心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年12月25日(日) 寝る連休

3連休は「寝て、寝て、また寝て」しまいました。
12月初めごろから、仕事に行くために、ドリンク剤(ウコンの力というやつと、ショコラBB)を毎日常飲していました。僕の考えでは、ドリンク剤というのは、エネルギーを発生させる道具ではなく、枯渇しつつある体のエネルギーを搾り取る道具のような気がします。
飲んでいるときは体が動いて良いのですが、限界まで酷使された肉体と頭脳は、後で必ずそのぶんの休みを要求します。
飲み続けるのを止めれば体が動かなくなるのが怖いので、飲み続けるわけです。いつまでもドリンク剤に頼ってはいられないと分かっていながら飲み続けるのは、一種の依存なのかもしれません。なるべくマイルドなものを選ぶ努力をしているのですが、もっと基礎体力をつける努力をしたほうが正気なのかもしれません。

雑誌の編集後記なんかを読んでいると、20才の頃から毎日ハードなドリンク剤を2本飲み続けて十数年なんていうことが書いてあったりします。その職業の大変さはわかっているものの、いくらなんでもそれは頼りすぎなんではないかと思ったりするのであります。

ちなみにこのドリンク剤の味というのは「いかにも薬」という味のほうが売れるのだそうです。昔ある大手製薬メーカーが、バーテンダーに依頼して「美味な」(つまり上等なお酒みたいな味という意味であろうと思われる)ドリンク剤を開発し、発売してみたものの、ちっとも売れなかったそうであります。「酒で元気が出る」と思うのはアル中ぐらいなものでありましょうか。

この3日間は「COMの勉強」にあてるつもりで、380ページの教科書を会社から持って帰ってきました。残念ながら読めたのは38ページだけであります。若い頃はスポンジが水を吸うように知識を(無駄なものもたくさん)吸収できたものでありますが、記憶力は年と共に衰え、新しいことを学ぶのが苦痛になりつつあります。COMはすでに古い技術で、現在は.NETが主流であります。残念なことに自分は2周も遅れています。が、焦らずにゆっくりとやることにしましょう。

年が明けたら このイベント に参加したいと思っているのですが、体調が下降線をたどっているので、自信がだんだんなくなってきました。でもこういうときは例の合い言葉です。

「何事もなるようにしかならない」
そして
「神の配慮におまかせです」


2005年12月23日(金) 寒い一日

23日は頭痛、肩、背中、腰、足の痛みで起きられませんでした。
前日の夜、マッサージ機で揉んだせいで「張りかえし」がきていたのでしょう。それも猛烈な痛さで我慢できず、医者から処方されている鎮痛剤を飲んでまた寝ました。午後4時頃やっと起き出して、アイロンをかけ、たまっていたマンガ雑誌を読みました。
そして風呂に入って、子供たちを寝かしつけて、そしてまた自分も寝たのでした。
なんだか一日損をした気分です。


2005年12月22日(木) 大変な一日

午前中は精神科医へ。夜寝る前の薬を飲んでから10時間〜11時間ぐらいは眠いんですよという話をしました。症状の改善と共に、薬が効きすぎるほうに傾いてしまうのでしょうか。何ヶ月か前にセパゾン(クロキサゾラム)2mgを1mgに減らしたのですが、今度はそれをセパゾンの2/3ぐらいの強さの安定剤に変えてみましょうということになりました。
いつもは出してくれる「お薬情報」の紙をもらえなかったので、新しい安定剤がなんという名前なのか次回年明けの診察までわからないでしょう。
セパゾンの半減期は100時間。比較的代謝のゆっくりした薬ですから、はたしてこれを別の薬に変えることで、眠い時間が長すぎるという症状が改善するかどうかはわかりません。どちらかというと主治医が(アル中に継続投与するにはあまり好ましくない)安定剤を削りにかかったという要素のほうが強いのかもしれません。

