのに、話が進んでないことの方は問題にしなきゃならないんじゃないかな。来週は「変身忍者嵐」が登場するようだが、そんなふうに遊んでる余裕はあるんかいな。こういうので喜ぶオタクだってあまりいないと思うけどねえ。
 ……と思ってネット上を検索してみたら、意外に同年代の連中で喜んでるやつらが結構いたので驚いた。もう何だっていいんだな(笑)。


 テレビ見たり本読んだり台本書いたりして過ごしたけど、ちょっと疲れたので今日は内容は省く。
 夜になって、しげが、「ひもじいよう、豪勢な食事がしたいよう、寿司が食いたいよう」と駄々をこねるが、そんな余裕は我が家にはもうない。「父ちゃんにたかろうよ」と言うので「あほか」と一喝した。来週、一緒に旅行に行く予定なので、既にたかることは決まっているのである。2週も続けて親にたかれんわい。
 ということで、今日の晩飯は私の作ったスパゲティだったのだが、食い終わった後で父から「飯は食ったか?」と電話があった。ああ、もうちょっと食事するの待てば寿司がたかれたのに。……って、やっぱり私もひもじかったんかい(笑)。 

2002年10月09日(水) また騒ぎ方が違うんじゃないかって話/『青少年のための江口寿史入門』(江口寿史監修)ほか
2001年10月09日(火) 探偵小説ネタ多し。ついて来れる方、求む/『死神探偵と憂鬱温泉』(斎藤岬)ほか
2000年10月09日(月) 女って癒してもらう対象ではないよな/『鉄槌!』(いしかわじゅん)ほか


2005年10月08日(土) あれもこれも/『ウルトラマンマックス』第15話「第三番惑星の奇跡」/『BLOOD+』第一話「ファーストキス」

 ブログ日記を書くようになって、こちらの日記とあちらの日記と、ネタが被ることもよくある。別々のことを書けばいいじゃないか、と言われそうだが、基本的にあっちとこっちとでは書いてる人格が違うので、同じ題材を扱っていても感想は微妙に違うのだ。
 そのへん、両方を読んでくださっている方は、見比べて楽しんで頂ければよいと思うのだが、しげはブログ日記のほうには「オタクネタは書くな」と言う。
 もちろんそれでも全然構わないのであるが、そうなるとあちらの日記には「今日も寝ているしげの鼻の穴にティッシュを詰めて遊んだ。寝ながらしげは『フン!』と力んで、途端にティッシュの栓はポーンと飛んでった」とか、そんなことばかり書くことになる。
 どんどんしげのアホ晒し日記になっていくのだけれど、それでいいのだろうか。


 『ウルトラマンマックス』第15話「第三番惑星の奇跡」(完全生命体イフ登場)。
 サブタイトルを聞くと、どうしても『ウルトラセブン』の「第四惑星の悪夢」を想起してしまう。あれは存在しない第四惑星(火星ではない)における機械化都市を描いた「寓話」であったが、今回はちゃんと地球を舞台にした、しかしやはり一つの「譬え」を描いた「寓話」として、旧作にも劣らぬ傑作として屹立することになった。
 脚本は『たどんとちくわ』『大怪獣東京に現る』『ドラゴンヘッド』のNAKA雅MURA(中村雅)、特技監督と監督を兼任するのは、『漂流街』『ゼブラーマン』『妖怪大戦争』ほかもうなんでも撮るぞの三池崇史。二人はこれまでにも『中国の鳥人』『アンドロメディア』『DEAD OR ALIVE 2 逃亡者』などでコンビを組んでいる。

 絵を描くことが大好きな少女アッコ(佐々木麻緒)。
 彼女は視力を失っていたが、その逆境にもめげずに音楽家になろうとフルートを吹き鳴らしている。そんな彼女をミズキ(長谷部瞳)は暖かく見守っていた。
 そんな時、宇宙から未知の物体「イフ」が飛来する。イフは、攻撃を加えるとその攻撃力を吸収、し、そのままの力を敵に反撃するという究極の生命体だった(寺沢武一の『コブラ』にそんなの出てきてたね)。「最強」の敵に対し、ダッシュは何の手も打ちようがない。
 ミズキはアッコが出演するフルートの発表会場だけは守ろうと、自ら囮となって、イフを公会堂から遠ざけようとする。イフの攻撃に絶体絶命に陥ったミズキの前に、ウルトラマンマックスが現れ、窮地を救う。しかしマックスのマクシウムカノンもまた、いったんはイフを破壊したものの、復活し完全体となったイフに取り込まれた。マックスに向かって放たれるマクシウムカノン。
 やむなく撤退するマックスにダッシュ。公会堂は破壊された。あれだけ健気だったアッコは、ミズキの呼び声にも反応できないくらいに心を失っていた。「ウルトラマンマックスにも何もできなかったのに、ダッシュに何ができるの?」。 イフの無差別攻撃に街は焦土と化し、その炎の中にアッコは泣きながらふらふらとさまよい出ていた……。

 「イフ」は言うまでもなく「戦争」のメタファーである。『ウルトラ』シリーズにはこれまでにも戦争を題材にしたエピソードは散見していたが、それは物語上の設定であるとは言え、「軍隊の放棄」を憲法に明記している日本に常に「防衛軍」が存在している矛盾について、過去のスタッフたちが忸怩たるものを感じていたことの現れでもあったろう。ただ、子供番組という制約もあってか、直接的な形でウルトラシリーズが戦争を描いたことはまだない。過去の戦争が語られるか、背景として提示されるか、隠喩として使われるか。今回はその最後のパターンであるが、ものが「武器」であるだけに、描写としては最もリアルに戦争のイメージを喚起することに成功している。
 特技監督も兼ねた三池監督は、イフに蹂躙された東京の街をまさに東京大空襲の再現として描いた。ご丁寧にも、その街をさまようアッコは防空頭巾を被っている。言葉で「兵器の過当競争は人類を滅亡に導く」と強く主張しても、それはあまりにも繰り返し語られすぎてきたために、人の心に届かせるだけの波及力を失ってしまっている。しかし、映像にはまだその力が残っているのではないか。親が子にこのエピソードについて語るとき、「昔、これと同じことがあったんだよ」と語れるだけのビジュアルが、そこには展開されていた。そのリアリティが、このドラマを基礎からしっかりと支えている。
 アッコは、小休止しているイフの前で、「怪獣さんも音楽は好き?」と言ってフルートを吹き鳴らす。奏でられるのはショパンの「別れの曲」だ。アッコは別に怪獣に対して何かをなし得ると考えて笛を吹いたわけではない。それはどちらかというと自暴自棄というよりは狂気にかられての行動と言った方が妥当だ(このときのアッコ役の佐々木真緒ちゃんの演技、これがまさに何かが憑依したような名演)。しかしそれが奇跡を生む。
 イフはその体内に「音楽」を取り込んだ。そして、アッコとともに「別れの曲」を合奏する。焦土に鳴り響く交響曲。全身、巨大な楽器となったイフは、ウルトラマンマックスにいざなわれて、宇宙に帰るのだ。
 いくつか、今回のエピソードについての感想をネットから拾ってみたが、中には「きれいごとだ」とか「偽善的だ」と非難していた意見が見受けられた。しかし、地球がイフから守られたのは、全くの偶然からである。誰かの尽力が実ったわけでもなんでもない。「一人の少女が地球を救った」と言っても、アッコはナウシカのように信念も思想も持っていたわけではない。危難に際しては誰かが立ち上がるだろうという希望すらもこの物語にはないのだ。
 だからこの結末は「夢」でしかない。戦争という現実の前では、我々は「夢」を見ることしかできないという、極めて冷徹な現実認識を前提として、この物語は成立しているのだ。そこんとこを見抜けないと、この話の結末がどこか「ヌルく」感じられてしまうだろう。
 あるいは絶対平和主義的サヨク思想に基づいて描かれていると勘違いして見えてしまうようである。でもそれって、脊髄反射でありきたりかつシニカルっぽい言質を弄してるだけじゃないかって思うんだけどね。通ぶってるだけのキモオタの意見によくあるタイプよ。
 子供向け番組だからということで三池監督は決して手を抜いちゃいないのだよ。
 これは一つの寓話であり、「理想」を描いた物語ではあるが、決してキレイゴトでもなければ絵空事でもない。戦争という現実が回避されるとしたら、それは「奇跡」でしかないのではないか、という悲しい問い掛けなのである。
 事前に情報チェックはしてなかったので、「素」で見て(オープニングのクレジットを見損なっていた)「何だ、この出来の良さは!」と驚いて慌てて公式サイトを見てみたら三池監督の作品だったと知った次第。だから「名前や経歴」の先入観で誉めているわけではない。来週の『わたしはだあれ?』でも三池監督は続投するらしいが、次はナンセンス・ギャグ編になりそうである。今週の感動編を期待して見ると当てが外れるだろうから、気持ちを切り替えて「これもウルトラ」という気分で見ることにしましょうかね。


 アニメの新番、福岡には殆ど来ないので(『アカギ』も『蟲師』もやらねえぞ。くそ)、多分にふてくされているのであるが、もうケーブルで再放送を見るか、自分でDVDを買うかしかないのである。
 そんな悲惨な状況の中で、『BLOOD+』だけは夕方六時台をゲットできたのは、まあ次の『ガンダム』までの場つなぎだとしても(苦笑)、ありがたいことである。
 映画版『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、押井塾の企画作品として、劇場公開されているが、そんなにヒットしたようにも思えなかったので、こうしてテレビシリーズが作られることになったのは正直驚きである。
 『イノセンス』のProductionI.G制作ということで、つい過剰に期待してしまいたくなるが、映画版がそもそも「日本刀を振り回すセーラー服美少女」というビジュアルがウリになっているくらいで、あとの設定やストーリーは従来のアニメをそんなに一歩も二歩も出たものではない。寺田克也のキャラクターデザインがどれほどアニメに寄与していたかは疑問があるし(頑張ってはいたけど、結局は作画監督のクセがデザインを凌駕している)、横田の米軍基地を舞台にしている設定は目新しいけれども、短い上映時間の中では、その設定を充分に生かして物語が展開したとは言いがたい。
 テレビシリーズになっても、キャラクターデザインの一新、舞台も沖縄に移す、などの変更点はあるが、物語のコンセプト自体は映画版とさほど違いはなさそうである。主人公の音無小夜(おとなし・さや/声・喜多村英梨)が記憶喪失で自分の宿命を知らないとか、「翼手」に襲われ、謎の男・ハジ(声・小西克幸)の導きで「覚醒」する(キスで目覚めるって、イマドキ『白雪姫』の王子様かよ)ってのも、なんだか既視感を覚えてしまう。つか、これってまんま『サルでも書けるマンガ教室』の「イヤッ・ボーンの法則」なんだけど。
 セリフも声優の演技もアニメアニメしてい大仰で、ちょっと辛いものがある。若手はもう人材不足だから仕方がないとしても、小夜を娘として育てている宮城ジョージの声優が大塚芳忠ってのはミスキャストじゃないのか。これなんか、もっと重厚でリアルな雰囲気を出せる声質の人で、津嘉山正種とか屋良勇作とかの役どころじゃないかって思うけれど。
 そんな風にありきたりというか古くさくはあっても、つまんないというほどではなく、結構、「見られてしまう」のは、やはりI.Gならではの作画の美しさに寄与している面が大きいと思う(中身はないけど、「絵」でってアニメは最近多い。『エウレカセブン』とかもね)。しかし絵の面で言っても、オープニングの戦闘シーンこそ、ざらついた画面のデジタル処理と短いカット割りが効果的で、血まみれな小夜の冷ややかな立ち姿が彼女の暗い運命を象徴しているようでゾクゾクするような魅力に溢れていたのだが、本編に入った途端に、目立つほどの絵もなくなって、話がただ流れているだけの印象になってしまう。もっと構図に凝ってみればいいのに、どうしてそれをしないのかなあ。
 それでも背景組織との関連を掘り下げて描いて行くとか、面白くできる要素もないわけではないので、これから先の展開に期待したい。本当に面白くなるかどうかは、まだまだ未知数だろう。


