無責任賛歌
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2005年05月15日(日) |
腐女子さんは今日の内容読んだら気を悪くするよ/映画『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』 |
劇団メンバーの日記が充実してきているので、巡回が楽しい。今、しげと私の一番の注目を浴びているのはグータロウくんとこの娘さんで、しげも日記に書いているが、将来が実に楽しみな小学二年生なのだ。いや、性格がではなくて体型が(笑)。 思春期になればそれなりにスタイルとか気にしだすとは思われるが、現在は肉食大爆走。第二のしげになりかねない印象で、それを気にしてハラハラしているグータロウくんの親ばかぶりがいじらしいのである。多少太ってももとが可愛いからそんなに心配しなくても「売れ口」はきっとあると思うんだけどなあ。いや、売れたら売れたで彼は絶対泣くだろうけど。 グータロウくんは私の日記を読んで、「優しいやつ」とか書いてくれているが、私の優しさはたいてい偽善なのであまり信用しないように(笑)。知り合いでもなんでもないマンガ家さんの将来を心配するなんてのは余計なお世話以外の何物でもないので、思いあがったゴーマニストじゃなきゃ、あんな「ジャンプふざけんな」みたいな口は利けないのである。別に小林よしのり二世を気取りたいわけじゃなくて、本質的に博多人はゴーマニストなの。逆にゴーマニストでない博多人はニセモノだとも言えるな(笑)。
しばらく更新が途絶えていた桜雅嬢やよしひと嬢も久々に日記をアップしている。人間、気が抜けることだってあるし、自分のペースで更新すりゃいいと思うので、たとえ何ヶ月も何年も間が空いたって構わないと私は思っている。書いてなくても、みんなのことは忘れてないよ。慢性健忘症のしげはどうだか知らんが(冗談ではなく、出張で2、3日家を空けると、しげは私のことも私と確認するのに間が空くのだ。みんなとしばらくぶりに会うときもそういう「作業」をしていると思ってください)。お気に入りに入れているみなさんの日記も同様です。もう何年も更新されてない方の日記も、決して忘れてはいません。 確かにずっと更新してないと、どうしているのかなあと気がかりにはなるけれど、「どうしたの?」とメールを送ったりするのも場合によっては相手へのプレッシャーになりかねない。間が空くのが普通の方の日記だと、そのたびに「どうしたの?」「どうしたの?」と問い合わせていては、鬱陶しいどころか、こちらがネット中毒にかかっていてストーカーしていると思われても仕方がないだろう。つか、そういうのは間違いなくストーカーである。……ホモオタさんから毎晩深夜の2時に電話がかかってきていた頃を思い出すなあ(泣)。メールの返事が遅れると「催促メール」をどんどん送りつけてくるお人とも知り合ったことがあるし、自分がそういう立場にはなりたくないやね。 連絡を取るにしてもきっかけとタイミングが必要になるのは私自身経験済みで、これが難しいところなのだが、連絡もらって嬉しいときと、放っといてほしい時の差が激しいのだ。 まあ私も少しはオトナになりましたから、イヤな気分のときに連絡もらっても空元気で応対できるようになりましたけど、若い頃はストレートに感情ぶちまけて友達なくしたこともありましたよ。私の場合は持病のこともあるし、日記が停滞してるときは確実に疲れてるときか入院してるときなので、できるだけ更新は滞らないようにしときたいと思ってるんだけど。 ほかにもあちこち覗きたいサイトもあるのだが、一日の仕事を終えて、帰宅して映画を見たり本を読んだり、それからネットを覗いて日記を書いて、と、こうも毎日過密スケジュールでは、ネット上のウェブサイトをそうそう回れるわけでもない。本当に毎日「巡回」しているのはニュース関連と仲間内の日記、お気に入りに入れている日記くらいのものである。Yahooの掲示板はたまに覗くが、2ちゃんねるは殆ど覗かなくなった。作家さん、マンガ家さんのサイトはたまに覗く程度のものである。普通の暮らしをしていればこの程度のものなので、とてもネット中毒になんぞなりようがない。 こないだうちの日記を覗きに来た人のサイト、アクセス解析で分かったんだけれど、これがまあ、百を越えようかってほどのサイトをお気に入りに入れてるんだわ。全部巡回してるとはとても思えないんだけど、それがタイトル見るだけでそれと分かるエロサイトが多いことったら(笑)。かなりな変態さんらしいが、どういう流れで私んとこに来たんだか。もう私は変態さんと係わり合いになんぞなりたかないので、覗きにも来ないでほしいんだけどね。
『仮面ライダー響鬼』十六之巻 「轟く鬼」。 引くなあ(笑)。 いや、「明日夢はいつヒビキの弟子になるのか」って話題なんだけどもね。今回、ヒビキに「少年を弟子にする気はないんだ。少年も鬼になる気はないだろう?」って言わせちゃったから。 確かに、「傭兵になってイラクに行きなさい」以上にキツイ仕事だからね(なんせ相手は化け物である)。そりゃ簡単に「弟子になる?」「はい、なります」って展開にはならないことは分かるけれども、そうやって距離置いちゃうと、「じゃあ、どうしたら明日夢が鬼になるのか?」そのきっかけを作るのが難しくなるよねえ。 昔からこれのクリアーの仕方は、 「1、危険が迫って仕方なくそうなる」か、 「2、偶然そうなる」 くらいしかないんだけど、できれば新しいパターンを開発してほしいもんだね。 今回は(つか前回から)、「轟鬼」誕生編なんで、明日夢君話は次回以降に持ち越しのようだけれど、ふと思ったのは響鬼とか威吹鬼とか斬鬼とか、コードネームなんだから本当は本名があるってことなんだよね。 最終回までに発表はされるのかな?
シネ・リーブル博多駅で、モーニングショー一回のみの映画『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』。 日本のジャッキー・チェンのファン・サイトなどでは未だに彼の本名を「陳港生」としているが、実はそうではない、というあたりからこの「物語」は始まる。 うっかり「物語」、と書いてしまったが、このジャッキーの父、陳志平(チェン・ジーピン)、実は元国民党の工作員、房道龍(ファン・ダオロン)の激動の人生を追ったドキュメンタリーは、そのまま戦前、戦後の中国史を「物語っている」。 1915年、中国山東省で生まれた房道龍は、南京で育ち、やがて安徽省に移り、そこで結婚して、男の子二人を設けた。しかし糟糠の妻は長男が七歳のときにガンで死んだ。戦争の影がちらつき始めたころ、生活のために国民党の工作員として働くようになった道龍だったが、日中戦争終結後、国共内乱が起こると、一転して共産党から命を狙われる立場となる。身の危険を感じた彼は、亡妻との間に設けた息子二人を捨て、香港に逃れた。残された二人の子供がいかにして生き延びていったか、それは殆ど描かれない。 香港で道龍は一人の女性と出会う。夫を日本軍の空襲でなくし、二人の娘を育てるためにアヘンの密売で生活を立てていた陳月榮(チェン・ユエロン)は、港の検査官として働いていた道龍に逮捕される。しかし彼女の事情を知り、こっそりと逃がし、友人として助力するようになる。彼らは上海に移り住み、月榮は女だてらに顔役となったが、再び共産党の手が道龍に伸びようとしていることに気づき、娘たちを置いて、二人だけで香港に舞い戻る。そのとき道龍は名前を「陳志平」と変えた。娘たちがどのような苦難の人生を歩くことになったか、それも映画は描かない。 その後、二人の間に誕生したのがジャッキーである。だから彼は自分の姓は「陳」だと信じていたし、自分に異父・異母の兄姉が4人もいることなど、父親が告白する気になった1999年まで知らなかったのだ。当然父親はその時までジャッキーの兄姉を完全に放置してきていたのである。なんともウソ臭いが、どうやら本当の話らしい。 映画の中では、このジャッキーの父親という人が、実に屈託なく自分の過去を語っている。そのおおらかさというか、あっけらかんとした態度は、かえって彼の語る「歴史の真実」が『ビッグ・フィッシュ』のほら話に聞こえるほどだ。 共産党に狙撃され、足や頭にはまだそのときの傷が残っているが、それを平気で見せる。隣にいたジャッキーが、「僕も同じところに傷があるよ」と映画の撮影でできた頭の傷を示して、「親子の絆(?)」をアピールするのだが、これは笑っていいのか感心すればいいのか。 犯罪に荷担していた月榮をどうして救う気になったのか、ジャッキーは父親に問い掛けるのだが、「中国人は人情に厚いから」といけしゃあしゃあと答える。もちろん人情以上の感情があったに違いないのだが。 ジャッキーが入学した中国戯劇学院のカンフーの師匠を「共産党のスパイ」と呼び、ジャッキーに向かっても「お前がアメリカ進出を図ったのも共産党のスパイ活動のためだろう。私には分かっているのだ」と言ってのける。ジャッキーが頷きも笑いもせず、無表情で聞いているものだから、おいおい、ホントにそうなのかよ? と見ているこっちがビクビクしてしまう。 40年以上もして、どうして真実を語る気になったかは、妻の月榮が病気になり、死期が迫ったからであったが、タイトルにある通り、「失われた龍の系譜」を回復するためでもあったのであろう。道龍はほぼ50年ぶりに息子二人、娘二人を探し当て、再会、名前も「陳志平」から「房道龍」に戻す。兄たちは、姉たちは、自分たちを捨てた父親をどう思っていたのだろうか? 映画はそれも深くは語らない。多分、「語れない」のだ。映画は、その兄や姉たちの家族に囲まれて、「おじいちゃん」となった道龍を、いかにも幸せな大家族のスナップショットの中心に映し出して終わる。 そしてジャッキー・チェンは、「陳港生」ではなく、「房仕龍」(ファン・シーロン)となり、芸名の「成龍」だけでなく、本名でも「龍」の字を継いだ。出来すぎた結末で、ドキュメンタリーでありながら何か「足りないもの」を感じないではいられないのだが、その最大のものはこの父親の話をジャッキーが「どう受け止めたか」である。歴史の年表だけを見せられて中身の説明がまるでないようなものなのだが、兄姉たちの過去も含めて、それらが本当に語られることはないのだろう。 月榮は2002年に他界した。現在に至るまで、ジャッキーは兄たちに面会してはいない。父は「会う必要はない」と語り、兄は「会わなくても弟は弟だ」と答える。そしてジャッキーは沈黙を守る。 多分、それでも彼らは「家族」なのだ。どうしてそう思うかについては、私もジャッキーに倣って沈黙を守りたいと思う。
帰宅したら、しげはまた爆睡。だから昼間練るなって。夜、練られなくなるだろ?
