無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年10月13日(木) 確執なのかなんなのか/ドラマ『熟年離婚』第一話

 朝方メールでグータロウ君とやり取り。
 またまた『神様ゲーム』についての激論だが、どうしてグータロウ君が自説に拘るのかと訝んでいたら、逆に彼から「どうしてそんなに自説に拘るんだよ」と言われてしまった。全く「どっちが」という話である。
 グータロウ君は「どう見ても鈴木君は神様だろう」と主張するのだが、昨日も書いた通り、「鈴木君を神様だと信じてしまった芳雄君の一人称で書かれた物語」なのだから、鈴気君が神様のように見えるのは当たり前なのである。どこぞの宗教の信者が「教祖様は御釈迦様の生まれ変わりでございます」と書いてるようなもので、これを真に受けるというのは常識的な判断力を失ってると言われても仕方があるまい。
 じゃあ、「鈴木君は神様ではない」と断じるのが正しい常識的な読み方かと言われると、もちろんそちらの方がより妥当性はあるのだが、それもまた決して合理的な見方ではない。何しろラストで芳雄君は完全に冷静な判断力を失っているのである。そんな状態ではあの出来事が現実かどうかも断定はできないだろう。だからあれをどう解釈するかについては「わからない」としか言いようがないのだ。
京極さんではないが、UFOやら幽霊やら、それらの殆どは錯覚だったり妄想だったり、合理的に説明できるものばかりだが、だからと言って「そんなものは『絶対に』いない」と完全否定できるものでもない。それを「見た」と人が信じる以上、それが外的なものか内的なものかは分からないが「何かがあった」ことは事実なのである。
 自然科学的な判断と、合理主義的なものの見方とは、必ずしも一致するとは限らない。「神様なんているわけないじゃないか」と言い切ることは簡単だが、「人間」が「心」を持った存在である以上、その心の隙間に「カミサマ」が入り込んでくることを完全に止めることは不可能だ。この世はありとあらゆる「悲惨」で成り立っている。不幸が、災厄が、裏切りと迫害が、孤独が、運命が、人を苛むとき、どんなに理性的な人間であろうと心に揺らぎを覚えない人間はいないだろう。近しい人が亡くなろうとする時、信仰を持たぬ人でも神に祈りはしないだろうか? それくらい、人の心は弱くて優しい。
 『神様ゲーム』は、そんな「揺らぎ」を初めて覚えた少年の物語である。グータロウ君だって、かつて芳雄君と同じような孤独と悲しみを経験したことはあるはずだ。にもかかわらず、芳雄君の心に思いを馳せるまでには至らなかったというのは、「鈴木君は神様である」という芳雄君の判断をそのままに鵜呑みにして、一歩引いて彼がどのような心理の過程を辿ったかを見損なってしまったからだろう。ミステリファンが陥りやすい落とし穴であるが、謎の「解釈」に拘るあまり、その背景にある人間の心理にまでは思い至らないのである。端的に言ってしまえば、傲慢が心を支配してしまっているために思いやりの心をなくしてしまっているのだと言っていい。
 「ミステリとしてどうか」なんて疑問もグータロウ君は呈していたのだが、これについては江戸川乱歩の『陰獣』が「結末が曖昧」と批判されたことに対して、中島河太郎が「論理的な結末は一旦付けられている」と反論したことを想起してもらえれば、決して『神様ゲーム』もアンフェアだと非難することはできないだろう。事件の解明は一度、合理的になされている。あの衝撃の結末は、芳雄君が自己喪失してしまったあとの出来事なのだ。にもかかわらず、その結末を基準に、過去の事件の解釈まで曲げようというのは、我田引水に過ぎる。
 もちろん、芳雄君の悲しみを理解した上で、「あの出来事の意味は、本当はどういうことだったのだろう」と想像することは読者の自由である。しかしそこに「真実」や「絶対」はない。鈴木君を神様だと見る場合でもその逆でも、それなりの解釈は成り立つし、またどちらの解釈にも否定的な事実が付随して謎を更に深めることになる。グータロウ君はネット上の「解釈」をいろいろあさったようだが、そんなものは全て推理マニアの自己陶酔の粋を出るものではない。いくら読んだところで、何の意味もないのである。まだしげのように、「よく分からなかった」で考えるのをやめてしまった方がマシというものだ。
 『エヴァ』騒動の時には私もさんざんホモオタさんから「解釈」を執拗に語られたものだったが、最近のグータロウ君はそのイメージに重なってしまうのである。「語られていないもの」については「真実は読者の数」だけあるということなのだから、「解釈」に「遊ぶ」ならばともかくも、「それはおかしい」とか言い出して自説に固執するのは困った「信者」でしかない。私は、どうせならグータロウ君には「いや、鈴木君は実はハウルで(性格悪いしいろんな姿を取れるそうだし)、ラストのアレはカルシファーの仕業なんだよ」くらいのことを言ってくれることを期待していたのだが(これでも辻褄は合うぞ)、そんな心の余裕も彼はなくしてしまっている。本当にいったいどうしちゃったのだろうか。未だに『響鬼』30話ショックが尾を引いているのだろうか。
 再度、繰り返すが、「鈴木君が神様だったのかどうか」という点に固執していては、あの小説の本質を見失う。芳雄君は過去の私たちである。私たちが大人の現実を垣間見、ある時はそこで反抗し、ある時は傷つき、ある時は勇気を奮い起こし、ある時は逃げ出したように、芳雄君は「冒険」を繰り広げた。そこに『神様ゲーム』がジュブナイルとして書かれる意義があったとも言えよう。今まさに「傷ついている」子供たちにとっては、芳雄君は自らの分身として映るはずだ。彼の末路に共感を覚えるか反発を覚えるか、その反応は極端だろうが、それはまさしく芳雄君が読者の鏡として機能しているからである。
 私は別に、『神様ゲーム』を世の親たちに対して「ぜひ子供に読ませろ」なんて言うつもりはない。前にも書いた通り、子供は読みたいものは勝手に読む。その理屈が分かっているはずのグータロウ君が、あえて「子供に読ませたくない」というのはあまりにも傲慢だし、「読書」は何のため誰のためにあるものなのか、その意味自体を見失っている。読書は読む当人のためだけにあるものだし、その意味も当人にしか考えられないことなのだ。
 親として、毒のある物語を読ませたくないと感じる気持ちは分からないでもないのだが、それを言い出したら毒だらけのSFやミステリーはみんな読ませちゃいかんだろう。じゃあ彼は何を子供に読ませたいのだろうか。それって子供を純粋培養するために「ディズニー映画だけを子供に見せていたい」と言ってるのと同じだってことに気が付かないのだろうか。せいぜい「うちの子にはまだ早いな」って言うんならまだ理解できるのだが、「必要ない」と言うに至っては、もう彼自身が「カミサマ」になっちゃってるにようにしか見えないのである。
 グータロウ君がなんでまたそんな思考停止状態に陥ったのか、定かではないのだが、やっぱりネットを漁ったのがよくないんじゃないかな。言葉だけが浮遊しているネットってのは、情報伝達の方法としては非常に単純化されてるために、受け取る側はその送り手の他の要素を鑑みて客観的に判断することができにくい。そこに自然と「洗脳」効果が生まれてるんだよね。
 だからまあ、ネットなんてのは顔見知りのブログ見るくらいに留めといた方が無難なんじゃないか。とか何とか言ってたら、話が横に逸れてきたんでこのへんでやめとこう。