 相変わらずアテにならないオタク分析をやらかしている野村総合研究所(NRI)であるが、以前の分析が一面的に過ぎると思い直したのだろう、再び同オタク市場予測チームが、オタクの特性を分析して再定義して、10月6日に発表した。
 けれどこれがまた細かくなったわりにはやはりピンと来ないのである。
 「オタクはいわゆる「アキバ系」だけではないとし、行動や消費の特性を抽出。アニメやコミックに加えて旅行、自動車マニアなどもオタクに含め、主要12分野のオタク人口を172万人、市場規模を4110億円と推計した」と言うのだが、分野を増やしていけば、規模だって拡大するのは当たり前である。
 昨年の「アニメ」「アイドル」「コミック」「ゲーム」「自作PC」オタクのほかに、新たに「AV機器」「携帯型IT機器」「クルマ」「旅行」「ファッション」「カメラ」「鉄道」(「アイドル」は「芸能人」に変更)を加えた12分野というのだが、ここまで来ると、日本人でオタクでないやつはいないってことになりゃしないか。
 つか、「オタク」って概念はもう一般化しちゃってるので、市場調査のためのキーワードとしては機能してないと判断した方がいいように思うけどね。
 「オタクの定義は時代とともに変化してきた」という同社の指摘は、一応、納得できはするのである。しかしそこで「オタクはすべての趣味分野に存在する」と言ったんじゃあ、まさしくこの分析が無意味だということを自分たちで肯定しているようなものだ。結局、「何が当たるか分からない」不安定な市場である点ではどの分野も変わりはしない。
 更に、同社の解説する「オタクの再定義」も、当たっているようで微妙にズレがあるように思えてならない。
 (1)こだわりの対象に対して、所得や余暇時間のほとんどを費やす「消費性オタク」
 (2)「自分の趣味を周りに広めたい」「創造活動をしたい」と考える「心理性オタク」
 この2種類の特性を兼ね持つ人をオタクと定義する、というのだが、ガンダムが好きだと言ってるくせに、ファーストシリーズは見たことなくて、レンタルして見るのも面倒くさいなんて言ってたやつを私は何人も知っている。いや、総体的に、好きなものに対してすら金を出し渋るオタクは腐るほどいるのだ。同人活動やってるくせに、「自分の趣味を人に知られたくない」「オリジナルは描けない、パロだけ」なんてオタクはオタクの一典型だと思うが、これも野村総研の定義からは外れてしまう。
 アンケート調査の結果を分析して得られたオタク層に共通する行動特性というのも部分的な指摘でしかないと思う。
 (1)他人に良さを理解してほしいと思う「共感欲求」
 (2)何でもそろえたいと感じる「収集欲求」
 (3)自分の意見を広めたいという「顕示欲求」
 (4)自分なりの考えを持ちたいという「自律欲求」
 (5)オリジナル作品を作ったり、改造したりする「創作欲求」
 (6)気の合った仲間にだけ分かってもらえばいいと考える「帰属欲求」
 孤独なヒキコモリオタクはこのどれにも当てはまらなかったりするな(笑)。
 ちなみに、私の場合も(1)~(6)のいずれも希薄だ。こんな日記を書いているから、よく誤解されるのだが、私は自分の意見を他人に強制したいがために日記を書いているわけではない。私は自分の「仮説」を元に、内的シミュレーションを試みているに過ぎないのである。
 (1)については論外である。視点を変えれば作品のよさなんてものはどうにでも変わる。世評に対して異議を唱えることを私はよくやるが、理解してほしいと思ってやってるのではない。
 (2)はほとんど「作品」のみに限られ。グッズ類は殆ど買わない。マグカップやTシャツを買うのは、それが「使える」からである。
 (3)なんて面倒くさくてやりたくない。それをやりたいなら、私はもっとあっちこっちのサイトや掲示板に顔を出して益体もないことを喋っていたろう。
 (4)は人なら誰でも持ってる程度のものである。それに、闇雲に他人と差別化を図ろうと思っているわけではない。「常識」はこういうもんだろう、と私としてはフツーの意見をいってるつもりなのである。
 (5)は戯曲や小説を書いたり、たまにマンガも描いたりするので確かにあるのだが、さてこれは「欲求」なのかどうか。想像力と創造力は生きる力に等しい。これがない人間はそもそも人間として生きていくこと自体が苦しいと思うが。これをオタクの定義とするなら、私は幼稚園児のころからオタクだったことになる。
 (6)も何だか寂しい定義である。誰かに分かってもらいたいと思った時点で、自分の意見は価値がなくなると思っているので、これも私には当てはまらない。
 ここまで来ると、これはオタク分析というよりはあてずっぽうの占いみたいなもんだと言うしかなくなる。欲求の度合いによって、結果的にオタクは次の5パターンに分類できると言うのだが、さてそこの自分が「オタク」だと思っているみなさん、あなたはどのタイプだと思いますかね。私はどれにも当てはまりませんから、オタクではないのでしょう(笑)。まあ、人からどう見られてるかは分からないけどね。

 (1)「家庭持ち仮面オタク」
組立PCやAV機器などを中心に幅広く分布し、小遣いをやりくりしながら家庭内でこっそりと趣味に没頭。オタク趣味をカミングアウトしない傾向にある。旅行分野にも多く、趣味を兼ねて子どもをあちことに連れ回すお父さんが典型例。
 (2)「我が道を行くレガシーオタク」
独自の価値観を持ち、情報収集と批評を展開。20~30代の男性に多く、PCやAV機器、ITガジェット、クルマ、カメラなどメカ系と、芸能人分野を中心に分布している。
 (3)「情報高感度マルチオタク」
自分のこだわりに対して屈託がなく、カミングアウト率も高い。流行に流されやすく、他人を気にする傾向にある。女性が多く、複数の分野にまたがっているのが特徴。コミュニティーサイトやネットオークションが大好きで、2ちゃんねるのライトユーザーという人物像があてはまる。
 (4)「社交派強がりオタク」
独自の価値観を強く持ち、それをみんなに知ってもらいたいと考えて他人を巻き込もうとするタイプ。ガンダムやドラクエの世界観を引きずり、それに気づかずに30代になってしまった大人が典型例。
 (5)「同人女子系オタク」
コミックやアニメに登場するキャラクターへの愛着が強く、同人誌など創作活動への参加率が高い層。友達に隠れてひそかに持っていた趣味を大人になっても続けている同人誌フリークの女性が典型例。男性でも「アキバ系」「萌え系」がこの層に含まれる。

 しかし、どれにも当てはまらないとなると、私ってただの「研究者」なんだろうか。

2002年10月08日(火) 妬み絡みがせからしか/『キャラ者2』(江口寿史)ほか
2001年10月08日(月) これは戦争ではない。……まだ。/映画『クイーンコング』/『カムナガラ』3巻(やまむらはじめ)ほか
2000年10月08日(日) V2余燼/映画『X‐MEN』ほか


2005年10月07日(金) だから女にモテねえんだ/ドラマ『慶次郎縁側日記2』第1回「雪の夜のあと」

 正直、触れるのも面倒くさいことだが、まあ、こないだから引き続いている件なので、「結末」は書かないわけにはいくまい。
 劇団メンバーのカトウ君が、ブログ日記を削除したようである。
 それはもちろん当人の自由なのだが、リンクを貼っていた私や劇団ホームページに対しては「日記辞めます」など一切の連絡がない。口も利きたくないということなのかもしれないが、日ごろ偉そうに人の道を説くような発言を繰り返しておきながら、ケジメの付け方も知らないというのは平仄が合わない話である。
 他人の粗探しはしても、自分は傲慢な態度を取っていいって言うの? それとも単にヘタレだから何も言わずにこっそり逃げることしかできないってわけ? 他人には厳しいのに自分のこととなるとこういう根性なしと言うか、ヘタレな態度しか取れないというのは、言行不一致とというか、卑怯者の烙印を押されたって仕方がなかろうと思うがね。
 フタコト目には「自分の気持ちを分かってもらえない」なんて泣き言を連ねるのだが、他人に甘えたりすがったりするくせに虚勢だけは張るような態度を取っていれば、誰もその気持ちを忖度してやろうなんて気にはならなくなるものである。まず自分が他人の気持ちを思いやれたことがあったのかどうか、少しは考えてみたらいいと思うのに、自分の中の規律が常に一番だから、自分では「思いやれてる気になっている」だけなのである。相手にしてみればただの「余計な御世話」でしかない。
 ズレた発言を繰り返してみんなを当惑させていながら自分だけがその現実に気付いていないということもどれだけあったか。こちらからの問い掛けにはマトモに返事を返さないくせに、自分が相手にされないと拗ねるという自己矛盾をやらかしていながらそれに気が付かないと言うのは、根が「駄々っ子」だからである。
 何が情けないって、終わってしまったことをいつまでもウジウジと根に持ち続けるあのネクラぶりなんだよね。以前、カトウ君の具合が悪かった時に、しげや下村嬢がカラオケに誘ったことを未だに「自分の気持ちを分かってくれなかった」と恨みに思っているらしい。しげたちだって、来れると思っちゃいないが、寂しそうな返事をカトウ君が返してくるからあえて誘いのメールを送っていたのだ。そんな人の心の機微も分からんやつが逆恨みするとは、人間の器が小さいと言うか、幼稚と言うか、結局はただの馬鹿である。
 自分の馬鹿っぷりににいい加減で気が付けよと指摘もしてきたのだが、最後まで何も理解できないままにケツを割ってしまったようだ。仲間だと思えばこそキツイことも言ってきたのだが、これはもう処置なしだと判断するしかあるまい。
 なあおい、カトウ君よ、もう読んでないかもしれないが、メール送ってもマトモな返事が返らないからここで言っとく。そんな負け犬根性しか持てねえから、ろくでもない女に振り回されてばかりいるんだよ。女見る目もねえやつが人を語ってんじゃねえや、おこがましい。でもどうせ馬鹿晒すことしかできないんだろうから、勝手にやってなさい、わしゃもう知らん。


 劇団「改・FREE’ズ+」の冨田さんがお引越し。
 テレビがまだないと言うので、うちの使わなくなったテレビをご進呈することにしたのだが、それを仕事帰りに冨田さんのアパートまで運び込むことになった。何しろかなりデカくて重いので、さすがにしげと冨田さんの二人では運びきれないという話だったのである。
 「エレベーターがないんだって、引っ越し先のマンション」
 「今どき? バリアフリーはどうなってんだよ」
 「知らないの? 三階建て以下ならエレベーター付ける義務ないんだよ」
 「そこ、三階建てなのかよ」
 「さあ、知らん。五階だったら死ぬね」
 実際に行ってみたら、六階建てで、冨田さんの部屋は五階だった。言っちゃなんだが、築二十年を越していて、耐震建築も怪しい感じなので、バリアフリーも糞もないのである。
 腰がちょっと死んだが、とりあえずテレビは点くようだった。しげが車に運ぶ時、一度落としたとかで、壊れていないかどうかちょっと心配だったのである。

 そのあと、階下のカレー屋で食事。
 富田さんが客演する劇団ぎゃ。の公演『裏庭』の話などを伺う。
 前回の公演を見た時に、「不具者、奇形、片輪者ばかりの娼館」という、度胸のある舞台設定が面白かったので、どこから発想したのか聞いてみると、やはりトッド・ブラウニングの映画『フリークス(怪物団)』を原作者の野田和佳菜さんがごらんになっていたということである。映画やテレビではとてもできない題材なので、うまく仕上がればこれはなかなか面白い舞台になるだろう。しげの分と二枚チケットを購入する。
 11月13日(日)、若松市民会館で、北九州演劇祭に関連しての公演である。ご興味のある方はぜひどうぞ。

 楽しい会話のあとは、「カトウ君は何やってんだろうねえ」という暗い会話(笑)。「芝居やりたい気持ちはあるみたいなんだけどねえ、『自分には芝居をやる資格はない』とか言い出すし」「芝居って資格でやるもんかね」「そういうことを言い出すやつは芝居に向いてないよ」とか散々である。
 結局、カトウ君は「自分で自分の首を締めているだけ」という寂しい結論を出して冨田さんとお別れ。


 NHK金曜時代劇『慶次郎縁側日記2』第1回「雪の夜のあと」。
 北原亞以子原作の時代小説シリーズのドラマ化第2弾。
 前シリーズはチェックし損なってたんだけれど、この第2シリーズ第1話を見てみると、なかなか骨太で見応えのある佳作だったので、見損なってたのは残念だった。高橋英樹は、時代劇役者としては、私の中では『桃太郎侍』よりも『ぶらり新兵衛道場破り』や『おらんだ左近事件帳』の人だったんだけれども、森口慶次郎のような、これだけ深みのあるキャラクターを演じきれる人だとは思っていなかった。文句なしに高橋英樹の代表作と言っていいと思う。
 前シリーズで、登場人物たちの背景は既に描かれているわけだけれども、「おさらい」的な語りや回想シーンが挿入されているので、この第2シリーズから見始めてもさほど支障はない作りになっている。おかげで多少説明的になっている欠点はあるのだけれど、今回初めて見た私のような視聴者にはありがたい心配りである。

 元南町奉行所同心の森口慶次郎(高橋英樹)は、家督を養子の晃之助(比留間由哲)に譲って、江戸・根岸の里で商家の寮番(別荘の管理人)を務める隠居暮らし。晃之助の妻の皐月(安達祐実)は出産を間近に控えて、森口家は至極平穏無事に見えていた。
 ところがそんな慶次郎の前に、かつて彼の娘・八千代(岡本綾)を乱暴し、自害に追いやった男・常蔵(若松武史)が現れる。彼と娘のおぶん(邑野みあ)は、手先の辰吉(遠藤賢一)の手によって、慶次郎から身を匿われていたのだ。しかし、常蔵の女出入りは変わらず、大工見習いの母親(工藤時子)と大店の娘(稲田みづ紀)が常蔵を奪い合っていた。慶次郎の心の中に、常蔵への憎しみが再び沸々と湧きあがってくる……。 

