心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年09月17日(土) 運動会

小学生の子供の運動会に行きました。
二人とも「かけっこ」があって、「ダンス」があって、「綱引き」があります。
ハンディー・カムコーダーには興味がないので、自分で機種選定したわけではないのですが、すごいズームで、遠くにいる子供も、まるで近くにいるかのように引き寄せてくれます。
が、慣れていないので、映している子供が本当に自分の子供か自信がありません。ときどきファインダーから目を離して目視で確認しようとするのですが、近視の目には遠すぎてわかりません。
そして、ファインダーから目を離すたびに、カメラがお辞儀をして(下を向いて)しまうので、帰ってから見てみると地面を撮影していたりします。
思えば、こんなふうにフルに運動会に参加するのは初めてかも。
いつも、ちょっと顔を出しているぐらいだからね。

実家では稲刈りが行われていたみたいですが、大学生になった甥が活躍してくれたおかげで、おおかた済んだと母から電話がありました。

眠いです。いくら寝ても眠い。こんなに眠れるもんかと思うぐらい眠いです。
運動会から帰ってきた子供と昼寝して、これからまた寝るんであります。

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通勤しながら昼のFM放送を聞いている。
今日もしのじゅんが葉書を読んでいた。
「女性に、今度食事に誘ってくださいって言われたんだけど、僕に気があるのかな? ねえ、しのじゅん、女性の立場から教えて」
「うーん、8割は脈なしだねー。でもね、10割、いや9.9にしとくか、9.9割、君は彼女のことが好きになる」

そうかもしんない。「今度食事に誘ってください」って女性に言われたら、やっぱり「僕に気があるのかな」って気になって、気になってしまうともう好きになってしまって・・・。数少ない例外を除けば、きっと好きになってしまうんだろう。

女性の、「今度食事に誘ってください」は、すごい武器だと思う。


2005年09月16日(金) 4連休

寝る前にお祈りをしなかったせいでしょうか。
起きてみるとふらふらでした。
といわけで、お休みであります。

7月半ばに復職して、最初の一ヶ月は休みなしに行ったものの、次の1ヶ月は休みが2回。今回はもう3回目であります。しかも、3連休とくっつけちゃったから、4連休であります。

正直しんどいのですが、しんどいからと言って、医者に頼んでなんとかなるというものでもありません。「仕事しないで休みなさい」と言われるのがオチでありましょう。

夕方まで寝ました。

ニュース検索のスクリプトをいじりました。
毎日新聞の検索フォーマットが変わっていたので、その部分は作り直しです。日刊ゲンダイを検索対象に加えました。春にはまだ日刊ゲンダイのサイトに検索フォームが残っていたと思うのですが、すでにないのでMSNサーチの結果を使っています。
固い新聞ばかりではなくしてみようという意図であります。

アルコール依存・薬物依存・ギャンブル依存・摂食障害関連 と4ジャンルに分けてみました。

重複している記事や、リンク先がなくなっている記事、まったく無関係な記事、いろいろあると思いますが、自動検索の限界ですので、ごかんべんください。

明日は子供たちの運動会。朝からビデオカメラとディジカメと弁当とレジャーシートを持っておでかけであります。午後までみっちりあるので、倒れないか不安であります。

自分自身の調子が悪いので、会社に電話かけたりするのにかまけていて、妻にアラノンに行ってくれるように頼むのを忘れていました。また、来週です。

マット・スカダーシリーズの最初の2冊が届いているのですが、読むのはかなり先になりそうです。かお君のブログを読んでます。

ねむい。


2005年09月15日(木) 睡眠

本当は毎週水曜日の診察のはずなのですが、一日遅れでいつものメンタルクリニックへ。

「特に変わったことはありませんでしたが、この前は夜寝る前の薬を飲まないで寝てしまいました。僕の睡眠中枢も少しは回復してきたみたいです。でも、一緒に飲んでいる安定剤も飲まなかったせいでしょうか、翌日の夕方にはリバウンドでも来たのかイライラしました」