 仕事帰りの私を駅まで迎えに来たしげが、とんでもないことを言い出した。
 「あさっての二日市温泉行きだけどさあ、調べてみたけどここからだと車で一時間半かかるみたいよ?」
 「何言ってんだよ、三十分かそこらで着くよ」
 「あんた、うちから行けるところはみんな三十分だと思ってない?」
 そんな馬鹿なことがあるわけないのだが、大野城まで二十分弱、大宰府まで三十分くらい、二日市はもう目と鼻の先だ。多少渋滞に引っかかったとしても、一時間はかかるまいというのが目算なのだが、出かけるのが夜だし、初めての道なので自信がないと言う。
 それなら午後六時の出発予定を少し繰り上げる必要があるかと思い、父に電話してみる。
 「しげが『二日市まで一時間かかる』って言いようっちゃけど」
 「そげな馬鹿なことがあるか。三十分」
 確かにそれが常識的な判断なのではあるが、常識が通用しないのがしげであるから、油断はならないのである。
 狙っていたわけではないが、相談も兼ねて、食事に誘われる。
 「空港の国際線に行く道の途中に、焼肉屋ができとろうが、そこへ行かんや」。
しげに「どうする?」と、“一応”聞いてみたが、「どう…」の段階で既にしげの目は爛々と光っていたのであった。

 父を店まで出迎えて、件の焼肉屋に向かう。
 車の中で、父が「あさっての温泉行きのことは姉ちゃんにはまだ言うとらんったい」と言うので驚く。
 「なんで?」
 「言いたくないと」
 そう簡単に言われてはミもフタもないが、頑固というよりは駄々っ子という感じだ。年を取ってきて、もういくらワガママを言っても構わない気分になっているような感じだ。
 「お前には言うとらんばってん、姉ちゃんとの間ではいろいろあっとうと。お前が聞いたら絶対怒るけん、言わんけどな」
 「なら聞かんよ」
 父は私の性格をからっきし理解していないので(親くらい子供に幻想を抱いている存在はあるまい)、そんな風に勝手に決めつけるのだが、多分、私は何を聞いても怒らないと思う。どうせ姉が私の悪口を言ってたとか、その程度のものだろう。内容も「ボケ老人(=父)を私に押し付けやがって」とか「本当は店を私に譲るのが惜しくなったんだろう」とか、見当がつく。けれど、あの頑固な親父のそばにずっといれば、それくらいの愚痴は出て当然だ。それなら聞いても聞かなくても、姉を恨みに思うことはない点では同じである。
 しかし、毎度毎度、会うたびに姉の悪口を聞かされて「店を辞める」と聞かされてもう一年くらい経つ気がするが、いっこうに仕事を辞める気配がない(辞めると言って廃業広告まで出したのに取りやめた)。腹を立てながらも、毎日姉と顔を着き合わせてやっぱり一緒に仕事をしているのである。短気な癖にのんびりしているので、私にもこういう父の優柔不断な性急さはなかなか理解しがたいのである。

 焼肉屋はかなり分かりにくい位置にあって車も停めにくかったが、回転して日も浅いので、今のところはなんとか繁盛している様子である。
 しかし、値段がバカ高かったのには恐れ入った。ファミリーセット、ロース、カルビ、豚バラ、ウィンナーに焼き野菜、四人前で7000円というのはちょっとねえ。いい肉使ってたのは食べてみて分かったから、ダメな店ではないのだけれど、庶民にはやはり「ウエスト」でちょうどいいと実感したことである。

 
 ドラマ『熟年離婚』第一話。
 アニメの新番組があまり見られない分、ドラマの新番組を漁って見ている感じの最近であるが、『ブラザー・ビート』とどっちを見るか迷って、こっちを選ぶ。まあ、渡哲也で選んだってことだね。
 離婚を切り出す奥さんは松坂慶子なのだけれども、平時子よりは役柄に合っているとは言え、渡哲也に相対するとやはり今ひとつ「軽い」気がしてならない。『義経』に引き続いての夫婦役だけれども、何かこの二人でやらなきゃならない事情でもあるのだろうか。
 台詞を字面だけで追っていると、こりゃもう、渡哲也の方が圧倒的に横暴なのである。家族のことを考えているつもりになって自分の価値観を押し付けているだけだし、息子の交際相手のことを「子持ちで離婚調停中の夫がいるじゃないか」と悪し様に言うのは、息子思いから口走ってしまったにしても、ちょっとひどすぎる。もうちょっと事情を聞いてあげたら、と家族がたしなめるのも当然である。イマドキ、ここまで時代錯誤な親父がいるもんなのかねえ。
 ところが渡哲也が毅然としてこれを言うと、これが全然ワガママに聞こえなくてねえ(笑)。軟弱に「事情をよく聞かせてみろ、お前が本気なら俺も真剣に考える」なんてモノワカリのいい親父なんかを渡哲也に演じてほしくはないのである。でもおかげで「アナタのそういうところについて行けないんです!」と泣きじゃくる松坂慶子の方がワガママに見えちゃうのは困ったもので。
 「夫婦は一生連れそうものだ」とは、今や「絶対」ではなくて「希望的観測」でしかあるまい。今まさに結婚しようという恋人同士であっても、「この人と一生一緒に暮らせるのか」と考え出したら一抹の不安は感じるのではなかろうか。「結婚」という形式、これが必ずしも「家族」を形成するための手法として最適のものとは言えなくなっている現在、「熟年離婚」という題材を単純に「家族の崩壊」として描くのであれば、これは陳腐なドラマに堕してしまうと思う。
 離婚をすることがまた一つの人間関係の形成に繋がるような物語になっていけばいいなあと勝手に予測を立てながら見始めたのだが、第一話ではまだどんな方向に向かって行くのかはよく分からない。変な言い方だが、渡哲也は近年、本当にいい役者になってきたと思っているので、ドラマが多少ワヤになっても、一応これは最後まで付き合って見てみようと思っているのである。


