人権�牋貽�100質��
〆よろしければ、相互リンクをお願いします。


2004年07月31日(土) 第一期(後編)



第一期(後編)

水平社のFは「Fighter(少年闘士)」のF・・・
 

 全国水平社創立大会の翌年、一九二三年の九月一日午前一一時五八分に、関東大震災が起こりました。その時、栃木県水平社大会に弁士として参加していた少年は、東京に滞在中でした。西光万吉と阪本清一郎が少年の救出に向かい、満員機関車の最後尾にしがみつくようにして帰郷しました。
 少年は、奈良県柏原出身の山田孝野次郎(といい、阪本清一郎らが作った「社会問題研究部」の最年少メンバーでした。彼は一九〇六年に七人兄弟の三男として下駄の修繕業を営む家に生まれました。ちなみに一九〇六年は島崎藤村の「破戒」が出版された年です。
 山田孝野次郎は、一九二二年三月三日の全国水平社創立大会でも少年代表として、「生徒の様子を心配」した校長の職務命令でやってきた担任の安川藤作が密かに参加する中、以下のように来会者に訴えました。
「奈良県の山田です。私は学校で同級生や教師から差別され、身も心も冷え切るような思いで過ごしてきました。校門をくぐったら最後、勉強どころか涙で一日が終わる日が何回もありました。教壇に立った先生のひとみは何という冷たいものでしょう。しかし、それで、わが身が悲しいかというと決して悲しくはありません。私には世間からさげすまれなければならないいわれが、なにひとつないからです。尊い人というのは、生まれながらにして、何か他の人と違う印がついているのでしょうか。まさかそんなことはありません。尊い人もいやしい人も存在しないのです。私の体の中には他のすべての人達と同じように赤くて熱い血液が流れているのです」
 堂内の各所からも壇上の委員からも嗚咽の声が聞こえた時、彼は

「今、私共は泣いているときではありません。大人も子供もいっせいに立って、この嘆きの因を打ち破ってください。光り輝く新しい世の中にして下さい」
 
と、高い声で訴えました。
 創立大会で大人顔負けの活躍をした山田孝野次郎は、学校ではどのような少年だったのでしょうか。当時、富田校長による朝礼が毎日あり、柏原部落が「トラホーム(伝染性慢性結膜炎)が多い」、「汚い」、旗日に日の丸を「立てない」と言って中傷を繰り返していましたが、山田孝野次郎は直談判してこれをやめさせました。また、卒業式で総代として答辞を読むとき「謝恩の辞を投げ捨てて、火のような憤りを舌端に燃やした。卒業式は大混乱に陥り、校長始め一同は色を失った」とのことです。
 山田孝野次郎はその後、松本治一郎と行動を共にして九州に滞在しており、一九二七年の盆に最後の帰郷を果たすと、一九三〇年脳腫瘍によって失明し、翌年三月九日に二五歳の若さで他界しました。葬儀は全国水平社葬として西光寺で営まれ、参列者は全国から二千余名にのぼりました。
 なお、山田孝野次郎顕彰碑が全国水平社委員長の松本治一郎によって小学校前に建立されましたが、建碑当日は故郷を離れて久しかった彼に区内で協力者はなく、身内だけという寂しいものでした。


1924年3月5日全水青年同盟西浜支部の演説会(壇上は、山田孝野次郎)


 全国水平社創立大会と同年の四月の奈良県水平社創立大会演説では、小学生代表の井上千代子(一九〇六生まれ)が登壇しています。
「これも要するに我々に意気地なき結果なること、そしてこの苦痛と迫害より逃れんためには、今日から我々が一致団結して暖かくそしてよりよき世の中を造らん」
 と、彼女は大人顔負けの主張をしました。続いて山田孝野次郎が「宣言」を朗読し、婦人代表の中西千代子は子連れで「水平運動によりて未だ自己に目ざめざる人は、最も愚なり」と部落大衆の自覚を促す主張をしました。少年少女水平社、婦人水平社は同年三月に大阪で設立されています。
 参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のKは「荊冠旗」のK


 一九二二年の全国水平社創立大会は成功裏に終わりましたが、そのあと、西光万吉らを失望させる事態が待っていました。
 官憲は治安維持法をちらつかせ、「(弁士)中止という声が一声かかったら、それからは一言言っても、違反になるわけです・・・私は奈良県十八の警察のうちで一晩も留められなかった警察は二つしかありません・・・」と米田富は当時の様子を語っています。
 同年五月一〇日の奈良県(柏原)水平社の結成から間もない五月一四日には、南葛城郡の大正尋常高等小学校で、「今日はエッタの掃除当番か」と部落外の一児童が発言をしたのを契機に、大正村の小林部落と部落外の学校関係者、保護者との間で激しい争論が置き、小林部落の木村京太郎(当時二〇歳)ら七名が御所署に出頭して事件の真相について述べましたが、七〇日余りも五條監獄での獄中生活を強いられることになりました。
 同年六月四日には、大和同志会が二〇〇名の参加で協議会を開いて水平社に対抗することを協定し、それを受けて柏原部落の親友会も出席者一〇〇名で西光寺で総会を開き、「一、水平社は過激であるゆえ加盟しないこと 二、穏健な手段で部落改善を図ること」を協定しました。

 そんな中、全国水平社は一九二三年三月二〜三日に、前年と同じ岡崎公会堂で、第二回大会を迎えました。東西両本願寺に募財拒絶を通告する示威運動を展開していた全国水平社は、三日の午前五時の早朝、雨の降る中、五千余名が、三府二七県の先頭には、五尺の先端を斜めに切った青竹の先には荊冠旗、数十名の消防服姿のラッパ隊による行進曲という隊列で、まず東本願寺に向かいました。
 隊列の先頭の栗須七郎(当時四一歳)は和歌山県本宮の苔部落出身で、いつも長髪で腰に縄を巻いていたので「水平の行者」と呼ばれていました。隊列が須弥檀を背景に整列すると、彼は賽銭箱の上に立ち、両本願寺が「我等の正に建設せんとする新社会の完成に障害を與ふものなるを以て、其存在を否定する為の募財拒絶を断行する」と宣言しました。
 再び、示威運動は隊列を組むと今度は西本願寺へ向かいました。今度は西光万吉が賽銭箱の上に立ち、「我々は此誤った宗教、誤った道徳を改むる躾けとして、先づ此偶像を破壊せざるべからず、茲に於て初めて本当の親鸞は実現し得るだらう」と絶叫しました。
 その後、午前一一時に隊列は岡崎公会堂に到着しました。正面玄関には、黒地に赤荊の冠が描かれた荊冠旗が張り出されていました。
 