ちょっと早いけれど12月の給料が支給され、年末調整の紙もやってきました。今年は休んでばかりいたので、給与支給額が控除額より100万円ほど低い(つまり納税額ゼロ)ということになりました。思わず「わはは」と笑って話題にしていると、年配の社員から「笑い事ではないだろう」とたしなめられてしまいました。
でも、AAにミーティングに出続けていると、どうしようもないことは暗い顔をして悩んでいるよりも、いっそのこと笑い飛ばしてしまった方が楽だということを学ぶのであります。
所得税を払わないのは12年ぶりぐらいでしょうか。確定申告の必要もなしです。

午後は半日延々と会議。
僕のようなぺーぺーは仕事の時間のうち1/3ぐらいが会議であるのがせいぜいですが、部長クラス以上になると仕事のほとんどが会議か面談であります。

夕方から忘年会。忘年会があるということは公式には一切知らされていません。社内の非公式な情報伝達網を使って広まっていた噂でありました。公式なルートで伝わってくる情報は、全体の3割ぐらいでしょうか。会社というもののやっかいなダイナミズムをこの年になって学びつつあります。

飲み助の多い会社であって、宴会は決して居心地の良い場所ではありません。でも、人的交流のためという名目で、ひとりあたり3000円が補助される(これも非公式で、机の上にいきなり現金がおいてあった)ので、逃げるわけにも行きません。

酔っぱらった年配の社員から、「君はもっと積極的に・・」うんぬんという説教をくらってしまうものの、僕は仕事中毒の面は持っていて、仕事に時間を捧げてしまう傾向はあっても、会社のために人生を捧げるつもりにはとうていなれないのであります。むろんそんなことは相手に悟られないようにと思っているのですが、きっと日頃の態度には出てしまっているのでしょう。

一次会が散会した後、前の会社から一緒の四人でカラオケへ。のどが痛くなるまで歌って解散。帰りに深夜までやっている健康ランドで風呂に入りました。セガトイズ製のマッサージ機とパラマウントベッド製のマッサージベッドで、400円を使って都合20分体を揉みほぐしました。

今週は本社出張があったりして、体が疲れていました。揉みほぐされているのは気持ちの良い者です。が、僕ももう若くはありません。翌日は筋肉の痛みに苦しむことになるのでした。

朝のニュース番組を見ながら睡眠。


2005年12月21日(水) 青春編みー後

どうも先月あたりから「地元じゃ負け知らず」なんていうフレーズが頭の中をリフレインしていて困ります。

まず郵便局で年賀状を出すついでに、書き損じのはがきを交換してもらいました。規定では「印面」(あの切ってみたいなのが印刷されているところ)が汚れているものは交換不可とされています。プリンターの上下逆さまに突っ込んでしまったミスの場合には、印面が汚れることはありませんが、表裏逆の場合はどうしたってそこが汚れてしまいます。8枚のうち2枚は交換してもらえないかなと思っていたのですが、全部交換してもらえました。
「手書きの場合にはだめなんですが、プリンターの場合にはどこに印刷しちゃうかコントロールできないので、印面が汚れているのもいいのです」と親切に教えてくれました。
「当選発表まで待たなくていいんですか?」とも聞かれました。そうか、ひょっとしたら書き損じのはがきでハワイ旅行があたる可能性もあるんだ。1月下旬にまた来るのも面倒なので、50円切手に交換してもらいました。

GoogleのサービスにGmailというのがあって、容量が2.5Gバイト与えてくれます。これはどれぐらいの容量かというと、メールをパソコンにダウンロードした後も削除しなくて放っておいても(当面のところは)メールボックスが一杯になったりしないということです。
いままでハードディスク・ディザスタで、受け取ったメールを何回かごそっと失っている身としては魅力的なサービスです(無料だし)。
が、これ実は「すでにGmailを使っている人から招待を受けないと加入できない」仕組みであります。いわゆるsponsorがいないとだめってやつです。
いままで、このスポンサー探しを延々としていたのですが、実は会社で隣に座っているやつがGmail使いだと判明し、さっそく招待メールを送らせました。