という僕の報告に、主治医は「○○○という薬の半減期が100時間。○○○という薬が12時間。だからその薬の効果が残っていて翌日眠れたとしても、ちっとも不思議ではないし、イライラはおそらくセパゾンのリバウンドというのは正解だろう」と答えたのでありました。

薬に頼らずに寝ることができた、なんて内心喜んでいたのですが、実はどっぷり薬に浸かっていることを再認識させられた一件でした。

セパゾンの前はメイラックスを使っていました。「あなたはアルコール依存があるから、安定剤は使いたくない」という主治医を説き伏せて2月に出してもらった薬であります。確かにその時は楽になったのですが、今度は切るのに苦労しています。メイラックスを、8月にセパゾン2mgに変えて、今日からセパゾン1mgと半分にします。このセパゾンを0にするときは、ちょっと辛い時期が待っているだろうなと予想しています。

あらためて、自分が医者の反対を押し切って働いていることの insanity に気が付かされます。
そういえば、社会保険業務センターにまた書類を出さないと行けません。なんかもう「加入要件」のところを集中的に攻められているので、年金の件は諦め気味であります。まあ、もう変えられないものは受け入れるしかないという「落ち着き」というより「諦念」に包まれております。

ニュース記事の検索スクリプトをまたいじっています。いつの間にか毎日新聞がごっそり抜けています。この機会に、アルコール依存以外に、薬物依存・ギャンブル依存・摂食障害の項目も設けるつもりでいます。

仕事もしてるけど、息抜きの合間に仕事をしているぐらいです。

最近の目標は、寝る前にお祈りをすることです。

ねむねむ。


2005年09月14日(水) もろもろ

Windowsには「アクティブデスクトップ」という機能があります。Win98のときに、鳴り物入りで登場したにも関わらず「単なるトラブルの元」だったために、Windowsマシンを供給されるたびに、真っ先にやる作業のひとつとして「アクティブデスクトップの機能を切る」というのがありました。

長野県内のライブカメラ というページを作ってあるのですが、俯瞰的に天気を把握するにはあんまり向いていないデザインになっています。そこで、アクティブデスクトップの機能を使い、デスクトップ上に、長野県内あちこちのライブカメラの映像と、気象協会のサイトからアメダスや気象レーダーのイメージを取ってきて貼り付けることにしました。
2分ごとに更新される僕のデスクトップは、天候を把握・予想するのに最適です(自画自賛)。名付けて「気象デスクトップ」というのを社内に自慢して歩きました。
「なかなかいいね、コピーしてくれないか。でも一週間ノートラブルだったらその後でいいや」と、過去にアクティブデスクトップに痛めつけられた連中は慎重であります。
おまけに、そんなにヒマなら仕事してくれと、仕事を押しつけられてしまいました。
気象デスクトップは1280x1024のサイズ向けに作られたHTMLファイルです。欲しい人はメールをください。添付ファイルで送ってあげますから。そのかわり、何が起きても知りませんよ。

さて、今日も定時退社する前に気象デスクトップを眺めると、県内ではちらほらと雨が降っています。長野県の西部には大きな山脈があり、正式名称は飛騨山脈というのですが、長野県人は間違ってもその名前は使いません。「北アルプス」と呼びます。富山県人が立山連峰と呼ぶ山脈も、長野県人にとっては「北アルプス」の一部に過ぎません。
その北アルプスの西側と北側には雨が降っています。こういう天候になっていることは結構多いものです。偏西風の影響ってやつでしょうか。

外へ出て夕方の高速道路を走っていくと、北アルプスを乗り越えた雲がこちらへとはみ出してきています。そうやって乗り越えてきた雲が県内に雨を降らせているのです。そして、水曜日のミーティング会場のあたりは、その影響を受けやすいところでもあります。
「いやー、間に合いましたよ」というのは、雨が降り出す前にオートバイで会場にたどり着いた仲間の言葉です。
(君に僕の気象デスクトップをあげよう)と思ったが黙っておきました。