 さて、この荊冠旗を考案した西光万吉は、旗の「黒地」に「我々の過去と現在の陰暗な生活」を、「赤荊の冠」に「罪人の印として」キリストの頭に載せられたものとして、受難と殉教を象徴させました。若い米田富は、西光万吉が荊冠旗と旗竿に託した思いを聞き、この荊冠旗に「部落民の誇り」「殉教者としての誇り」を見ました。

米田「われわれは殉教者という誇りと、そして信念で進んでいかなければならないというのが、キリストの刑死に影響を受けた西光さんの考え方で、だれも反対する者がない。私のごときは、荊冠旗についての説明を、西光さんから聞いて、肩身が広くなって”殉教者だ、殉教者だ”ということで、力づけられました」

西光「黒地に赤荊の冠であまり気味のよいものでないばかりか、その旗竿の先を鋭く斜めに切った青竹にする・・・。(中略)しかも旗竿はかならず生々しい青竹の竹槍でなければならぬ。この当時の私たちの陰惨な受難殉教の気持ちをそのまま表現している。この旗を見ずして水平運動は語れない。まさしく小さい星一つさえないこの旗は、絶望的にさえ見えるにもかかわらず、血みどろな人間が、まだ殺されずに生きている、しかも立ち上がろうとする。そんな気持ちが、私にこの旗と竿を考案させた」


米田「われわれ部落民は獣の皮をはぎ、獣の心臓をさき、牛殺し、馬殺し、そういうことで差別をうけたけれども、それをやる者がなかったら、着るものの、食べるものも、履くものも出来ませんのや。モーニングコート着て、にわとり同様、足元だけ裸足やったら、これ、うつりまへんで!」

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)



水平社のHは「誇り」のH


 一九二二年三月三日の夜の協議会で、元備作平民会の岡崎熊吉から、宣言文の「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」に対するクレームが付きました。会場には、各地代表と有志一八〇人ほどが集まっていました。岡崎の意見に対し、一心に説得を試みたのは米田富でした。

米田「我々が自らエタ・特殊部落民を言う時は、人間としての自覚と人間として持つべき当然の権利の上に立った上で使うのですから、そこには自らを卑下する何らの劣等感もなければ卑屈感も伴わないのです。我々はみんながこの自覚に立ってほしい、立つべきです。みながエタであることを誇れる人間になってほしい。我々の運動の根本は、この自覚・尊い人間であることを自覚することにあるのだと主張しようとしているのです。ところが、一般の人間が”エタ”とか”特殊”とか言う場合は明らかに差別を表示としてしか使わないのです。これは不当極まる優越感に基づくものと考えねばなりません。これは許してはならないのです」

 議事進行役の駒井喜作が「不断の努力」で賤称を尊称にしようと討議を締めくくりました。

参考文献:「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のIは「identity(部落民意識)」のI


(水平社)宣言の中心思想は「人間を尊敬する事によつて自ら解放せん」とする人間主義であり、人間の尊厳思想である。冒頭の一句の「全国に散在する吾が特殊部落民よ、団結せよ」が大文字で記されているのは、西光がこの一句にアイデンティティの叫びを込めたからで、その思いは絶大であったといえる。米田のこの一句について、「解放運動の生命」を表現している、と語り、木村京太郎も「(特殊部落という)公然自称に無限の意義がある」と絶賛する。この文言は、マルクスが労働党の国際的団結を呼びかけた一八四八年の「共産党宣言」から西光が示しゅんを受けたものだが、「共産党宣言」以上の重みがある。
 人間の尊厳を踏みにじるのはこれらの「烙印」だけではない。西光は、「いたわる」という同情融和思想も人間の尊厳を奪う、と説く。見せ掛けの同情も人間を冒涜するのである。「いたわる」は漢字で「労」ると書くが、これでは西光の意図が伝わらない。そこで彼は「労」の代わりに「勦」という難解な漢字を用いた。(「至高の人 西光万吉」より引用させていただきました)


水平社のQは「糾弾」のQ

 
 水平社創立大会の翌日に東西本願寺を訪ね姿勢を糾した帰りに、米田富が市電停留所へ行くと、そこに数名の地元の人たちが立ち話をしていました。彼らが、昨日の岡崎公会堂での大会のことについて「大勢の華族さんのお集まりやったそうな」と言う話し声が米田富の耳に聞こえてきました。「そんな大会あったんやろか?」と米田富は一瞬いぶかりましたが直ぐ「我々を皮肉って華族さんと言っとる」とピーンと来ました。

米田「ちょっと聞きまっけどな、きのう、ほんまに華族さんの大会おましたか?」

地元の人「へえ、そうどすがな、えらい大会やったそうどっせ」

米田「きのう、大会を開いたのはわしらや。特殊部落民や。わしらを華族さんとよべば、差別にならんとでも思とるんか。これこそあくどい差別やないか。昨日の大会は貴様らのような差別者を糾弾するために開いた会や」

 昨日の大会で徹底糾弾の決議文(その一、吾々に対し穢多及ひ特殊部落民等の言行によつて侮辱の意志を表示したる時は徹底糾弾を為す・・・)を朗読した本人、米田富が最初の糾弾に立ちあがったのでした。
「特殊部落民」或いは「エタ」という差別語は、人間の尊厳を踏みにじり自由と平等を奪ってきた言葉で、人間の尊厳を奪還するためにはそのように「徹底的糾弾」が必要だった、生涯自分は「徹底的糾弾」に生きたと米田富は語っています。

 「特殊部落民」或いは「エタ」という差別語は、水平社宣言の文言の中では「犠牲者がその烙印を投げ返す」の「烙印」に当たますが、宣言(案)検討の時には、この文言は削除しようという動きもあったようです。では、当時の水平社創立大会の創立宣言(案)の検討の様子は、どんなふうだったのでしょうか?
 それは若い米田富のいる部屋に西光万吉と駒井喜作と東京から平野小剣が集まって、始められました。