 「仏の慶次郎」も、相手が自分の娘を死に追いやった張本人ともなれば、自らの心をどうにも律しきれない。そんな慶次郎の心を弄ぶように、常蔵は何一つ反省の色を見せずに女を犠牲にして行く。しかしそんな常蔵を「悪党」として断罪するのならこれまでの「勧善懲悪」ものと何の変わりもない。
 常蔵は自らの過去に縛られたまま、そこから抜け切れない業を背負った存在として描かれる。常蔵は慶次郎から憎まれることでしか自分の罪を責められなくなってしまっている。だから慶次郎に向かってせせら笑い、「殺してやると言ってみろ」と挑発する。そして慶次郎が「殺してやる」と言えば「生きてやる」と言い返すのだ。常蔵はだらしない男だ。人の情けを食いものにするダメな男だ。人間のクズだと言ってもいい。けれど、そのようにしか生きられない不器用な男でもある。そしてそんな彼にもまた、人間としての矜持がある。だからこそ、慶次郎に憎まれようとするのである。
 慶次郎もまた、そんな常蔵を憎もうとして憎みきれない。そして自分もまた「仏の慶次郎」などと呼ばれるほどの人間ではないことを自覚し、当惑する。常蔵と慶次郎との間に、人間的な差異などない事実を認識してしまうがゆえに、困惑するのだ。
 若松武史と高橋英樹。この二人の役者が、その複雑カツ深い心理の応酬を見事な演技で魅せる。いやホント、前シリーズから見ていなかったのがつくづく惜しまれる。スタッフは時代劇であることよりも現代劇を意識してこのドラマを作ったということであるが、これ即ち普遍的な人間ドラマを作ろうとしたということでもある。
 慶次郎の傷つき憎しみに苛まれた心を慰めようと、皐月が生まれた子に「八千代」と名づけるラストシーンも清々しい。あの年も、この年も、雪が降っていた。しかしその雪は、陽射しとともに溶ける雪なのである。

2004年10月07日(木) がんばったけどこの程度しか書けなかった日記
2002年10月07日(月) ○まみれ観音様(^_^;)/『ヒカルの碁』19巻(ほったゆみ・小畑健)
2001年10月07日(日) 新番紹介お休み・有朋自遠方来/映画『陰陽師』ほか
2000年10月07日(土) V2/ムック『本多猪四郎全仕事』ほか


2005年10月06日(木) どういう風の吹流し(笑)/ドラマ『赤い運命』最終回

 イッセー尾形さんのホームページに、小倉ワークショップの三日目のレポートがアップ。
 大半は私が見ていない昼の部の説明だったので、参加できなかった悔しさが募ることは前二日のレポートを見た時と同じ。
 内容は主に年長者のKさんについてのことであるが、「目の前にあるものを言え」との森田さんの指示に、素直に「空が青いなあ」と言って、みんなに大受けした様子が報告されている。その素直さぶりをほかの人たちはなかなかマネできない。
多分、他のワークショップ参加者も気が付いていないことなのではないかと思うが、Kさんのあの「味」は、「天然ではない」のだ。
 公演初日だったか、Kさんの舞台でのお父さん役が実に堂に入ったものだったので、私は楽屋で、Kさんに、「このワークショップには去年も参加されたんですか?」と伺ったことがある。するとKさんは、「森田さんのは初めてですが、演劇活動はもう二十年もやっております」と、厳としておっしゃったのだ。
 Kさんのあの「味」は、長年の鍛錬で培った、天然のように見せかけている「演技」だったのである。それが証拠に、Kさんの「天然演技」は、三日間とも、相手役のセリフが多少変わっても、即座に絶妙のタイミングで返されて、観客に受けていた。「こう言えば受ける」という計算がちゃんとなされているのである。
 何と言えばよいものやら、つくづく、凄い方たちと舞台を作ってきたものである。昼の部から参加していたら、きっとKさんとも一緒に組んでみたいと思っただろうが、いかんせん、悲しきはハタラキバチのこの身である。こういうときはしげのような主婦が羨ましいと心底、思う。
 レポートには練習中の写真もアップされているのであるが、殆どが昼の部の写真なので、私は映っていない。東京のグータロウ君が、レポートを見て、何を勘違いしたのか、「映ってたねえ」とメールを送ってきた。どうやら、映画館のシーンでしげと組んだTさんを私と勘違いしたようなのである。
 まあねー、Tさんも私も、同じようにメガネかけてて太ってるからさー、似てるっちゃ似てるんだけどさー、ぶっちゃけ(笑)グータロウ君はムニの親友だと思ってたのに、まさか他人と間違えられるとは思ってなかったんだよねー。どーせその程度のヤツだとしか思われてなかったんだなーって思うとさー、なんかショックっつーかさー、超ブルー?って感じー。フンだ。
 というのは冗談だが、一応、このウラミツラミは一生忘れないので(笑)、そのうち何か代償を求めてやろう。まあ、娘さんが大きくなったら人身御供に差し出して、メイドカフェで働かせて貢がせるから覚悟しろとまでは言わないので安心するように。


 紀宮さまのご結婚がいよいよ近づいているせいだろう、「車の仮免を取られた紀宮さま」とか、ニュースもあれこれと喧しくなって来た。正直、そんなんまでニュースにしようってマスコミの姿勢が私にはよく分からない。国民はそこまで皇室のプライベートを知りたいと思ってるわけじゃないと思うんだがねえ。「紀宮さまは車の免許を持っている」なんて、トリビアにすらならんだろう。
 紀宮さまに対して、国が支給する「持参金」(正式には「一時金」というそうな。どうして「持参金」と言わないかは何か意図がありそうだが、これもよく分からない)が、限度額の1億5250万円とすることが決まったとか。
 テレビニュースでは、「そんなに貰えるんですか!」とビックリして羨ましがるサラリーマンの姿が映し出されたりしていた。確かに、庶民にはそもそも「持参金なんてない」状態でヨメに行く人も多かろうから(うちのしげがまさにそうだな。全くの無一文で転がり込んで来たぞ、あいつは)、そういう反応が出てもおかしかない。けれど、この金額、皇室関係者の持参金としては決して高いとは言えないと思うのである。だって、税金から払われるったって、国民一人あたりの負担は一円程度なんだよ? 我々は一円すら、出し渋らなきゃあならんのかね。
 審議会では、「東京で一戸建ても買えない額は少ないのではないか」という意見も出たそうだが、貯金したとしても、一億五千万程度の額では利子生活は無理である。皇族を離れた方の老後までを保障した額だとはとても言えないだろう。
 それよりも、皇室典範の見直しが進む中、紀宮さまが結婚で皇族の身分を離れることについて、「時代にそぐわないのではないか」などの意見が出たということの方がより重要な問題だよなあと思うのである。
 正直、私は、現在の皇室があのような形で「持っている」ことは奇跡に近いと思っているのだ。皇室に生まれたという「宿命」を背負ってなお、殆どスキャンダルらしいスキャンダルも起こさずに来ているという現状、たまに不穏当な言動が新聞や雑誌を賑わすことはあっても、外国の王族のように浮気がどうの不倫がどうのなんてことはまるでない(実際にはあっているのに緘口令が敷かれているという仮定は考えにくい)。あんな窮屈な立場に置かれたら、私だったら気が狂う。よくぞ堪え難きを堪えてきたかと感心するしかないのだ。
 その意味で、私は、天皇家が「日本人の象徴」であることについては、いささかも反対の意を表明するものではない。あれが日本人の典型だと言われれば、実際にはそんなことはあり得ないだけに、逆に嬉しくてありがたく感じるのである。
 だから紀宮さまが結婚しても皇族から離れないような措置が取られればいいなと思う。名目上は庶民の立場になっても、「元皇族」である以上は、その肩書きが消えることはないのだから、実質、皇族であり続けた方がマシに決まっているのだ。法改正が間に合わないと言うのであれば、せめて一生、生活が困らないような措置は、取られてしかるべきだと思うのである。
 一円どころか、十円出したっていいよ。だから幸せになってほしい。


 さて、何度かこの日記でも紹介してきた福岡の「メイドカフェ」事情であるが、いつの間にやらあっちに一店舗、こっちに一店舗と、徐々にその数を増やしつつあるようである。時代はメイドカフェ。ホントか?
 こういう「現象」自体は面白いので、いろいろと知る限りのことを紹介して来ているのだが、そもそも私はメイドカフェの宣伝をすることが目的ではないし、キーワード検索で通りすがりさんに来られたって有益な情報はないのである。だから店名は紹介しないが、諒とせられたい。
で、天神に出現した2件のメイドカフェ、互いに競合し差別化を図りながら人気は上々の模様だ。
 新しくできた方のメイドカフェは、今度の連休に「体育祭イベント」と称して、「体操着に鉢巻にハーフパンツ」のウェイトレスさんが、おにぎり弁当にお好みのソースをかけてくれるそうである。確かに妄想を逞しくして、自分が高校の体育祭でリレーの選手か何かになって、彼女から「頑張れ。君ならやれるよ」とか何とか激励されてる気分になれでもしたら、それはちょっと嬉しいシチュエーションかもしれない。もっとも、それなら客の方も体操服に短パンじゃなきゃ感じが出ないと思うが、私がそんなコスプレをして店に入ったらどこぞに通報されてしまうだろう(笑)。いや、誤解しないでほしいが、私はメイドカフェに行きたいわけではない。あくまで一つの、現代を象徴する現象を観察し考証する意味で(後略)。だから行きたい人は行きなさいね。
 更には祇園や中洲にもメイドカフェは出来ちゃったようであるが、中洲のは繁華街なだけに必ずしもオタク仕様ではないようである。やっぱり福岡のオタクな町は天神なんだねえ。


 さて、今日もまたスパムメールが届いたのだが、どうも先日、ワケワカランとこから来てたのとどうやら同じ差出人らしいのである。けれどもその文面は、似ているようでいて、ちょっとまた工夫が凝らされていたので、また話のタネに掲載させていただく。

> 貴方の掲示板メールボックスに新着メールが届いておりますので、早急に確認をお願い致します。アドレスと写真が添付されているのですが、プライバシー情報保護の為、一応簡単な完全無料な手続きを行った上でご確認下さい。迷惑でしたら、お詫びをさせて頂きます。
> http://www.lovegal×××
> 【メール 6985】
> 配信元:佐藤 あゆみ (34歳)
> *添付ファイル:システム削除
> 本文:『結婚して11年、月日の経つのは早いですね。毎日、今まで私は何の為に頑張ってきたんだろう??なんて色々と考えています。日常に僅かな刺激を求めているのかもしれません。年齢的には遅いかもしれません。。。でももう一度女性として過す時間があってもと最近思えて仕方ありません。普段の自分を捨てて新しい自分に変化したいです。こんな私でも気に掛けてくれる人ならお返事を待っていますね。あっ、私からの指定なので、私が費用負担するというのが当然ですよね、相場はいくら位かなぁ~』
===========================================================
> ※必読み:当グループの規約により、女性会員に指定された方は全て登録無料となっております。その他、一万円分お得(無料ポイント1,000点)も用意しておりますので、必要であれば、気軽にご利用下さい。
> http://www.lovegal××× 円
> このメールで不快でしたら、お手数ですが下記アドレス迄お送り下さいますようお願い申し上げます。Please inform the following address if this mail is unnecessary.
> nomore@lovegal×××

 普通のメールが来たかのように装ってるけれど、「簡単な完全無料な手続き」ってところでもう馬脚を表してしまっている。もっとも、文面がマジメなんで、うっかりクリックしちゃう人も出るだろうと思われる。でも「lovegal」なんてアドレスなんて怪しいぞ、と気が付いてもらいたいところだよねえ。
 「佐藤あゆみ」さんはどうやら第二の青春を謳歌したいもののようだが、世の中には早いとこ若隠居したいような男もいるのである。相手を間違えたとしか言いようがないので、そのへんでサカってる犬でも見つけて寂しさを紛らせていただきたいと思う。
 この手のスパムメールが出回ると、たいてい日記などで晒しものにされるところだろうが、これはまだあまり見かけないようだ。万が一、引っかかったりしないようにご注意を促すものである。


 しげがまた何だかヘンである。
 いや、しげがヘンなのはいつものことなのだが、日記にやたらダウナーなことを書いているくせに、気分はやたらハイなのだ。 
帰りの電車がダイヤ改正で早めに駅に着くようになったので、迎えに来たしげも何だか嬉しそうである。
 「今日はオレ、『何があったん?』ってくらい偉いよ」と言うので、いったい何が堂偉いんだ、と聞いてみたら、「洗濯もしたし、食事も作ったし、ゴミまで片付けて、しかも風呂にも入れるかもっていう」と言うのである。
 「そりゃ偉いなあ。どうしていきなりそんな気に」
 「なんか急にやりたくなったと」
 「じゃあ、昼間は働き尽くめか」
 「暇な時はテレビで『ラーメン刑事』見てたよ。それから『はぐれ刑事』も三本続けて見た」
 そんなの見てたら軽く5時間は掛かるんじゃないか。何かやたら家事をしたってのも眉唾だなあと思ったのだが、帰宅してみたら、見違えるほどにというほどではないが、確かにゴミなどを片付けた様子はあった。もっとも、風呂場はまるで掃除してなくて排水溝も詰まったままだったので、採点するなら50点というところだろう。それでもいつもは13点とかマイナス20点なんてのが相場だから、これでも進歩したといえば言えるようである。これが持続していけば問題はないのだが、たいてい、三日坊主で終わるので、あまり喜んでもいられないのである。


