昨日、
この映画『20feet from stardom/バックコーラスの歌姫たち』を観た。
試写会です。公開は12月。ずいぶんと先だ〜〜。
バックコーラスとして生きる人たちを描いたドキュメンタリー。もっと濃厚に人生が描かれてるかな?と思ったら、意外とアッサリ。でもすごくリアリティある。
スターとして表に立つ人とバックコーラスとして立つ人の差が描かれる。
その差はナンだろう?
スティングが「エゴ」と一言。強い自分。自信。
リサ・フィッシャーというバックコーラスの女性がいて、彼女はすんばらしい歌声でソロ・デビューを飾り、ヒットを飛ばして、グラミーも獲った。でも次が続かなかった。それでまたバック・コーラスに戻った。回りの仲間は「彼女は優しすぎたのよ」という。
そうなんだよね。やさしくて、周りをおもんばかって、なんて人はスターになれない。周りをなぎ倒していく人じゃないと難しい。
でもブルース・スプリングスティーンはそういうバック・コーラスの人のショーに出てきて、自らバック・コーラスをしてたり、いい人に見えた。。。言ってることも彼女らを誉め称え、すごい人格者に見えた。
ブルース・スプリングスティーンも周りをなぎ倒していくような人なんだろうか?
あと、60年代、フィル・スペクターなんかは彼女ら黒人バック・コーラスの女性たちを「道具」にしか見てなくて、騙してまて口パクの道具に使った。ソニー・ボノはティナ・ターナーのバック・コーラスの女性たちに「男を興奮させる衣装」を強要し、踊らせた。でも、そういう彼女たちを解放して、「好きに歌って」といったのは、70年代のイギリスのロック・ミュージシャンたちで、ツェッペリンやストーンズやボウイだった、というのはヘ〜〜〜と思った。特にボウイはゴスペルコーラスを再現させてバックコーラスに使い、当時はすごい先鋭的だったらしい。ボウイの評価バカ上がりだわ。
バック・コーラスで歌がうまければ安泰、ってこともなくて。もういらないとクビを切られて、今は教師をやってる人もいる。かつては脚光を浴びたこともあっても。
マイコーの映画「ディス・イズ・イット」の中でマイコーとデュエットしてたジュディス・ヒルは映画で脚光を浴び、私は自分の立ち位置は自分で決めるのと、最初はソロで!!とがんばっていたけど、やはり難しくて今はバックコーラスもやってる。カイリー・ミノーグの後ろでカツラをかぶって歌ってたら、ツイッターで叩かれたって。。。。
エゴと自信を持っても、それを周囲が認めなきゃ、ダメなんだ。。。
叩きのめされ、軽く扱われ、バカにされ。。。。
でも歌い続ける。
時には奇跡もおきる。フィル・スペクターに口パクの道具にされ、それに反抗して業界から干され、一度はあきらめ、家政婦をやっていてダーレン・ラヴはその後復帰して、ロックの殿堂入りを果たした。
そのスピーチでダーレンは号泣してた。
でも。。。。。
その映画のチラシ。
きのうもらったけど、表側に大きく名前が描かれてるのは、
「彼女たちと共演したアーティストたち」
肝心の「彼女たち」の名前は後ろに小さく書いてあるだけ。映画の主役なのに。
バックコーラスは永遠にバックコーラス。。。その現実を、この映画自体が突きつける。
でもって。。。
私たちの99%もバックコーラスだ。エゴを出そうと、自信を持とうと持たないと。バックコーラスの人生を歩む。やっぱり、立ち居地は自分じゃ決められない。
うんざりしたり。時には笑ったり。食べ過ぎたり。飲みすぎたり。ツイッターでバカ吐いたり。
でも、ま、自由だからいいか、とか思ったり。この映画の主人公そのままだ。
あ。。。。最高のバックコーラスはこいつかもしれん(笑)。
↓しつこく出す!
PS:トロさんの今朝のメルマガ、、、↓勝手に転載。
夕方ぶらっと散歩して西友で買い物。
ツイッター見ると中村うさぎ心肺停止(報道ではその後、
意識を取り戻したようだ)についての呟きがたくさん。
生死の境にいる人を放っといてやることはできないのか。
それぞれに思いはあるとしても、
見ず知らずの人間がいちいち呟かずにいられないところに、
何かどろどろした欲望の噴出を感じる。
・・・いつもはトロさんのメルマガに賛同するが、これは違うよ〜と言いたい。うさぎファンとして思うのは、うさぎ先生は、自らの生死さえも祭のように騒ぎ、面白がり、ツイートしてほしがる人だと思う。それが、うさぎ先生という業なのだと。うさぎ先生は朦朧とする意識の中で、ツイッターガうさぎ祭だと聞いたら、ニヤリと笑う人だと思う。
その、とんでもない毒々しい業を、私は愛する。