西光「”投げ返す時が来たのだ”というのは復讐を意味するようなことになるので、この部分は抜きましょうか」
米田(宣言文全体がやわやわしいと思っており、もっと激情で、戦闘の意思表示をせねばと思うくらいのところに、まだその文章を取ると西光万吉が言うので)「このくらいは、置きましょうや」
駒井・平野「このくらいのことは、置きましょうや」

 米田富は宣言の中でこの報復調の文言「犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ」に引きつけられていましたから、「この文言の実行にのみ生きた」と後年、生涯を振り返って語っています。
米田富
 
 ちなみに西光万吉が「烙印」を指す「エタ」や「ケモノ」の語を「穢多」や「獣」の漢字表記にしなかったのは、彼が漢字を使うと差別感が倍加すると慎重であったためと言われています。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のCは「cross(十字架)」のC


 水平運動を九州にも広めようと、一九二三年五月一日の全九州水平社の結成式に阪本清一郎や米田富も参加することになりましたが、委員長の松本治一郎は四月二六日から獄中にあり出獄の見通しが立たなかったため、一旦帰省することになりました。
 その前夜、福岡市松園部落での送別の演説会で、最後に演壇に上がった米田富が、官憲から「弁士中止」を受けました。演説内容から中止は不当だと思って演説を三〇分ほど続行した米田富は、そのあと福岡署に連行されました。
 翌朝、米田富は約一キロ先の支所まで徒歩で連行されることになりましたが、彼の頭には網笠が被せられ、腕には鉄の輪の手錠がかけられ、腰には麻縄の紐が巻かれ、紐の先を警官が握っていました。
 福岡署の前では多数の部落の人たちが集まっていて、米田富が歩き出すのについて彼らも歩き始めました。途中、彼らは「米田さん、いっぱい飲みますか」と声をかけ、手の使えない米田富が口をあけると、彼らはサイダーを注ぎました。「そのサイダーのうまかったこと。兄弟たちの優しさと励ましの声・・・」この時の感動を米田富は生涯忘れませんでした。
 米田富の姿はゴルゴダの丘に十字架を背負って登るキリストとだぶりました。

 米田富は福岡刑務所の独房に約一ヵ月間拘留されました。松本治一郎は六月二五日に六二日ぶりに釈放され、そこで米田富と初めて出会いました。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のRは「労働農民党」のR


 西光万吉が農民運動に飛び込んだのは「封建的な農民の生活と観念が変わらぬかぎり、我らに対する賎視差別も消えない」と考えたからでした。
 当時の農民運動は主に小作争議であり、日本農民組合は一九二二年四月九日に創立大会を開きました。西光万吉がたまたま、大会の理事である神戸の賀川豊彦宅に訪ねた時、打ち合わせに来ていた杉山元治朗と知り合ったことがきっかけで、農民運動家としての西光万吉がスタートしました。
 潔癖な西光万吉は「自分の思想を正しいと思い込み、それで相手を説得してもどうにもならない・・・お百姓の歴史を善も悪も、そっくり自分が背負って行くしかない」と清濁併せ呑むことを農民から学びました。
 真摯な西光万吉は共産党員となり、一九二五年の普通選挙法の施行に伴い「労働農民党」公認で県会と衆議院議員選挙に出馬しますが、惜敗します。
 一九二七年九月の県議会選挙に労農党公認で立候補した西光万吉は、次点で落選したけれども「最高(西光)が落選しました」と気落ちした様子もなく全国水平社本部へ入ってきました。同年の一二月二二日に彼の父が七八歳で亡くなりました。
 一九二八年二月の衆議院議員選挙に、西光万吉は再び奈良県から立候補しました。世論は「新聞紙をポスターに、金は釣鐘と半鐘だけ」(大阪朝日と彼の清廉潔白な人柄と略歴を紹介しました。彼は「貴重な一票を私、西光万吉に入れてくれ」とは絶対に言わなかったので、米田富は「自分ひとりのためにでる、という野心や欲望を持たないわけです。はたはみな当選させてやりたいと思うので、演説のしまいにたった一つ、皆さんの貴重な一票を私にお願いするということを一言だけ頼んでくれと、西光さんに歳々言うわけです」と語りました。しかし、時には「皆さんの手に握り締められた槍の穂先として、私を田中反動政府の心臓に突き刺してください」と鬼人さながらの形相で呼号したといいます。
 官憲からは、農村での演説で「現内閣の肥料政策は」と言っただけで中止を命ぜられたため、労働農民党・日本労農党・社会民衆党の三党共同で政府の選挙干渉に抗議を行いました。
 この選挙での西光万吉の敗因として米田富は、まず選挙資金の大差を上げました。当時の金で二〇万円の候補と一六〇〇円の西光万吉との違いです。仮に当選しても労農党であれば国会へ行く代わりに刑務所に連れて行かれたことも挙げていました。それから、手のひらに「清原一隆」と書いて練習したが投票場で忘れてしまった古老の話がありました。西光を支持した小作農や部落大衆の識字率の低さも影響したと考えられました。

 それから一ヶ月後の一九二八年三月一五日、「治安維持法」違反で共産党員は一斉に検挙されました(「三・一五事件」)。大阪にいた西光万吉も即日天王寺警察署に留置されました。四月一〇日には労農党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に解散命令が出されました。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


from「水平社の薔薇」



2004年07月30日(金) 第一期(中編)



水平社の「M」は三浦大我の「M」・・・

 
京都の「中外日報」という宗教新聞の社外記者であった三浦大我(一八八四年生)は、宇陀郡政始村大字藤井(現在の菟田野町岩崎の隣大字)の出身で、誓願寺の住職でもありました。三浦大我は、一九二一年の「中外日報」にて、米騒動以来途絶えていた社会の大問題の報道を再開させました。それに対し、当時の青年たちが競って「大我の弟子」を自称しました。「柏原の三青年」といわれる阪本清一郎(一八九三年一月一日生・戸籍上は七日)、西光万吉(一八九五年四月一七日生)、駒井喜作(一八九七年五月一八日生)も例外ではありませんでした。
 三浦大我は、家族とともに大阪の天王寺区寺田町で暮らしていましたが、床の間には西光万吉の描いた襖絵ほどの大きな「半獣神」の絵が飾られていました。西光万吉はこの絵によって「古いものを叩き割って、新しいものを造りたい」という三浦大我の血の気の多さを表現したのかもしれません。暮らしぶりはとても楽とはいえず、里子に出した息子が養子先で井戸に落ちて亡くなるなど辛い記憶も背負っています。
 それでは、西光万吉の相談相手であった三浦大我の記事や論文、演説が実際どのようなものであったかについて見ていきたいと思います。