 しげ、夜中に「寝つけない」と言って、奇声を挙げたりドタバタしたり。「足が気持ち悪い」と言って何度も風呂場と部屋を往復する。おかげでこちらも眠れない。
「なんで気持ちが悪いん?」
「多分、珍しく肉食ったせいよ」
 そんな馬鹿なわけあるか。なかなか寝つけないしげにも困りものなのだが、寝たら寝たで、今度は夢遊病癖が出て、やっぱりトイレと寝床を行ったり来たりすることも多いので、やっぱり私は眠られないのである。
 朝がホントに辛いんだよ。頼むから早寝してくれ。特に、土・日の朝は『マックス』と『響鬼』を澄んだアタマで見たいんだよ。

2002年10月13日(日) 芸のためならって問題でもないんだけど/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』3巻/アニメ『サイボーグ009完結編』
2001年10月13日(土) 封印/第三舞台『ファントム・ペイン』(鴻上尚史作)/アニメ『カスミン』第1話
2000年10月13日(金) 病気自慢と白髪三千丈と……ね、眠い/映画『レッド・ブロンクス』


2005年10月12日(水) 人はいかにして欺かれるか/ドラマ『相棒』〜シーズン�検船好拭璽肇好撻轡礇襦岾娉爾両襦�

 以前、この日記でも紹介した、麻耶雄嵩『神様ゲーム』であるが、びっくりしたことに吾妻ひでおまでがホームページの日記マンガで誉めていた。これはちょっとした事件である。
吾妻ファンでもあるグータロウ君に早速そのことを教えておいたのだが、途端に現物を購入して読んだというから手が早い(←こういう場合に使う言葉ではナイ)。
 けれども正直言って、新本格以降のミステリにかなり偏見があるらしいグータロウ君には、ちょっと「厳しい」んじゃないかと危惧していた。だから「流し読みしたら面白く読めないぞ」とメールで忠告しといたんだが、彼の日記を読むと、やっぱり流し読みして結末の意味がよく分からなかったようである。
 これって、「意味がわかんない」から「どういうことなのか解釈しよう」とした瞬間に、作品自体の本質が見抜けなくなる仕掛けになってんだけど、その罠に見事に引っかかっちゃったんだなあ。「志が低い」なんて言ってるけど、それは「解釈しようとした読者」の志が低いんであって、作品自体がそうなのではない。だいたい内容がよく理解できていないのにその「志」だけは理解できたというのはとんだ矛盾ではないか。実際には何一つ作品が読めていないのである。
 グータロウ君、最近は何かとトンチンカンな言動が多いので、また勘違いしちゃうんじゃないかと心配はしてたんだけれども、悪い予感が当たった形になって、いささか残念である。

 『神様ゲーム』が難読だと思われているのは、あのとんでもないオチを付けてくれたことに起因しているのだが、もちろん、それが作者の仕掛けた「罠」であることは言うまでもない。たいていの読者が「鈴木君は本当に神様だったのかどうか」という点でアタマを悩ませているようだが、それは実はどうでもいいことなのである。
 ミステリーである以上、ネタバレは控えなきゃなんないのだが(そのあたりを気にせずに平気でオチ書くやつらがネットには多すぎるんだよな)、ある程度は書かないことには、グータロウ君が落ち込んだ陥穽がどんな性質のものなのか、説明ができない。だからギリギリの線で、トリック等についても触れることになるが、諒とせられたい。
 ネットであれやこれやと「解釈」している読者が、ポカンと忘れてしまっているのは、これが主人公・芳雄の一人称で描写されているという事実である。
 ミステリを書く場合、それを一人称で描写するか、三人称で描写するかについては極めて重要な意味がある。即ち、それが「叙述トリック」に深く関わってくるからだ。一人称を採用した場合、その語る言葉にどの程度の客観性があるかは重要なポイントになる。所詮は「主観描写」であるのだから、三人称である「客観描写」に比べれば読者に与えられる情報が不公平になりがちだ、と思えてしまうところだが、実際にはその「穴」を逆利用したミステリの傑作も数多く生み出されていることは周知の通り。この『神様ゲーム』も、そうした先例に倣っている点は多々ある。
 芳雄君は初めこそは多分に理性的だ。猫殺し事件も友達殺しの事件も、小学生とは思えないほどの(笑)理性でもって「真相」に肉薄していく。しかし、「神様」を自称する「鈴木君」にであったことで、その理性にどんどん「揺らぎ」が生まれていくのだ。「鈴木君が神様であるかそうでないのか」という問題も、最終的には芳雄の「理性」に任されていることになるのだが、その芳雄が理性を失ったらどうなるか。
 「オチが理解できない」とか、「多様な解釈が可能だ」という声が出るのは、なぜなのか、ということと絡めて考えてみていただきたい。八割まで芳雄君は事件を「理性的に」読み解いていながら、残り二割については、理性を放棄してしまったのである。だから彼は最終的に「神様の実在」を信じることになる。実は、それを描くことこそが作者の主眼だったと言ってよいだろう。これは言ってみれば、「探偵」が八割方、事件を解決していながら、最後の二割でケツ割って逃げた物語だと言えるのだ。
 どうして作者はそんなことをしたのか? 当たり前の話だが、「現実」の事件は、フィクションであるミステリのように、全てがキッチリ割り切れるものではないからである。「真実が一つ」なんてミステリは、実は小説としては凄くつまんないのだ。読者が「あのオチの意味は?」と様々な解釈を考えるのは勝手だが、それがいつのまにか小説内での「神様の実在」を信じ、「神様の意図を量ろうとする」ことになっていることに大半の読者が気付いていない。読者が、芳雄の心理の過程をそのまま読者もなぞってしまっているということは、そういう読者もまた、「鈴木君」の手にかかれは、簡単に理性を放棄させられてしまう人間だということになるのだ。
 芳雄は、鈴木君が神様であることを否定し、なぜ彼がそれだけ真実を見通せるのかを推理し、鈴木君の「仕掛け」もちゃんと見抜いていた。なのに、結局、「神様はいるのだ」という「信仰」に辿りついてしまう。だから、もはやラストの芳雄君の描写には、客観的な意味を見出せなくなってしまう。あれが現実の出来事なのか、そうでないのか、それすらも信用できなくなってしまっているのだ。
 しかし、どうして芳雄君はそんな状況にまで陥ってしまったのか。芳雄君の心理の過程を丹念に追って行けば、彼が「神」にすがらなければならなくなった理由は充分に納得できる。芳雄君は孤独だった。彼には友達も、大人も、親ですらも信じられなくなってしまっていた。全てが信用できなくなってしまった芳雄君には、鈴木君以外に信じられるものがなくなってしまっていたのだ。そして、「知らなくてもいいことまで全て芳雄君に教えて、芳雄君をそういう心理状態に追い込んだのは鈴木君である」。だから、鈴木君が神様であろうとあるまいと、彼が芳雄君の心に陥穽を作り上げ、そこにうまくつけこんだことだけは紛れもない事実なのである。
『神様ゲーム』を仔細に読めば、「鈴木君」の手口が、他人を信用させるための典型であることに気が付くはずだ。芳雄はその手にコロリと騙された。こうなると、先述した通り、「鈴木君が本当に神様かどうか」ということはどうでもよくなる。芳雄の心の中では、完全に鈴木君は「神様」になってしまった。だから、最後に「鈴木君が神様であることを否定するような」意外な出来事が起こっても、「神様のやることは絶対」と、その事実について分析することを放棄してしまうのである。まるで、論理の徒であったコナン・ドイルが神秘家に変貌してしまったように。さながらオウム信者のように。
 言い換えるなら、『神様ゲーム』を読んで、最後まで「鈴木君が神様かどうか分からなかった」あるいは「鈴木君はやっぱり神様なんだと思った」人というのは、人の口車に乗せられやすいお人好しか、ニセ科学やトンデモ本の類に簡単にはまっちゃうような純粋まっすぐ君か、それこそカミサマを信じているシューキョーの人であろう。タイトルにちゃんと『ゲーム』と書いてあるのに、それは信じないのが不思議だけどね。
 でもまあ、世間ってのはそういう「騙される側の人」がいないと成り立たないものだから、この本に関して否定的な意見が多いってことは、それだけ「善人」が多いってことでもある。善人だらけの世界も鬱陶しいんだが、悪人が多いよりゃあマシかもしれない。
 実際、「鈴木君」のような「カミサマ」は、現実にいたるところにいるのだ。宗教の勧誘だけに留まらない、言葉巧みに信用を取り付け、ツボを売りつけたり土地を売りつけたり、詐欺を仕掛けてくる人間はそこいらじゅうにウヨウヨいる。ちょっとした寸借詐欺なら、身内でも友人でもしょっちゅうやっている(うちの家族も昔からずっとお互いに詐欺をしあっているようなものである)。グータロウ君のような善人には予想もつかないことかもしれないが、信用できる人間なんて、この世にはただの一人もいないのである。