『アニメージュ』6月号、恒例のアニメージュグランプリ、数えてもう27回であるが、まあ想像通りグランプリを取ったのは『機動戦士ガンタムSEED DESTINY』(2501票)で、2位の『鋼の錬金術師』(1478票)を大きく引き離していく。更に3位以下は得票が一気に3桁台に落ち込むので、アニメージュ読者にとっての昨年のアニメと言えば、“この2本しかなかった”ということになる。『アニメージュ』も腐女子に乗っ取られて久しいから、この結果も仕方がないのだが、70年代からアニメブームの牽引的役割を果たしてきた老舗がこのようなテイタラクに成り果てていることに忸怩たる思いを抱いているアニメファンも多々いらっしゃるに違いない。何たってねえ、このグランプリ、『マインドゲーム』が一票も入っていないのだ!(たいていの批評家がベストワンに推していると言うのに!) この十年くらい、あまりにもベストテンに「偏り」があるために、グランプリとは別に批評家のベスト作品を紹介したり座談会を開いたりして、読者のアニメに対する啓発(つか啓蒙に近いな)を行ってきているが、効果は殆ど上がっていない。ともかく今のアニメファン(と言うよりはキャラ萌えの腐女子)くらいアニメを見ていない連中はいないのだ。以前は私も「頼むからもう少しほかのアニメも見てよ」と言ってたが、もう最近は「頼むから『アニメファン』を名乗らないでくれ」と言うしかないな、という気持ちになりつつある。 今回の藤津亮太、斎藤良一、小黒祐一郎三氏による座談会は例年以上に辛辣な批判が飛び出しており、かつてこれほど読者を罵倒した記事があっただろうかと思えるほどだ。ちょっと抜粋すればこんなとこだ。 「得票を募集したときの人気作品に票が集まる(半年や一年前の作品だと忘れられている、という意味)」 「『アニメージュ』にたくさん記事が載ってる作品が、順当に上位に来ているということでしょ。それが良いことか、悪いことなのかはわからないけど」 「そういう意味では、グランプリ結果を見て『アニメージュ』も、もっといろいろな作品を取り上げてよ、とは思いました」 「最近は『萌え』か『BL』ばかりになっちゃって、中・高校生の男の子が本気で見られるアニメがなくなってる」 「基本的にアニメ雑誌の読者は、キャラ中心に見てるから。(『イノセンス』について)主人公がバトーとトグサのおっさん二人で、あとは犬と人形じゃあ、『アニメージュ』読者は投票しようがない(笑)」 要するに、アニメファンを称する連中が、幼稚で視野の狭いバカガキの娘っ子ばかりになっちゃった、ということである。かつての「コミケからヤオイを駆逐するぞ!」の吾妻ひでおの檄も、今はむなしい。 こういうことを書くと、またメールやら掲示板で「今のアニメファンの土台を作ったのは、あんたたち昔のオタクでしょうが。責任逃れするな!」と腐女子のミカタの方が現れたりするので、素直に反省しましょう。ハイ、確かにその通りです。昔も今の腐女子と同じく、キャラと声優にしか興味のない腐れオタク女子はいましたが、そいつらを我々は「まあ、人の趣味はいろいろだし」と戦後民主主義的に暖かく見守っておりました。それがよくなかったのですね。我々は彼女たちにこう言ってやるべきだったのです。「キモいからやめれ」。 アニメーションにはさまざまな可能性がある。ところが腐女子はその可能性に目を向けない。見えないと言った方が正しいかもしれない。“そういう人間しかアニメを見ない”ような事態になれば、アニメーションという表現芸術自体が崩壊してしまうだろうことは火を見るよりも明らかだろう。 雑誌は売れなきゃしょうがない。だから今が旬のキャラをフィーチャーした特集を組まざるを得ないのは商売としてはわかる。しかし、今、アニメ雑誌が相手しているのは、一人のキャラへの興味が尽きたらほかのキャラに乗り換えるような、ジゴロか風俗通いの変態レベルのメンタリティしか持ってないキモオタ女どもである。こんな連中を視野に入れた雑誌作りが、果たして長続きするものかどうか。長い目で見るならば、もっとファンを「育てる」誌面作りをすべきではないか。そのためには、今までのように単に「ほかにもいろんなアニメがありますよ」程度の紹介だけでは生ぬるかろう。ここは徹底的に「下らんアニメの吊るし上げ」特集を毎号組んでいくしかないのではないか。 『SEED DESTINY』にしろ『鋼錬』にしろ、ネット上ではケチョンケチョンに貶している意見もまま見受けられる。それらは単純な感情の垂れ流しに過ぎないものも多いから、ここは雑誌媒体としての威厳を持って、もっと多角的かつ建設的な分析を試みた批評を多数載せるのである。なんならテーマを決めて読者に論争をしかけたっていい。ネットみたいに誰でもが書きこめて収拾がつかなくなることはないのだから、「私の○○を貶さないで!」みたいなヒステリー投稿は無視して、きちんと根拠を示して反論してくる意見だけを取り上げればよい。読者が活性化しないと、雑誌は存続できないのだ。 ……でも、ホントにそんな特集やったら、批判されたアニメのプロダクションは怒って番宣資料くれなくなるかもしれないよなあ。アニメ業界って、アニメファン以上に性格歪んでそうな人間も多いらしいから(と、誰のことかは言わないでぼかしておこう)。 日本はもうアニメ大国ではなくなっていくのかな、と思う。どうせ腐女子は自分たちがアニメの未来をつぶしているという自覚なんかないのだろう。そしてこれからも数々の迫害にもめげず、ゴキブリのように増殖し、アニメーションを食いつぶしていくのである。業界に入ってくる新人も萌えオタクばかりになる。そんな奴らが新しく作り出すアニメがどんな代物になるか。十年先、二十年先のアニメ界がどんな姿になっているか、想像するだに恐ろしいのである。
『エウレカ7』、福岡じゃやってないと思ってたら、しっかり今朝放映してたのな。だから番組表だけじゃ小さくてわかんないんだって。アニメ雑誌って、放映前は○○系としか記載しなくて、放映が始まってから地方のキー局載せるから、情報発信の昨日、イマイチ果たしてないと思うんだけど。
夜、久しぶりにアニメ『ワンピース』を見る。もう35巻のあたりまで来てるんだね。原作にかなり追いついてきてるけど、大丈夫かね。ひとシリーズ終わらないことには場つなぎの屑エピソードだって挟みこめないと思うけど。 こないだ日記に『ワンピース』の悪口を書いたら、長いこと私の日記をお気に入りに入れてくれていた方からあっさり削除されてしまいました。まあ仕方ないんだけど、やっぱ「自分の好きな作品を貶されたら怒るのが当然」って考えてる程度のメンタリティしか持ち合わせてない腐女子さん(男にもいるけど)は基本的にコミュニケーション不全だと思うんだけどねえ。自分が思いあがってることに気が付いてないのな。
続いて、やっと終わってくれた『名探偵ポワロとマープル』最終回。『雲の中の死』はマンガ版の感想にも書いたけど、原作自体が中以下のレベルの出来なんで、ポワロがトリックを語って犯人を指摘しても、「そんなん、その場で犯人バレるわ」としか思えない。作画も平板で、最後まで向上しなかったなあ。ラストに取ってつけたようにメイベルの「私も少しは成長できたかも」なんてナレーションが入るのも、スタッフが投げやりでこのアニメを作ってたようにしか思えず、腹が立つ。 仮にもタイトルに『ポワロとマープル』と銘打ってるんなら、ラストでこの二人を出会わせるくらいの演出をしろよな! それとも、原作にそういうシーンがないからできないとでも? これだけ原作をデタラメに映像化しといて、それ言うんなら、このアニメのスタッフは全員打ち首もんだ。
続けて『義経』も見たけど、清盛が死んだら、やっぱりドラマ全体の「重み」が消えちゃった感じだね。代わりに頼朝が前面に出てこないといけないところだけど、中井貴一、頑張ってるんだけどまだ重みを出すまでには至ってない。声がまだ頭の方から出てる感じなんだなあ。いや、デビュー当時の大根役者ぶりに比べたら格段に上手くなっては入るんだけどね。