 三浦大我は一九二一年より「中外日報」に「死神と人間」、「最高相の文化」、「焼点」と論文を続々と発表しました。三浦大我の論文は「柏原の三青年」の中の一人に向けて書かれていました。その「彼」は
「生まれて来るといふことが一番悪いんです。死こそ最高相の文化です」、「本能は洗練されねばならぬ、飲食も生殖も共に合理化された時本当の文化は人間の上に将来される・・・周囲が無反省に祖先以来の多産を已めないで低劣な存在を矢鱈地上に送り出す・・・」
 と憤ったのに対し、三浦大我は
「如何程低劣な個性でも自ら選んだ魂にとつて無意義な存在は一つもない」(「最高相の文化」)、「私は点である。広さもなければ幅もない然し存在だけは確かである。私の存在が有意義であるか、又無意義であるか、それは私自身にもわからないし、又強いて知ろうともしない、ただ世界中がよってかかっても最後まで抹殺することの出来ない此一点を尊重するところに私の生命はあるのだ・・・個が個を摂取したいといふ傲慢を捨てない以上永久にこうした悲しみに悩まされるだろうという事を知った時、孤独な存在が一つの点として宇宙の一隅に措かれて居る事を不思議と怪しんだ」(「焼点」の冒頭)と諭しました。
 「彼」は三浦大我との議論を通して、傲慢な教条主義は顔をひそめ、三浦大我の説く人間主義や人間の尊厳こそ部落解放の理念だと気づいていったとみられます。
 「彼」はそれから二四年後の一九四五年九月一九日に、自らの戦争協力に対する含羞から遺書を残して自決をはかります。故郷の柏原部落に帰郷し、モルヒネを飲んで銃口をこめかみに押し当て引き金を引きますが不発でした。世話人の山田敬義さんが事前に細工しておいたのでした。その後「彼」は一途に「和栄政策」(自衛隊を廃し、代わりに和栄隊の創設を提唱する)運動に邁進するのです。「彼」が誰かはご自身でお調べくださいね。

 三浦大我はその後、「中外日報」や著作「左翼戦線」によって水平社創立までの動静を逐一報道しています。
「今回同県中央部の部落青年によって同県を中心に三重、兵庫、和歌山の諸県に亘って・・・専ら宣伝行脚によつて真実徹底力ある同志のみを選出し万事は其結団の力で遂行していこう」(一九二一年八月三一日)
「「地方青年の自覚に基づく部落解放運動は、その後各地有志の会合を重ねると共に漸く白熱的となり、従来中老等が官僚に扇動されて嬉しがっていたような気分とは全く反対に、どこまでも少数の自発的運動によって、あくまで自他の迷盲を打破すべく驀進することになった・・・多分来春の一二月頃には・・・何等かの形式に依って凄まじいのろしの噴出を見るだらう」(一九二一年一二月七日)

 三浦大我はまた、全国水平社創立の年の八月一五日に「本願寺教団と部落問題」と題した講演を燕会の宮で行い、「ただ金さへ献げれば救われるものの如く考へ」本願寺教団を妄信してきた部落門徒の意識改革を促しました。その他、県当局が水平社を懐柔するべく大和同志会との「合同」を打診してきた時に、「水平社の綱領と相隔つること遠く、水平社目下の概況は到底斯る微温的改善に甘んずる模様なきを以って幹部に交渉するの余地なし」と門前払いにしました。米田富は「三浦大我さんが頑として一定の信念を持って頑張っていただいたんで、水平社もここまで伸びることが出来た」と回想しています。
 三浦大我は敗戦直前の六月六日に郷里の生家で永眠しました。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のLは「レベラーズ」のL


 「柏原三青年」はある一九二一年八月の盆ごろ、社会問題研究部で、解放運動の名称について「何か新しい名をつけたい」とみんなで頭をひねりました。「燕会」の名でという意見も多かったのですが、阪本清一郎が「水平社」の名を提案し、西光万吉も「中世英国の有名な農民一揆の名を連想するので、私たちも異議なしであった」と回想しています。
 この「農民一揆」とは一七世紀の清教徒革命における”平等派=水平派(レベラーズ)”のことです。このことは、西光万吉たちは遠く英国の民主主義の歴史に関心を寄せていたことを窺わせます。

 ちなみに「水平社」の前進である「燕会」の名称は、一九二〇年に西光万吉の提案で「千里の海を渡る意気を込めて”つばめ会”と呼ぼうということに決め」たということです。燕会の旗には、西光万吉のデザインと見られる三羽の燕が円上を飛ぶ姿が描かれています。しかしまもなく「燕会」と対立する「親友会」が組織されたのでした。

 また、「燕会」の構成メンバーから見て、これは「黒潮会(こくちょうかい)」の変身と見られています。「黒潮会」は、失意の帰郷後、夢想の日々を送っていた西光万吉が「セレベス(赤道直下にある現在のスラウェシ島)移住」を計画して結成したものです。これは当時の知識人にしばしば見られた、自己の芸術と生産活動の一致を海外に模索する「ユートピア幻想」でもありました。時速六キロの黒潮を遡行すればやがてセレベスに近づきます。しかし、消費組合運動を進める賀川豊彦に出会い、西光万吉らは、それまでにはなかった柏原部落の生活改善という視点に目覚め、大きな転機を迎えたのでした。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のTは「特殊部落民解放論」(佐野学)のT

