招待状


 過去 : 未来 : メール 2003年04月30日(水)


今日結婚披露宴の招待状が届いた。


披露宴は5月5日。



オイ



もっと早くくれ。

もちろん以前から電話連絡を受けていたので問題ないがOちゃんの性格は相変わらずのものだ。

大学のときもほとんど遅刻かギリギリ。
卒論も時間すれすれに出していた。




Oちゃんは国際結婚をした。
3月に向こうで式を挙げたので後は日本のみんなに・・・って感じ。


お相手はOちゃんが韓国の高校で日本語の先生をしていたときに知り合ったコリアンボーイだ。




日本語教師をしているので今まで付き合った彼氏は外国人が多かった。
不思議なのはカナダ人と付き合ってるとき、二人の会話は相手は英語、自分は日本語。
自分の気持ちを適切に表そうと思うとやっぱり母国語らしい。
でも果たして彼女たちは相手の気持ちを適切に理解していたのだろうか?

愛に言葉は必要ないというけど。

別れたのは言葉の壁だったのだろうか??



じゃ〜ハングルはどうかと言うと私はハングルを話さないのでよく分からないけど電話でのハングルでの応対やソウルに私が行ったときの様子を見ている限り英語よりずいぶん流暢だった。一応Oちゃんも英文科卒なんだけどね。




これこそが本物の愛の力か?
ちなみに彼は日本語全くだめ^^;




でも拉致問題やら根強く既存する差別問題なんかで家の人を説得するのにずいぶんてこずったようだ。この間のお正月にOちゃんとお母さんが私の前で大喧嘩していた。




Oちゃん: 何で韓国人だといけないのよ。
      韓国人が何やったっていうのよ?
      

お母さん: そんなことは知らん。
      韓国人はだめなんや。
      一生独身でいた方がよっぽどいいっ!


ふむ。
どうしたらいいかわからずその様子を黙って見てました。




小学校の時に父親が失踪しひょっこり10何年か後に帰ってくるまで支えあって生きてきた家族。大事な娘をそんな遠くにやってしまいたくないと思う親の気持ちだろうな。韓国だからってだけで反対したわけじゃないと思う。

Oちゃんだってそれは百も承知。
でも親と彼を天秤にもかけられない。




でも3月にソウルでお母さんにも祝福されて無事に結婚した。

遠距離恋愛で
言葉の壁も
慣習の壁も
年齢も
宗教も
今Oちゃんは越えることを選択した。


Oちゃんにこの選択を後悔してほしくない。








今、いろいろな壁があってなかなか結婚に踏み切れないカップル一杯いるだろうけど決めるのはあなた。親でも周りでも環境でもないような気がします。


30代の心意気


 過去 : 未来 : メール 2003年04月29日(火)


夜遅く電話があった。


彼女K子は大学のとき1年で中退し岐阜の山奥出身だったがそのまま東京へ行ってしまった子だ。


それでも時々インターバルは長くても連絡を取り合っていてK子がまだ東京にいるということはわかっていた。



彼女は母親を小学生の頃に失い父親と祖父に育てられた田舎の本家の一人娘だった。


大学4年の時、私はK子を訪ねた。
ロフトのあるオシャレなアパートで暮らし東京の街をさっそうと歩く彼女を見違えたものだ。

また驚いたのは
彼女の不倫話だった。
相手はどこかの大学の教授だった。
電車に一緒に乗って脚を組んだ時こっちを向いてくれるから嬉しいとか(?)
彼とすれ違った時に派手に転んでそれがきっかけだったとか。

このロフトで一緒に寝るのよ。
奥さんとはできないんだって・・・・。

彼の研究論文(?)の最後に
”Special thanks for K子."って書いてあるのよ。






ソーナンダ





その夜私はそのロフトで一緒にK子と寝た。


その次連絡をとったときは新しい同じ歳の彼がいた。彼の親が経営するアパートで半同棲をしていた。アパートも変わって彼と一緒に故郷に戻ってきたり、私も一度彼に逢った。普通の真面目そうな青年だったが彼は家を継がなければならない人だった。



先はわからないけどいいの。



二人の子どもを連れた私はそういうK子がうらやましく感じた。



そのK子が14年間の東京生活と彼に区切りをつけ山奥に帰ってきていた。


何年付き合ったの?