 ドラマ『赤い運命』最終回。
 これでオチをつけなきゃならないので、CMごとに急展開と言うか、もう物語は大爆走である。

 綾瀬はるかを引き取ろうとする榎木孝明だけれども、船越英一郎は当然、反発する。玉木宏と綾瀬はるかを結婚させる気なのだと邪推した佐藤千亜妃は非行に走る。紺野美沙子を榎木孝明に取られるのではないかと嫉妬した渡辺いっけいは、自暴自棄になって路上に飛び出し、車に撥ねられて死ぬ。突然現れた岡まゆみは、佐藤千亜妃に自分が本当の母親だと真実を告げて、彼女を自殺未遂に追い込む。船越英一郎は戦時中の恨みを晴らすため、筒井康隆暗殺を目論むが、突き出された短刀の前に飛び出したのは綾瀬はるかだった……。

 あえて役名ではなく役者名で筋を書いてみたが、役者同志の絡み合いがいかにものすごかったかを、役者の顔を思い浮かべてもらって想像していただきたかったからである。
 船越英一郎がどうして筒井康隆を暗殺しようとしていたかは、「シベリア抑留」が背景にあったことが理由として語られる。彼が少年義勇軍として戦地に取られた後、軍を立ち上げた張本人でありながら、敗色濃厚となると少年兵たちを見捨てて日本に逃げ帰ったのが筒井康隆であったのだ。抑留中に死んで行った仲間のためにも、船越英一郎は復讐を誓っていたのである。
 実際に抑留を行ったソ連に対してよりも、一切責任を取ろうとしない同胞の指導者たちの方にウラミが向くのは、原案の佐々木守が典型的なサヨクであるせいだろうが、おかげで物語が後半になればなるほど説教臭くなって行くのには閉口した。船越英一郎を「国家の犠牲者」として描く視点は、必ずしも間違いではないが一面的である。
 思想を語ることがいけないとは言わない。しかし、それがドラマとしての工夫を経ることなくストレートにメッセージとして語られた場合、視聴者はたいてい「俺は別に説教を聞きたいわけじゃない」「裏切られた」と感じてしまうものだ。もう少し脚本を練り直す余裕がなかったわけではなかろうと思いたいが、そういうわけでもなさそうなのが残念である。

2004年10月06日(水) 読みとばしてもいいけど、ちょっとだけがんばって書いた日記
2003年10月06日(月) 追加日記5/『名探偵コナン スーパーイヤー2時間スペシャル/集められた名探偵! 工藤新一vs怪盗キッド』ほか
2002年10月06日(日) 再見、東京/『ガンダムSEED』第1話ほか
2001年10月06日(土) 新番……第何弾だよ/『星のカービィ』第1回/『ヒカルの碁』(ほったゆみ・小畑健)14巻ほか
2000年10月06日(金) 詳しくはコメディフォーラムを見てね


2005年10月05日(水) 災厄の日/ドラマ『赤い運命』第二話

 朝、起きたら、異様に寝汗を掻いている。
 下着がべとついて気持ちが悪いので、脱ごうと思うのだが、手足が痺れていて起きられない。時計は7時を回っているから、もうそろそろ仕事に出かける身支度をしなければならないのだが、頭痛が激しくて、とてもそんな段ではなさそうだ。
 風邪とはちょっと症状が違う感じだが、原因がなんだかよく分からない。最近、夜中によくしげに起こされているから寝不足は多少影響しているかもしれない。手先の痺れは、糖尿病のせいだろう。どうやら、血液がまたべたつき始めたようだ。
血行を良くしようと風呂に入る。少し気分はよくなってくるが、すぐに出勤というわけにはいかなそうだ。しげに頼んで、職場に遅刻の電話を入れてもらう。一日休んでいたいところだが、仕事が立て込んでいるのでそうもいかないのである。

 2時間ほどして、何とか痺れも取れた。頭痛は残っているが、この程度なら我慢できないほどではない。ちょっとイライラする程度である。出掛けにテレビで血液型占いが、「今日のB型は最悪」とか言ってやがる。言われなくても、現状を見ればその通りである。
 フラフラしていたので、しげに貰った昼の弁当を、玄関先に置き忘れてしまった。仕方がないので今日は昼飯抜きである。最悪はちゃんと始まっている。
 しげに車で最寄の駅まで送ってもらうが、駅の階段を昇り降りするのも億劫だったので、「職場まで直接送ってもらえないか」としげに頼んでみた。即答で「道が怖いからイヤ」と拒絶された。こちらが苦しい時でも、気遣ってくれる気持ちはこいつにはないのである。まあ分かっちゃいたことだから今更恨みはしないが、しげへの愛情も自然に目減りするのである。
 這う這うの体で職場までたどり着いたが、もちろん仕事はわやくちゃである。体調が戻ったら、何とかフォローしなきゃなるまい。

 ひと仕事終えて、休憩していると、飯塚コスモスコモンから電話。
 「公演のチケット代を振り込んでほしいんですけど」とのこと。
 実は昨日、飯塚までタンゴの公演を見に行く予定だったのだが、案の定、しげが愚図って、出かけるのを中止してキャンセルしていたのである。事前にキャンセルしても代金は払わなきゃならないとか聞いていなかったので、ほったらかしといたのだが、どうやらあちらの連絡ミスだったらしい。連絡ミスでも払わなきゃならないものは払うしかないので、一両日中に、と返事をする。
 ああ、やっぱり今日は厄日だ(涙)。外は小雨がぱらついている。

 
 福岡市が本気でオリンピックの招致に動き出したそうである。
 東京の石原都知事が「敵ではない」「治安の問題がね」とか言い出したんで、福岡の山崎広太郎市長が怒り心頭に発している様子であるが、確かに犯罪都市東京に福岡の治安のことを言われたくないなとは思うものの、かと言ってオリンピック招致なんて別に市民は望んじゃいないぞというのも大半の市民の本音だろうと思う。
 だいたい、福岡のどこにマトモに世界の選手を呼べるだけの競技施設があるってんだ。これから作るのか。そのカネ、誰が出すんだよ。
 博覧会とかオリンピックとか、要するに客寄せである。市政も県政もそれなりに文化振興とか体育振興とか、考えちゃいるんだろうけれども、モノには分相応ということがある。花火打ち上げたはいいものの、人家に落ちて大火事なんてことになりそうな気配が濃厚じゃないか。やめとこうよ、ねえ。


 アドレス変更してから、スパムメールはほぼ全くと言っていいほど来なくなっていたのですが、久しぶりにこんなのがきました。

> お忙しいところ申し訳有りませんが、< http://www.livedear××× > の地域異性紹介を担当している早坂友子と申しますが、今回地域紹介対象募集の件についてご連絡させて頂きました。
> 今回のご招待にあたって、当社は以下の約束を守ります。
> ■当社からのご招待ですので、配信されたアドレスでの登録料及び招待料など一切無料と設定させて頂きました。それだけではなく、≪1,000円分≫のサービスポイントも登録直後に自動追加と致します。更に℡確認(不正請求などの悪用は一切ございませんので、ご安心下さい)を行った直後、大量(12,000円分)の無料ポイントも24時間対応で追加致します。
> □貴方の登録情報を同地域異性へ随時通達致しますので、異性からのメールが直接貴方の方に届きます。当番組では異性全ての情報を確認可能となっております。
> ■男性の方なら、毎日希望地域から最低1名の逆×助希望女性を無料でご紹介致します。(当番組にご紹介された場合は最低金額5万になっております。)
> 権利開始→ < http://www.livedear1.××× >
> ※人数限定のご招待ですので、自動廃棄と認めた場合は権利回収となりますので、なるべくメール開封して24時間以内にご登録を完成するようお願い致します。
> 拒否は此方(Please inform the following address if this mail is unnecessary.)
cancel×××

 文面が硬くて事務的なんで、一瞬、何かのマジメな通知書なのかな、と錯覚させるのがミソだね。昔の「知り合いのフリする間違いメール」よりも進化はしてるけれども、女性は別に紹介してもらわなくていいので、申し訳ないけど無視させていただきます。拒否メールも送りません。
 スパムメールも手を変え品を変えであるが、普通の常識を持っていれば、引っかかることはまずない。逆に言えば、こういうのに引っかかる人というのは、やっぱり心の中にどこか隙間風が吹いているのを感じているからなんじゃないかと思う。
 「異性」というキーワードを見てついクリックしちゃうのは、よっぽどツライ目にあって、冷静な判断力をなくしちゃったんじゃないかと思うが、そこの引っかかったことがある人、その時どういう心理だったか教えちゃくれないかね。いや実際、どうしてこんな簡単なトリックにコロリと騙されちゃうのか、ワケがわからんのだ。


 読売新聞に以下の記事。

> 福岡県飯塚市の芝居小屋・嘉穂劇場を舞台にしたNHK福岡放送局制作のドラマ「いつか逢う町」(仮題)の撮影が4日、始まった。同劇場で行われた顔合わせで、主人公の畳職人を演じる永島敏行さんは「中年の迷いを演じ、人々の記憶に残る作品にしたい」とあいさつした。
> 転職で古里を離れることを考えていた畳職人が、大衆演劇が好きだった父の幽霊と出会い、古里の良さを再認識するストーリー。幽霊役をイッセー尾形さん、主人公の妻を藤吉久美子さんが演じる。
> 同放送局は2002年から毎年、「福岡発地域ドラマ」を作っており、今回はその4作目。ロケは同劇場や周辺市町などで26日まで。放送は12月の予定。

 NHKの地方放送局がドラマ制作を行っているのは、これまでは東京・名古屋・大阪だけだったのだが、記事にある通り、三年前から福岡も地元を舞台に、役者も地元出身の役者さんを主に使って良質のドラマを送り出している。
 過去の作品は、『うきは -少年たちの夏-』『玄海 ~わたしの海へ~』『我こそサムライ!』の三本で、このうち、『玄海』は私も見た。中村有志さんが出演していたので、そちら目当てで見たのだが、原田大二郎の方が骨っぽい男を演じていてインパクトがあった。
 地方発の物語となると、郷土愛のあまり、どうしても「都会対田舎」みたいに図式的な、『青春の門』か『おもひでぽろぽろ』か、みたいなステロタイプに陥りがちである。下手をすると、故郷を無条件に賛美しただけの、底の浅いものになりかねない。
 この「福岡発地域ドラマ」シリーズ(思いっきりストレートなタイトルである)も、その傾向はないわけではないのだが、主に若手の新人俳優を主役に据えて青春ドラマとして仕立てていたことで、その新鮮さが物語の陳腐さをかなりカバーしていたように思う。
 しかし次回作は完全に「大人」の物語になりそうである。水害から立ち直って再建なった(私も些少ながら寄付はさせていただいた)嘉穂劇場を舞台に、というのは実にいいアイデアだと思うのだが、「古里の良さを再認識するストーリー」といういかにもありきたりな解説がちょっと気になるところだ。しかも「幽霊」が登場するというのは、良い方向に傾くかどうか、微妙なところである。即ち、超自然的な存在は、得てしてデウス・エクス・マキナとして機能してしまうからだ。物語のカタをうまいことつけるための便利屋みたいに「幽霊」を使われたんじゃ困るよなあ……なんて思いはするのだが、これは全てまだ見ぬ段階でのただの憶測。
 作品はともかく見てからでないと感想も批評もできるものではない。とりあえずはイッセーさんがどんな「演劇好きの幽霊」を演じてくれるのか、それを楽しみに放送を待ちたいと思う。


 ドラマ『赤い運命』第二話。
 一年分のストーリーを三話に圧縮するのだから、ヒロインがもう自分の取り違えの事実を知ってしまう。綾瀬はるかのデクノボー面は何とかならんかと思いながらも、まあデクノボーだから船越栄一郎がどんなに横暴でも娘として耐えていられるのかなあとか変な納得の仕方をする。
 設定上で文句を付けるとするならここで、そこまで実の父親でもない人間に入れ込むのなら、やっぱり子供の取り違えは幼児のころとして、船越栄一郎をハッキリと「育ての親」としておいてもよかったのではないかと思うのだが。でないと、ヒロインがいい子ちゃんになりすぎて、かえって感情移入を拒んでしまうのである。 今回は渡辺いっけいの狂いっぷりが第一話以上に目だっていて楽しい。記憶喪失で自分の妻になった紺野美沙子が、元夫の榎木孝明のもとに戻るのではないかと嫉妬に駆られ、榎木の父親の神山繁に、子供取り違えの一切合財をぶちまける。ショックを受けた神山繁は病床に就いてしまうのだが、渡辺いっけいがいなけりゃこの物語、なかなか転がって行かないんだよね。小心者の憎まれ者はドラマには必須である。
 ラスト近く、陸と海、防波堤と船上に分かれて対峙する榎木孝明と船越栄一郎のシーンは、今回の白眉。本来、憎み合う必要もなかったこの二人がこうして対立しなければならなかったというのも、タイトルどおり、「運命のいたずら」なのである。さらにその運命が、赤く、血に染まるのは次回、最終回。