仲間とビッグ・フット・フォーマットの続きをやりまして、今日はステップ2。「臨時のスポンサー」だと思っていたら、「そんなことはないよ」と否定されてしまいました。行方不明になっていた、マーカーがいっぱいついている文庫版のビッグ・ブックの所在がわかりました。でも大切に使ってもらっているみたいなので、そのままにしておきましょう。

テレビでNEETの特集をやっていました。僕も大学を中退して、入った会社も1年あまりで辞めて、フリーランスでも食い詰めて、学校にも・職場にも・職業訓練にもいない、という状態が続いた時期がありました。
母に飯を食わせてもらいながら、7月に線香を上げに行った同級生のことを話しました。


2005年09月13日(火) 10 years ago (3) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (3) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

土日を挟んで5日ぶりに仕事へ。
復帰後初めてまともな仕事をまかされました。まあ、腕試しといったところでしょうか。
ただVB6.0は僕の嫌いな言語のひとつで、そしてコメントもなく1万行をゆうに突破しているプロジェクトは「書いた本人にもわからない」泥沼化している可能性があって、前途は多難そうであります。
クリームさんノブログの7月分を読み終わりました。軽妙洒脱な文章であっというまに一月分を読み終わってしまいました(本当に褒めているのかこれ)。

さて、10年前。

サントリー・オールドの水割りでだんだん酔ってきた僕は、週刊文春や少年サンデーといった雑誌を読むだけの集中力を切らして来ました。
仙台で隣り座った人が、車内販売から弁当と酒を買いました。僕も同じ弁当を買い、それをきっかけに会話が始まりました。酒好きの人のようでした。会話ははずんでいたのですが、僕の記憶は途中でブラックアウトします。もうすぐ東京駅というところから、記憶を取り戻すのですが、その時は相手はすっかり機嫌を悪くしていて、到着とともに捨てぜりふを吐いて去っていきました。
何か悪いことをしてしまったのに、それが何かすらわからない不安。しかもそれが前夜のことではなく、つい数十分前の寝てもいない時間のことなのです。
飲んでいた頃の自分はしょっちゅうこうした記憶の喪失(ブラック・アウト)に悩まされていました。

意気消沈して新宿駅に着いた僕を待っていたのは、「あずさ」の指定席は本日はすべて売り切れという案内と、自由席に並ぶ人の長い列でした。
(このぶんでは甲府まで座れないな)
と思うと、長い列の後ろの方で待っているのが嫌になりました。
(次の電車にしよう)
と決めて、ふたたびオールドの水割りを買い直すと、駅のベンチに座り、少年サンデーを読み直しました。ふと気が着くと、次の列車の自由席待ちの列も、もうずいぶん長く伸びていました。
(もう一本次にしよう)
そう思って再びマンガに戻りました。そして例の不思議な記憶の空白がまた訪れました。

いつの間にか長野県まで行く特急電車は案内板から消え、甲府止まりだけになっていました。記憶が飛んでいる間に、ぜんぶの列車に乗り過ごしたようでした。どうやらまた大きな失敗をしでかしたようです。

選択肢はいくつかありました。
甲府止まりの特急列車に乗っていって、そこから各駅停車で長野県まで行く手段があります。ただ、甲府から長野行きがあるかどうか・・・もう遅い時間ですでにないような不安がありました。
深夜12時すぎに、長野へ向かう夜行の急行がありました。ただ、こいつのボックスシートは固く、とても寝られたものじゃないし、通路スペースは山登りをする連中が寝袋で占領してしまいます。
カプセルホテルで翌朝まで過ごしても手段もありました。とりあえず、カプセルホテルでも、ビジネスホテルでもいいから泊まろうか・・・。そう考えて無駄にしたキップで西口の改札をでて、新宿駅西口地下を歩いていると、タクシー待ちの列がありました。