使いたい人には招待メールを送りますので、申しつけください。


2005年12月20日(火) 長野は寒いぞ

本社の近くのビジネスホテルが満室だったので、ちょっと離れているけれどLAN完備でネット接続無料のホテルに投宿したのでした。
暖房がよく効いていて、トイレはウォシュレットが装備されていて、なかなか快適でした。僕はビジネスホテルの浴衣が(薄ら寒くて)好きではないので、いつもパジャマ持参で旅行するのですが、今回はパジャマを忘れても浴衣で我慢できるほど、あったかい部屋でした。

でも、まあ朝は会社に近いホテルに限ります。慣れない土地というのは、距離感覚が分からなくていけません。本厚木のホテルから会社まで1時間ちかくかかりました。

午前中に中国人たちと打ち合わせをすませると、もうやることがなくなってしまいました。バーミヤンで一人で食事をして、町田から八王子、八王子からあずさ号で帰ってきました。
こちらの駅をおりたとたんに、寒さで縮みあがりました。

パソコン部屋の電気ヒータをつけたら、温度計が1度を示しました。4時間ほど暖房をつけっぱなしにしておいたのですが、12度までしか上がりませんでした。もう電気の暖房では限界かもしれません。

年賀状の印刷を終えました。今年はプリンターに上下逆さまに突っ込むミスを犯したりして、8枚も無駄にしてしまいました。そういえば書き損じのはがきを交換してくれるサービスがあるはずだと思って調べてみたら、ありました。
■使わなかったお年玉付年賀葉書についてに、手数料5円で別のものに交換してくれるとあります。

このページには、お年玉付き年賀はがきの商品の変遷が表になっています。僕が小学生のころは「折りたたみ式自転車」だったのですが、いまや「わくわくハワイ旅行」「国内旅行」「ノートパソコン」「DVDレコーダー+ホームシアターセット」とかになっているのであります。

ハワイに言ってみたいぞ(沖縄でも可)。


2005年12月19日(月) 厚木にて

こうしてビジネスホテルの鏡の前にノートパソコンを置いてタイプしていると、自分がすごく眠そうな顔をしているのが分かります。まあ、ここ半年というもの主に午後勤務で、11時とかに起きる日課であり、唯一の例外が本栖湖のステップセミナーに行ったときだけというぐらいです。

そういう人間が、朝5時に起きてちゃんとここまで移動してこれたというだけでも奇跡に近いのかもしれません。中華民族を相手にしていると、日本人というのは自己アピールが不得手で控えめで損をしているような気がしてなりません。ともかく彼らは夕方以降はunpaid workをするつもりはないようであり、おかげでこちらも定時+αで解放されました。まったく彼らがうらやましいです(皮肉ではないよ)。

予約したホテルの部屋に荷物を置いてからミーティングに出かけるつもりでいました。
が、ミーティング場のある駅は、ホテルの駅より手前でした。ホテルまで行って、また戻ってくるのは気が進みません。かといって、ノートパソコン一式が入った荷物をかかえて歩くのはもっと気が向きません。
(まあ、一回くらいミーティングを休んでもかまわないし)
という例の考えが頭の中に忍び寄ってきました。

でもミーティング場のある駅で降りました。なぜなのかはわかりません。駐車場が延々と広がる駅前を歩いていき、地図通りに二つめの公衆電話を目印に曲がります。目の前をお仲間とおぼしき女性が歩いていくので後をついていったら、案の定建物の外でたばこを吸っている集団に出合いました。

長野の標準からすれば、ミーティング会場はとても大きく、人数も多く90分で全員がしゃべることはとうてい無理であろうという規模でした。そして、そこにはなんと僕を待っていてくれた(?)人が何人かいました。木曜日の雑記に、ここに出現するかもしれないとは書いておきましたが、まさかと思いました。まったくホテルへ直行しなくて良かったです。そうしたら僕は嘘つきでありました。きっと神さまがミーティング場へと導いてくれたのでしょう。