 グータロウ君が善人なのはもう身に染みるほどに感じていることなので、実際どうして私のような悪辣で人情のカケラもないペテン師と友達でいられるのか不思議なのだが、もう日記の感想、善人丸出しで「子供に読ませるのにふさわしくない」とか、本読みが絶対言っちゃいけない言葉を簡単に言っちゃっている。
 保守的と言うよりは、頭でっかちな親は決まってこの傲慢なセリフを口にするのだが、親が何と言おうと、子供は読みたいものは読むものである。グータロウ君ちの子供が『神様ゲーム』を読むかどうかは分からないけれども、世の中にはこれを読んで「何か」を感じる子供は確実にいる。別にトラウマにならずに「何か」を考える子供も必ず現れる。
 グータロウ君が『神様ゲーム』をまるで「読めていない」のは、「解釈しよう」とネットの感想をあさった時点で大間違いなのだが(この時点で自分で考えることを放棄している)、更にはこれを「メタ・ミステリ」と言ってることでその知識の薄さを露呈してしまっている。もう何をかいわんやである。
 多分、間違いないと思うが、彼は意味も分からないでこの言葉を使っているのだ。虚構を虚構として認知することから現実の虚構性までを暴くのがメタの概念だとするならば、『神様ゲーム』はそんな複雑な手法は取っていない。どちらかと言えば、これは笠井潔の言う「アンチ・ミステリ」と見た方が妥当だ。江戸川乱歩の『陰獣』も、中井英夫の『虚無への供物』も、「割り切れないもの」が最後に残った。それはまさに賢しらな人間の知性をあざ笑い、全てが解明されないと気がすまない頭でっかちなミステリファンを嘲笑う「反ミステリ」としてのミステリなのである。
 情けない話なのだが、グータロウ君は、単に「オチがよく分からなかったから、これはメタ・ミステリなんだろう」と思ったに過ぎないようだ(そう思ってる読者も結構いるようである)。これじゃあ、アタマの悪いヤンキーがよく言う「俺がわかんないって思ったから勉強なんて必要ないんだよ」ってリクツと同じで、ただの脊髄反射である。ミヤベ先生の「本を読まない子供は馬鹿な大人になりますよ」という言葉をもちっと真剣に考えてみたらどうか。

 念のために言っておくが、グータロウ君を貶しているようであるが、これは「ミステリ読み」「本読み」としてはであって、人として私が足元にも及ばないことは言を俟たない。
 例えば、もしも私が、グータロウ君から金をせびり取ろうと思ったら簡単である。日記の更新をやめる。しばらくしたら彼から電話が掛かってくる。私はわざと出ないで、女房に出てもらう。「どうしたフジワラは?」。女房はためらいがちに切り出す。「言っちゃいけないって言われてるんですけど、実はまた入院してて……。今度は長くなりそうなんです。半年か一年、もしかしたらもっとかも」。これで簡単に騙せてしまうだろう。「少ないけどいくらか見舞いを送るよ」と言いながら、大枚はたいて書留寄こすに決まっているのだ。
 「トモダチ」だということを利用すれば、こういう騙しは簡単にできる。重要なのは「トモダチ」だということを押し付けがましく語るんじゃなくて、あくまで「つながり」を示唆するに留めることである。鈴木君だって「トモダチ」だということを利用して芳雄君を信用させている。そして自分からは何も要求はしていない。そこがうまいのである。
 私はこういう悪辣な人間なので、グータロウ君との人間の格差というものは歴然としているのである。こんな外道に関わったのはグータロウ君の身の不運ではあるが、世の中、悪人にいかに対処するか、訓練する必要もあろう。『神様ゲーム』も、芳雄君がいかに騙されて行くか、その心理の過程を追って行けば、現実世界で同じ轍を踏まないための訓練になると思う。


 晩飯に、スパゲティを作っていたときに、ガスコンロの火が勢いよく点いて、右手の甲の毛が焼けた。ちょっとチリチリになって、一部分だけミニアフロである。匂いをかいだら、毛の焼けるような匂いがしたが、毛が焼けているのだから毛が焼けた匂いがするのは当たり前なのである。


