1998年06月27日(土) |
"JAZZ A SAINT-GERMAIN" |
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"JAZZ A SAINT-GERMAIN"を聴く。
少し前から話題になっているのは知っていたし、実際に何度か手に取りさえしたのだが、 サンジェルマン・デ・プレの50年代の音ではないと知り、買うのを控えていたのだった。
クラブ「タブー」での実際の録音でもあれば間違いなく買うのだが、と考えていたところ、ジャケットにボリス・ヴィアンの名があるのを発見。
しかも曲は、"J' SUIS SNOB(僕はスノッブ)"!!
歌い手の名前にボリスの名があるということは、ボリス本人の声が入っているに違いない。 すぐさま買うことに決め、(その日はすでに3枚もべつのCDを買い込んでいたのだったが)家に帰って聴いてみる。
ボリスのシャンソンは2曲。他には、セルジュ・ゲーンズブールや、ジェーン・バーキン(勿論古い録音である)。
かと思えば、イギー・ポップも参加。評判になるのも分かる気がする。
さて肝心の「僕はスノッブ」だが、これはどうやらリハーサル版らしく、ボリスは何と途中から歌詞を忘れていた(笑)。微笑ましくて思わずニヤリとしてしまう。
1998年06月20日(土) |
Coupe du Monde |
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Coupe du Monde.フランス語ではワールドカップをこう表現する。
バーベキューを中津川の河原でしようと思ったが、あいにくの雨で、結局クロアチア戦観戦ツアーに切り替えた。
ツアーといっても、僕の家で酒を飲みながら、だらだらと応援するだけなのだが。 日本が勝ったら乾杯しようと弁護士S先生が買ってきてくださった「田沢湖ビール」を、やけになって瓶ごとあおりながら、勝手に敗因を分析したりして夜は更けていった。
1998年06月16日(火) |
民事部麻雀大会前哨戦 |
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明日の民事部麻雀大会に備えて、前哨戦(笑)。 本当に久しぶりにジャンパイを握る。
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パスタ。
親がイタリア旅行で買ってきた謎のスパイスを使ってみる。 「ほうれん草と挽肉のパスタ、サルサ風ソース」、と勝手に名付けて、アルゼンチン戦を観戦しながら食べる。
食べているうちに結構美味いことに気付き、そのまま食べるのはもったいないとばかりに、酒を飲みながらあわせて食べる。
敗戦後、英語の勉強スケジュールを組み直す。 夜は更けて行く。
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仙台に赴任された教官のお宅に東北の修習生が押し掛けた。
これは、「雪国の会(笑)」(寒冷地手当3級以上の東北修習地の修習生のクラスメイトで結成されている)の企画として立てたもので、教官宅に上がらせていただくのは僕は二回目である。
教官の奥さんの心づくしの料理をいただき、仙台の銘酒を飲み交わし、盛岡から持参したワイン(ヴォーヌ・ロマネ'85)をあけ、たのしい一日を過ごした。
仙台高裁は、いまは例の寺西判事補の分限裁判で大変忙しそうであるが、この日ばかりは教官もそれを忘れて修習生につき合ってくださった。 教官、どうも有り難うございました。
翌日7日は、I夫妻、H賀氏、K林氏、S井氏で松島海岸にドライブ。解散後、S井氏と盛岡まで僕の車で来て、盛岡名物冷麺を食べた。
盛岡でいくら探しても見つからなかった「ビジネス法律英語辞典」(日経文庫)が仙台の書店で見つかったのが収穫。
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民事問題研究。
賃料に対する抵当権者の物上代位の問題で、転貸や将来債権の譲渡という執行回避手段にいかに対抗するかという最近のホットな論点。
ごく最近の最高裁判例が出ているところで、抵当権の公示がなされているのであれば、その後の将来債権の譲渡に対しては対抗することが出来ると判示している。
判例の調査をかなり詳細にしたおかげで、調査について、一通りのやり方を知ることが出来た。
1998年06月03日(水) |
Paul Auster「鍵の掛かった部屋」 |
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ポール・オースターPaul Auster「鍵の掛かった部屋」(白水Uブックス)を読む。
村上春樹的。直線的ストーリー。深みを技巧によって演出しようとしているが、不自然。
だが、この不自然さを受け入れながら読むと、意外にこれが面白く読める。 アメリカの小説家というイメージ通りなのが楽しい。
現代の小説家の一部が、何故こういった物語を書き続けなければならないか。 「書かれる必然性」を欠く物語は、むなしい。
生まれ出ようとするストーリーが、リアリティを持つかどうか。読者を酷薄な現実に対峙させ、日常を問い直させることが出来るか。
そして、読む前と読んだ後の自分が、明らかに変わってしまったと感じるかどうか? そんな、小説が求められている。
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小説の構想。「僕猫」のだいたいの骨格はすでに3年前にできあがっていたのだが、 さらに幻想と現実の危うい綱渡りから、切ない想い出を「意識の流れ」の手法で描き出す予定。
よく訊かれることだが、この小説はいわゆる「私小説」に分類されると思う。 しかし、厳密にいえば、この小説は自分自身の体験だけではなく、意識の内面の旅の経験を小説化しているのである。
その意味では、この小説は厳密な意味での「私小説」にはあたらないのではないかと考えている。 この小説は時間を掛けて書いていきたい。
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