2004年05月15日(土) 遅れ馳せながら今年の「アニメグランプリ」。 2003年05月15日(木) すっ飛ばし日記/ベストテンな本 2002年05月15日(水) 目出物雄三ってキャラが某マンガにいたね/『まんが アベノ橋魔法☆商店街』(鶴田謙二)/『ガウガウわー太』3巻(梅川和実)ほか 2001年05月15日(火) 本を売るならBOOKOFF/『BLOOD THE LAST VAMPIRE 2000』(玉置勉強)
2005年05月14日(土) |
形ばかりの反省なら黙ってようよ/『時代劇スペシャル 丹下左膳 剣風!百万両の壷』 |
JR福知山線の脱線事故で、乗客を救助しないまま出勤したJR西日本の男性運転士2人の手記が発表された。掲載されたのはヒゲの暴言記者の件で謝罪したばかりの読売新聞で、さて、手記を書きたいと本人たちが望んだものか、それとも読売のほうから「書きませんか」と持ちかけたものか、まず間違いなく後者だろうな。JR西日本も、謝罪姿勢を見せようと、積極的に書け書けと薦めたんじゃなかろうか。そういう政治的判断が見えるから反省の弁とやらもあまり素直に受け取れないんだけれどもね。 ちょっとここで内田春菊の『幻想の普通少女』風に、二人の文章心理を分析してみる(悪趣味)。
サンプルA〔尼崎電車区運転士(27)〕
〉事故が起こった時、大きな衝撃とともに体が後ろに飛ばされ、パニック状態でした。
→予め、「自分が普通の状態ではなかった」ということを主張しようとしていますね。周囲の状況を説明するためなら、「パニック状態」という言葉を使う必要はありません。パニックに陥ったのは事実でしょうが、それを、乗客を救えなかった言い訳にしようとしています。常に人生を言い訳して生きてる後ろ向きな人間に多い書き方です。
〉警察の方が車内に来られて、線路横の駐車場に誘導されてからも、しばらく放心状態で何が何だかわかりませんでした。
→事故の連絡をJRにしたのはいつの時点なのか、書いてませんね。上司に判断を仰いで、「出勤せよ」と言われて出勤したのはこの人でしょう。だとすれば当然、「放心状態」から覚めた瞬間があったはずなのですが。明らかなウソとまでは言いませんが、都合の悪いことは隠蔽しようとする性質が見て取れます。
〉今、落ち着いて考えると、自分の仕事が気になったといっても、事故の現場でお客様の救助をしないで現場を離れたことはJRの社員としても、一人の人間としても無責任であり、本当に申し訳なく思います。
→「今、落ち着いて考えると」で、再度「事故当時は冷静ではなかったので、何もできなかったのは当然だ」という主張を暗にしています。「自分の仕事が気になった」も、救助よりも優先すべきことがあった、という言い訳をしたいからで、本気で謝罪するつもりなら、書く必要のない記述です。「JRの社員としても」が「人間としても」よりも先に来ていることが、結局この若造が「JRにマインドコントロールされている」ことの証左でしょう。つか、「人間としても」は付け足しで、こいつに人間らしい心なんてものは「今も」ありません。謝らなきゃいけないから謝ってるだけの、実に形式的な文章です。タバコ吸ったガクセイが書く中身のない反省文かと思いました。
サンプルB〔森ノ宮電車区運転士(59)〕
〉気が動転していたとはいえ、現場に残ることができなかった判断の甘さと、これでいいのかという思いが出勤途中に何度もあり、時間がたつにつれ、一人の人間としての愚かさ、悔しさがますます強まり心苦しい毎日です。
→若造よりはマシな文章ですが、やはり「気が動転」ということが先に書かれている「言い訳文」です。さらに「これでいいのかという思いが出勤途中に何度もあり」という部分は、当然「出勤すべきか」「残って救助すべきか」で迷ったことを示しており、その結果の「出勤」という判断が間違っていたことを「一人の人間の愚かさ」として認めてはいますが、残念ながら、その結論に辿りつくまでの思考の過程がわざと省かれています。なぜ「出勤」を選んだのか、その説明は、やはり都合が悪いから書けないんですね。 それが「会社命令には逆らえないから」なのか、「こんな現場から逃げ出したい」のか、どちらともなのかは分かりませんが、やはり肝心なところで「自分を守ろう」という姿勢が表れてしまっています。更に「悔しさ」「愚かさ」という言葉は、自分についての判断の言葉であり、被害者の方への言葉がここまで少しも出て来ておりません。「心苦しい」のも「自分が」心苦しいのであって、「こんなに私は苦しいんだから同情してください」という気持ちのほうが先に立っているのです。
〉小さな力ですが、私が残って手助けをしていれば、あるいは助かった方もあったかもしれず、悔やんでも悔やみきれません。
→「助かった方もあったかも」という可能性を示唆する言葉でしか反省を語れないのが、事故の責任を回避したい心理の表れです。「俺がいても助けられなかったかもしれないんだから責めないでくれ」と思っているのでなければ、こういう書き方はできません。「悔やんでも悔やみきれません」という言葉は決まり文句で、感情が殆どこめられていません。こういう言葉で文を締めるあたり、「もう、これで勘弁してくれ」という逃げの姿勢の表れなのです。
〉私の行動は非難されてもしかたのない行動で大変申し訳なく思っております。
→「非難されてもしかたのない」であって、「非難されるべき」とは言っていません。つまり、彼を責める我々が悪く、彼自身は悪くない、と内心では思っているのです。積極的に罪を認めるつもりがないことがよく分かります。
〉私は一生、この重い荷物を背負っていかなければならないし、二度とこのような事故を起こさないようJR社員一同が一丸となり、信頼回復に努めなければならないと思っております。
→もう「殉教者」気取りです。ハタチそこらの人間が「一生重い荷物を」と言うのならまだ若さゆえの重い上がりとも言えましょうが、六十になろうとする老い先短いジジイが「一生」だなんて、何歳まで生きるつもりなんでしょうか。「こんなことで自分の人生に烙印押されてたまるか」という気持ちがなければ、こんな台詞は出てきません。「JR一同が」にも、「自分にだけ責任取らせるんじゃねえぞ、悪いのはJR西日本全体だろうが」という憤懣が背景にあります。それはその通りなんだけれども、だからと言って、自分が逃げた責任から逃れられるわけはないんで、かえって本人の卑劣さが行間からにじみ出てしまっています。
一応、ワタクシメも大学時代から文章心理学を専門にやってきた過程がありますので、この分析、そうたいして外れちゃいないと思ってますが、いかがなもんでしょうか。まあ私も決まり文句ばかりで実のない文章はよく書いてるんで、人のことは言えないのですが(←この「人のことは言えない」というのが決まり文句ね。こう言っときゃ反省してるように見える、というやつです。そのココロは「人のことは言えないけど、私の意見は変えないよ」という意味なのね(笑))。 でも、ここまで底が浅くて見え透いてる反省文を書かせるってのも、JR西日本が、それだけ国民を思いきり愚弄してるってことなんである。国民の知的レベルをその程度と踏んでいるということなのである(でなきゃ、あんなヘボ反省文、書きなおさせてらあ。「実は自分たちは悪くない」と言いたいからあんな文になるのだ)。 あれ読んで「ああ、この二人は本当に反省してるんだなあ。可哀想に」なんて言って騙される人、いると思ってるのかね? たまにホントにいるから情けないんだけど。