 ドラマ『相棒』〜シーズン�検船好拭璽肇好撻轡礇襦岾娉爾両襦廖�
 時々見てはいたんだけれど、なかなか日記の中で触れることはできなかった。昨今のミステリドラマの中では、群を抜いてキャラクターが「立って」いるので、シリーズの再開は嬉しい。水谷豊がこんなに上手い役者になるとはなあ。『バンパイヤ』のころには思いもしなかった……ってもう何十年前だよ。

 元外務省事務次官で「閣下」と呼ばれる傲慢かつ狡猾な男、北条晴臣(長門裕之)。2年前、杉下右京(水谷豊)たちに殺人容疑で逮捕されながら、超法規的取引で保釈され、現在はイギリスから移築したアイアンハート城で悠々自適の生活を送っている。
 その閣下から、右京と相棒の亀山薫(寺脇康文)にパーティーの招待状が届いた。閣下の目的は何か? パーティーには北条の保釈取引に関わった、小野田公顕・警察庁官房長(岸部一徳)と瀬戸内米蔵・元法務大臣(津川雅彦)も招かれていた。誰も閣下の真意が測れない中で、閣下は悪戯っ子のようにはしゃぎながら、突然、若い女性秘書・郷内繭子(高橋かおり)との結婚を発表する。その発表に驚愕したのは、繭子の従妹で城の執事の嵩人(高杉瑞穂)だった。そして翌日、嵩人が殺される。閣下のコレクションの剣で胸を一突きされて……。

 トリックは単純なのだが、ともかく「閣下」長門裕之の怪演が光る。津川雅彦との兄弟共演も、ストレートに突っ込む弟に対して、兄が泣いたり笑ったり、感情表現豊かにすっとぼける様がいかにも楽しそうだ。
 正直、役者としての艶に欠ける人だよなあと思っていたのだが、こんな愛嬌のある糞爺を演じさせて、こんなに映えるとは思っていなかったのである。こんな大ベテランに対抗しようというのは至難の業だが、ゲストの高橋かおり、清楚な美人秘書として登場したかと思ったら、閣下にまんまとハメられたと気づいた途端に「このばかたれ!」とちょっとケンのある顔を歪めての大暴言、まったく大熱演である。
 さて、最後に笑ったのは誰なのか、このままならなんだか「閣下」シリーズもいずれ第三弾がありそうで、楽しみなことである。

2002年10月12日(土) 第一稿完成!/『ちょびっツ』7巻(CLAMP)ほか
2001年10月12日(金) それはそれ!/『ゲッベルスの贈り物』(藤岡真)ほか
2000年10月12日(木) 乳の電話と江戸のエンコーと胃袋女と/『十時半睡事件帖 おんな舟』(白石一郎)ほか


2005年10月11日(火) ほのぼの気分と切ない気分/ドラマ『1リットルの涙』第一回

 出勤途中、同じく通学中の学生さんのなんちゃない会話に耳をそばだてる。
 今日は、朝から涼しい風が吹いていた。駅の横の陸橋を渡っていた時、通り過ぎて行った男の子どうしの会話である。
 「これくらいが涼しくてちょうどいいな」
 「ああ、これなら走っても汗かかない」
 「走ったら汗はかくよ」
 「そうか? 俺はかかないけど」
 「俺はかくよ。冬でも走ったらかく」
 それだけの会話だけれども、ちょっと「秋らしいなあ」と思った。
 ちなみに私も冬だろうと走れば汗はかく。もっともそれは私が太っているからだが。
 こっちの日記でもたまにはこういうほのぼのした話題も書いてみたけど、いかがでしょうか(笑)。 


 とか何とか言いながら、また、殺伐とした話題。パキスタン地震について思うこと。
 発生から三日が経つが、被害はまだ拡大の一途を辿っている。こないだのアメリカのハリケーンと言い、世界規模でこうも自然災害が連続すると、ヒトコママンガじゃないが、「終末は近い」ってプラカードでも掲げたくなる気分だ。今が宗教の儲けどころか。
 やはり一番悲惨を感じてしまうのは同胞の死であって、イスラマバードの高層アパートで亡くなった国際協力機構(JICA)の楢原覚さんと、まだ2歳だった息子さんの輝ちゃんのニュースは、聞くだに暗澹たる気分に陥ってしまう。
もう十日ほど、地震が来なければ、二人は帰国して助かっていた。運命であるとしか言いようがないが、逆に、運良く助かった人もいるわけで、誰を恨むこともできないことがかえって恨めしい。「人間は何のために生まれてきたのか」なんて疑問を抱くだけ詮無いことである。
 奥さんの楢原ひろみさんは、地震発生直後に旦那さんにテーブルの下に突き飛ばされてかろうじて助かったと言う。けれど、こんなに辛いこともあるまい。いっそ、一緒に死にたかったと思いもするだろう。けれど、自分を助けてくれた夫の愛情を思えば、これは死ねない。本当の悲しみは、一生かかったって乗り越えられるような生半可なものではないのだ。
 神様なんていない。そんなことは分かっている。でも、いてほしいと切実に思うことがある。そして、髪に会うことができたらこう言ってやるのだ。「人間を将棋の駒にして遊ぶんじゃねえ」と。


 テレビドラマの新番組を立て続けに見る。
 『1リットルの涙』は、脊髄小脳変性症という難病で、若くして世を去った木藤亜也さんの日記が原作(ドラマでは、名前はそのままに名字だけ変えて「池内亜也」となっている)。昨年、映画にもなっていたのだが、全く気付いていなかった。
 だもんで、私もこれが実録の難病ものだとはついぞ気づかないままに見始めたのだが、主演の沢尻エリカが豆腐を落としたりつまずいたりする描写が重なるのを見て、「ああ、これはもしかすると失敗したか」と後悔した。ドキュメンタリーはまだしも、こういう難病ものの再現ドラマは苦手なのである。
 まさに沢尻エリカが、まだ自分の病気に気付かずに「私たちには時間があるんだから」なんてセリフを言うようないかにもな演出がイヤなんだが、一般的にはこういうドラマこそが「優良品」と評価されることも分からないではないのである。
 日ごろ、病人のことなど考えようともしない健常者のミナサマがたに、彼ら彼女らがいかに生きようとしているか、それを知る機会が与えられる、という点では「闘病ドラマ」というジャンルはあっていいのだろうとは思う。一部の病人が見世物や人身御供にされようが、募金が増えたり行政への働きかけがしやすくなる実利があるなら、我慢しようと考える病気の方々もおられると思う。
 しかし、そう現実的に考えながらも釈然としないのは、結局は「病人の本当の苦しみは、当人にしか分からない」という、これもまた一つのれっきとした「現実」があるからだ。
 ドラマを見た視聴者の多くが、涙を流すことだろう。全国の視聴者の涙を集めれば、それこそ1リットルどころではなくなると思う。けれどもその涙が、亜也さんの流した涙と同質であるはずがないのだ。
 多分、ドラマは、家族の愛に支えられながら亜也さんが病気に立ち向かっていく姿を描いていくことになるのだろう。その姿は恐らくは感動的で、人と人との絆を描く過程はきっと暖かいものであるに違いない。けれども、これまでもう数え切れないほどの「闘病ドラマ」を見てきて思うことは、それでもやはり病人は絶対的な「孤独」の中にいるということだ。その孤独は誰にも埋められない。だから病人はその孤独を人に気付かせないように、それこそ家族にすら悟られないように努力する。でもそうすればするほど孤独は弥増すしかないのだ。
 そこまで踏み入って病気を描いたドラマというのを私は寡聞にして知らない。描けるものではないという気もする。だから私は難病ものが苦手なのである。
でも、沢尻エリカと薬師丸ひろ子が凄くよかったので、次回もつい見ちゃうとは思うけれど。