ミーティングは眠い頭にも居心地がいい場所でした。

そして二次元バーコードのおかげで「日々雑記」はまた一人携帯電話の読者を獲得した(?)のでした。役に立つんだねぇ、バーコードって。

アフターミーティングはラーメン屋で夕食。Cさんごちそうさまでした。忘れずにいますから。ええ、人間親切にされたことは忘れないものです。

神さまはひょっとしたら僕のことを愛してくれているのじゃないかと時々思います。錯覚かもしれないけれど。誰にでもその人のことを愛してくれる存在があると考えた方が、いろんなことがすっきりするような気がするのであります。

こっちは長野よりずっと暖かいです。


2005年12月17日(土) Change Your Tires

やっと、そうやっとスタッドレスに交換しました。
もうノーマルタイヤはスリップサインが出てきている状態であることもわかりました。このまま春になってもスタッドレスのまま履きつぶして、サマータイヤのほうを新品に交換しないといけないでしょう。

先日ぶつけたバンパーに色を塗るために、オートバックスに行ってタッチアップを購入しました。前いた会社で一緒だった中国人に偶然会いました。FPD用の検査装置を作る会社にいるのだそうで、すっかり商売敵であります。いまやフラットパネルの製造装置の主戦場は中国に移りつつあります。中国語ができるというのはきっと彼に有利に働いているのでしょう。

タイヤの空気圧を調整するのが面倒なので、セルフのガソリンスタンドでやることにしました。しかしあいにく木曜日に満タンにしたばかりで給油するには早すぎます。さすがに給油せずにエア調整の設備だけ借りる度胸はなかったので、洗車をしました。拭き上げていたら雪が降ってきました。

外出したついでに、子供たちがパンを食べたいというので、いつも通勤の途中でみかける「ベーカリー・レストラン」なるものに入ってみることにしました。僕の通勤はお昼なので、昼食を食べるためとおぼしき人々が、気楽な姿で入っていくのを見ることができます。
僕の予想では、店頭に並んでいるパンを買って、それを座って食べるキャフェテリヤのようなものであろうと思われました。きっと店内はフランクな雰囲気なのだろうと。
しかし、入ってみるとそれはパン屋(焼いたパンを店頭売りしている)とレストランの複合したものでありました。
「食事ですか、喫茶ですか」と聞かれたので、とっさに「喫茶です」と答えたら、レストランの窓際の席に案内されてしまいました。ケーキとジュース3人前で2千円を超えてしまいました。とほほ。周りはデート中とおぼしき男女やら、和服をきっちりと着こなした老婦人たちが、談笑しています。そんな中、タイヤ交換の汚れが付いた服と、娘たちなんかはジャージ姿で、なんとも落ち着かない喫茶になってしまいました。

年賀状を印刷。寒いせいか赤のインクの出が悪く、一枚ごとに違った色合いになってしまいました。メーカーに苦情を言ったら、インクだけじゃなくて、ヘッドも定期的に交換してくださいと言われてしまいました。


2005年12月15日(木) こっちは短い

ひさしぶりに自分の生まれた病院へメッセージ。
アルコール依存症の診断基準のひとつに「酒をやめようという意欲の乏しさ」という項目があったりしますが、否認を続けているうちに、この「意欲」というのがだんだん乏しくなっていってしまうのも、病気の進行かなと思いました。

来週、月曜火曜と神奈川の本社に出張になります。泊まるホテルは小田急江ノ島線沿線なので、もし月曜の夕方に定時+αぐらいで解放されたら、こちらの会場 に行ってみようかと思います。クローバー厚木は女性が多いという噂なので、ちょっぴり期待していたりします(何をだ?)。
それにしても、何年か前の神奈川地区4分割の折りには、神奈川県央地区は2グループしかなくてという話だったのに、いま現在調べてみるとグループも増え、私鉄の駅ごととまではいかないものの、毎日通えるところにミーティングがあって、発展うらやましいかぎりです。