休日なので、朝からしげと映画に行く予定であったが、直前になってしげがキャンセル。継続中の鬱のせいである。 病院に通っていても、最近はクスリ以外の治療効果があまり上がっていない。問診で先生から「どうして鬱なんですか?」と聞かれるのが嫌なのだそうだ。 それこそ「どうして聞かれるのが嫌なのか?」と問いただしてみるのだが、「だって、理由を“作らないといけない”から」と答える。本人にもどうしていきなり情緒不安定に陥るのかが分からないのだそうだが、かと言って、本人以外に理由が分かるはずもないのだから、先生にしても「どうして?」と聞く以外にななかろう。ぶちぶち拗ねるしげのほうが間違っているのである。直感だけで生きてる人間は自己分析の能力もないから困るんだよね。 「だからどうして映画に行きたくないのさ」と詰め寄ったら、「だって今日は、新しい抗鬱剤をもらったんだもん」と言う。それがどう効き目があるか分からないから、映画はやめるのだとか。よく分かるような分からないような、妙なリクツで、映画見た後で飲むのじゃダメなの? と思うのだが、しげの様子を見ていると何だか切羽詰っている感じで、なるほど、映画を見ている最中にぼろぼろ泣き出しそうな気配である。 つい2、3日前も、しげは私を駅まで迎えに来て、私の顔を見た途端にべそべそ泣き出した。半日会えなかっただけでこれだから、安心して仕事に行くこともできやしない。映画館は一緒にいるじゃないか、と言われそうだが、一緒にいたって目はスクリーンに向かっているから、やはりしげは孤独を感じてしまうらしいのである。観劇中に「もう帰る!」なんて愚図られた日にはたまったものではない。前にも書いたが、私としげは一回りほど年齢差があって、更に見た目はもっと離れているように見えて(私が老け顔でしげは童顔だからである)親子くらい離れていると勘違いされることも少なくないのである。だから、しげが泣いてるのを私がなだめているのを人が見たら、どんなゴカイをするか知れたものではないのだ。 映画は明日行くことにして、今日は控えることにする。と言いつつ、明日になってクスリの効き目が切れたらまたどうなるか分からないのだが。
クスリを飲んだしげは、そのままコトンと寝て、12時間起きなかった。9時から9時までである。寝相は最悪で、寝たときにはちゃんと服を着て、布団もかけていたのに、目覚めたときには布団もとっ散らかした上に全裸であった。起きるなり私のほうを見て、「いやん、えっち♪」なんてこきゃあがったが、私が脱がしたのではない。自分で勝手に寝ながら脱いだのである。しかも、私が、脱ごうとする服を下げてやり、布団を何度もかけてやったというのに、結局、「うにゃあ!」とか奇声をあげてぜんぶうっちゃらかしたのだ。何で私が変態のように見られなきゃならんのだ。 今朝の鬱はどこ吹く風、という調子なので、多分、今度のクスリは利いたのだろう。全く、自分で脳内麻薬くらい分泌してセルフコントロールくらいしてくれと言いたい。
昼間はだらだらとテレビを見る。『行列のできる法律相談所』の再放送とか、『義経』の再放送とか。渡哲也の清盛があっさり死んで、松坂慶子の時子が檄を飛ばすんだけれど、これがまるで迫力がない。『キネ旬』でいつぞやこの松坂慶子を誉めてた評論家がいたが、何をどう見てるんだか。
『究極の二択クイズコロシアム ホントはどっち!』という特番、パネラーがいかにもどうでもいい二択を選ばされるという楽しいバカバラエティ。問題だけのばかばかしさで、妙な演出をしてないのがいいやね。 「豚と三瓶、体脂肪率が高いのはどっち?」(答え・三瓶。豚は29.1%で、ちょっと小太りの女性程度らしい。三瓶は36%くらいだった) 「安田大サーカスの『クロちゃん』とかつみ・さゆりの『さゆり』、声が高いのはどっち?」(答え・さゆり。なんと1100デシベル! 人間の限界を超えてるとか言ってたけど、ヨナさんとこのあやめさんならこれ越えられるんじゃないか) 「『佐藤』と『鈴木』。日本で一番多い苗字はどっち?」(答え・佐藤。昔は確か鈴木が多かったと記憶してるが、今は逆転してるのかな) 「パンチパーマの人に聞きました。哀川翔と高倉健、あなたの『心の兄貴』はどっち?」(答え・高倉健。聞いた対象が中年以上の人が多かったから、そりゃ健さんになるでしょ) 「新宿No.1ホステスとホスト。これまでに貢がれた額が多いのはどっち?」(答え・ホステス。しかしホントにどうでもいい二択だよなあ) パネラーの江川達也がやたら薀蓄語ろうとして森下千里から「うるさい」とたしなめられていたのがおかしかった。
CS「日本映画専門チャンネル」で『世界の中心で、愛をさけぶ』。 劇場公開時は「なんじゃこりゃ?」と思った映画であったが、『デビルマン』を見た後では(もうこのフレーズも懐かしいな)。 やっぱり白血病患者を美しく描いて儲けようって偽善ぶりが鼻につくのは変わらないのだが、演じている長澤まさみに罪があるわけじゃなし、よく熱演はしてるし、この映画見てドナー登録した人も増えたと言うし、「偽善もまた善のうち」と、大きな目で見てあげてもいいかな、という気分にだけはなったんで再見。でもやっぱり感動はしないのである。 しげの今一番フェイバリットな役者さんである近藤芳正さんが出演しているので(でもチョイ役)、録画してあげようと思ったのだが、生DVDを初期化し損なって失敗。でもまた再放送があるだろうから、勘弁してね。
CS「ディズニーチャンネル」で『ヘラクレス』。 一応ギリシャ神話がモチーフだから、いやがるしげを誘って劇場まで見に行った記憶があるが、今見返してみても薄味でつまんない映画である。ディズニーアニメ凋落を象徴する一本。もっとも、劇場公開時は字幕スーパー版だったので、気になってた吹替え版が聞けたのは嬉しかった。ヘラクレスの松岡昌宏、メガラの工藤静香はまあこんなもん、という出来であったが、ハデスの嶋田久作のハジケぶりが凄かった。悪役ではあってもディズニーアニメの中ではハデスはかなりヌケサクで愛嬌もあるので、そのあたりを考慮しての熱演だろう。何たって映画の締めはハデスにおいしいとこ持ってかれてるのである。
CS「時代劇専門チャンネル」で『時代劇スペシャル 丹下左膳 剣風!百万両の壷』。 昭和57年制作の仲代達矢主演版で、原作の『乾雲坤竜の巻』と『こけ猿の壷の巻』を適当にこき混ぜての映像化。左膳が隻眼隻腕の剣士になったいきさつも冒頭にあり、またその因縁が本編に絡む一幕もあり、大岡越前との丁丁発止もあり、つまりは原作シリーズの殆どを一作に詰め込んじゃったわけで、続編を作る意図がなかったことがよく分かる。単発で終わってしまったのが惜しいくらい、力の入った仕上がりだが、どこか原作のつん抜けたような豪快さがなくて辛気臭いなあ、何となく脚本も演出も五社英雄っぽいなあと思ったら、ホントに五社英雄が監督だった。まあ、仲代に、可憐なヒロインが夏目雅子とくれば、これは確かに『鬼龍院花子の生涯』の流れである。 仲代達矢の左膳はまあ、仲代達矢であって、痩せぎすの風貌が大河内伝次郎よりは原作に近いので、もう少しギラギラしたところがほしかったが、ややもっさりとしてしまっているのが惜しい。それもある程度は仕方がないのは、この当時ですら仲代達矢は既に50歳になっていて、左膳を演じるにはもうギリギリの年齢だったのである。『用心棒』の頃(29歳)の仲代さんだったら、さぞや似合っていたことだろうと思われる。まあその頃はその頃で、東映で大友`柳太朗の『丹下左膳』シリーズが継続中(最終作が『用心棒』の翌年)であったから、仲代さんに左膳を、という話は多分なかったろうが(時代劇ヒーローのもう一方の雄、『大菩薩峠』の机龍之助を三十代のときに演じることができたのは僥倖だろう)。 数ある左膳映像化の一本に埋まる出来なのかと思ったのだが、拾い物だったのは意外にも(失礼)、櫛巻きお藤役の松尾嘉代だった。実は私はあまりこの人の演技が好きではなかったのだが(特に2時間ドラマとかはどれもこれも「流した」ような印象があるのね)、このお藤は驚くほどにいい。伝法で凛々しくて、それでいてチョビ安を慈しむ母性もある。短筒を構えた艶姿なんぞは身震いするほどカッコイイ。女はやっぱり男前でなくちゃな、という感じなのだ。