(そうだタクシーがあるじゃん)
列に付いた時には、いくらかかるかなんて考えもしませんでした。タクシーは多く、客は少なく、僕の番はあっという間に来ました。
「長野の○○まで行けますか? いくらぐらいかかりますか?」
答えは長距離客は歓迎、たぶん3〜4万円ぐらいだけど行ってみないとわからないという返答でした。懐には会社から預かった十数万円が眠っています。
「酒を買いたいので、高速に乗る前に、コンビニに寄ってください」

自宅(実家)まで帰るつもりだったのですが、長野で高速道路から離れてあまり遠くまで行くと、帰り道がわからなくなると、タクシードライバーの泣き言を言い始めたので、会社の近くの駅へ向かうことにしました。そこからまた自宅までタクシーを拾えばいいや・・・。
でも、もう体が疲れていた僕は妙案(と思えたもの)を思いつきました。

先日結婚の挨拶に行った妻(になる人)の家に泊めてもらおう。
タクシーのメーターがはき出したレシートは7万円を超えていました。無駄だとは思ったのですが、会社宛に領収書をもらっておきました。
突然訪れたにもかからず、人の良い義父(になる人)は僕を快く迎え入れ、座敷に布団を引いてくれました。「酒を飲むんだねぇ」と驚いた様子でありました。
布団を出してもらって、ついでに日本酒とビールも出してもらって、飲んで寝ました。

翌日起きてみると、もう昼でした。かなりひどい二日酔いで、残っていたビールで迎え酒をすると、タクシーで会社に向かいました。「タクシー代は今月の給料日まで待ってください」と頼んだら、温情で半分会社でみてくれることになりました。そのかわり、「危なくてとても一人では出張にやれないヤツ」という評判をいただくことになりました。

でも実を言うと、まだまだ困ったトラブルは始まったばかりなのでありました。

(この項終わり)


2005年09月12日(月) 10 years ago (2) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (2) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

病院メッセージで会ったAAスポンサーに妻の入院の話をしたら、「3年・4年・5年の頃のソブラエティのまぶしい輝きも、7年・8年・9年とくりゃ薄れてくるもんだよ」と言われました。単に「人生に浮沈は当然」という事実を示しているに過ぎないのですが、ちょうどそのころに苦労したスポンサーの言葉には不思議な重みがあります。
それと、もう病院メッセージでしか会うことがなくなっても、やっぱりこの人は僕のスポンサーであり「先ゆく」経験ある仲間であるなぁ感じ直した次第です。

さて、大学病院の精神科の外来に、なんとか今日の最後の患者として受付をしてもらって、診察を受けました。自分が本人じゃなくて、家族の立場で診察室に座っているのは妙な気分です。「入院して休息を取りましょう」ということと「入院して薬をいろいろと変えて試して見ましょう」という納得できる診断でありました。当日から入院できる準備を整えていったのですが、ベッドが満床で1〜2週間待つ羽目になりました。
今日から主婦のいない生活を覚悟していただけに拍子抜けであります。

そういうことなら午後から仕事に行っても良かったのですが、ガストで食事を済ませたら無性に眠くなってしまい、夕方までぐっすり寝てしまいました。このように疲れがたまればぐっすり眠れるようになったので、そろそろ睡眠薬は抜いてもいい頃だと思うのですが、無事に復職が済んで、生活が安定を取り戻すまでは、医者もうんとは言わないだろうと思われるのです。