 
佐野学が西光万吉の呼びかけに応じて、一九二二年の夏休みと翌年の正月に柏原部落を訪問した時は、全国水平社の幹部をはじめ県内外の部落大衆、名古屋、松坂、大阪、京都など多数の同志が西光寺に集まり、柏原部落の歴史が始まって以来の大騒ぎとなりました。
 早稲田大学講師の佐野学(一八九二〜一九五三)は一九二一年七月号の月刊誌「解放」に「特殊部落民解放論」を発表して、これまでのような特殊部落民に対する融和運動だけでは部落民の改善も解放も期することは出来ないから、今後は特殊部落民みずからによって自分の部落を改善し、解放する自主的運動を組織的に起こさなければ駄目だというふうに説きました。
 佐野学が帰京する日は、西光万吉は水平社結成に至る苦労話として、官憲の尾行や親達の無理解からくる苦しみや孤立感について語りました。そこへ、阪本清一郎、駒井喜作、三浦大我、米田富が合流しました。
 佐野学は帰京後、柏原部落の思い出を「水平社訪問記」にまとめました。
「南葛城郡掖上村柏原こそ、日本の社会運動に突如として勇姿を現した水平運動の発祥地である。水平運動が起こってから僅かに一年である。しかるに其勢は燎原の火の如く全日本に拡大し、絶望と悲憤とに暗くなっていた部落の人々の心に一大光明を点じ、殆どすべての老若男女を奮い起たしめている」
 佐野学は水平運動の歴史的意義を強調し、日本に新社会を生む一大勢力として「水平運動を絶対に賛美」すると記しています。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のAは「action」のA


「米田はものになる・・・」と、西光万吉(当時二六)が初めて米田富に出会ったとき思ったのに対し、「着流しの着物に三尺帯をしめたあいつは、どこのナンパの不良じゃ」と米田富(当時二〇)は思いました。時は一九二一年一一月二〇日(水平社宣言成立の約三ヶ月前)、場所は青年団主催の高田町雄弁大会でした。

米田「外来思想は悪いから、よく気をつけるように、というお達しが回っているが、外来思想必ずしも危険にあらず、と私は思う。電気やガスという便利なものは誰が発明してくれたか。儒教も仏教もキリスト教も外来思想ではないか。日本固有のものといっては、あの杓子みたいなものを持って、高天原がなんとか・・・というだけのことだ。発明したといったって、一人に一人かかる人力車がせいぜい」

官憲「弁士注意!」

米田「僕の話に、むこうから弁士注意と言われました。私だけでなく、聴衆の皆さんもよく注意して聞いてください」

聴衆の一人「そうだ、在来思想必ずしも安全にあらず」

 その後、次の一一月二七日の紀和青年雄弁大会への参加の申し込みと打ち合わせを兼ねて、駒井喜作(当時二四)が幹事の米田富の元へ向かいました。
「大島の米田という人のうちへ行こうと思うんだけれども、どの辺でしょうか?」
「米田はわしやが、あんただれで?」
駒井喜作は「何の気なしにはっと振り返った。おそらくおそろしく背の高い男だな、ということが私の関心をひいたんだと思うのです・・・」ということで、米田富に早速水平社に参画の意志を尋ねました。米田富の返事は「喜んで参加する」ということで、後にその時の気持ちを「もうそのときには気持ちは一つに熔け合っていたと思いますね。初めて会って相談しているんではなくて、もう二人で何かを始めているんだといったような気持ちでした」と語っています。
 駒井喜作は三名の講演を米田富に依頼しました。演説時間は通常一人五分と決まっていましたが「西光さんには二〇分ほど特別に割愛してもらいたい」と注文を出しました。
「一も二もなく引き受け、水平社という未知の星をもったわたしには、もう怖いものなどなかった。私はこの運動に私のこの身この生涯をかけることを繰り返し心の中で誓っていた。駒井の話が、また私の決心に力強い拍車をかけてくれた」と、当時の決意を米田富は回想しています。
 紀和大会の当日は、米田富は「プログラムの真ん中へ太い枠をとって西光万吉の名を入れました」。三三名の演説を四、五百名の聴衆が聞きに来ていました。司会役は米田富でした。演説者のうち二名が演題の中に「社会主義云々」があったために「言論不穏」と臨席していた県警課長に中止を命じられました。西光万吉は「金殻を脱ぐ」、駒井喜作は「二つの経済組織」という演題で語りました。「金殻・・・」の論旨は「黄金に象徴される資本主義的ブルジョア制度の殻を破り、無産者として創造的人生を歩め」というものでした。
 この大会は、「スピードの遅い速いはありましょうけど」(米田談)青年の成長ぶりを物語るものとなりましたが、官憲はこれを期に青年たちの備考も始めていきました。

 阪本清一郎が「水平社創立趣意書」の印刷を奈良市の松井庄五郎に依頼したところ、大和同志会会長の彼は「こんなものこの通り印刷したら一辺に発禁じゃ」と真っ赤に訂正して原稿を返しました。この時、西光万吉たちは融和運動と水平運動の趣旨の違いを思い知らされました。
 そのとき、京都の千本部落の青年代表南梅吉(当時四四)という麦藁帽子をかぶった小柄な男が入ってきて、「このごろ非常に困っているんです。社会主義者の人がちょいちょい入ってくるんで」と言ってきました。阪本清一郎は彼の名刺を見て、京都の同志の紹介を彼に頼みました。
 その後、三浦大我の仲裁でようやく「水平社創立趣意書」の印刷を京都にある同朋舎で行ってもらえることになりました。

 南梅吉を介して京都の組織化が進む一方で、米田富は砂を噛むようなオルグ活動を展開していました。「私は和歌山県沿岸から淡路の方を回り、いろんな人に水平社のことを説明して、どうだろうという話をしましたが、それは結構だ、おおいにやりましょうということを元気よく答えた人はきわめて少数でした」。また、米田富の実家には「ちょっと二階を見せてもらう」と言って警官がサーベルの音を立てながら入ってきて、彼を家族や幼友達の目に不審人物に仕立て上げました。米田富の孤独感はつのるばかりでした。
 一方、西光万吉も官憲の尾行つきとなっていたことで、檀家から父親が責められ、西光寺を出て京都へ転居することになりました。七〇歳を過ぎていた西光万吉の父の道隆は「やれるだけやれ。しかし村を離れて、京か大阪へ行け。そして運動を続けよ。金は少しずつでもできるだけ送ってやる」と言って「お布施の中から貯めた五〇銭銀貨を紙に包んで」与えました。