2004年10月05日(火) 読み飛ばしていい日記その3
2003年10月05日(日) 追加日記4/『映画に毛が3本!』(黒田硫黄)ほか
2002年10月05日(土) 東京曼陀羅/「ミステリー文学資料館」ほか
2001年10月05日(金) 新番第4弾/『クレヨンしんちゃんスペシャル』/『化粧した男の冒険』(麻耶雄嵩・風祭壮太)ほか
2000年10月05日(木) ちょっと浮気(?!)とSFJAPANと/『荒野のコーマス屋敷』(シルヴィア・ウォー)ほか


2005年10月04日(火) 一般の認知度は「モナー」より「のまネコ」の方が上なんだよね/ドラマ『赤い運命』第一話

 例の「のまのまいぇー」の「のまネコ」問題であるが、エイベックスと2ちゃんねるでのゴタゴタ、まだまだややこしい事態が続きそうな気配である。
 「のまネコ」キャラの著作権を持つ「ゼン」が、昨10月3日、エイベックス・グループ・ホールディングスの要請を受けて、出願していた図形商標について取り下げの手続きをしたとか。けれども、同時に出願した文字商標「のまネコ」については取り下げる意向を示していないという、何だかみょうちくりんな姿勢である。エイベックスはこの件について、既に製造販売している分のグッズについては従来通り「(c)のまネコ製作委員会」の表記をつけたまま、回収等の措置は行わないもののようだ。
 要するに「のまネコ」はあくまで「モナー」とは関係がない、ただ、誤解を招きはしたので、「図形商標」の登録だけは取り下げる、ということのようである。何だか中途半端な身の引き方だねえ。
 そもそも「モナー」は、著作権が誰に帰属するかも判然としないただの「落書き」である。落書きであるから、誰がどのように利用しようが、咎められる筋合いのものではない。「のまネコ」アニメに関してもグッズ販売に関しても、問題はないと言っていい。「へのへのもへじ」のキャラクター人形を作って売ったとして、誰がどう損を被るというのだろうか、と言えばリクツはご理解いただけるだろうか。
 しかし、これを「商標登録」することになると、話は変わってくる。即ち、「へのへのもへじ」や「ヘマムショ入道」を商標登録しようとしたようなものである。誤解も糞もありゃしないだろう、単に「あほ」なだけやないか、とエイベックスに対して文句を言ってやることは全くもって当然のことなのである。
 しかし、だからと言って、私が2ちゃんねらーたちに組する気にもなれないのは、やっぱりあそこに集まってる連中の中には、少なくない数の既知外どもがいるからである。
 この騒動でエイベックスに対してなら「何を書いてもいい」と考えたのか、松浦勝人社長の殺人予告を書き込むやつが何人も表れた。「モナー」はもちろんエイベックスのものなどではないが、同時に2ちゃんねらーたちのものでもない。たとえ発生が2ちゃんねるからだったとしても、「落書きに著作権はない」し、それが不特定多数に利用されている現状がある以上は、仮に何らかの権利があったとしてもそれは既に雲散霧消してしまっているのである。だから当然、2ちゃんねる掲示板の管理人にも権利はないのだ。
 2ちゃんねらーたちが何を思いあがってるのかは知らないが、「殺人予告」までするようであれば、これはやはり彼らの言い分に賛同を示すわけにはいかない。たとえ本人たちがただのイタズラのつもりであろうと、心理的圧迫をエイベックス社員たちに与えている以上は立派な脅迫行為である。ここいらで、2ちゃんねらーたちも一部の犯罪者の後押しをするような言動は控えたらどうか……ってそれができるような連中なら巨大掲示板に匿名で書き込みするようなことはハナからしてないわな。
 2ちゃんねるがらみの事件については、下手をしたら既知外どもを相手に丁々発止なんて面倒くさいことにもなりかねないので、あまり触れては来なかったのであるが、何だか2ちゃんねらーたちの言い分が全面的に正しいと思い込んでいるおかしなヤカラも巷には散見しているようなので、ちょっとだけ触れておくことにした。全く、落書き一つのことで喧しいことである。


 TBSテレビ放送50周年、ホリプロ創立45周年の特別企画として、往年の山口百恵主演の『赤い』シリーズのうち、最高傑作との評判も高い『赤い運命』のリメイク版の放送第一話。ファーストシーンで、墓標の前で墓参りするヒロイン二人を出しちゃうのは結末を予想させちゃってどうかなとは思ったが、全体的にはあまりダイジェスト版という印象がしないのがよろしい。

 1959年9月26日、多大な被害をもたらした伊勢湾台風のさなかに別れ別れになった夫婦が、17年後に、養護施設での子供の取り違えをきっかけに再会する。検察官の娘と殺人犯の娘、お互いが取り違えられたとも知らず、それぞれの家族の運命の糸はさらに複雑に絡んでいく……。

 という「ありえねー」設定なのだが、大映ドラマが新派悲劇の流れを汲んで、大時代的なロマンを描いてきたのは周知の事実。取り違えの真実を知った検察官の榎木孝明が、「今ここで真実を告げれば、娘たちも傷つくし、人間らしい心を取り戻そうとしている殺人犯も、更生の道を断たれる」と判断して、真実を告げることをあきらめる、というのも、よく考えれば「事態が悪化するだけじゃないか」と突っ込めるところだが、それを突っ込んじゃあいけないのがお約束である。
 オリジナル版の宇津井健も、「自分一人だけが苦しい」みたいな大仰な演技を披露して(この人の演技は『新幹線大爆破』もそうだが、常に眉間に皺が寄っている)、当時の視聴者を爆笑……いや、感動させていたものだったが、榎木孝明もそのあたりがよく「分かって」いて、タメのあとに搾り出すような発するセリフが素晴らしい。
 しかしやはり最高なのは「悪役初挑戦」という触れ込みの(ウソつけ)船越栄一郎である。オリジナル版の三国錬太郎もかなりアクは強かったが、船越栄一郎のもう頭の先からケツっぺたまで「おりゃあ所詮極道よ」って匂いをプンプン漂わせている臭い演技は、下手だか上手いんだか分からない。いや、もちろんそういう演技こそがこういうドラマには合っているのである。
 肝心のヒロインの綾瀬はるかであるが、『戦国自衛隊1549』の時にも思ったが、「誰がやっても構わない」ような演技ばかりさせるのは損なんじゃないのか。ともかく「濃い」キャストの中に埋もれてしまって、セリフが殆ど生きていないのである。それを考えると、宇津井健や三国連太郎に決して負けてなかった山口百恵は偉大だったんだよなあ、とつくづく思う。
 参考までに、オリジナル版とのキャストの比較。当時の「濃さ」がご理解いた他だけようか。

 キャスト(役名:平成版:オリジナル版)
 •島崎直子:綾瀬はるか:山口百恵
 •島崎栄次:船越英一郎:三国連太郎
 •吉野信人:榎木孝明:宇津井健
 •吉野いづみ:佐藤千亜妃:秋野暢子
 •吉野俊介:玉木宏:南条豊
 •吉野剛造:神山繁:志村喬
 •大竹由美子:紺野美沙子:岸田今日子
 •大竹修三:渡辺いっけい:前田吟
 •山村美矢子:麻生祐未:有馬稲子
 •下条秋子:伊藤かずえ:?


 地方の深夜番組というのはいったいどんなものか、他県の人からはなかなかうかがいしれないものであろうが、まあ、だいたいにおいて『タモリ倶楽部』並にまったりとしていて、しょーもないものである。今日から始まった新番組、『ポジTV』(「ポジティブ」と読むのである)、いきなり「リアル電車男を捜せ!」というイタイ企画。
 パーソナリティーのスザンヌちゃん(これがいかにもスザンヌって感じの風貌)というタレントさんが、例の天神の「メイドカフェ」に入り込んでメイドコス。そこのお客さんでいかにも「電車男」風な男の子を見つけて、「君には好きな子はいないの? 告白する気はない?」と余計なお世話を焼く。また、ここに集まってるやつらが見事なくらいに「アキバ系」なものだから、誰に声をかけても「彼女いない暦=実年齢」だったりするのだ。で、そのうちの一人、やせっぽちのメガネ君をゲットするや、天神近辺のオシャレな店を連れ回し、ン10万円の服を仕立てて、立派に「変身」させることに成功?する。ビフォー&アフターは確かにガラリと違う。つか、ビフォーがユニクロかなんかで買ったTシャツにくたびれたズボンだから、オタクは確かにファッションセンスはゼロに等しいのだよな。「美容院に生まれてこの方、行ったことがない」彼を、何とか「見られる」スタイルにして、いよいよ好きな女の子に告白させちゃおうという直前で「次回に続く」となるのだが、来週また見るかどうかは分かりません(笑)。
 本人には嬉しいのかなあ、始終ニコニコ(つか、ニタニタ)笑ってただけなんだけれども、ハタ迷惑なだけじゃないのか。まあ、よくわかんないね。


 マンガ、細野不二彦『ダブル・フェイス』8巻(小学館)。
 ストーリーについての話はちょっと置いといて、焼き鳥屋の奥さんで、カラオケ・バーのマスターとデキちゃって、旦那さん捨てて街金の借金も踏み倒して駆け落ちしようとするオバチャンの名前が「細木カズヨ」で、どう見てもその風貌があのヒトってのは、作者の細野さん、細木某に何か恨みでもあるのだろうか(笑)。
 小泉じゅんが「月影ファイナンス」に入社して一年ちょっと、という設定が語られるが、ということは、一応、物語の中の時間経過と現実の時間とはちゃんとリンクしているということのようである。けれどもそれだと、長期連載になった場合、キャラクターがどんどん年取っちゃって、絵柄との間にギャップが生まれることになりかねないけど、大丈夫なのかな。『ギャラリーフェイク』では結局フジタがサラを30過ぎまで手出しせずにほったらかすというヒドい状態にまでなっちゃったんだし。
 ともかく小泉じゅんはまだまだ新米で若い。天然ボケのドジ娘のようでいて、実はDr.WHOOの秘密に一番近いところにいる彼女が活躍してくれないことにはやはりこのシリーズは締まらない。彼女が初めて「対面与信(客が融資できる相手かどうか、値踏みすること)」に挑戦するのが巻頭の「小泉じゅん与信する!」であるが、要するに「与信」の面白さと言うのは、シャーロック・ホームズがワトスン博士に初対面で「あなたはアフガニスタンに行っておられましたね?」と推理する、あの醍醐味である。
 じゅんは結局、巣鴨店長や春居を出し抜くように、しかも本人はそんな自覚も全くなく、あっけらかんと「与信」を成功させてしまうのだが、こういうエピソードがDr,WHOOの「仕置もの」よりも面白いのは、シリーズとしてはちょっと困ることかもしれない。いやね、私ゃこのマンガはじゅんちゃんと巣鴨店長が好きで読んでるようなものだから。
 それにしても巣鴨店長、てっきり春居の正体も全部知っていると思ってたんだけど、Dr.WHOOとしての活動は知らされてなかったんだなあ。超真面目人間の店長が、「晴らせぬ恨みを晴らす」ためとは言え、「闇の取立人」としての春居の正体を知ったら、どんな態度を取ることになるのだろうかとか、そういうところも気になるんだけれど、そういう展開は今後あるのかな。巣鴨やじゅんがいつまで経っても春居の正体に気が付かないままというのも不自然なのだけれど。


 マンガ、城平京作・水野英多画『スパイラル 推理の絆』14巻(スクウェア・エニックス)。
 いよいよ次巻で完結、ミステリマンガだった昔が懐かしい本作だけれども、他の似たようなマンガとの差別化を計ろうとすると、どうしてもこんな風になっちゃうのかな。SFになりそうでなりきれなかったという印象もあるし、何より絵がヘタなのが最後までストーリーの足を引っ張ってたと思う。心理劇にアニメ絵は向かないよ。『デスノート』の小畑健くらいのリアルさがないとねえ。
 13巻で、清隆と歩のDNAが一致したということは既に語られていたから、この二人に残されていた「謎」に気付いた読者はたくさんいたと思われる。原作者自身があとがきで告白している通り、そのありふれた「真実」は、読者の興味を殺ぐには充分だ。仮にそのアイデアを一応は認めてやったとしても、今巻中の説明だけでは、あらゆる点が不明確で、とても「ああ、そうだったんですか」と頷けるものではないのである。
 けれども作者が覚悟の上であえてそのアイデアを志向したというのなら、さらにその先に「意外な結末」が待っていることを信じてみたいと思う。だいたいその「真実」が分かったからと言って、火澄がカノン・ヒルベルトをなぜ殺さなければならなかったのか、納得はできないし、歩が清隆に対峙しなければならない理由も未だに明確ではないのである。
 何となく説明不足のまま終わってしまいそうな気もするが、「必ずハッピーエンドになります」と作者は豪語しているのだから、ちゃんと「オチ」をつけてほしいと思う。

2004年10月04日(月) 読み飛ばしていい日記その2
2003年10月04日(土) 追加日記3/『少年名探偵 虹北恭助の冒険 高校編』(はやみねかおる・やまさきもへじ)
2002年10月04日(金) 前日の嵐/DVD『あずまんが大王【1年生】』/『HUNTER×HUNTER』15巻(冨樫義博)
2001年10月04日(木) 新番第3弾……いつまで続くのよ/『おとぎストーリー 天使のしっぽ』第1話ほか
2000年10月04日(水) 止まる息とふらつく自転車とドロドロと/『本気のしるし』1巻(星里もちる)ほか