さて、10年前。

角館の街に唯一あるホテルに投宿した僕らは、さっそく夕食へと向かいました。
場所は居酒屋であります。メーカーの設備担当の3人は、仕事の話に夢中で僕にはさっぱりついていけず、一人でピッチ早く飲んでいました。30代だと思った有名な二人は、聞いてみるとすでに40代だそうで、確かに顔をよく見てみると、若そうではあるものの、目尻にしわが深く刻まれているのでありました。「家のことは妻に任せっきりで、近所に誰が住んでいるかも知らないよ」という言葉が印象に残りました。まあ、メーカーの設備担当で、しょっちゅうあっちへこっちへと飛び回っている仕事人間とはそういうものかもしれません。
その居酒屋の支払いを社費で済ませて、宿へ戻りました。
ホテルの自動販売機で缶ビールを買うのは僕だけでした。

翌朝、目覚ましをふたつかけたのにもかかわらず、僕は寝過ごしてしまい、1階のロビーに集合時間に現れない僕を心配して、ホテルの内線電話を鳴らされてやっと起きることができました。ですが、酷い二日酔いでバスルームに閉じこもらずを得ず、1階にいる3人を30分以上待たせてしまいました。
「今日は場所がわかんないだろうから置いていかなかったけど、明日は自分でタクシーで来てね」と皮肉を言われ、それはまさにそのとおりになるのでした。

高速道路の事故で遅れたはずの日通のトラックは、運ちゃんが驚異的な努力で時間を取り戻し、昼には機械が到着しました。

設置して通電し、あっちこっちのシステムのテストを済ませ、テストランを終わらせると、僕の本来の仕事はもう終わってしまいました。
あとは、こっちの下請けの社員に、この生産設備の使い方をトレーニングすれば、全員の仕事が終わって、翌日は角館観光を楽しむことだって考えられました。

昼食に行ったファミリーレストランのランチは、お米が「あきたこまち」でした。
「さすがに本場のお米はおいしいですね」と言うと、農家もやっているというそちらの社員は、「2年前の大不作の時には、あきたこまちは全部農協に供出してしまって、地元の農家はタイ米を食っていたもんだよ」と教えてくれました。
確かその年は僕の家(実家である農家)も限界まで供出させられ、翌年は増産のために休耕田を田んぼに戻すという作業を、禁断症状でぶるぶる震えながらやったことが思い出されました。でこぼこになった田んぼを平らにするために、田植え長靴を履き、鋤簾を持って、泥田の中をはい回った悪夢でした。

さて、何事もそう順調でないのは良くある話です。生産材の納入業者が長野と秋田では違うわけであります。そうすると生産設備に投入する材料も微妙に異なって、そのほんのわずかな違いのおかげで、機械が順調に動いてくれないという「良くあるパターン」にはまることになりました。

僕以外の3人は調整作業に忙しく働いていたのですが、僕は手持ちぶさたに工場の中をぶらぶら歩き回っていました。
「先に帰っていてもいいよ」と声をかけてくれたのですが、この3人に晩飯を食わせるというのも仕事のうちであります。待っていると調整が終わったのが、夜の2時半でありました。
夕食は一日前と同じ居酒屋に落ち着きました。
「俺たちは、どんなに遅くなっても一杯やる」というのが彼らのポリシーでありました。(他にも「禁煙車では移動しない」というポリシーもありました)。
そして僕は、酒にありつけさえすれば、何でも良かったのです。

翌朝、予定通り僕はホテルに置き去りにされ、タクシーで工場に駆けつけたのはお昼頃でした。機械は順調に動き始めていました。
「もう帰っていいよ」
と言われて、一日早く予定を切り上げて、一人先に帰ることになりました。
下請けの社長に角館の名所に寄ってから駅まで送ってもらいました。帰りの切符を買っても、まだ十数万円が僕の財布の中に残っていました。

内容的にはさんざんでしたが、一日早く帰れるのはうれしくてたまりませんでした。
サントリー・オールドの水割りの缶をいくつか買い込むと、秋の陽に照らされる東北の風景を見ながらちびりちびりと飲みました。なんだか多幸感につつまれて、何もかもがうまくいくような気がしたものです。

盛岡で新幹線に乗り換えるまでは、何の問題もありませんでした。仙台までは乗客も少なく、マンガ雑誌を読みながらゆったりと時間を過ごしていきました。

(明日へ続く)


2005年09月11日(日) 10 years ago (1) 〜 手遅れだと言われても、口笛�...