京都でガス会社の修理工となった西光万吉と、紀州の小さな日刊新聞に籍を置いていた米田富と、奈良から河内方面へ水平社の宣伝活動を行っていた駒井喜作は、同情融和の欺瞞を説くべく「大阪時事新報」(現在の産経新聞の前身)の社会部長、難波英夫(当時三三)を訪ねていきました。難波英夫は、部落問題をタブー視していては「仕事にならない」と、他紙に先駆け積極的に載せていたところ、「老荘派」の寺田蘇人が訪ねてきて「大日本平等会」側の発起人を頼まれていたのでした。
 寺田蘇人は西光万吉の説く解放運動の原則「部落以外の人々に依つてなされたる過去の運動が常に不徹底であつた事だから、部落の解放は部落民自身の力に依つて真剣に展開されねばならぬ」を過激と捉え、それに対し駒井喜作は「自発的精神と至純なる情操と灼熱せる信念との不備による抜け殻と倦怠とをもたらしつつある・・・不合理なる空想的運動」と「中外日報」紙上で批判を繰り返していました。
 西光万吉は難波英夫に対し、「それが問題なんです。・・・現に平等会でも、部落の教養ある名士をすぐって組織しようとしていられる。・・・我々がなぜ教養を身につけることのできない状態におかれているのか、ということをまず考えてほしい。・・・(一流の偉い人が)もっている身分的優越感そのものが、差別の元凶なんです。・・・私は人間を本当に尊敬する立場で見ないで、やれ可哀想だ、気の毒だというので、何か恩着せがましいあの態度、これが心外なのです。これこそ差別ではありませんか」と話しました。それからせっかく水平社創立を進めてきたのに、直前に平等会の大会を開かれると、意気を削がれ妨害になると、本音での話し合いもしました。難波英夫は自分の不勉強を恥じ、「平等会を水平社の宣伝の場にするシナリオ」に協力することを約束しました。

 一九二二年二月二一日の午前一〇時、中ノ島中央公会堂で「大日本同胞差別撤廃大会」(平等会)が開催されました。舞台には知事や市長、東西本願寺の御連枝等の「名士」がずらりと並びました。
寺田「開会の辞を大阪時事新報の難波英夫氏にやってもらいます」
難波「この問題を私たち外部の者がかれこれ言うのはまちがいなんだ、・・・どうかどなたでもいいですから皆さんの中から発言していただきたい」
西光(菜葉服で、右手を挙げ左足を引き長髪を振り上げながら)「諸君。大谷氏は生き仏として拝まれるが、私は屈辱の青痰まで吐きかけられ人間であることさえ否定されているのです。私どもの願いは大谷さんのようにすべての人間が平等に拝み拝まれ尊敬しあうよき社会をつくりたいのです」
 次に巨体の泉野利喜蔵が蛮声を張り上げ下駄でどんと舞台の床を踏み付けると、床板が割れて来賓一同はおびえました。続いて南梅吉が解放運動の根本を論じる中、「京都へ!京都へ!」の五色の宣伝ビラが二階から撒かれました。「ひらひらと花の如く散り・・・あっちからもこっちからも手を伸ばして取りっ子するのを上から見ながら撒いた」といいます。「成功した」と米田富は直感しました。
 終了後、命脈の尽きた平等会の寺田蘇人から、難波英夫は「エタの小僧になにができる?」と社会事業家の腹の底を見せつけられる内容の手紙を受け取りました。
「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)


水平社のEは「energy」のE


一九二二年三月三日の朝は快晴で、暁闇のうちから京都駅に着いた岡山の青年たち、消防団旗を持ってハッピを着てラッパを吹きながら駅から降りてきた奈良の一団、関東からの一団などが次々合流し、行く道にはずっと行列が岡崎公会堂まで続いていました。参加総数は二五〇〇〜三〇〇〇人程でした。
 午後一時、開会のベルが鳴り、執行委員長の南梅吉が拍手に迎えられて登壇しました。続いて式次第に従い阪本清一郎が「粒々辛苦の経過」を報告し、桜田規居矩三が綱領の三項目を朗読しました。
 桜田が綱領を読み終えても歓声と拍手はなかなか鳴り止まず、次いで大柄な駒井喜作が創立宣言文を持って登壇し、朗々と読み上げようとしましたが、「全国に散在する吾が特殊部落民よ」で言葉が詰まり、やっとしてから「団結せよ」と続け、「長い間虐められてきた兄弟よ」でまた言葉が切れ、さらに「何等の有難い効果を齎さなかった」に絶句し、「吾らの祖先は自由平等の渇仰者であり、実行者であった」で声涙ともに下り、「吾々がエタである事を誇りうる時が来たのだ」は悲壮でした。それからは駒井喜作はゆっくりと読み続け最後に、「水平社はかくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光あれ。大正一一年三月三日、全国水平社」と結ぶと、三千の観衆はみな声をのみ、駒井喜作も降壇するのを忘れて壇上に立ったままでした。そして、観衆は手を握り合い、肩を抱きあって喜びの涙を流し、しばらくして堂をゆるがすような大拍手が起こりました。
 そこへ米田富が三項目の決議文を持って登壇し、一項一項読み上げるたび、割れるような拍手とそうだそうだの声援が聞かれました。
 最後に大柄な泉野利喜蔵が登壇し、祝詞・祝電・激励文を読み上げ、大会は終了しました。
一斉に「エタ万歳、水平社万歳」の声が聞かれ、引き続き各地の代表者演説に移りました。
 この次に登壇したのが少年代表の山田孝野次郎でした。


 大会の模様は、映画や演劇でおなじみのシーンでもありますね。啓発ビデオの『三月三日の風』は「至高の人 西光万吉」が原作だそうです。観られた方はぜひ感想をお聞かせくださいね。「水平社の薔薇」Fに続きます。


from「水平社の薔薇」



2004年07月29日(木) 第一期(前編)



第一期(前編)


水平社のJは「殉教者」のJ・・・

 種明かしすると、「水平社の薔薇」という言葉は、一九二〇年に大福村の三人の青年が創刊した「警鐘」に、西光万吉(当時二十六歳)が翌年西光寺一というペンネームで寄稿した「鐘によせて」という叙事詩からいただきました。一部を抜粋すると