2005年10月03日(月) フォーチュン弁当/舞台中継『イッセー尾形 夏目漱石を読む!書く!創る!』

 朝と言うか、深夜、NHKBS2の『深夜劇場へようこそ』枠で、演出家・森田雄三さんのインタビューに引き続き、スイスの演劇学校で行われたワークショップを基にした舞台『イッセー尾形 夏目漱石を読む!書く!創る!』を見る。
 森田さんが鈴木裕美さんや林あまりさんの質問に答えてこれまでの経歴を語られるのだが、「串田和美の演出に反発してね」とか、イッセー尾形さん以外のキャストと組んで作った『マクベス』(山崎努主演版)について、「発声練習しているの見てると『アナウンサーになりたいの?』って言いたくなるんだよね」とか、サラッと仰るので、「そんなに正直なことを喋ってもいいのかなあ」と、見ているこっちがドキドキしてくる。
 なんだか怖いものなしと言うか、「七十而従心所欲、不踰矩(しちじゅうにして、こころのほっするところにしたがへども、のりをこえず)」って印象。もっとも森田さんはまだ七十歳にはまだ間があるけれど。
 まあこんな凄い方を目の前にして、抜け抜けと演技とも何ともつかぬ小芝居を偉そうに披露していたのだから、今更ながら自分の臆面のなさには恐れ入る。馬鹿はこれだから怖いよねえ。
 ワークショップのことにもちょっとだけ触れられていて、「小学生が来るんだよ」って笑って仰っていたのが笑えた。だって「年齢、職業、舞台の経験、未経験問わず」って謳ってるんだもん、小学生だって来るさあ(笑)。

 引き続いて、実際の舞台を見たのだが、始まった途端に、テレビの前で凍りついてしまった。何とも困ったことに、森田さんの演出を台無しにしてしまうような放映形態を取っていたのである。
 スイスのワークショップであるから、当然出演者の大半は外人さんである。インタビューでも森田さんが仰っていたが、「何を喋ってるのか、サッパリ分からないんだよね。だからイッセーさんと『あれはこういうことを喋ってるんだろう』と想像するんだけれど、あとで本当に何を喋ってたのか聞いてみるとこれが全然つまらないんだ。こちらが勝手に想像してることの方が面白いのね」ってな具合で、何を喋っているのか分からない面白さというものを演出しているのである。
 ところがNHKの大馬鹿野郎は、見事にその演出をぶち壊してくれた。つまり、外人さんの喋りに、全部「字幕」を付けてくれたのである。漱石(を模してるんだが、スイスまで漱石は洋行しちゃいないので、実は誰だって構わない)との間のディスコミュニケーション、これが台詞が分かっちゃうとただの「説明」としてしか機能しなくなる。果たして会話が成り立っているのかいないのかすら分からないスラップスティックな味わいが、全て消し飛んでしまっているのだ。
 舞台は、テレビ映像に移された途端にその魅力が半減してしまうものだが、このNHKの「親切」はそれをさらに助長することになってしまっている。この『深夜劇場にようこそ』は、シアターチャンネルに入っていない演劇ファンにとっては、唯一のオアシスのような時間枠だというのに、こんな粗雑なことをされちゃあ本気で困るのである。
 しようがないので、あえて字幕を見ずに中継を見て行ったのだが、そうした途端に外人さんたちのセリフは殆どハナモゲラ語と化し、まるでバカボンパパの家にバカ田大学生の後輩たちが大挙して押し寄せたかのごとく、何が起こるか分からないナンセンスの極みとでも言うべき珍妙な舞台が展開して行ったのである。
 多分、実際の舞台では、字幕は全く流れなかったのではないかと思う。そうでなければ、あの舞台は成り立たない。やっぱり舞台はナマを見に行かなきゃしょうがないよなあとつくづく感じたことである。ビンボーでなかなか舞台を見に行けない、テレビで我慢するしかないと仰る方は、舞台中継を見る時は、その面白さを想像力で三倍増しして見るようにしましょうね。これは別に私だけが言ってることじゃあなくて、常識と言っていいことなんだけれども、舞台の批評は、決してテレビ中継を見て行っちゃいけないのである。


 家事をサボリまくるしげが、何とか毎日用意してくれているのが昼の弁当である。
 と言っても、おかずは全部、弁当用の冷食を電子レンジでチンしたものばかりなので、料理の手間なんてものはかかってない。それだって別に文句を付けようとは思わないのだけれど、中に一つ、「占いグラタン」があって、食べると底から今日の占いが出てくるというもの。で、今日のそれが何だったかというと……。
 「はやねはやおきをしましょう」
 そりゃあ、お前のことだああああ!
 私の睡眠が充分取れないのも、しげの情緒不安定が原因の大半なんだけどな。


 テレビ『Mr.マリックvs芸能界大スター軍団 全面対決トリック見破りバトル 超魔術完全包囲網スペシャル』を見る。
 前にも何度かマリック対芸能人の対決ものがあったらしいが、まともに見たのはこれが初めて。騙しのトリックを明かすのが見所のようだけれども、実際は「こんな簡単なトリックにも芸能人は馬鹿だから引っかかっちゃうんですよ」ってのが製作スタッフのウラ意識としてありそうで、余り見ていて楽しいものではない。
 奇術のトリックというものが案外単純で、人間心理の陥穽につけこむことで成立していることは周知の事実であるが、だからちょっとでも手品を齧ったことのある者なら、「慣れ」でそのトリックを見破ることは簡単である。だからこういう番組に呼ばれる芸能人ゲストは、「慣れていない」人に限られる。「番組ゲスト」のように見せかけてはいるが、例えば『涙そうそう』からのゲストが泉ピン子といしだあゆみと来れば、こりゃ、「騙してくれ」と言うようなものである。確かに泉ピン子が騙されて「畜生!」と叫んだり、橋下徹が呆然としたりするあたりは、見ていて溜飲が下がりはするのだが、一般的にはゲストが騙される様子は体よく人身御供に出されたような感じで、なんだかかわいそうである。
 間違ってもナポレオンズが対決相手に呼ばれることはないが、せめて騙されて悔しがる人より、騙されて感心する人をゲストに呼んでほしいと見ながら思ったことである。
 ……しかしどうして泉ピン子って、全然好きになれないのかなあ。


 マンガ、山田南平『まなびや三人吉三』2巻(白泉社)。
 表紙が「お嬢吉三」になったばかりのやぁや。普段のやぁやはちんまいだけの栗娘だが、コスプレした途端に「あんなふう」になるのである。いや、充分にキモです♪
 学園探偵ものは数あれど、学園怪盗ものはそんなに多くはないし、傑作もあまりない。だもんで、これも1巻はたいして期待せずに買ったのだったが、謎の怪盗・三人吉三のうち、和尚吉三の正体には思わず膝を打った。怪盗もののキモが、その盗みのテクニック、機知にあるのは当然だが、それ以外にもストーリー上の「企み」があっちこっちに仕掛けられていたのがミステリファンとしては嬉しかったのである。怪盗が「謎」の存在である以上、その「謎」を暴く者と暴かれまいとする者との虚々実々の争いがあってこそ、盗みの醍醐味はより引き立つ。そのへん、この作者、結構「分かって」るんじゃなかろうか。言っちゃなんだが、『ルパン三世』も『キャッツ・アイ』も、後半になるに従って、そのへんの機微がなくなっていっちゃって、どんどんつまんなくなっていったからね。本作はまだ2巻目だからまだまだ大丈夫。
 やぁやと慎太も、めでたく三代目「お嬢吉三」「お坊吉三」を襲名することになったわけだが、早速、今巻からライバルの「弁天小僧菊之助」と「南郷力丸」が登場。こいつらの正体は「和尚吉三」の時ほどのインパクトはないが、それでも「弁天小僧」のもともとの役どころを考えると、こいつにはまだまだ秘密がありそうで今後の活躍が楽しみである。そもそも「彼」が「お嬢吉三」になるはずだったと言うのは、どういうことなのかね?
 と言うか、「あと三人」は出てくるのかな?


 マンガ、西森博之『道士郎でござる』6巻(小学館)。
 なんだかウヤムヤのうちに番長対決編は終わったみたいだ。神野は転校しちゃうし、A組は有名無実だったし、ラスボスに辿りつく前にゲームオーバーしてしまったような隔靴掻痒感はあるけれど。
 で、これで話が終わりかというとまだ続くみたいなんで、一応人気が出たってことなんだろう。このへんでうまいことオチをつけとけばいいような気もしないでもないが、何となくなし崩し的に「水戸黄門編」に突入したような展開である。つまり、道士郎が町内の「世直し」を始めるのだな。でも、このマンガではもう道士郎は「最強」だから、登場させれば話の決着はあっという間に付いてしまう。仕方がないので、道士郎の出番を減らして、一応主人公の健助を活躍させはするのだが、展開的にもうかなり無理が生じてきている。要するに場つなぎ話を作って誤魔化しちゃいるが、この先どういう展開に持ってったらいいか、作者が右往左往してるってことだ。
 まあ、作者の根がヤンキーだから、マジメな主人公を描いても、サムライを描いても、どこかヤンキー臭さが抜けてなくて無理が生じてるんで、大破綻を起こす前に、10巻あたりを目途にしてうまいことまとめて終わりにした方が、次の連載へのステップとしてはちょうどいいと思うんだけどな。基本的に、吉田聡のマネから大きく逸脱してオリジナルを描ける人ではないから、『今日から俺は!』の路線に戻った方がよかないかなと思うのだが。

2004年10月03日(日) 読み飛ばしていい日記その1
2003年10月03日(金) 追加日記2/『二十面相の娘』1巻(小原愼司)ほか
2002年10月03日(木) 何が最悪?/アニメ『NARUTO ナルト』第1話/『愛人(あいするひと)』2巻(吉原由起)/『番外社員』(藤子不二雄A)
2001年10月03日(水) 新番2弾!/『X』第1話/『女刑事音道貴子 花散る頃の殺人』(乃南アサ)ほか
2000年10月03日(火) 博多はよか、よかァ/映画『博多ムービー ちんちろまい』ほか


2005年10月02日(日) 伝わらないことばかりだけれど/『金魚屋古書店』2巻(芳崎せいむ)

 身体の具合が悪いのなんのと言って、いくら言っても家事をサボりまくり、そのくせ、夜中になったら私の眠った隙を突いて、買い食いしにコンビニに出かけまくっていたしげであるが、昨夜は結局、私の制止するのを無視して外に出て行ったので、さすがに腹に据えかねて、本当にしげを外に締め出した。
 買い物からるんらるんらと帰って来て、鍵がかかっているのを知って、ようやくしげは私が本気で怒っていることに気が付いたのだろう。インターホンのボタンを何度も鳴らすのだが、私は極力無視である。
 自分がどうして締め出されたのか、ここんところのワガママぶりを自覚できているなら、ボタンを押すことだってはばかられるはずである。それを遠慮もなくピンポン押しまくっているのは、何一つ反省できていない証拠だ。こんな風に何も考えていないからこちらは腹を立てているというのに。
 いつまでもボタンを押すのをやめないので、仕方なく受話器を取ると、か細い声で「ごめん」と言う。でもそれだけで、あとは何も言わない。こちらも沈黙したままだ。
 口ではいつも「ごめん」と言うのだが、しげがそれで反省したためしはない。こんなふうに締め出されたのだって、初めてのことではないので、もう何度も「謝るんなら行動を改めろ」と言ってきているのだが、次の日にはもうそのことを忘れているのである。
 どうして自分が怒られているのか、何をどう反省したらいいのか、それを話さない限り、私は絶対に中に入れてはやらないのだが、にもかかわらず「ごめん」としか言わないのは、実際、反省するつもりなどまるでなく、何も考えていないからだ。おかげで腹立たしさはますます募った。
 「謝るんなら、『ちゃんと家事をします』ってどうして言えんの?」
 「ちゃんと家事をするから」
 「さっきまで一言も言わなかっただろ!? オレが言ってから言っても遅いよ! どれだけ俺が待ったと思ってるんだ!」
  実際、すぐに反省していれば、そこで家の中に入れるつもりでいたのだ。もう何百回とそのことは伝えているのに、こうして締め出された途端に反省の言葉を忘れてしまうのだから、やはりしげは頭がおかしいのである。もう何十回、何百回、家事をしろと言い続けて、ちゃんとすると約束させられて、それを裏切られてきたことか。病院に通わせても睡眠時間が増えるばかりで何の効果も上がっていない。私は本当に疲れてきているのである。
 頭のおかしい妻を真夜中に追い出すなんて、なんてドメスティック・バイオレンスな夫だと思われるだろうが、しょっちゅう真夜中に愚図って私を起こす夢遊病の妻と一緒にいたら、こっちだって神経がおかしくなる。私は夜は普通に眠りたいのだ。さすがに今日は、こっちの怒りなんてどこ吹く風の糞馬鹿女が傍にいたら、私の神経が持たないと思ったから追い出したのである。これは自衛である。
 「ちゃんと言うこと聞くから入れて」
 「ちゃんと言うこと聞くなら入れてなんて言うな。ともかくもう今夜は入れない。寝たいなら車で寝ろ」
 そう言って、受話器を切って、後は一切、出なかった。しげもようやくあきらめて、すごすごと立ち去ったようである。これがだいたい夜中の3時。玄関前で押し問答し始めてから、1時間くらいは経っていた。
 そのあと、私は疲れて、泥のように眠った。しげが傍にいたら、また夜中に愚図って、私は眠れなかったことだろう。もちろん、そのときには鍵は開けておいたので、朝方にはしげは部屋に戻ってきていたようである。
 ところが、朝になってくたびれて寝ていた私をしげはまた何も考えずに「『ゾロリ』始まるよ、見らんと?」と無理やり起こしてきたのである。
 「だからお前のせいでここんとこ寝不足なんだよ! そのことなんべんも言ってるのにわからんのか!?」
 分かんないやつに分かってくれと語ることほど空しいものはないが、分かんなきゃ本当に出てってもらうしかないんだから、いい加減で分かってくれよ。