2005年12月14日(水) 10 years ago (13) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (13) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

10月11日に、IomegaのアウトレットでZIPドライブを買ったのですが、ちっとも届かないうえに、クレジットカードの課金だけはされてしまいました。Iomegaのほうにメールで苦情を言ってもなしのつぶてなので、クレジットカード会社のほうに電話をしました。
海外でのショッピングは「海外デスク」というところが担当なのですが、ここはちっともつながりません。やはりカードでのトラブルは国内より海外のほうが多いのでしょう。
リボ払いなどの受付をしている国内用のデスクに電話して、用件を話したら海外デスクに転送してくれました。用件も伝達されていて、二度説明する手間がなくて楽でした(これからはこの手段で行こう)。
あとはカード会社とオンラインショップの間で解決してくれるそうであります。
(ものはいらないから金を返してくれということです)。

さて、今日から一番最初のホームグループに戻ることになります。
湖の畔の教会でのミーティングに、僕もやっともどってこれたということです。
懐かしいことに、10年前に一緒にミーティングをやっていたACoAの○さん(女性)の顔が見えました。ここのACミーティングは人数が少ないので、AAミーティングに身を寄せているのだそうです。ちっとも老けていないような気がして、きっとACoAの女性って、年を取らない種族なのにちがいないと思った次第です。

峠を越えて帰ってくると、雪が降った後の圧雪凍結路になっていました。タイヤはノーマルでつるつるです。途中まではなんとか無事走ってきたのですが、T字路にオーバースピードでつっこんだおかげで一時停止できず、リアバンパーをガードレールにこすりつけてしまいました。ブレーキなんか踏んだのがいけなかった(いやタイヤを交換していないのがいけないのだ)。

さて、10年前。

ケアンズからジェット機で向かった先は、グレートバリア・リーフの中にある ハミルトン島 というリゾート島でした。

なぜそこを選んだのかというと、この島からほどちかい「ホワイトヘブンビーチ」という場所へ行ってみたかったからであります。白い・天国の・島と名付けられたそれは、真っ白なシリカ砂の幅広い浜が6キロにわたって続き、すぐ後ろは原生林という場所であります。写真で見るそのビーチは、空と海の青、原生林の緑、砂浜の白があいまって、まさに地上に現れた天国のようでありました。
アイドル歌手の映画だったかに「天国に一番近い島」というのがあった気がします。当時はインドネシアのバリ島なんかが人気であったり、旧フランス領のオセアニアの島も人気がありました。しかし僕は白人の国へ行ってみたかったのであります。

そしてなぜ天国にこだわったのか、それは何とはなしに、自分の寿命がもうすぐ尽きるような気がしていたからです。もし、そうすぐにアル中で死ぬことにならなくても、きっとこの後は落ちぶれ果てていくばかりで、海外どころか、国内の旅行すらままならなくなっていくんじゃないか。そんな予感がうっすらとありました。

死ぬ前に一度「天国のようなすてきな場所」に行ってみたいというのが、動機でした。

島で一番大きなホテルの、屋上の2階建てのスイートを借りました。宿泊に食事はセットになっていないので、3食とも島の中のどこかのレストランで食べなければなりません。僕は朝と昼にはビールを、夕食にはワインを一瓶つけるのでした。何しろ英語しか通じないので、新妻がそのことにどんなに文句をつけようとも、オーダーしてしまえばこっちのものでした。
そして「日本に戻ったら、もう飲まないから、この記念の旅行の間だけは、楽しくやらせてくれよ」というのが僕の決まり文句でした。

父の死から3週間、主治医の「緊急避難的処方」によって維持された断酒によって、僕の顔色もなんとか人間らしい色にもどっていました。しかし、一週間余りの旅行のあいだに、すっかり土気色へと戻ってしまったのであります。