2004年05月14日(金) 内憂外患、振り回されてますよ(T∇T)。 2003年05月14日(水) すっ飛ばし日記/モテる男の心中 2002年05月14日(火) 2001年アニメグランプリ/『ななか6/17』7巻(八神健)ほか 2001年05月14日(月) 今日の実験……失敗/今週の少年ジャンプ『ヒカルの碁』
2005年05月13日(金) |
落ちる人形/ドラマ『冬の輪舞 特別編』 |
夕べは『黒薔薇の館』を見に行って見られなかった木曜ドラマ『アタックNO.1』第5話、録画しておいたのを見る。前回、こずえ(上戸彩)が選抜を外されて富士見学園に戻されてしまったので、お話は富士見メンバー中心に返ってしまい、何となくこれまでの選抜中心のドラマ展開は何だったんだ、ちゃんと伏線張っといたの、収束されるんだろうな、と心配に思わないでもない。三条(遠野凪子)、八木沢(宮地真緒)、吉村(加藤夏季)、垣之内(秋山エリサ)、そして猪野熊(船越栄一郎)の出演シーンまでがた減りなので、いささか心配になるのである。 ストーリーも「富士見学園存続の危機か?」と盛り上げたいのは分かるけれども、設定があまりにも雑過ぎる。前回、酔っ払い(中務一友)に怪我をさせたために、こずえが謹慎処分をくらったのも処分としては行き過ぎだよなあと感じてはいたのだが、これが今回はありえないくらいにどんどんエスカレートするのだ。 もともと、非があるのは女子高生に絡んできた酔っ払いなのである。こずえの暴力はものの弾みで、事故でしかないのだから、訴えられれば酔っ払いのほうこそ立場がないと思われるのに(ドラマ中だってそのことは言及されている)、日本バレーボール連盟は富士見のバレー部を廃部させようとするわ、酔っ払いは部長の大沼(大友みなみ)に退部しろと言うわ、現実にはありえない展開が続くのだ。 さらに連盟が「インターハイで優勝できれば廃部決定は取り消す」と条件をつけるに至っては、連盟は常識も人間性のカケラもないやつらの集団か?! とあきれてものも言えない。よくもまあ、モノホンの連盟は自分たちを徹底的にバカ扱いしているあほな展開を看過してるもんだよなあと、その度量の広さに驚くばかりである(いや、ホントにクレーム付けられても困るんだが)。 ちょっと「たたみかけ過ぎ」でここまで来るとしらけるばかりで、脚本家の底が知れる。一応、好意的に解釈するなら、本郷コーチ(中村俊介)が猪野熊の影響を受けていきなり冷酷になっていくという無理やりな展開を、脇からフォローするための設定かとも考えられるのだが、外側を補強したって、中がガタガタだと、結局はドラマ全体が崩壊するのだ。そうならないことを祈りたいんだけどね。
朝、変な夢で飛び起きる。 高層ビルから飛び降りるのだが(理由なんかわからない)、一緒に飛び降りてくれる娘(しげのような気もするのだが、それにしてはスタイルがいい)がいつのまにか人形にすりかわっているのだ。「詐欺だァァァァァァ」と叫びながら落ちていくところで目が覚めた。 昔から「落ちる夢」というのはしょっちゅう見てるが、地面とか海面にたどり着いたことはない。落ちきると死ぬ、という俗説はあるが、今朝は起きたら本当に心臓がバクバク高鳴っていて、ホントに死ぬかと思った。 しょっちゅうとは言っても、私が「落ちる夢」を見るのはたいていココロに何かのわだかまりがあるときなので、しげの情緒不安定に私も引きずられてるのかな、とちょっと心配になる。
職場で今日は健康診断があった。 もう40歳を越しているので、身長と体重だけ、というわけにはいかない。心電図やら胃透視やらで、小一時間はかかるのである。仕事が忙しいにもかかわらず合間にあっちこっちと移動させられるので、かなりバタバタ。同僚と「こういうときは午前中だけでも仕事を休みにしてほしいものですねえ」と会話するが、そういう余裕がないのがうちの職場の現状なのである。 ニュースで「会社員の帰属意識が低下している」と報道されていたが、どこの会社だって、本気で景気が回復したとは思っちゃいない。私んとこも、もう七年も給料減額だ。なのに仕事だけは増える、という状況が続くのであれば、誰だって「会社のために働こう」という意識が低下するってものである。特にうちらのような職種は、「心の余裕」を作らないと、やってけない仕事なんだからね。 検査の結果は今日すぐには出ないが、最近の体調を考えると、ちょっと悪い予感がする。バリウム飲んだあと、下剤をもらったのだけれども、そんなもの飲まなくったって、ここ一週間くらい、便はずっと下痢便だ。今年は職場を変わったばかりでもあるし、入院だけはしたくないんだけどなあ。
昨日、連絡があったのだが、結婚が秒読みでそう言いながらなぜか足踏みしていたハカセ(穂稀嬢)が入籍されたとのことである。個人的なことなんで、日記に書こうかどうしようかは迷ったけれど、破局のニュースではないからまあよろしかろう。 これまでは散々直接間接を問わずノロケられまくっていて、そのあたりの話題もアップすれば楽しかろうなあとは思っていたのだが、万が一にでも破談なんてことになったら可愛そうどころの話じゃないと思ってたんで控えていたのである。 考えてみれば知り合ったのが彼女がまだ十代のころで、当時からその強烈なキャラクターにはかなり圧倒されていた。どこがどうすごいか、それこそオモテじゃとても書けないのであるが、まあ、基本はいい子だと思うよ(←これだけ言っときゃいいと思ってる)。ともあれおめでとう。末永くお幸せに。 せっかくだから、ウェブ日記でも書いて新婚生活教えてよ、とメールを送ったのだが、「痛いからいいですよぉ」と返事が来た。ハカセからこんな「わが身を知る」の言葉が聞けようとは! ヒトはオトナになるものである。
『テアトロ』6月号、演劇評論家の林あまりさんが、うずめ劇場の『ねずみ狩り』を観劇して、「スッポンポンになるなんて潔い」と誉めていらっしゃる。私はあの芝居はかなりつまらなくて退屈してしまったので、あまり誉める気にはなれなかった。というか、真裸になることを評価するような動きがあっちゃ、よくないなあと思っていたので、案の定、こういうレベルの低い批評が出たことに暗澹たる気分に陥ってしまったのだ。 演出家のペーター・ゲスナー氏の、恐らくは虚飾を排した肉体そのものによる演劇の構築を目指したらしい意図は理解できなくもないのだが、それが同時にこの演劇の限界にもなってしまっている。つまり、真っ裸になってしまったら、それ以上、我々は脱ぐものは何もなくなってしまうのだ。更に言えば、スッポンポンになるくらいのことで話題になる程度に現代日本の演劇表現は稚拙で逼塞してしまっているのかと逆に問いかけたくもなる。映画のほうなら、ああいう芝居は大島渚がもう何十年も前に『愛のコリーダ』で凌駕してしまっているのだ。 芸術もまた一つの「メディア」である。それはすなわち「媒体」であるということで、作家、演出家、役者の意図したことがそのままストレートに伝わるわけではない。そこに現れた現象を観客は自らの経験と知識とに裏打ちされた見識によって咀嚼するのであるが、厄介なのは、観客は自らの頭脳に対して著しく無自覚である、という点である。舞台と観客との間に、さながら魑魅魍魎が蠢くブラック・ボックスが存在しているようなもので、演出家の才能というものはいかにその魑魅魍魎に形を与え、観客を心理誘導できるかという点にかかっているのだが、『ねずみ狩り』はかなりな部分でその誘導に失敗してしまっている。翻訳劇を外国で上演する際には、文化も習慣も違う風土にいかに現実性を持たせるかの工夫が必要であるが、それがまるでうまく行っていない。たとえば殆ど初対面の二人がどうして関係を持とうということに至ったのか、その背景がニュアンスとしてすら出せていない。真っ裸になり、お互いの獣性を発露するかのように求め合う二人の姿の中に、ほんのひとかけらでも人間的なものを残すような演出を試みていれば、それすらも最後の最後で踏みにじられる悲しさが、観客にも伝わったはずだと思う。日本人の観客を誘導するには、「そういう描写」が絶対に必要になるのである。 役者の技量が高ければ、あるいは演出家がもっと日本の現実を捉えられていれば、『ねずみ狩り』はもっと笑えたはずだし、もっと切なくなれたはずだし、もっと感動できたはずだ。戯曲自体は悪くないと思えるだけに、そこが残念な芝居だった。