 しげをどやしつけて、昼過ぎまで寝る。
 『仮面ライダー響鬼』だけは録画予約しておいたので、後からゆっくり見るつもり。
 目が覚めたら、もう1時過ぎだった。どうせしげはまともな食事の用意なんてしてないので、レトルトカレーを作って食べる。

 『響鬼』三十四之巻「恋する鰹」。
 私が脚本家交代後の『響鬼』擁護派だと勘違いしている人もいるようであるが、「過剰反応するなよ、もともとたいして出来のいい番組でもなかったんだから」と言っているだけで、現状の作品の出来を賞賛してるわけでは決してない。
 途中で路線変更を強いられりゃ、後を任された脚本家はどんな名手であろうと多少の混乱はするものだ。ましてや後任はあの井上敏樹である。どれだけ東映がスタッフ不足であるか分かろうというものだ。今更、ヒステリックなるほどのことはないだろう、もちっとまったりと見ていこうよ、と、「視聴者の態度」を戒めていただけである。それを「作品擁護」と勘違いするんだから、批判派がどれだけ冷静な判断力を無くしているか、そっちの状況のほうが情けないよね。既に劇場版『響鬼』のブログは完全に2ちゃんねる化してしまっている。
 作品そのもので見れば、今回のお話はこれまでの迷走を更に引っ掻き回しているような大迷走ぶりで、これからこのドラマがどこへ行こうとしているのか皆目見当も付かない。モッチーはいきなりキリヤ君に告白しちゃうわ(あれがラブレターでなくて食事のレシピだったりしたら糞笑いである)、あきらは急に将来に不安を感じ始めるわ、姫と童子の傀儡は仲違いし始めるわ、トドロキは糞コントを始めるわ、以前通りの自分の「味」を出せているのはやっぱりヒビキだけだったりする。
 でもそれを井上敏樹一人のせいにすることもできないよなあと思うのは、29話までの展開だってやっぱりどこへ行こうとしているのか分からない状態だったからだ。まったりするのもさすがに『ライダー』では考えものである。
 思うに、このシリーズ、もともと最終話までの青写真というもの自体、全然なかったんじゃなかろうかね。勝手な憶測ではあるが、製作会議みたいなものが開かれて、「これからシリーズはどんな話になるのか」と問われた前脚本家陣が「考えてません」とか正直に言っちゃったんじゃなかろうか。
 と言っても、私ゃ別に本気でコトの真相だのウラ事情だのを知りたいと思っているわけではないし、そんなのはそのうち、公にされる日も来るかもしれないし、来なかったからと言って、どうということもないのである。
 ただ、井上敏樹に対して言いたいことがあるとすれば、せっかくテコ入れに呼ばれたんだから、いつもの受けてるつもりの寒いギャグはやめてよ、話を進めてほしいと思うわけよ。『うる星』のころから思ってたけどさ、「あ、UFO」なんてギャグを押井守がやるとそのしょーもなさが「味」になってかえって受けるのに、井上敏樹がやるとなぜ受けなくなるのか、ギャグだってセンスだけじゃなくて理論で成り立ってるんだってことをいい加減で気付いてくれと言いたいんだよねえ。
 それから、頼むからあんな新米から一歩も出てないやつを「御大」なんて呼ぶなよ。まあ皮肉で言ってるんだろうけどさ。


 遅れていた日記をチマチマ書くが、下手にブログ日記まで始めてしまったせいで、なかなか進まない。書きたいことはそれこそ限りないくらいあるので、抑制することの方が難しいのである。やっぱり、読んだ本、見た映画、このあたりを省略するしかないのだが、それでも分量がいつの間にか原稿用紙にして20枚を越してしまうので、我ながら病気なんじゃないかと疑いたくなる。


 『TBSテレビ50周年 中居正広のテレビ50年名番組だョ!全員集合笑った泣いた感動したあのシーンをもう一度夢の総決算スペシャル』。
 『8時だョ!全員集合』の名場面ベスト30が見られるというのでチェック。見たところ、既発のDVDボックスに未収録のシーンばかりを集めていたのは立派だが、あのコントもこのコントも含まれてないなあ、というのが正直な印象。かなり人気があったと思われる「戦争コント」や「漂流コント」に、全く触れられていないのは放送コードの関係だろう。敵兵ぶち殺したり、土人から逃げたり、今じゃもう無理だわな。つまりそれだけあの番組は今よりずっと「自由」だったのだ。すわしんじの出演シーンが全くないのもなんだか意図的な気がしてイヤな感じである。
 こういう「無難なシーン」だけをベストと言われたって。納得の行くものではないが、つまりはドリフターズはもう「過去の歴史」になってしまったということだ。「20年ぶり生コント」という触れ込みの簡易セットでの「長さん抜き」のコントが、旧作の焼き直しでしかなかったことが、そぞろ寂しさを感じさせるばかりである。


 筒井康隆『ポルノ惑星のサルモネラ人間 自選グロテスク傑作集』(新潮文庫)。
 収録作品は表題作のほか、『妻四態』『歩くとき』『座右の駅』『イチコの日』『偽魔王』『カンチョレ族の繁栄』。
 なんだ、以前、新潮文庫に収録されてた短編ばかりじゃないか、なんでそれを今更出すのだ、と思って巻末の作品リストを見てみたら、これらの作品を収録していた『宇宙衛星博覧会』『串刺し教授』『エロチック街道』『薬菜飯店』『将軍が目醒めた時』、現在全部絶版なのである。筒井さんが「出版不況の中でも、俺の本は売れている」と豪語していたのは十年ちょっと前だったと思うが、筒井さんの本ですら売れなくなっているのだ。若者の活字離れはそこまでひどくなっているんだなあ。
 本ばかり読んでたらバカになるぞと自嘲的に言うことの多い私ではあるが、こうなると「本を読まないと馬鹿な大人になるぞ」とミヤベ先生の言を借りたくなるところである。ハッキリ言って、電撃文庫とか富士見ファンタジア文庫しか読んでないガクセイさんとかと話してみると、本当に馬鹿なんだもの。
 それはそれとして、久しぶりに読み返してみた『ポルノ』であるが、ちょうど筒井康隆が純文学に流れていくころの作品群であるので、せっかくのSFの面白さがブンガクのオブラートに包まれたせいで、「適度につまらなく」なっているのが残念である。それでも当時は筒井康隆はあくまでSFを志向しているのだと思い込もうとして、無理に面白く読んでいた物だったが、今は「この先を書いてくれないと面白くならないのに」とどうしても思ってしまうのである。
 でも、オリジナル版にはなかったポルノ惑星の異様なモンスターども、「ヨコイタクラゲ」「ヤブサカワニ」「タタミカバ」「スズナリミミウサギ」「ジャバラウシ」「タラチネグモ」「バクブタ」「ワスレガタミ」などを、あすなろ舎がコレクションフィギュアとして製作したものの写真が掲載されていたのは嬉しいおまけであった。


 マンガ、芳崎せいむ『金魚屋古書店』2巻(小学館)。
 なつかしマンガを題材に、古書店「金魚屋」に集う人々を描くシリーズも、もう四巻目(前シリーズ『金魚屋古書店出納帳』全二巻からの続き)。
 正直、エピソードによっては出来不出来があるなあと思っていたのだが、巻頭の第八話「彼の風景」は文句なしの大傑作だ。マンガ読んで泣かされたのって、久しぶりじゃなかろうか。いや、泣けるマンガが必ずしも面白いマンガだとは言えない。中途半端なドラマであっても、それなりに「泣かせどころ」のシーンさえあれば、あとはワヤでも何となく泣けてしまうものだ。しかし、一つ一つ、登場人物や設定をきちんと積み重ねて物語を紡ぎあげ、その末に「感動」を構築するドラマだってちゃんとある。これがそうだ。
 生徒会副会長の関口は、名前だけで実力もないのに横暴な会長の腰巾着でいることに嫌気がさしてきている。そんなときに、自分の机の中で見つけた手塚治虫の『アドルフに告ぐ』。それは、定時制に通い、関口と同じ机を使っていた、名前も偶然同じな「関口」が忘れていった本だった。『アドルフ』を夢中になって読んだ関口は、気が付くともう一人の「関口」に、本を読んだ感想を書き連ねていた……。
 落ちまで書くのは控えるが、このエピソードに泣ける理由は、「伝わりようもないことを伝えられた」そう思えるからだろう。言葉は、自分の心の何%も伝えることはできない。言葉は常に歪み、浮き足立ち、そこいら中を跳ね回り、相手に手渡された時には元の姿の片鱗すら遺してはいない。しかも受け手は、そんなわずかな残骸すらも曲解してくれる。言葉が虚しければ、本もまた虚しい。けれども我々は言葉しか、心を伝えるすべを持たないから、懸命になって語り、むさぼるように本を読む。そしてすっかり疲れ果て、ふっと気を抜いた時に ―― 言葉を越えた「何か」を掴んでいたことに気が付くのだ。
 このエピソードの最後の2ページには殆ど言葉がない。にこやかな微笑と、呆然とした顔と、そして去り行く足元が映し出されるだけだ。けれどもその静謐さが、何よりも雄弁に「語りたいこと」を表している。それはやはり、言葉にはできない「思い」なのである。

2004年10月02日(土) たいしてマンガ読んでないのかなあ。/『PLUTO プルートウ』豪華版1巻
2003年10月02日(木) 追加日記1/『サブカルチャー反戦論』(大塚英志)
2002年10月02日(水) もうあのクニについて書くのはやめようかな/ドラマ『迷路荘の惨劇』/『よみきり▽もの』3巻(竹本泉)ほか
2001年10月02日(火) 新番組マラソン開始!/アニメ『FF:U ファイナルファンタジー:アンリミテッド』第1話「異界への旅」ほか
2000年10月02日(月) 出たものは全部食う、は貧乏人の躾か?/『名探偵は密航中』(若竹七海)


2005年10月01日(土) 貶してるからファンは読まないように(笑)/『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』最終回

 えー、ドラマの感想は簡単に(笑)。
 上原正三脚本の『ウルトラマンマックス』第14話「恋するキング・ジョー」、いつものごとく「なんちゃない」出来。夏美役の長澤奈央も、もうちょっと役柄を膨らませてあげないとかわいそうだよなって印象。

 続けて『知っとこ!』を見てたら、最近何かと話題の一年生議員・杉村太蔵(名前だけ聞くと、多羅尾伴内みたいである)の「謝罪会見」について、大橋巨泉が「謝罪なんてしなきゃいいのに。これでこいつは、次の選挙じゃ確実に落ちるよ」と言っていた。確かに、自民党の広報を担当している世耕弘成議員や、元党事務局次長の近江屋信広議員ら5人の「御目付け役」の前で、「私は自分の思った通りのことを言っただけだ。この国に言論の自由はないのか」くらいのことをぶち上げられれば、そりゃ「漢(おとこ)」を上げられたかもしれないけれども、もともと「漢」じゃない人にそれを求めたってしょうがないよねえ。「BMWは購入しておりません」って、誰がそんなもん本気で買うと思ってたんかね。
 自民党もこいつが次回も当選するなんて考えちゃいないから、たとえ新人イジメと捉えられようと、「黙らせるしかないな」と圧力をかけたんだろう。当選直後から捨て駒扱いはかわいそうではあるが、思いつきで議員になろうなんて考えた人間には、早いとこ退場してもらった方が幸せじゃないかねえ。もっともこれで大ハップンしてこの人が素晴らしい政治論客にでもなれば素晴らしいことであるが、99%ありえないことだろうね。