新婚旅行だからと、36枚撮りのフィルムを10本以上撮影しました。その写真を整理したアルバムを見ると、僕の顔色が変わっていくのが克明に分かります。ふつう、そうしたアルバムは人に見せて自慢して迷惑がられるものでしょうが、我が家のアルバムは「恥ずかしくて人様にはお見せできないもの」に仕上がってしまいました。
そうやって人に見せずにしまっておいたところ、現在は行方不明になってしまっているのであります。

(この項、つづく)


2005年12月11日(日) 病院メッセージ

なんとか布団から体を引っぺがして起き、病院メッセージに行ってきました。僕の頭はぼうっとしていたのですが、若い仲間が司会を引き受けてくれたおかげで、スムーズに進みました。
それにしても、病院メッセージというのは何のためにやっているのか、いまだによく分からないところがあります。12番目のステップの活動と言うには、それほどステップの話はしていないような気がします。どちらかといえば、AAの広報活動をやっているようなものだと考えていますが。
なんにせよ、われわれは患者さんを説得に行っているわけでもなければ、勧誘に行っているわけでもありません。

眠くていけないので、病院からの帰りにどこかで温泉(入浴施設)にでも寄って、そこでひと風呂浴びてから昼寝でもしようかと思いました。タオルなどを買いに入った100円ショップの隣にリサイクルショップがあったので、入ってみました。エプソンのUSB接続のイメージスキャナーが609円だったので、思わず買ってしまいました。会社で使います。

どこかの風呂に入ろうと車を走らせていったのですが、風呂に入るよりも、ともかく先に寝たいぐらい眠くなってしまったので、車を止めて一眠りすることにしました。そして起きてみると、もう夕方です。あわてて高速道路を走って帰りました。

妻は退院したものの、2ヶ月もベッドに横になっていたおかげで筋肉がすっかり落ち、おまけに体重はまったく落ちず、もとから弱い腰をひねったところ、痛めてしまって家事どころではなく、母子3人でジジババの世話になっています。おかげで僕はまだ一人暮らしであります。アイロンをかけていると(どうしてアイロンをかけているとわかったんだろう?)、娘がやってきました。
そういえば今日は彼女の誕生日です。
「ケーキは用意してあるのか」と聞くと、誰も買いに行ってくれていないとのこと。時間は夜の7時半です。あわててケーキ屋に駆けつけると、幸いバースディ用のケーキがひとつ売れ残っていました。
ケーキを持って帰ると、次女がパパと一緒にお風呂にはいると言って待っていてくれました。病院からの帰りに入ってこなくて良かったです。風呂の中で次女のこりに凝った肩をもみほぐしてあげたら喜んでいました。

長女はケーキにろうそくを9本立ててご満悦です。彼女は僕がアルコホーリクであることも知らないし、パパがお酒を飲んでいた過去も知りません。何のために「AAだ」と言って出かけていってしまうのかも知りません。いつか説明する日が来るでしょう。その日が来ることを、僕は恐れなくなりました。

相変わらず生活は不安定だし、思い通りには生きていけません。でも、「子供たちに父親のお酒のことで心配をかけない」という願いは(今のところ)叶っています。

病院に行く前に、ヤマト運輸の営業所に寄って、昨日の地区委員会の議事録を代議員の人たちに発送していきました。ソーバー1ヶ月に満たない自分にスポンサーが投げかけた「自分のグループを立ち上げろ」という無理難題に助けを得るために、地区の集まりに出かけていったのが僕と委員会の関わりの始めでした。その後、グループの代表(?)として、はたまた委員会の何かの役割として、毎回ではないものの、委員会に出席することは、僕のAAプログラムの大事な一部分になってきました。
だが、少々長居が過ぎたような気がします。ここら辺でいったん身を引いて、他の人たちが決めたことを受け入れて従っていくということに慣れていった方がいいのでしょう。

言いっぱなしの聞きっぱなしでない委員会の席は、ミーティングと違って必ずしも心休まる場所ではなかったですが、いつも「愛と奉仕の輪」の中にいられた自分は幸せだったのでしょう。ともかく感謝であります。

さて、それはともかく自分も少し痩せなくては。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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