夜、金曜ロードショーで映画『エボリューション』。DVDも買ってるので見ようと思えばいつでも見られるのだが、ダン・エイクロイドが出ているので、流れていれば結局チャンネルを合わせてしまうのである。映画としては『ゴースト・バスターズ』のエイリアン版で、つまんなくはないけど二番煎じの印象をぬぐえないんだけどね。
そのあと、裏で録画しておいた『冬の輪舞 特別編』を見る。新聞のサブタイトルがものすごくて、「話題沸騰の昼ドラマが今夜復活! ボタバラを越えた40年に及ぶ激動の愛憎劇が遂に完結! 出生の秘密に翻弄され続けたしのぶと千鶴子が最後に選んだ究極の愛とは!?」で、もうストーリーを全部説明してしまってるでないの(笑)。 吉屋信子の『あの道この道』が原作で、ということになってはいるけれども、子供すり替えの設定とキャラクターの名前が踏襲されているくらいで、原作とはかなり違ったテイストになっているようだ(総集編だから、細かいところは分からん)。まあ大正時代の少女小説を現代でリメイクするならそのまんまじゃ無理だろうけれどもね。 しかし、遠野凪子、ちょっとキツ目の顔立ちではあるけれども、『日本の黒い夏・冤罪』のころまでは可憐な美少女役で売ってたのに、どんどん濃くなっていくなあ。「昼ドラ女優」なんてはまり役なんだけれども、この手の作品ばかり続くと、それはそれで似たような約しか来なくなりそうで、いずれは『極妻』路線にまで行っちゃわないかと、いささか心配なのですが。いや、私が心配してどうする。
晩飯は、しげがコンビニで買ってきた、期間限定の「若狭の浜寿司」。美味いんだけれども、950円という値段を考えるとちょっとボリ過ぎだ。回転寿司で鯖なら、100円で新鮮なのが食べられるんだからね。
日記を何とか読みやすくできないかといろいろタグをいじくってみるのだが、これがなかなかうまくいかない。諦めるのも悔しいので、少しは機能が増やせないかと、一年前、二年前のその日の日記がリンクできるようにしてみた。4年前となるとさすがに話題が古いが、一年前だと、そう時間が経ってないように感じる。アレはほんの一年前だったのか、ついこないだのような気がしていたが、というようなものである。年を取ると時間が早くなるというのはホントだね。
2004年05月13日(木) そう言えば梅雨なんだわ。 2003年05月13日(火) すっ飛ばし日記/リズムな男の死 2002年05月13日(月) アッパレパソコン大合戦/『アニメージュ』6月号ほか 2001年05月13日(日) 愛の嵐/DVD『BLOOD THE LAST VAMPIRE』コンプリートボックス
2005年05月12日(木) |
変態天国/映画『黒薔薇の館』 |
えーっと、何年か前にも似たような事件があったような気がするぞ、の少女監禁事件。 と言っても、事件そのものは昨年3月に起こったものだとか。 北海道在住の無職・小林泰剛容疑者(24歳)は、インターネットのチャット上で女性を装って、兵庫県赤穂市の少女(当時18歳)と知り合う。しばらくすると小林容疑者は本性をあらわして、「やくざを送り込んでお前の家をつぶしてやる。家を出ろ」などと言って少女を脅す。怖くなった少女は小林容疑者の言うままに上京した(ここんところがどうも納得できないところである。どうして警察に通報しようとしなかったのか?)。 東京都渋谷区のホテルに呼び出された少女は、小林容疑者から逃げられないように首輪をつけられ監禁され、顔を殴られるなどの暴行を受ける。それ以外にどんなことをされたかは知りたくもない。6月にすきを見つけた少女が逃げ出すまで、監禁は3ヶ月に渡ったとか。 どこぞのダイレクト・メールみたいに定期的に来るのが、この手の事件である。誤解を招く表現であることを承知の上であえて言えば、いたいけな少女を性奴隷にしたいという願望は、去勢でもされてない限り男性には確実に存在するものだ(年上好みの人もいらっしゃるでしょうが、ここは単純に男性は女性を支配したい欲望を本能的に持っているということを言いたいわけです)。サディズムと性衝動は密接に結びついているので、これがなきゃ、子孫繁栄だってできやしない。 もちろん、世の男性がみな、自分の性衝動を開放して生きているわけではない。しかし、内なる猛獣を飼いならして日常を生きることができない男性も何割かの割合で存在することも現実なのであって、だから痴漢にしろレイプにしろ、「あってはならないこと」ではあるが、同時に根絶することが不可能な「確実に起こること」でもあるのだ。
ならばどうして「予防」も「対処」もできないのか、と事件が「再発」するたびに胸糞悪い思いをまたしなければならないのだが、コトはそう単純ではない。 小林容疑者は、2002年にも、北海道江別市の自宅に同居させていた21歳と19歳の女性に対する監禁容疑で逮捕され、傷害罪などで起訴されている。そのときは、札幌地裁の公判で、「ハーレムをつくる」などと言って複数の女性と同居し、日常的な暴行で女性を服従させたことが明らかになっている。複数の女性とも結婚、離婚を繰り返しており、予想通り、女性を監禁・暴行するパソコンのエロゲーにも熱中していた。 あまりにも「定番通り」の経歴の持ち主で、だとしたらこんなやつをどうして放置しといたのか、保護観察処分などとは生ぬるい、とっとと刑務所にぶち込んでおけばよかったではないか、と怒りを押さえきれない人は多いと思う。しかし、今やもう、「この程度の人間」はそのへんにザラにゴロゴロしている。風俗の店で変態プレイに興じてる連中まで「性犯罪予備軍」だと判断してしまったら、朝の挨拶を交わしてる一見気のよさそうな隣の家のオジサンや、裏の会社のシャチョーさんまでタイホしなきゃならなくなるかもしれない。大げさだ、と感じる人もいるかもしれないが、自分が明日、酔っ払って女の子に痴漢行為を働いたりすることは絶対にない、と断言する男は、100%確実に将来痴漢行為を働くだろう。「自分は大丈夫だ」なんて言ってるやつくらい、信頼できない人間もいないのである。 もしも警察が「犯罪者予備軍」を取り締まれるのなら、少なく見積もっても成人男性の半分はタイホされてしまってもおかしくはない。もちろんそんなことは無理な話で、日本において「加害者の人権」が何でここまで守られてるかといえば、男性の殆どが「脛に傷持つ身」であるからなのだ。誰が自分で自分を取り締まるように法律を厳しくせよと本気で主張するだろうか。男性で「もっと性犯罪に関する法規制を厳しくしろ」と主張している連中は、自分がその法律に引っかかる可能性に気がついていない愚か者か、イ○ポのどちらかであろう。
……全国の女性のみなさん、どうして日本が性犯罪万歳国家になってしまっているか、そのカラクリがご理解できましたか? あなたのお父さんが、お兄さんが、あるいは恋人が、自分たちが「取り締まられないために」、痴漢とかの罪はあんなに軽いのですよ。政治家の誰だったっけ、いつぞや、「レイプするほど元気なやつ」とか発言してたやつがいたでしょ? 「ミニスカとかボディコンとか(死語)、色っぽい格好をして男を誘う女のほうが悪い」「減るもんじゃなし、実際、女の方だって楽しめたんだからいいじゃん」って本気で思ってる馬鹿男、もう信じられないくらいたくさんいるんですよ? 今回の事件だって、「女が悪い」って言いきる糞ったれどもが、きっといて、ネット上で堂々と自己主張したりするでしょう(そりゃノコノコ上京していったのはどうかと思うけれど、圧倒的に悪いのは当然犯人のほうなんだけどね)。 「女は男の性奴隷」、それが男性の本音なんです。あなたの隣の男性がどんなに優しげな顔をしていても、信用なんてしちゃいけません。筒井康隆の『家族八景』を読みましょう。男性の真の姿が分かります。