 続けて『鬼嫁日記』。
 タイトルほどに観月ありさはオニヨメではなくって、健気で可愛かったりする。旦那に「焼肉食いたいから早く帰れ」って言うのも、本当はやっぱり愛してるから、って雰囲気だし。あれならうちのしげの方がよっぽどオニヨメなのである。事実。

 『タモリのジャポニカ』。
 第1回は、敬語の間違いをいろいろ確認してみようって内容。解説が金田一秀穂さんだから、どうしても『世界一受けたい授業』のスピンオフ番組のように見えてしまうのがネックか。
 だいたい、いくら「この敬語は間違ってる」と主張したって、今やそれを恥とも思わないどころか「言葉は時代によって変化するんだから」と開き直る御仁の方が多い時代になっているのである。松嶋尚美はやっぱり「よろしかったですか?」を違和感なく受け取っていたけれど、言語感覚がぶっ壊れている人間に「間違いですよ」と言ったって理解不能なんである。こういうのは小学生までで何とかしとかなきゃ大人になってからじゃもう無理なんでね。

 このへんのドラマをずっと見てたので、裏番組の『終戦60年ドラマスペシャル 日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ』は録画。
 夜中になって見始めたので、前半までしか見られず寝る。
 以前、杉原千畝を加藤剛が演じたのと比べると、反町隆史と飯島直子の夫婦愛を全面に出した印象である。
 けれど、後半見る時間が取れるかなあ。

2002年10月11日(金) 呪う女(・・;)/『お笑い創価学会』(佐高信・テリー伊藤)/『世紀末リーダー伝たけし!』1巻(島袋光年)ほか
2001年10月11日(木) なぁじぃかは、知ぃらねぇどぉ♪/『ナジカ電撃作戦』第1話「華麗なるエージェントは 一輪の薔薇と共に」ほか
2000年10月11日(水) スパイと台湾論とこげぱんと/『こげぱん』(たかはしみき)ほか


2005年10月10日(月) 休日の朝は寝てるってば/『名探偵博覧会�機/神皀襯僖鸞丱曄璽爛此戞憤科嫗鵝�

 体育の日であるが、一日寝転がって過ごす。
 朝方、改装工事がひと段落付いたようで、ベランダから作業員の人たちの声が聞こえる。
 「藤原さーん」
 いや、驚いたと言うか呆れてしまったのだが、玄関先でもない三階のベランダからこうやって人を呼び出したりすることに、この人たちは何の躊躇もないのかね。返事をすれば当然こちらはベランダまで出て、何やら会話をしなければならなくなるわけだが、それは全部ご近所にまる聞こえになってしまうではないか。
 もともと布団の中で寝入っていたのを起こされもしたので、気分も悪い。どうせ話の内容も見当が付く。これまで塗装工事をするので、ずっとベランダに置いていた倉庫を吊るしていたので、それを元に戻すぞという連絡なのだろう。けれどそういうのは前日か前々日にでも、事前連絡してやるもんだろう。朝っぱらからいきなり人を叩き起こしてやるもんじゃない。
 むかっ腹を立てて無視していると、「いいよ、窓、叩いちゃえよ」との声。途端にあっちの窓、こっちの窓をドンドンドンと叩き始めた。「藤原さーん、藤原さーん」「寝てんだな、こりゃ」。
おう、寝てるともさ(怒)。
 工事人ってのはみんなこんな礼儀知らずどもなのかもしれないが、それにしたってひどい。だいたい、この倉庫を吊るすのだって、最初は「家の中に入れろ」だの、「引っ越しセンターに頼んで金出して預かってもらえ」だの、勝手な要求ばかりしてきていたのだ。こっちが「無理だ」と突っぱねたので、中身だけ部屋の中に移して、ようやく、ベランダに吊るして作業に入らせたのである。最初からそうすればいいのに、やたら手間を惜しむのだから始末に悪い。
 どうやら連中は、倉庫の下に敷いていた煉瓦の位置が分からずに、聞こうとしていたものらしい。「このへんじゃないか」とか声がする。自分たちでずらしたんだから、それくらい覚えておけと言うのだ。
 しばらく経って、外を覗いてみると、倉庫もクーラーの室外機も全部元の位置に戻してあった。結局、こちらが一緒にいなけりゃならない意味は特になかったようである。
 だから事前に連絡を入れるくらいの礼儀は知っておけ。


 どこぞにアドレスを知られてしまったのか、またスパムメールが来る。昔みたいに一日何十通ということではなくなったから、そんなに困りはしないのだけれど、これから増えるようであれば、受信拒否とか対策を取らなきゃならなくなるかな。
 
〉突然メールしてしまいましたが、最後まで読んで頂くと嬉しいです。一般的に言われる迷惑メールの類とは違い、会員(女性)自身が個々に送っているのですが、迷惑でしたらお詫びさせて頂きます。
〉http://www.dynamite-×××
〉※本日貴方宛にメールが届いている事が確認されましたので、条約により本文を転送させて頂きました。本文をご確認の上、最適な選択をお願い致します。
〉本文転送:
------------------------------------------------------------
〉ゆぃ 28歳です。
〉はじめまして〜!普段はしっかり仕事してます。身長は158�僂修梁召枠詭�…かなぁ(笑)でも以前「バドガール」の経験ありますよ〜!見た目でガッカリさせることはないと思いますから安心してください。実家在住なので、親に迷惑かけずに楽しく遊べたらと思い
ます。平日仕事をしていますので夕方から夜に掛けてがいいです。特に週末は出やすいかなぁ。メールでご挨拶の後にお互い良ければ最初は食事からお願いします。それではヨロシクです〜!
------------------------------------------------------------
〉※女性の直メッセージにてアドレスの確認ができますので、最初は〇無料登録〇をお願い致します。
〉http://www.dynamite×××
〉簡単な名前検索次第、直メやり取りが可能となります。なお、希望をされない場合は
〉nomore@lovegal×××
〉までお願いします。至急、配信停止の手続きをとらせていただきます。