 
 生命の鐘つき男よ
 なんとおまへの御苦労よ
 おまへはたっしゃで早起きで
 たっしゃで早起きでお人よし
 そしておまへには
 いろがあるそな
 その恋やつれ
 なんとおまへの御苦労よ
 (中略)
 わしはよいものをことづかった
 おまへのいろからたのまれて
 薔薇でかざった十字架をことづかった
 (中略)
 荊の冠をとるひまもなく
 その十字架を抱擁し
 その薔薇に接吻するであらう
 おまへは
 (中略)
 黎明に鐘がなる
 追放されたるイブとアダムは
 悲嘆と当惑の頭をあげる
 そこから親鸞が同行し
 ルシファの蛇が案内する 
 地獄のかなた、人間の浄土よ


 
このミルトンの「失楽園」(ドレ画)を連想させる詩の中の「十字架」は「生命の鐘つき男」、つまり機関紙「警鐘」に集う青年を殉教者に見立てたもので、「薔薇」は西光万吉が水平社を連想した花であると思われます。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)



 さて、なかなか本題の「水平社宣言」の内容が出てきませんね。実はこれには理由があるのです。

 『至高の人西光万吉』(人文書院)の著者宮橋國臣さんは、「宣言には幾層にもわたり、歴史性、思想性、精神性、社会性等が凝縮されている」とおっしゃっています。例えば、西光万吉は自らを”大宇宙の巡礼”に準えましたが、これは「そうした様々なジャンルを読み込まないと、起草した西光の思想や精神形成の理解には到らない」のです。
 よって、今回は「水平社宣言成立の歴史的、思想的、文芸的な背景」、さらには本書にあるような「発祥地の歴史認識」のキーワードを、ワタシなりにアルファベット別に抽出してみました。よろしければもうしばらくおつきあいくださいね。


A action(行動)
B backbone(背景)平等会 部落改善事業費
C cross(十字架)
D 「どん底」 弾圧 大和同志会 同愛会
E エネルギー エスぺランチスト 演説会 

F fighter(少年闘士)普通選挙法 不戦の誓い 舟木事件
G ガンジー
H 「誇り」本願寺 平安中学
I アイデンティティー(部落民意識) 一村一校(学校騒動)
J 殉教者 自殺願望 
K 荊冠旗 矯風会 期限二千六百年奉祝式典 国粋会 教条主義 関東大震災 国民勤労報国協力令 小作争議 賀川豊彦 共産党宣言 
L レベラーズ
M 三浦大我 三井三池炭鉱
N 奈良県南葛城郡掖上村柏原北方(現御所市柏原) 膠製造 二・二六事件 日本社会主義同盟 人間主義
O 大江天也(大江卓)
P police(官憲)
Q 糾弾
R 労働農民党 蘭陵王 烙印
S 至高天 「神曲」 三・一五事件 親友会 世界連邦建設同盟 西光寺 青年共和団 社会問題研究部 

T 「特殊部落民解放論」(佐野学) 太平洋戦争 燕会 中外日報 治安維持法 天皇制 大逆事件 太平洋画会研究所 大正小学校差別事件
U 畝傍中学
V vision
W wife 和栄隊 
X ?(水平社宣言の新しいパラダイムを提起:「第�群鷙餾歐畔�制研究会報告書」宮橋國臣さん/大阪の部落解放・人権研究所発行)
Y 融和団体 よき日のために 大和同志会
Z 全国に散在する・・・(宣言)




水平社のSは「至高天」のS・・・


西光万吉は一九七〇年三月二十日に胃癌で七五歳の生涯を閉じました。彼の訃報を翌日の朝刊各紙は「水平社創立者」、「水平社宣言起草者」として報じました。彼の告別式は西光寺で営まれ、荊冠旗が本堂、門前に立てかけられました。葬儀委員長は阪本清一郎で、「水平社宣言」朗読の後、「宣言が初めて読み上げられた時の感激を忘れず、遺志を継ぐ」との弔辞が友人・関係者から相次ぎました。
 一九七〇年は大阪で万国博覧会が開催された年ですが、その前年一九六九年六月には同和対策事業特別措置法が制定されています。これは一九六五年に出された「同和対策審議会答申」に則って制定されたものです。その翌年の答申の完全実施を求める国民大行進で、東京でのデモの先頭に立った米田富は、水平社結成(一九二二)から四四年を経て、部落民だけでなく国民各階層から長蛇の列が出来たことに「非常に感激した」と言っています。それから、この年の一一月二二日に部落解放の父松本治一郎が八九歳で亡くなっています。
 一九八七年の暮れのNHKの正月番組の録画撮りで、柳田聖山(当時京都大学人文科学研究所所長)が英文学者の寿岳文章(一九〇〇〜九二)に「もし、至高天に、日本人で坐れる人物があるとしたら、それは誰でしょうか」と訊ねたところ「それは水平社宣言の起草者、西光万吉です」と答えたそうです。ダンテ(一二六五〜一三二一)はイタリアの詩人で、そのキリスト教文学の傑作「神曲」には、彼が政治的対立に関係して追放され、故郷を偲びつつ流浪の半生を送った悲しみや希望、憎悪や信念が描かれています。
 その「神曲」の如く生涯を駆けぬけたといわれる西光万吉について、また運動の存命者への聞き取りを元にした水平運動史、地域史について、これから「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)をもとに、より豊かに関心を広げていきたいと思っています。


ダンテ「神曲」天国編(ギュスターヴ・ドレ画)


 


水平社のBは「backbone(背景)」のB・・・

奈良県南葛城郡掖上村柏原北方は、「至高の人 西光万吉」の著者宮橋國臣氏の故郷です。ここは西光万吉(本名清原一隆)、阪本清一郎、駒井喜作らを育んだ水平社発祥の地です。この地に、今から約二六〇年前の一七四八年、西光寺は建立されました。
 
 一八七二年(「解放令」発布の翌年)「学制」が布かれ、翌七三年に西光寺の本堂を代用した小学校が開設されましたが、地区(戸籍簿上は岩崎村)の子どもがここで教わったのは、最初のうちちょっとの間だけでした。岩崎村の大人たちは、別村別学問題解消のため周辺の村の合併を協議し、一八八九年に掖上村が誕生しました。
 一八九〇年に「新学校令」が布かれ、掖上村初代村長の西村元十郎が、部落児童と部落外児童を「人種が違う」と言って、別学にする学校分離政策を立案しました。これに対し、柏原部落の大人たち(中谷長八、阪本清三郎、米田長平、駒井勝次郎など)が一一ヵ月間同盟休校を起こし、一八九九年に完全に「一村一校」となりました。この闘争の過程に、阪本清一郎(一八九三年生)、西光万吉(一八九五年生)、駒井喜作(一八九七年生)が誕生し成長しました。