床屋談義で半ば本気で言われる話題に、「性犯罪者は去勢してしまえ」というものがある。冗談めかしてはいるが、「死刑などの極刑にすることはできない性犯罪者」を処罰する方法として、「去勢」は決して無効なものではない。しかし現実には加害者の人権(つまりは男性の“女は乱暴してもいい”という既得権だわな)とやらを考慮すれば、これは荒唐無稽で実現不可能な手段であるとしか言えない。 もう、諦めるしかないだろう。行政は、司法は、可愛らしいお嬢さんたちを変態の餌食にされても構わないと思っているのだ。たとえ一人、二人の犠牲者が出ても、とりあえず何年間かは犯人が「保護」されるので、その間の犠牲者だけは出ずにすむという、消極的な方法でガマンするしかないのだ。日本が実質「男社会」である以上は、これ以上の改善は望めまい。 あなたが女性で被害にあったら、あるいはあなたの可愛いお嬢さんが犠牲になったら、「運が悪かった」と思って忘れよう。泣き寝入りがまたしても変態男どもを野放しにすることになるが、泣き寝入りせずに事件を公にしたら、今度は被害者であるあなたが世間からの猛烈な非難の嵐にさらされることになるのである。
またぞろ「責任はエロゲーにあり」の短絡思考で規制を訴える馬鹿が出そうだが、そんなことで性犯罪が根絶できたら、誰も苦労はしないし不安に苛まれることもないのである。やたらこういう「責任転嫁」したがるやつも、実は「犯罪者予備軍」の可能性、高いんだよねえ。キレイゴトを熱弁するやつなんて、信用しちゃいけません。
今朝方、テレビスペシャル版『積木くずし』の制作発表がテレビで放映されてたのをしげと一緒に見たのだが、もう唖然としちゃったのが安達祐実の「特攻服」姿である。いやもう、パッキンのカーリーヘアーに鬼みたいなメイク、80年代の不良のまんまなのである。 一応、時代は現代に移すんでしょ? それとも今でもあんなの、実在してるの? いや、なにより、安達祐実がそういう格好をしてもこれが全然似合わないどころか、「小学生の不良コスプレ」にしか見えないという点である。 ……キャリア、終わっちゃうんじゃないか。
朝っぱらからニュースをじっくり見られたのは、つまりはやたら早起きしてしまったためだが、相変わらずウトウトしながら目覚め、という不眠症が続いているためである。 余震の回数はかなり少なくなっているのだが、それでも震度2程度の地震はまだ起こっている。これが、「今日はゆっくり眠れそうかな」という時を狙い済ましたように来るものだから、未だに落ち着かないのだ。 せっかく早起きしたのだから、と、いつもより早めの電車に乗って出勤しようと駅まで。ところが電車は2分遅れで到着。もちろん、遅刻になどはならなかったが、今日は帰りの電車も3分遅れであった。JR九州ではこういう遅れはしょっちゅうで、のんびりしたものである。少なくとも「過密ダイヤ」とやらで運転士がトチ狂って暴走するような事態にだけはなりそうもない。
夜、シネ・リーブル博多駅で、『カルト渦巻地獄劇場』の第4弾、深作欣二監督作『黒薔薇の館』(1969年・松竹)。 チラシに「MIWA meets TAMURA」とある通り、主演は実輪明宏(当時は丸山明宏)と田村正和。どれだけ濃いドラマが展開されるかとつい期待してしまうのだが、正直,映画の出来はやや肩透かしなものだった。 物語は佐光喬平(小沢栄太郎)という老人の独白から始まる。彼が経営するクラブ「黒薔薇の館」に、毎夜8時にどこからともなく現れ、11時にはどこへともなく消える謎の女、藤尾竜子(丸山明宏)。ただならぬ妖艶な雰囲気を身に纏った彼女は、純粋至上の愛の歌を披露し、館に集う男たちを陶酔させていた。佐光もまた、常に黒薔薇を手に持ち、真実の愛が得られたとき、その薔薇は赤く変わると信じて疑わない彼女の魔性の魅力に囚われていく自分を押さえきれなくなっていった。 しかし彼女は男どもを破滅される女でもあった。彼女の元夫だと名乗る大友(西村晃)、横浜での恋人だったと称する青年(川津祐介)、神戸での恋人だったと称するマドロス(内田良平)が現れるが、竜子はその誰にも「知らない」と言ってあしらう。青年は失意のあまり自殺し、マドロスは竜子の取り巻きの混血少年のジョージ(城アキラ)と決闘し、死んだ。大友はその惨事を見て「ロマンは死に絶えた」と言い捨て、館を去っていく。 ここまでの前半、物語は殆ど黒薔薇の館以外に出ず、回想シーンとのつなぎのみで実に演劇的に進行していく。3人の男が次々と現れ、しかし竜子の正体はいっこうに知れないという展開はスリリングで、台詞も極めて演劇的、特に西村晃のハムレットもマクベスもかくやという狂気の愛を語る弁舌は、濃い芝居が苦手な人には辟易であろうが、私には楽しめた。 しかし、この映画の弱点は既にここで表れていて、つまりあまりに演劇的で映画としては破綻してしまっているのである。そもそも、美輪明宏という存在が映画には向かない。失礼を省みずに言わせてもらえれば、いかに美輪さんが美しくても、本物の女には見えない、誰もが彼女は男であると認識しているはずである。だからこそその妖しさは「見立て」の芸術である演劇においてはその魅力を倍増させるのであるが、映画ではどうしても「なぜ登場人物たちはあの女が本当は男だと見破れないのだ?」と訝ることになる。まあ、美輪さんのネツレツな信奉者ならばそれでも騙されてくれるのだろうが、特にそうでないヒトにとっては、美輪明宏賛美賛美賛美のこの映画は見ていてかなり苦痛であるだろう。しげなんぞは「オレ、『美輪明宏歌と踊りのショー』を見に来たわけじゃないよ」と憤慨していた。 美輪明宏を映画でも魅力的に描く方法がないわけではない。つまり見たまんま「ゲテモノ」として描けばいいわけで、ゲテモノであると知りつつも惹かれていく倒錯の愛を描けばよかったのである。美輪さんをあくまで女として扱おうとするから、おかしなことになるのだ。こんな映画と演劇の初歩的な違いにも気づかない無能な監督に脚本・監督をやらせることがそもそもの間違いで、全く深作欣二の映画にはホントにロクなものがない。 それでも前半はまだ「見れる」方で、後半になるともう物語は退屈なだけになる。新登場の佐光の息子・亘(田村正和)がまるで冴えないのだ。 美輪明宏主演の前作『黒蜥蜴』がドラマとして成立しているのは、黒蜥蜴に対抗するキャラクターとしての明智小五郎が、美輪明宏の「魔性」に対して、「知性」で拮抗していたからである。それがこの若き日の田村正和には全くない。親に愛されていないと思いこんだただのすね息子で、キャラクターとしての魅力は殆どないに等しい。彼もまた、前半に登場してきた馬鹿男たち同様、結局は美輪明宏に対する無条件の信奉者の一人に過ぎず、だから二人が死の逃避行をはじめても「いきなり何で? どうしてこいつと?」という疑問ばかりが渦のように浮かぶばかりなのだ。後半、美輪明宏の魅力がどんどん下落していくのは、「こんな馬鹿を愛するのなら、この女もたいしたやつじゃないな」と思わせてしまう点に原因がある。 これは田村正和の責任ではなく、やはり脚本が悪いのである。「君のことが目に浮かんで離れないんだ!」なんて甘えん坊で陳腐な台詞を田村正和に喋らせるんじゃないよ。いずれが支配し、いずれが支配されるか、そういった葛藤と緊迫感を描くのは瀬戸際の愛を描く際には絶対に守らなければならない鉄則なのだが、深作欣二にはその才能が決定的に欠けている。後年の映画を見ても、セックスは描けても恋愛はまるでダメなのは、『火宅の人』でも『忠臣蔵外伝四谷怪談』でも同様であった。