 番組では、小泉首相の「靖国参拝違憲」のニュースもチラッと紹介。
 先日からのニュースで、賠償請求を棄却され敗訴した原告側が、実質勝訴みたいな態度で喜んでるのがよく分からないのだが、「違憲」って判断は「総理の職務としてやっちゃいかんよ」ということであって、「私的参拝」を禁ずるなんてことはヒトコトも言っちゃいないのである。判決は結局、「個人で行きなよ」と首相に勧めているようなものだ。早速、判決の「意を汲んだ」小泉首相は、「私的に参拝する」と言ってるわけで、こないだまで「公的参拝」とか言ってたのはどうなっちゃったのか。小泉さん、変人扱いされてるけど、これまでの「戦略」を見る限り、かなりしたたかなんだよね。大衆の人心掌握術には本当に長けているのだ。原告たちのような馬鹿の群れじゃ、とても立ち打ちできるもんじゃない。
 もっともおかしくなっちゃってるのは「小泉陣営」にもいて、櫻井よしこさんなんかは「ここまで政教分離を言っていいものか。国が慰霊を行うことはできないのか」と言っているけれど、「国家神道」ってもの自体を日本は否定し放棄しちゃってるんだから、そりゃ現行法では慰霊なんてできないのである。天皇家の神道だって、あれは「天皇家の個人的な信仰」ってことになってて、「象徴天皇」とは関係ないってことになってるんだから。だから「私的にやるんならいい」って「抜け穴」を裁判所は用意してくれたわけだよ。
 靖国神社を「国の機関」として認めさせたいのなら、それこそ憲法を改正して「神道を国家宗教とする」と明記しなきゃならなくなるが、そりゃさすがに多少は右がかった人だってためらうところだろう。基本的に無宗教な人間の方が多い日本人にとって、習俗としての神社の存在は認められても、「国家宗教」の存在はもう馴染まない。「靖国がダメなら神社参拝もダメじゃないのか」なんて仰る御仁は、習俗と国家宗教の区別が付いていないのである。


 一日は映画の日。
 休日と映画の日が重なることは滅多にないことなので、しげと『チャーリーとチョコレート工場』でも見に行こうよと約束をしていたのだが、昨日からのしげの体調不良、なかなか治らない。
 いや、体調がよくないと言いながら、相変わらずしげは食欲はあるし、気がついたら勝手に外に出て行って買い物はしてくるし、どこがどう具合が悪いのか全然分からない。と言うか、外見上は健康そのものだ。
 「だって、キャナルって、人がたくさんいるんだもん」というのがしげの言い分なのだが、これがまたよく分からない理屈だ。確かに長蛇の列ができるだろうが、休日は窓口係も数を増やしてるし、かえって待たずにすむくらいである。第一、キャナルシティにこだわる必要はない。ルクルだったら、休日でも結構空いている。「行きたくない」と思い込んで行こうとしないだけじゃないのだろうか。それならそれでそう正直に言えばいいのだが、ともかく「具合が悪い」の一点張りでは、どうにも取り付く島がない。そんなに具合が悪いのなら病院に行けばいいのに、それはしようとしないのである。
 つか、相変わらず人に隠れてコンビニ弁当を食いまくっていることを考えると、これはもう明らかに仮病だろう。つか過食症に陥っているのではないか。映画に行けば金を使うので食うための金がなくなる。それを何やかやと言い訳して、出渋っているのではないだろうか。
 最近しげは、会う人会う人から「太ったね」と言われている。実際、ハンパな太り方ではないのだ。いくら「買い食いするな」と言っても、聞く耳を持たない。病院通いもクスリを飲んで睡眠時間を増やすばかりで、コントロールがまるでできていない。多分、医者に過食に陥っていることも伝えてはいないのだろう。これでは病院通いでかえって体調を崩しているようなものである。いや、本人に自分を治そうという気持ちがない限り、どんな名医にかかろうが無駄というものだろう。
 こんなに食っちゃ寝ばかりしているのなら、やっぱりムリヤリにでも外で仕事をさせた方がいいかもしれない。仕事を辞めても、「その代わりに家事をしっかりする」という約束は殆ど反故にされている。今日も洗濯も掃除もしていない。
 かろうじて晩飯のおかずだけは作ったのだが、煮立った鍋を熱いまま冷蔵庫にしまうというとんでもないことをやらかしてくれていた。冷蔵庫が故障したらどうするのだ。こんな馬鹿やらかしておきながら、「家事をした」と主張するのはおこがましいというものである。当然これも自分で食べる気はなくて、コンビニ弁当を買いに行くのだろうと思っていたら、案の定、深夜になって「コンビニに行く」と言い出した。
 「今日はもう、何度も買い物に行ったろう。飯も食ってまたなんでまた食いに行くんだ」と行ったら「今度はデザート」と言い出した。そして、人が制止するのも振り切って、外に出て行ってしまったのである。
 もう疲れたので、今晩はしげを家の中には入れまい。どうせ、どうして自分が閉め出されるのか理由もわかりゃしないで、口先だけで「ごめん」としか言えないのだ。
 来月から、渡す金も減らそう。うん。 


 『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』が最終回。
 ちょこちょこと見続けてはいたものの、日記に感想を書かないでいたのはイタイ論争に加わりたくなかったからである(笑)。あんな貶しどころ満載のアニメを腐女子と言い争う気に誰がなるかい。
 なんですかね、どいつがどいつだか区別も付かないアニメ絵のキャラがよ、借り物でありきたりのセリフばかり吐いてよ、オマージュと言えば聞こえはいいが、実のところは同人誌感覚で旧作のパクリシーンばかり繋いだようなドラマ描くだけで客を引いてこようとしてたんだから、マジメに見てる客としては「ふざけるな」と言いたくはなるんだけれど、まあ、「私の○○様のことを悪く言わないで!」なんてキャラ萌えだけの中学生とかに向かってさ、「マトモなドラマってものはね、もっとこうね」とか言ったって仕方ないからねえ。誰も○○サマを悪くなんか言っちゃいないってのに。

 えーっとですね、例えばね、今日の「ドラマ」とやらで何がどう萎えるかって言うとね、「未来は俺たちのものだ」みたいな誰ぞ(いや、シンだかキラだとか言うヤツなんだろうけれど、本当にキャラの区別が付かんのだよ、髪形以外全部同じ顔だから。そういうところからも脱却しようってのが『ガンダム』だったはずなんだけどねえ)のセリフ、もうこれまで凡百の小説やドラマやマンガやアニメで何百万回も聞いてきたけど、なんでそんなに多用されるかって言うと、作り手の立場からすれば「いかにも戦後民主主義的かつ個人主義的で客の共感を覚えやすく、かつドラマを終わらせるためには便利なセリフ」でしかないからなのね。
 ヒトコトで言えば「安易」なの。
 あまりにも使い古されちゃったんで、さすがに近年はもう子供向け番組でしか使えなくなっちゃってるんだけど(子供に対してはシニカルに世の中を見るのはまだ早すぎるし、「理想を与える」という意味で、わざとらしくてもこういう台詞が主人公から吐かれるのも納得できるのね)、じゃあ『ガンダム』は小学生低学年向けのアニメなのかってことだけど、違うでしょ?
 もしかして脚本家や監督が馬鹿か既知外でないとしたら、つまり彼ら彼女らは視聴者の方をこそ「馬鹿」扱いしてこんな雑なドラマを書いてるってことになるの。

 敵ボスと対峙させる構図もさあ、よくドラマを練らないと全然盛り上がらないんだけれど、小競り合いしただけで簡単に基地内に潜入できて、そんでもって直情径行的で中身の薄い「戦争談義」をさせた末に出たセリフがこれじゃあ、もう気分は落ち込むってものなのである。もちろん、視聴者のレベルを全て「小学生低学年並み」だと想定しているからこそ、こんなホンが書けるのだろう。
 腐女子のみなさん、お分かりかね? あなた方はサンライズからは「馬鹿」だと思われているのだよ。

 今更何を言ったってしょうがないんだが、今『ガンダム』の名を冠して作られているアニメはこんなテイタラクなのだ。
 だったらせめてタイトルをアタマの悪い私たちにも分かりやすいように、『がんばれガンダムくん』とかにしといてくれなかったものかと切実に思う。腐女子向けだと言うのなら、いっそのこと『ガンダムの薔薇』とか『真夜中のガンダム』ってなタイトルにしてくれてたら、かえって腹も立たなかっただろう。
 『SDガンダム』シリーズやトニーたけざきの『ガンダム漫画』、大和田秀樹の『ガンダムさん』に対して「ガンダムをバカにするな」なんて怒るファンはおらんだろうが。『SEED』も『DESTINY』も、「本編」のフリをするから腹が立つんだよ。

 こんなアホな作品を、作り手たちが「分かってて作ってる」のであれば余りにも寂しい。それは彼らが「陳腐なドラマの方が馬鹿な客が金を落としてくれる」ことを熟知してやっている、ということだからである。そんな卑劣なやつらに客がうまいこと踊らされていると解釈するよりも、「作り手たちはあれがいいと思ってやってる、ただの馬鹿だ」と解釈した方が、まだファンが傷つかずにすむと思うが、どっちが真実なんだか。

 ドラマがフニャフニャでもさ、アニメは作画だからね、作画がよけりゃあそんなに文句を言わなくてもいいんだよ。でもよう、モビルスーツの戦闘もすっかりパターン化しちゃっていてさあ、しかも動線がデタラメだから、誰と誰とが戦ってるかも分からなくって、高揚感が湧かなくってさあ。
 いや、そもそもモビルスーツという「兵器」のはずなのに、「ポーズを決める」ことにのみ拘って、メカ描写が「キャラ描写」になってしまっていることを、作画スタッフはどう感じているのかね?(実はそれは、古くはテレビ版『Z』のころから始まっちゃいるのだが。劇場版のリテイクの必然性は、そういう点にもあったと言える)そのせいで戦闘自体がパターン化してしまっている点に、作画陣は少しも気がついていないとしか思えない。
 具体的にはよ、毎度毎度なんであいつらぁ、宇宙空間だってのに「股開いてポーズ取ってんだ」ってことだったんだよ。「足なんて飾り」だろ?(笑) 「だってそっちの方がカッコイイじゃん」という意見もあろうが、「全てのモビルスーツが同じポーズを取る」なんてアホなことやってりゃ、いくらなんでも飽きるよ。「ファーストしか認めない」ってファンがいるのは単に意固地になってるってことだけじゃないんだよ。

 劇場版『Z』の方がそういったメカ描写の映像演出の点でも、パターン化を避けようと努力しており、だからこそ『SEED』などより圧倒的に出来がいいのだが、そんな点にまで目が行かない腐女子やオタクってのは、所詮はただのミーハーなんで、オタクだマニアだなんて自称してほしくはないのである。作品の出来がどうであろうと、好きなら好きでそれは構わないんだけれども、古参のガンダムファンがちょっと「『SEED』シリーズには付いてけないねえ」程度のことを言っただけで過剰反応して「あなたたちに『SEED』のよさは分からないのよ!」とヒステリックに泡を吹いて「自分たちだけが真のファンである」みたいなモノイイをやたらするのはどういうわけなんだか(してないつもりでいるからあいつらの脳構造に対してまで疑問を抱くのであるが)。
 おれ、「キャラの区別が付かない」と言っただけで、ある『SEED』ファンから「目が悪いんじゃないか」って言われたことあるぞ。そりゃ私に視力はないが、『SEED』のキャラが安彦良和デザインに比べて、「区別が付きやすい」と本気で思っているのかねえ?

 最終回なんで、いつもより余計に語ったが、もちろん『SEED』のスタッフに対して含むところなんて私にはないのである。世間には、アニメにうるさいファンだって増えてるんだから、もう少しアタマのいいスタッフ雇えよサンライズ、とは思うが、本当に才能あるやつなんて、どの業界にだってそうそう転がっちゃいないし、こんなアニメができちゃうのもしゃあないかなとサビシク見守っているだけなのである。だから、この私の感想読んで、怒り心頭に発するファンもいらっしゃるかとは思うが、根拠のないことは言ってないので、視野狭窄に陥って、ストレスのはけ口を私の方に向けるのはやめていただきたい(笑)。
 実際、いるんだから、そこまで落ちた馬鹿は。
 キャラ人気だけは出たし、しばらく間を置いたらまた『SEEDなんたら』みたいなシリーズを始めそうだよなあ。劇場版を挟んで(笑)。

 でもって、一応、期待はしているんだけど、来週からは『BLOOD+』が始まる。予告編で見る限り、映画版の雰囲気は全くないけど、「見てから物言う」は基本なので、まだ私は何も言いません。最終回までやっぱり言わないかもしれないけれど(笑)。


 『クレヨンしんちゃんスペシャル』で、久しぶりに劇場版第十作『嵐を呼ぶアッパレ戦国大合戦』を見る。
 DVDも何度も何度も見返して、スジもディテールだってもう充分ってくらいにアタマの中に入ってるのに、どうしてこうも泣けるのか。
 映画を見た後、また東京のグータロウ君に「見たかよ戦国」と電話をかけたのだが、この裏切り者はすっかり見逃しているのであった。「新聞での扱いが小さい」と怒っていたから、別に飽きたわけではないのだろうが、これと『オトナ帝国』の2本は、年に一回は必ず見返して、その都度、日本映画史上に遺る大傑作であることを確認し、その素晴らしさを次世代に伝えていかねばならないと、自覚する必要があると思うのである。

2004年10月01日(金) 映画の日なので『アイ・ロボット』と『LOVERS』を。/『かってに改蔵』26巻(完結)
2003年10月01日(水) 別れの謂れ/『おそろしくて言えない』1巻(桑田乃梨子)
2002年10月01日(火) たかが賞金で金持ちにはなれない/アニメ『あずまんが大王』最終回/『西洋骨董洋菓子店』4巻(よしながふみ)
2001年10月01日(月) 貴公子の死/ドラマ『仮面ライダーアギトスペシャル』/『終着駅殺人事件』ほか
2000年10月01日(日) スランプと○○○の穴と香取慎吾と/映画『マルコヴィッチの穴』



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)