10 years ago (1) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

AAの30周年集会を前に倒れた仲間の話が伝わってきました。また、東京の仲間の訃報もありました(たぶん知らない人ですが)。人間いつかは死んでしまう。それは避けられないことです。でも、淋しくはなります。

うつでしんどかったのですが、病院メッセージに行きました。半年ぶりであります。以前は毎月通っていたこともあるのに、すっかり足が遠のいてしまいましたが、僕が最後に入院した病院であり、母校のような懐かしさすら感じます。

10年前の3月に僕はAAのメッセージ色の濃いミーティング会場に顔を出しました。生まれて初めてのAAでした。その会場を守っていた人のホームグループのミーティングに誘われ、僕は運転免許を取って初めて峠を越え、AAミーティングに定期的に通うようになり、飲まない生活を得るのですが、それも5ヶ月で失ってしまいました。

ミーティングに顔を出すたびに、「飲んじゃいました」という報告をし、黄色いワンデイメダルを何個ももらい、「もう要りませんから」といって断っていたりもしました。「飲んじゃった」を話すたびに、「ひいらぎからは大きな力をもらっているよ」と仲間から言われていたりしました。

あの頃、翌年3月の入院に向かって坂を転げ落ちていった10年前、ふとあの頃のことをできるだけ思い出してみようという気持ちになりました。というわけで、これから来年の春まで、断続的に「10 years ago」と題したシリーズを書いていくかもしれません。ちなみに、僕は佐野元春のファンではありません。副題はなんとなくであります。

8月にはもう再飲酒していましたから、9月にはもう仕事に行くのも苦痛な状態になっていました。その時に東北出張という仕事が舞い込んできました。生産設備の移設の話でありました。

ちょうど酒を止めていた5月頃、僕は地元の大手電器メーカーに液晶パネルの検査装置を納めていました。飲まずに電気(配線と制御)屋さんと打ち合わせをし、飲まずにメカ(機械)屋さんのところで調整をしたおかげで、僕のたずさわった機械の中では珍しくノートラブルで立ち上がった機械でした。

その設備を秋田の角館にある下請け会社に移管するという仕事でありました。もっとも、機械自体は大きな物じゃないので、分解せずに日通のトラックに収まるおかげで、現地で調整作業は不要でした。僕がついていくのは「何かトラブルがあった時のための保険」であり、「なにかあった時に長野から呼び寄せたのでは遅い」から付いてこいという指令でありました。

僕にとっては3泊4日、東北へぶらぶらしに行くだけの出張になりそうでした。主治医に話すと「角館は東北の小京都と呼ばれて、いいところですよ」と教えてくれました。

設備移設担当者は、その大手メーカーの中でも設備担当の遊軍として有名な二人組でありました。僕が勤める会社の社長は、この二人に随行する僕に「接待をしろ」「営業をかけろ」という業務命令を下したのでありました。

もっとも、営業が専門の僕じゃありませんから、そんな高度な営業ができるわけもなく、ただ「酒を飲ませ」「飯を食わせ」て、仕事の話をしてくればいいというだけのことでした。

社費として必要経費の他に、十数万円の現金を預かりました。それまでは、雑誌の取材で行ったSという関西系のメーカーの栃木工場が「最北の地」でしたから、見知らぬ秋田の地に胸躍らせて出かけたのでありました。

当日朝、ターミナル駅に全員集合し、特急「あずさ」の指定席に収まった一行4人(例の二人に下っ端一人、それに僕)は、僕が気を利かせて買ったビールのロング缶で乾杯しました。もっとも、気が利いていると思っていたのは僕だけかも知れません。でも、その日は移動だけで終わるわけですから、列車の中でビールを飲むのは自然なことだと思ったのです。そして僕だけが、車内販売で追加のビールを買って飲みました。