12年。


へ〜〜。私と旦那より長いくらいじゃん・・・。


そうそう。

仕方ないのよ。




もう彼の使用期限は終わったんだから



・・・・





すごいっ!
私はこういう考えの30代が大好きだ。
前のめり人生!






ちなみに別れの原因は彼に好きな相手ができたということだった。
しかも人妻だそ〜だ。


ワタシジャナイヨ←アホ


このゴールデンウイーク。
5年ぶりにK子と逢う。




体重減 その3


 過去 : 未来 : メール 2003年04月28日(月)


一年間ワーホリでオーストラリアに行った。
帰ってきた頃はオージービーフのお陰で65キロになっていた。


帰国して1年後結婚した。


相手方のご両親にはあまり良い印象ではなかったようだ。
後から
「結婚するとは思わなかった」^^;


でもその頃は57キロくらいにはなっていた。
体重の増減が激しいのだ。


26歳で一人目出産。
29歳で二人目出産。


実は上の子がアトピーであることをきっかけに食生活の改善をした。
自分のことよりも子どものことになると必死になるものだと親になってから思った。
家の台所から油がなくなった。
焼きそばを作るときも蒸しそばだったり、
さつま揚げを使うときは一回茹でで油を抜いた。
菓子は手作り。砂糖は控えめ。
外食はうどんなどの和食に限った。

子どものために始めた食生活の改善であって決して私のダイエットのためではなかった。


それに付き合う夫は171センチの60キロ。
普通の体系。
文句も言わず好きなポテトチップも買ってこなくなった。
言っておくけど私がそれを強制したことはない。
子どもの辛さはやはり同じく彼にも伝わっていたのだ。



その結果。
子どもはほとんど完治した・・・というか落ち着いた。
今でも食生活には以前ほどではないが気をつけている。


そして私は48キロという体重になった。
体重の増減もほとんどない。
2年間1,2キロ変わることもあってもさほど変わらなくなった。


別に私の身長で48キロが細いとは思わない。標準体重であろう。

でも食生活の改善で普通になれるのだと思った。

ちなみに旦那は何の増減もなかった。


やっぱ口に入れるものが問題なのよ。


単純だと思う。




でも体重は落ちてももう若くないからスタイルは衰える一方。
素直に認める私。
スタイルを何とかするなら運動・・・・だよね。
下がる一方のマイボディ。
子ども達と一緒にバスケットでもやろうかな。
↑
入れてくれないか。(涙


退職の父へ


 過去 : 未来 : メール 2003年04月27日(日)


今日は私の住む町は市会議員選挙。
この間新聞で議員の給料がそれぞれずいぶん違うことを知った。
一番高いのが大阪だっけ。月100万だったか・・・。
一番低いのがどこかの町だか20万くらい??(違うかな)
まぁ何でもいいが選挙活動をやってきた方たちご苦労さま。


私はあいにく引っ越したばかりなので今回は投票権がない。
だから電話がかかってきても、頼まれても
「残念ですが投票権がないのでごめんなさい」
と答えた。だから長々と話を聞かなくてすんで助かったわ。




私のお父さん。
3*年間市会議員をやってきた。
今回の選挙は出馬しなかったので退職・・・とでもいおうか。
3*年というと私の年齢とほとんど変わらない。
小さな頃選挙のときは預けられ遠足のお弁当もそのおばさんに作ってもらっていた。

今のように選挙用掲示板がなかったからそこら中に父のポスターが張ってあった。
学校で友達に「あなたのお父さん見たわ」とニヤニヤされることもよくあった。


父は他に仕事をもっていなかったから余計に彼が何をしている人かということがずいぶん大きくなるまで飲み込めなかった。


母は今回父が出馬しないことで
「やっと表を上を向いて歩ける」
と言った。今まで母は外ではペコペコと頭を下げ、したくない付き合いもしてきたのだと思う。夜中に酔っ払いが上がりこんで罵倒した時は怖かった。そういう時は限って父のいない時だったものだ・・・。