 あっ、配信停止のアドレス見ると、やっぱり「Lonegal」だ。これで「迷惑メールの類とは違い、会員(女性)自身が個々に送っている」なんて大ウソをよくもコケるもんだ。
 しかし、「バドガール」というのも、オトコを誘うアイテムとして機能してるんだなあと、変なところに感心。
 何度か書いてるけど、コスプレとかそういうの、私ゃ一つの文化的現象としてしか興味がないのよ。もし私にそっち方面の趣味があるんなら、女房を意地でも痩せさせてコスプレさせてるって(笑)。今のしげにはドラミちゃんのコスプレしかできんわ。


 夕方、アニメ『ブラック・ジャック』。『名探偵コナン』など。
 『ブラック・ジャック』は『ピノコ誕生』で、手塚真が脚本を担当。短編を30分に伸ばすのだから、原作にないエピソードがちょこちょこと加わるのだが、まだ体をうまく動かせないピノコが火事に怯えるとか、何かどうもわざとらしいのが多くてね。ピノコが寝てる傍にブラック・ジャックがパイプを置き忘れるとか、ちょっとウカツすぎるんじゃないかね。パチンコして車中に子供置き去りにする馬鹿親みたいじゃないか。
 それとよく分からんのは、嚢種のころのピノコ、声を日高のり子が当ててたんだけれど、どうして水谷優子にさせないのかね?
 相変わらず、そこそこにつまんないんだけれど、こんなんで映画版はちゃんとしたものに仕上がるんだろうか。 


 夜、9時からパピヨンプラザのロイヤルホストで、次回公演の顔合わせ。
 先々週、ホントはキャストが一堂に会する予定だったのが、ドタキャンが相次いで、二人しか集まらなかったという涙がちょちょぎれる事態になっちゃったので、今回が仕切り直しである。
 先日も集まっていただいたKさんWさんに加え、今日は細川嬢、小林嬢、堤さんにラクーンドッグさんも来られる。あと一人見えられる予定だったのだが、20分過ぎてもいらっしゃらないし連絡もない。堤さんが連絡を取ると、「日にちを間違えていた」とのこと。こないだのことがあったから、「連絡は確実に」としげに何度も念を押していたのに、確認を怠っていたのである。そもそもメールアドレスだけで電話番号を確認していなかったのだから、しげが手を抜いていたのは紛れもない事実で、言い訳のできることではない。せわしないのは分かるけれど、それをやれなきゃ公演を打つ意味がないのである。
 と言いつつ、こちらもまだ台本が未完成なので、みなさんには自己紹介とスケジュールの確認およびキャスト希望の連絡をするのみ。どうやらキャストは11人まで集まりそうである。あっとひっとりっ♪
 福岡近辺にお住みの方で、3月11日(土)・12日(日)、一緒に舞台に立ちましょうって方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。


 芦辺拓『名探偵博覧会�機/神皀襯僖鸞丱曄璽爛此戞柄聾疑簍�文庫)。
 映画『ルパン』に便乗したのか、ようやく文庫本になった。映画の方はそんなにヒットしてないみたいだから、小説の方も売れるかどうか分からないけれども。まあ、こういうパスティーシュ(模倣作)よりも、モーリス・ルブランのオリジナルの方を若い人には読んでもらいたいけれどもね。
 一応は文庫化を待ち望んでいたので、喜び勇んで読んだのだけれど、何と言うか、一読して困っちゃってね。嬉しい部分と悲しい部分が相半ばするというか。
 「モーリス・ルブランの『ルパン対ホームズ』は偽作だ」とか、ルパンのライバル・ガニマール警部と『ルパンの冒険』のゲルシャールは別人だとか、作者独自の解釈はそれなりに面白い。
 特に、「なかなか上手い」と思ったのは、ルパンとホームズが初めてまみえるあたりの「趣向」である。これには思わずニヤリとさせられた。恐らくは、かなりなルパンファン、ホームズファンでも(いや、だからこそ)、かえってこの「趣向」には引っかかってしまう人も多いのではなかろうか(一応、私は引っかかりませんでしたが)。このあたりの「描写」からも、作者がそれぞれのシリーズを結構読み込んでいることは充分に伺えるので、ルパンやホームズのキャラクターをよく生かしている点については、ある程度の評価はしたいと思うのだ。
 けれど、メインストーリーとなると、これががどうにも今ひとつなのである。
 舞台をパリ万博に設定し、川上音二郎・貞奴夫妻を登場させるなど、実在人物を絡める手法もこういうパスティーシュものの定番で、「日本人には」受ける趣向になっている。けど、外人さんに「サダヤッコ」と言って、どれだけ通じるのかね? ピカソが貞奴のスケッチを遺しているのは事実だけれども、そのことを知っている海外のミステリファンがいるものかどうか。
 つまりこの小説の弱点は、外国語訳されてもそんな趣向は全然ガイジンさんには分からないってことだったりする。つまりやっぱ「内輪受け」なんだわな。
 まあ、内輪受けだろうがなんだろうが、肝心の事件と謎解きが面白けりゃ、文句はないんだけれども、これがもう、ルパンとホームズの金看板を背負っといて、こんなチャチな事件かよ、と悲しくなるようなシロモノなのよ(涙)。
 ルパンの師匠が、実は実在の「あの人である」という点がメイントリックに深く関わっていて、それが誰なのかをわざと最後まで隠しているのだが、隠しているからこそ、これが謎を解くヒントになると逆にバレてしまう。つか、超有名人だから、ちょっとした表現で、すぐに誰なのか見当がつくんだよ(涙)。全く、なんで今更、こんなありふれたトリックを臆面もなく使えるのかね。
 トリックもチャチだけど、そもそも語り口のヘタクソさが小説をつまんなくしているのだ。芦部さんの小説、基本アイデアはいいんだけど、文章でいつも損をしている。なんか初期の高木彬光みたいなんだよね。
 一応、ホームズやルパンを読み出した中高生は楽しめるかも、ということで限定付きのお勧めね。長年のルパンファン・ホームズファンほか、ミステリファンにはお勧めしません。

2002年10月10日(木) ゴミとゴミとゴミの間に/『とむらい機関車』(大阪圭吉)ほか
2001年10月10日(水) 新番レポート復活!/アニメ『テニスの王子様』&『ヒカルの碁』第1話
2000年10月10日(火) 失敗合戦と治らないケガと異父兄妹と/『ムーミン谷への旅 トーペ・ヤンソンとムーミンの世界』