東京駅へ移動して、東北新幹線に乗り換えでした。そこでも僕はビールのロング缶を4本買って皆に配ろうとしたのですが「ビールはもう要らないよ」と断られてしまい、結局一人で全部飲むことにしたのでした。

まだ携帯電話が一般化する前のことで、乗り換えのたびに会社に連絡をして、なにか連絡がないかポーリングする時代でした。

中央道でガラスを積載したトラックが横転し、ガラス片が上下線ともに散らばって通行止めになり、我々の機械を載せた日通のトラックも、高速道路から降りることもできないまま立ち往生をしているという情報が伝わってきました。

盛岡で特急に乗り換え、角館の駅を降りた一行の中で、僕一人だけが泥酔状態でした。でも、僕にとってはそれが一番自然な状態だったのです。

(続く)


2005年09月10日(土) 早々

AAの地区委員会。
その前の時間を利用して、今度ステップ4・5をする仲間のために、ステップ1・2・3をおさらいしておこうということで、ビッグ・フット・フォーマットを使って二人で読み合わせをしました。45分くらいかけてステップ1をやりました。

途中で委員会のメンバーがやってきましたが、そのまま続行。たった二人で立っては「それでは、思い通りに生きていけなくなったことを認めますか」「はい」「はい」「それでは座ってください」とかやっているので、ちょっと恥ずかしいのですが、本人たちは至ってまじめなのであります。

委員会では来年の書記の立候補もあって、安心でありました。

明日は病院メッセージ。6月は休んでしまったんで、半年ぶりであります。一応行く前に投票はすませておくつもり。誰に投票するかももう決まっています。

「良くそんな状態でも飲まずにやってるじゃない。それこそハイヤーパワーの働いているしるしだよ。自分の力で飲まないでいるんだったら、もうとっくに飲んじゃってるよ」という言葉を思い出させてもらいました。

うつ状態だから明日もきっとろくな話はできないでしょう。でも、まあ何よりも自分自身のため、行動を伴わない信仰は死んだ信仰。高く評価されないのが当たり前。

おやすみなさい。


2005年09月09日(金) 妻の入院

ともかくこの雑文を10分か15分で書き上げて、眼科医に出かけなければならないと思っているのですが、どうなるかわかりません。

まず僕の生活リズムですが、半日の仕事から帰ってくると、疲れで横になるとすぐに眠くなってしまい、夕食に起こされて、食べてからまた寝て、妻が子供を風呂に入れ終わったところでまた起こされて、入浴してやっと頭が多少すっきりし、少しだけ子供と話をしたり、それからパソコン部屋に向かって、仕事とも言えない会社での作業の続きをしたり、ブログを書いたり、雑記をアップデートしたりということをすませ、夜半から明け方までのどこかで寝て、起きるのは朝10時〜11時半という生活であります。

こんな風に2回寝る生活リズムになってしまっているのは、薬のバランスが悪いんだろうと医者に掛け合っているのですが、それは生活のリズムの問題であろうと取り合ってもらえていません。お盆前に薬を変えたばかりで、また変えるにはまだ時期が早すぎるということもあるのでしょうが。

朝は(僕の知らない間に)妻が子供たち二人を起こして朝食をすませて送り出すという生活だったのですが、うつで起きられなくなって、義母がやってきて3人を起こしてという「毎度のこと」が続いていました。しかし妻がなかなか起きられないために、汚い言葉の応報が朝っぱらから繰り広げられているという次第です。

その義母ですが、今週になってなぜか僕をも朝から起こすようになりました。これではまともに睡眠がとれないのでたまらんと言って、僕だけが2階で寝るように避難したのが木曜の朝からです。

妻のうつは悪化の一途をたどって・・・というわけではなくて、いままで何十回も繰り返されたのと同じことでした。また時期が過ぎれば良くなるだろうと踏んでいたのですが、事態はそれを許しませんでした。