今回の選挙は父も母ももちろんお手伝い。
父はお得意の演説だろうし、母は今までどおりお食事の準備。
今ごろほっとしているのだと思う。


無事その方が当選されることを願うとともに
父、母にお疲れ様でした・・・・とメールでも打つとしよう。



あ・・・。電話の方がいいか。


体重減 その2


 過去 : 未来 : メール 2003年04月26日(土)


大学での就職活動は何もやらなかった。

一応英文科だったので中学、高校の教員免許はあった。

でも海外青年協力隊でボランティアの仕事がしたかった。
試験は何度も受けて2次試験までいったこともあった。

または「北海道の嫁探し」に応募しようかと思った。



とにかく自慢は健康な体だけだった。



結局地元の中学校で英語の講師。

その当時十分でかい顔だったのにソバージュヘアー・・・。
初めての職員会議の前の日にストレートをかけた。




久しぶりの規則正しい生活が始まって私はどんどん締まっていった。
陸上部顧問だったので生徒たちと一緒に走った。走った。
学校が終わると体育館で毎日汗でびっしょりになるまでテニスをやった。
次の日は筋肉痛でベッドから起き上がれないほどだったが、またやった。
結果54キロまで減少。


一時期ぐっと痩せたが、なぜか春にはまた60キロに戻っていった。
ただますます体力はついたのではないかと思う。


規則正しい生活もし、運動もした。
しかしほとんど毎晩外食だった。

また秋に買ったスカートのホックをはずしてはかなければならなかった。




こんな22歳も終わり23歳も60キロを軽く越えていた。


体重減 その1


 過去 : 未来 : メール 2003年04月25日(金)


今朝の広告でマイクロダイエットでグランプリの人が涙を流して喜んでいる写真がついていた。とっても綺麗な人でした。


その人は身長155センチ94キロだった。
今は約47キロ!!

すごいなぁ。

涙が出るいうことはやっぱりすごいお金を費やすのはもちろんのこと、彼女自身の努力や忍耐力やもろもろあったんだろうと思う。
そして結果がついてきたのだから感動の涙があって当然だわ、と思う。

私は
身長157センチ70キロだった。

何もダイエットはしなかった。

高校を卒業してから精神がとても楽になった。
嫌なクラスメートに話を合わさなくてもいいし、
つまらない授業にでなくてすむ。
何よりもあのパツパツの制服を着なくてすむのが一番だったかな。

コンビニでアルバイトを始めてお客に罵倒されたこともあった、
「でぶっ」ってね。



でもだんだん体重は落ちて大学4年間で60キロくらいになった。
その頃の私は少しずつだが自分に自信がもてるようになっていた。
専門分野をいかしたり、自分がやりたい目標がはっきりしていた。

だから体重計に乗って「はぁ〜」と嘆くことはなかった。


私にとって大切だったのは精神の安定だったのだと思う。



しかしやっぱりまだまだおでぶの私。
しかもだぼだぼジーンズでノーメイクの女子大生。
コンパのお呼びはもちろんありませんでした。(笑


でぶの思い出 ��


 過去 : 未来 : メール 2003年04月24日(木)


中学の時は普通の人の体系だった。
痩せてもなけりゃ〜太ってもない。
ただ水泳部だったので真っ黒だっただけ。

高校2年の秋に彼氏ができた。
煙草、酒、原付無免許運転。それでいて柔道部の主将。彼は無口な子だった。
私が惹かれる子は無口が多い・・・。

でも無口なので何を考えているかよくわからず私の中で膨大にストレスがたまっていった。それで過食症になったなんて甘い??(笑
とにかく食った。

毎日ジャイアントコーンとポテトチップは当たり前。
それから寝るまで何かを食べ続ける。
別にお腹が空いてるわけじゃなから食べてもおいしくない。
でも夜中にインスタントラーメン作ったり、
食べるものが何もないと片栗粉にお砂糖とお湯を入れて食べた。