2004年05月12日(水) アニメなどニュースあれこれ。『キル・ビル vol.2』も見たよ。 2003年05月12日(月) すっ飛ばし日記/帰らない男 2002年05月12日(日) 懐かしき人々の狂乱 2001年05月12日(土) 今日までそして明日から/『私はスポック』(レナード・ニモイ)
2005年05月11日(水) |
ダウナー、ダウナー/『ONE PIECE ワンピース』巻三十七(尾田栄一郎) |
劇団メンバーのみんなのブログ、読みやすいものが多いんで、私もこの日記の行間をちょっと空けるくらいのことをしたいのだが、どうやったらいいのか分からない。いろいろタグをいじくってみたのだが、これが全然変化なし。もう何年も日記書きつづけてるってのに、未だにパソコンに慣れてないのである。パソコンに詳しい方、誰か上達のヒケツを教えて頂けないものでしょうか。
何だかいつまで続くんだって感じの、しげの鬱。 今日もポプラで鶏天弁当とミックス弁当を買って、車の中で二人で分けて食べる。しげはこれがかなり気に入ったらしく、食ってる最中、ずっとニコニコしているので、その流れで映画に行こうかと誘ってみたのだが、途端に渋い顔になる。 「せっかくラブラブなのがなくなっちゃう」というのだが、何をどうすればしげのいう「ラブラブ」になるのかが見当もつかない。バカップルを演じたら、それでしげの心は満たされるのか? 「演技でもいい」としょっちゅう言ってるが、実際にやってみたときに「いつものアンタじゃない」とかえって情緒不安定の度合いが増しちゃったことがあったので、しげの言をマトモに受け取ることもできないのである。 しげは、帰宅した後、突然またコンビニに出かけたかと思ったら、イクラ丼を買ってきた。しかも千円近くする巨大イクラ丼である。 「アンタを驚かせようと思って」というのだが、確かにビックリした。そりゃあ、私はイクラが好きだ。回転寿司で、イクラにキュウリがくっついて来るのを見ると、「姑息なマネをするんじゃねえ!」と、キュウリをどけてイクラだけで食べるような人間である。一度、ドンブリいっぱいのイクラを食ってみたいなあというのは夢でもあった。 けれど、嬉しくはあってもこれがしげの情緒不安定から来る行為だと思うと、素直に喜べないのである。給料日前でそんなに贅沢できるわけでもないのだから、無理してこんなの買って来なくてもいいし、第一、しげが作ってくれていたミートボールスープも私はもう食べていたのである。 ただ、こういうことを書くとまたしげがシュンとしかねないので念のため書いておくが、こういうトンチンカンをやらかすところも(もちろん鬱も)含めて、私はしげと一生添い遂げたいと思っているのである。もう十年以上も一緒にのたくってるんだから、そこんとこの気持ちにいい加減気づいてくれてもいいんじゃないかと思うのだが、これが全然しげに伝わらないのがココロの不思議というやつだろうかと首をひねるしかないのである。
チャンネルNECOで「みうらじゅん的映画祭」特集で映画『大巨獣ガッパ』。 みうらさんが、「ガッパやギララやゴケミドロのようなB級作品を再評価することが、タランティーノをやっつけることになるんだぞ」の主張に大きく頷く。もっとも私は、これらの作品を「B級」と認識したことはないんだけどね。予算ってことでA級B級を分けるんだったら、日本映画はハリウッド映画に比べたら全てB級になるわな。トホホな部分はクロサワにだってあるのだ。 「昔、テレビで見た」とかいう特撮ファンはいっぱいいるけれども、「ガッパ」を劇場で見たって人にはあまり会ったことはない。私と同年輩か、それよりちょっと上くらいの人しか、こんなもん見たがるやつはいないので、それもいたし方がないのだが、当時私は劇場から出てきながら、心の中でみうらさんが「脱力もの」と評する「ガッパの歌」を涙しつつリピートしていた。『ガッパ』がイギリス製怪獣映画『怪獣ゴルゴ』のかなり露骨な「換骨奪胎」であることを知ったのは後年のことで、親子ガッパの再会に、ガキの私は素直に感動していたのである。 だもんで、あまりトホホな映画であるかのように紹介されるのはちょっと悲しいものを感じてしまうのだが(確かに「亀」が当たったから次は「河童」という日活の発想は何だかなあだけれども)、ムカシの特撮映画なんて見る気もしない、なんて似非オタクがちょっとでも減ってくれるんなら、トンデモ的な紹介の仕方にもガマンしなきゃならんかなとも思うのである。悔しいけど。
マンガ、尾田栄一郎『ONE PIECE ワンピース』巻三十七(集英社)。 ジャンプシステムの最もよくない部分の影響を受けて(つまりは連載の「引き伸ばし」ね)末期症状に陥っているが、それに気がつかないでいるのは、信者的なファンと新参入の若いファンと、作者だけであろう。……って、前2者が半端じゃないくらい数がいるから、連載がいつまでも続いてるんだろうけど。 ウソップに続いて、ニコ・ロビンも麦わら海賊団を離脱しそうな気配だけれども、ウソップだけだと「どうせまた戻ってくるんだろう」と読者に先読みされてしまうので、もうちょっと「押しとく」必要性を感じてのこの展開だろうか。でも、こういう謎を残した形で「もう二度と会うことはない」とロビンに言わせたところで、ドラマツルギーがそれを許すはずもない。ここまで物語を「仲間」をキーワードに紡いでおいて、それがあいまいな理由のまま放置されていいはずがないのだ。 ウソップもロビンもいずれ麦わら海賊団に戻るか、そこに至らないまでも、何らかの形での「絆」を結びつづけていくことは確実なので、中途半端に離散するように見せかける展開はかえって嘘臭い。麦わらの一味崩壊の危機感がないから、「出来レース」にしか思えないのである。 こういう出来レースを何度もかましてくるあたり、尾田さんの作劇術が破綻している証拠なので、「末期症状」と言わざるを得ないのである。……いやね、これでロビンが本当に二度と登場してこなかったら、それはそれですごく意外な展開になるのだが、そうなったほうが読者は作者を許さないんじゃないかね。 ルフィもゾロもいとも簡単にサイファーボールの連中にやられちゃってるが、これもまた「敵のインフレ状態」でしかないので、緊迫感も高揚感もゾクゾクもドキドキもワクワクもない。しかも今巻、後半はルフィたちがまるで出てこないのだ(フランキーを仲間にするための、いつもの「回想」だとしても長い。しかもやっぱりナミやチョッパーと同じく「育ての親の死」のパターンだ。もう二番煎じ、三番煎じでこうも感動を押しつけらけたって、涙も出やしないのだ。 それでもこうして、単行本を続けて買ってるのは、何だかんだ言っても尾田栄一郎が鳥山明なきあとの(死んでないって)、ジャンプマンガを支えている才能の持ち主であることに違いはないからだ。このまま「引き伸ばし」でせっかくの尾田さんの才能を枯らしちゃいかんと思うよ、本気で。それでつまんないマンガしか描けなくなったマンガ家が山といること、昔からジャンプ読んでるファンなら知ってるよな?
2004年05月11日(火) ホントに午前様になっちゃったよ(-_-;)。 2003年05月11日(日) すっ飛ばし日記/ギャグで怖がる女 2002年05月11日(土) つんでぶで……謎の言葉(^o^)/DVD『日本誕生』ほか 2001年05月11日(金) ちょっと愚痴を言いたい夜/『荒野の出前持ち』(石川賢)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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