2005年10月09日(日) 腹へりスズメ/『仮面ライダー響鬼』三十五之巻 「惑わす天使」

 『仮面ライダー響鬼』三十五之巻 「惑わす天使」。
 プロデューサー&脚本家変更の騒動も、一月半もすればかなり沈静化してくる。まだまだあちこちでくすぶってる感じはあるけれども、そろそろ半可通なオタク諸君も虚心坦懐に物語を見るくらいの心の広さを持ってもいいんじゃないかと思う。なんかもーね、30話以降否定派の人たちの文章って、内容よりもその筆致がムキになってるって言うか、ヒステリックで見てらんない。
 今更、例の『エヴァンゲリオン』騒動を引き合いに出すのも何なんだけれど、ある作品にハマっちゃうと、視聴者は自分の作品に対する好悪の感情が、善悪の判断にスライドされてることに気が付かなくなるものなんだよね。何かを好きになることがいけない、なんてことを言うつもりはないけれど、感情の暴走を抑制するための「もう一人の自分」は心の中に置いとかないと、実生活を送る上で、いろいろヤバいんじゃないか。私が自分自身もオタクだと認めながらもオタク批判を往々にして口にするのは、オタクと呼ばれる人々の大半が相手との会話のフィールドを作る努力を怠っていることを経験的に知っているからである。濃い人薄い人、プロ・アマを問わずにね。いやもう、みんなただの「ワガママ」野郎ばかりだわ。

 「はてな」の「井上脚本」の項目にはこう書いてある。

> 脚本家井上敏樹氏の書いた脚本。
> 特撮番組、それも平成ライダーの時の井上脚本には、カット割りから、挿入されるSE(効果音)、役者の衣装など、演出に関わる事柄が全て指定されている、と思い込んでいる人がたまにいる。そういう人たちはキャラクタやアイテムのデザインすら井上氏が決めているのだと思っていたりもする。

 「井上が」「御大が」とか言ってる連中は、一般人からは「そういう見られ方」をしてるんだけど、全然気付いてないんだろうなあ。
ついでに「ウィキペディア」の井上敏樹解説にはこうある。

〉 「シナリオは映像のための設計図に過ぎない」が持論で、脚本ではそのシーンの大意を示すにとどめ、セリフの解釈(そこに込められた登場人物の感情の機微など)などの詳細は演出家や俳優・声優に委ねるという執筆スタイルをとる。

 緊急招聘の途中参加であるから、今回の脚本も、監督に投げ渡しされたと思しいし、現場での変更も結構あったと思う。すぐに「井上が」と責任を脚本家にのみ押し付けようとする連中は、それだけで既に常軌を逸しているのである。

 まあ、そういう周辺事情はともかく、作品自体は確かにどんどんイカレた展開になっている。29話までも話が異様に進まなくて「この物語はいったいどこに行こうとしているのか」と不安に思っていたものだったが、別の意味で今の『響鬼』はどこに行こうとしているかよく分からない。もしかしたらプロデューサーも脚本家も、「どうにでもなれ」と思いながらやってるのかもね。
 最近、登場人物が次々にギャグキャラになってく大海嘯にザンキもイブキも飲みこまれてしまった。腐海に沈まずにすむやつはいないっつーか、何だか本当に『ゴレンジャー』が『ゴレンジャーごっこ』になっちまったようである。
 でも、ザンキがトドロキに恋のアドバイスをして失敗するのは「おれは数々の女性を愛してきた男だ。それこそ鬼のようにな」「オレは今恋の地獄にいる」などのイカレた発言が楽しかったので、これは許す(偉そうに)。シリアスなザンキさんがお好みのファンはどうせまた「私のザンキさんを返して!」と叫ぶんだろうが、知ったことか。もともとザンキは、「こいつは何だって一人だけカッコつけてやがんだ」というギャグに転ぶギリギリの線にいるキャラクターだったから、これで立場がスッキリしたというもんである。これと、モッチーのラブレターが実は勘違いだったというのは想定内だったので、ショックはない(笑)。
 けれど、イブキが、香須美がほかの男と付き合ってると勘違いするのはかなりムリがあった。遠目で見たって下條アトムはすぐに分かる(笑)。こういうのは実写じゃ向かないベタギャグである。
 井上敏樹の実写脚本の何が腹立たしかったって、子供向けにリテイクするとかいう以前に、「アニメのギャグは実写では通用しない」ということがまだ理解できていないとこなんだよね。子供番組脚本に徹していても、お父つぁんはそんなつまんないギャグは書いてこなかったと思うぞ。
 この「糞ギャグ化ハリケーン」に巻き込まれずにすんでるのは今んところあきらくらいのもんじゃないかと思うが、これはこれまでの展開を井上敏樹が見てきて、「これはイジれない」と判断したってことなのかもしれない。もちろんこれから先、どう転んでいくかは分かんないわけであるが。ああ、ヒビキさんは元からギャグキャラなので問題なし。
 しかしアンチ派の細かい粗探しやツッコミは無視して構わないと思うが、テコ入れ&新展開のためにPD&脚本家交代したはずなのに、話が進んでないことの方は問題にしなきゃならないんじゃないかな。来週は「変身忍者嵐」が登場するようだが、そんなふうに遊んでる余裕はあるんかいな。こういうので喜ぶオタクだってあまりいないと思うけどねえ。
 ……と思ってネット上を検索してみたら、意外に同年代の連中で喜んでるやつらが結構いたので驚いた。もう何だっていいんだな(笑)。


 テレビ見たり本読んだり台本書いたりして過ごしたけど、ちょっと疲れたので今日は内容は省く。
 夜になって、しげが、「ひもじいよう、豪勢な食事がしたいよう、寿司が食いたいよう」と駄々をこねるが、そんな余裕は我が家にはもうない。「父ちゃんにたかろうよ」と言うので「あほか」と一喝した。来週、一緒に旅行に行く予定なので、既にたかることは決まっているのである。2週も続けて親にたかれんわい。
 ということで、今日の晩飯は私の作ったスパゲティだったのだが、食い終わった後で父から「飯は食ったか?」と電話があった。ああ、もうちょっと食事するの待てば寿司がたかれたのに。……って、やっぱり私もひもじかったんかい(笑)。 

2002年10月09日(水) また騒ぎ方が違うんじゃないかって話/『青少年のための江口寿史入門』(江口寿史監修)ほか
2001年10月09日(火) 探偵小説ネタ多し。ついて来れる方、求む/『死神探偵と憂鬱温泉』(斎藤岬)ほか
2000年10月09日(月) 女って癒してもらう対象ではないよな/『鉄槌!』(いしかわじゅん)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)