金曜の朝、やっとなんとか妻を起こした義母が、わざわざ2階で別に寝ている僕を起こすと、憤懣やるかたないといった風情で「もう面倒見切れないからどこかに入院させてやって」と言うのでありました。
その後、妻が義母に話にいったのですが「さじを投げられちゃった」そうであります。

そんなわけで、一日会社は休みをもらって、妻を主治医のところへ連れて行きました。本人も入院を拒絶しているわけでもないし、外来でなかなか良くならないし、何より「支える家族が限界で休みを必要としている」ということで、あっさり入院が決まりました。
といっても、開業医の先生には入院設備がないので、紹介状を書いてもらうことになります。「どこがいい?」と聞いてくるところが先生らしいのですが、しばらく考えた末に地元の有名な精神病院は避けて大学病院の精神科にやっかいになることに決めました。
紹介状を書いてもらうのに15分ぐらいかかったでしょうか、その間に数人しか待っていなかった待合室は満室になってしまいました。少し先生忙しすぎるんじゃないですか?

月曜日に大学病院の外来に行くという連絡を入れ、ついでに会社も月曜日に休みますという連絡を入れ、そして帰宅するとちょうど妻の姉が訪れていたので、義母・義父・義姉にことの次第を話しました。義父は「夜ちゃんと寝れば、朝起きられないなんとことはないはずだ」と、相変わらず病気を認めようとしません。義姉は、皆の性格を熟知しているし、家から一歩離れたところから見られる立場でもあるので、まあなんとか話の筋道を付けてくれました。

うつで入院したからと言って特別いいことがあるわけでもないのはわかっていますが、ともかく義母の怒りは入院しないとおさまりそうにないし、義父は自分の娘が病気だと言うことを未だに認めたがらないのを乗り越えるには入院でもするのが手っ取り早いのかも知れません。

「迷惑かけてすまないねぇ」と妻は言うのですが、結婚当初にはこっちが精神病院に入院したという経緯があるので、「恩は十分売ってもらっているよ」と答えることにしておきます。

子供たちは、ママの入院には抵抗がなかったみたいですが、自分たちの身柄がババのところに預けられると知った時からすこぶる機嫌が悪いです。

僕自身のうつの状態も決して良いとは言えない状況。

決して質の高いソブラエティを送っている僕ではないですが、そんな僕に神様が投げてよこすボールは、だんだん難しいボールが増えてくるような気がします。「ひとつひとつ解決していく」それしかないのだということでしょう。

熱を出した娘の希望で、プリンを買いに行ってきます。

退院したら妻はアラノンに通うかも知れません。


2005年09月07日(水) お疲れ

おとといであったか、帰宅してみると社会保険事務センターから手紙が届いていて、さらに「医師の証明を受けてください」という書類が同封されていました。おまけに、これにより障害年金の審査がまた遅れることになるよ、という呪いの言葉まで書かれてありました。

妻のうつの調子が悪いです。
だいたい学校の行事が何かあると悪くなることになっています。
今年の夏から、僕が代われるものは代わって出席することにしました。
授業参観・PTA・児童館のバスハイク・水泳参観・PTAの子供祭り、そのたびにお母さんたちに混じって僕が参加していました。まあ、父親が顔を見せていることもそんなに珍しくはないので、浮いてはいないと思いますが・・・。
しかし、昨日は「緊急時の児童引き渡し訓練」で、学校までいって子供と一緒に帰ってくるだけのことだからと油断して妻に任せてしまいました。
が、やっぱり直前には心因反応がでて行けなかったらしいです。
こうなると一週間近くは家事になりません。

このままでいくと、後から申請した妻の障害年金のほうが先に通るかも知れません。
「うちって普通じゃないのかなぁ」という妻の問いに、「うーん、無理に普通にしようと思うと苦しくなるのは自分だと思うぞ」と答えたら、「やっぱり普通じゃないんだ」という返事でした。

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