やるきまんまんの日記
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受診をしにいっていわれたとこが、 医師 : 気管切開をして24時間動けなくなることには私は反対です。 だって。 なんじゃそれは。 そんなことを今日この場でいうあんなはいったい何? なんかこんな状況では、気管切開をするしないの条件が全く整っていないなと思った。
ちなみに、肺活量が1000ccをきらないと 気管切開するにはあたらないとのこと。 また、動脈採血の結果が三ヶ月呼吸不全の値にならなければ 呼吸不全とはいわないらしい。
それにしても、この医師の下で治療を受けて、するかしないかなんて 考えていけるのだろうか?選択できるのだろうか?
だろうかっていう疑問ではなく、こりゃ出来ないな。うん
気管切開をガンとしてしないとか、かならずするとかは 今は何も決められないというか、決めるのが面倒。 ややもすると、もうすでに装着をするか否かの 脅迫的問いが、何者かによって、されているのかもされない。
するか否かではなく、 するないという脅迫か?
つけるということは、そういう取り巻きと関わっていくということかな。
まー、ちょっと基本的には考えたくないことだ。
つかれるー。つかれたー。 あぁー。
気管切開するか否かの選択は、それはそうなんだけれども その意味というのはただ単にのどに穴をあけて呼吸器をつなぐということだけではなく、 そこに関わる人々とつきあうということのような気がしてきた。 医療従事者や行政やヘルパー事業所などなど。 単に生活している分には、大して関わってこない人々と、密にと言えばよいのか これまで慣れ親しんできた人との関わりとは全く異なる関わりをせざるを得なくなるということのような気がしてきた。
それは今の僕には苦痛のような気がしてならない。 ただこれは、僕個人の関わりのスキルの問題だけではなく 僕を取り巻く地域の状況にかなりの部分寄与しいてる。 地域というのはつまり、僕を取り巻く人と人の関係ということ。かな
呼吸不全一歩手前ということで 気管切開するか否かという選択をそのうちしなければならなくなりそうなわけである。 この間偶然にもと言うのか、関心があるためか、気管切開についてのことを知る機会があった。 どうも、そんなに対したことではなく、生きていけそうではあるようなのだ。 それなりのめんどくささというのはあるにしろ。
で、まぁ、単純に生きるか死ぬかという選択になってしまうのかな。と。 死ねるチャンス到来ということもいえるのか。 ただ偶然に生きてきたわけで、ここで生きる執念を問われてしまっているわけだ。 基本的にはもっと切迫しなければ考えないとことにしたいというか、今まで通り偶然に生きているままが楽でいいと思う。
ただ、生きていればいいことがあるとかいうまやかしに似たものに期待する気はないというか。たぶん、今まで生きてきた以上のことはそんなにないと思う。
なんかめっちゃたのしかった。
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