もちろん3年生になった春には彼とは自然にきれた。

次は受験だった。
私のクラスはみんなどんどん推薦で私立短大に決まっていった。
学校も遅刻が多くなった。
赤点を取ることも少なくなかった。
また私はそこでストレスを溜め込んだ。


そんなこんなで私が最後に体重計に乗って見た数字は70キロだった。
それから体重計に乗ってないのでもっとあったかもしれない。

一番困ったのは制服のスカートだった。
あと少しだったので買ってもらうこともできずホックをはずして、
しかもチャックを下げてはいていた。

大学4年間で多少減ったものの60キロをきることはなかった。
私の青春時代はお肉の時代だった。

それでも彼はいたのよねぇ。
『デブ専』だったのかな?

でも私も太った人好きなんです。
何か安心しちゃうんです。^^


私の太っていた時代は精神がずいぶん病んでいたと思うのでやっぱり
そういう意味でダークの時代なんだよね。


今の体重は48キロ。
明日はどうして痩せたか整理してみる。




でぶの思い出 ��


 過去 : 未来 : メール 2003年04月23日(水)


初対面の人に後からよく言われるのが、

「第1印象は怖かった」
「もとヤン(死語)でしょ」
「きつそ〜」

おい・・・って感じ。
本当はおちゃらけキャラなのに。
私は真面目に道から外れることなく誰かと頻繁に喧嘩することもなく
今までやってきた。でもいっつもそう言われる。

今回赴任した新しい学校の子どもにも

「先生、前ヤンキーやったんやろ?」と言われた。

なんでそう思うの??

でも中学生には、こいつは怒ると怖そうだと認識させといた方が都合が
いいかなぁと思って

「それだけは答えられない」

と言っておいた。



私には高校時代から何年間かダークな時代があったりする。


当時私は






身長157センチ
体重 70キロ






高校2年生の一冬で失恋を期に20キロ太った。
私に知識があれば写真をアップしたいところだ。(笑

着る服がなかった。
制服はパツンパツンだった。
学校まで毎日自転車で30分通った。
体重が重すぎるからであろうよくパンクした。
1年で3、4回はしたんじゃないかな。
タイヤも減ってただろうし。
通学途中に見知らぬ中学生に
「トマト〜〜〜〜〜」(?)と馬鹿にされた。


なぜそんなに育ってしまったか。
う〜ん。
頭を整理して明日にしよう。





自己紹介


 過去 : 未来 : メール 2003年04月22日(火)



今日からちょっと日記を書いてみることにしました。
小学生の頃、威圧的な母親に何も言えなかった私は日記に
「お母さんなんて大キライ〜〜」と何度も書いていました。

この日記も日々リアルな世界では言えないことを吐き出し
かつ日々を振り返って反省できればな・・・・と思ってます。


ってことで自己紹介

HN  riho

二人の子をもつ兼業主婦

英語講師

東海エリア在住

結婚9年

血液型 B型





いつまで続くかな。


職員会議


 過去 : 未来 : メール 2003年04月02日(水)


今日は土曜日だけど今年度初めての職員会議が行われた。

もちろん他の学校は一斉に昨日行われている。

今度の学校は生徒が全部で100人に満たない一学年一クラスの小さな学校。

職員が講師を入れて14人いてもクラス担任はたったの3人。
何だか今のところ拍子抜け・・・・って感じ。



職員会議の初めに新しい職員の自己紹介などが行われた。
私は小学生の子どもがいることを強調し「家庭、子ども優先」のために非常勤の仕事を選んでいることを話した。

私を入れて6人の新しい職員の紹介があったあと、校長先生から順に自己紹介をされた。






校長先生がこう話された。


「私には娘が二人おります。次女は3月26日に結婚いたしました。







↑エンピツ投票ボタン

My追加





え?




職員会議が遅れた理由がわかった。



4月1日は娘さんのお葬式だったのだ。



そして次の日が新年度初めの大切な会議。



「子どもを先に亡くすというのは人生最大の悲しみであります。」




誠にインパクトのある新年度の始まりです。。。。。。

■ 目次 ■