 小学校三年や四年で中途退学した子どもたちの年季奉公先に膠(にかわ)工場がありました。膠の製造は腐敗を避けるための厳冬期の仕事でした。職人衆の間では作者不詳の仕事歌、
「かきまえ貧乏すりゃ、追い回しは乞食、簾(す)拭きかわいや野たれ死に」
 が口ずさまれました。「かきまえ」職はかきまえ包丁を用いて舟箱の膠を薄く切り取り、縄で編んだ竹の簾に並べる作業、「追い回し」職は「かきまえ」職の下働きで簾を担ぎ出す作業、「簾拭き」職は「追い回し」の下働きで、簾の上に凝らした膠を載せて並べる作業(主に少年労働)のことでした。この歌は職人の間での食事の格差を表していました。新米の「簾拭き」は「野たれ死に」寸前の食事であったのです。区内では阪本清一郎の家以外に四者の膠製造業者がおり、日雇い労働者のほとんどがここで働いていました。
 
 西光寺で西光万吉の父に漢籍の手ほどきを受け、部落外の知人川合弥市郎の名義を借用して医師となった巽数馬(一八六七年生)も、「柏原の三青年」に精神的影響を与えました。彼は自由民権運動の洗礼を受け、何度も獄中生活を送りましたが、出獄後は温厚篤実な医師として部落内外から信頼を得ていました。

一八九五年四月一七日に生まれた西光万吉は、小学校を一九〇五年に卒業後、御所高等小学校へ進学しますが、この頃より差別を強く意識するようになります。その後、奈良県立畝傍中学校(現・県立畝傍高校)に入学しますが、「遠足で飛鳥へ行くとき、飛騨を通ると”部落”だと言う。差別を感じて中学校は一年半(一九一〇年六月二三日)でやめました」ということでした。中学校時代の彼は文学青年で「シェイクスピアから慶応、早稲田文学、近松、西鶴などいろんなものを」読んだといいます。彼は「差別に悩み、どこでもいいから遠いところへ行きたい。自分の部落から離れたい」と思っていたといいます。
 一九一一年に僧侶を志し私立平安中学(現・平安高校)の二年に転入しますが、「私は体が悪いものだから、和服で、一人だけ見ていて体操もしない。体操の先生が草引きでもしとけと言う。この先生は奈良県から来ていて、私が坐っていると、”おまえどこの学校へ行っていたか”と聞く。”畝傍です”と答えると”洞(洞部落)で一服するのか”と嫌がらせを言う。口惜しくてアイクチ(短刀)買うてきて突き刺したろかと思ったことがある」そうです。彼は登校拒否し、絵の修行に向かいました。在学中の一九一二年に母を亡くし、彼は同年退学届けを提出して受理され、僧侶への道を断念しました。
 一九一三年、西光万吉は東京へ上京し、太平洋画会研究所に入学しますが、上京第一夜に、彼が鏡を見ながら自画像を描いていた時に、下宿の階下から以下のような話し声が聞こえてきました。

下宿人「おかみさん、きょうはどこかから少年がはいってきたね。あれはどこから来たのかね」
おかみ「あれは奈良県です」
下宿人「奈良県。奈良県にはね、三つの名物あるのを知ってますか」
おかみ「三つの名物って、知りませんよ」
下宿人「あんたは知らんのかね。鹿と粥と新平民ですよ。あの少年も新平民じゃないのかね」
おかみ「そんなこと知りませんよ」

 その下宿人は、その後の下宿生活で西光万吉に奈良県での出生地を執拗に訊いてきました。彼が「御所付近や」と答えると「わしも御所付近や。それでどの辺や」とさらに突っ込んで訊かれました。どこへ行ってもあかん・・・。西光万吉は生前この話を公表しませんでしたが、余りにも惨め過ぎて誰にも話せなかったからだといいます。
 上京した年の秋、一九一三年の一〇月二九日に自由劇場第七回公演帝国劇場で、西光万吉はゴーリキーの「どん底」の芝居を観ました。彼はサーチンの台詞「人間は尊敬しなくっちゃならねえよ!憐れむべきものじゃねえ・・・」に感動しました。
「この間、絵画の練習はしだいに消極的となり・・・親鸞の信仰を伝えた”歎異鈔”やマルクスの”共産党宣言”にいたる種々なる書物を濫読した」そうです。彼は画家志望も放棄し、一九一八年の秋、帰郷しました。
 
 一九七〇年三月二一日の朝、全国水平社創立者の西光万吉の訃報記事を、著者は東京の大学の自治寮の一室で読まれました。卒業を間近に控えておられた時でもあり、それは著者が水平社への親近感と故郷への誇りに目覚められた瞬間でもありました。
 帰省後、著者の父が仏壇の引き出しの奥から、西光万吉の絵を出して著者に見せられました。これは著者の祖父が一九二九年の正月に服役中の西光万吉に面会に行った際、貰われたものでした。絵には二人の資産家らしき人物が、労働者を指さす場面が劇画風に描かれていました。金持ちは労働者が働いているから気楽になれる、それなのに、金持ちは労働者を侮辱していると、著者の叔母が絵の意味を、西光万吉の気持ちを代弁するように語られました。
 西光万吉が、文字を知らない筆者の祖父に、悔しさを絵にして、水平社宣言を絵にして、手渡したことに著者は気づかれました。

 西光万吉が生涯忘れなかった小説はエドモンド・ロスタンの「シャンテ・グレル」で、それは、彼が通学途中の川西村の峠でこの本を読んで登校しなかったのを、学校から呼び出しを受けた父が帰宅してから彼を叱責しなかったという理由があるからです。故郷の定義は、こういうものかもしれないとワタシは思います。

参考文献「至高の人 西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院)



本年もはっぴーばーすでー・夏の星座さん♪"from「水平社の薔薇」


 < 一つ前の日記  目次  次へ>


ミンク [MAIL]

My追加