心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年10月13日(金) 飽きる

AAやってて飽きませんか? と聞かれることがあります。
そんなのとっくに飽きているという感じがします。少なくとも、新しい刺激があって、興味がかき立てられる状態は、とっくに過ぎてしまいました。ミーティング終了後に感じるカタルシスも、どんどん薄くなっていくものです。
ミーティングの顔ぶれだって、そんなに変わるもんじゃないですし。

飽きているとは言っても、趣味でやってるわけじゃないですからね。
仕事に飽きても、簡単にやめられないのと似ているかも知れません。ご飯を食べるのも、うんこをするのも、数え切れないほどやってきましたが、飽きたらからやめるというわけにもいきません。
どちらかというと、歯を磨いたり、風呂にはいるのと似ています。歯を磨いたり、風呂に入らなくても、死にはしません。でも、それが自分の常識になってしまうのは嫌だなと。
東京にいた頃は、風呂なしのアパートに住んで飲んでいたので、面倒で2〜3ヶ月銭湯に行かないこともありました。本人はそれほど切迫感がないのですが、周囲にしてみれば「何やってんだお前は」と言いたいところでしょう。いま、自分で思い出しても恥ずかしい話です。が、その時は人にどんな思いをさせてるか、考えていなかったわけです(自分がどう思われるかは気になりましたが)。
災害でインフラが崩壊すれば、風呂だなんて言っていられません。でも、せっかく文明生活に生きているんだから、風呂には入りたい。ミーティングもしかりというところでしょうか。
ついでに誰かが助かってくれれば、それにこしたことはありません。

なだいなだの本にあるのですが、断酒会で優等生タイプは2〜3年で飽きてしまい、「もはや学ぶものは何もない」と来なくなってしまうんだそうです。人に助けられ、自分が得ることばかり求めているから、見えなくなってしまうのでしょうね。

明後日日曜は資格試験で、今さらですが今日から勉強を始めています。最大の難関は、当日朝起きられるかどうかです。「AAだったら、間違いなく起きるのにね」とは妻の皮肉であります。

「猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身全霊僕でありたい」とハイポジの歌にありました。教育テレビの人形アニメの歌になっていました(確かカタツムリのやつ)。
自分自身であることを妨げているのは、何を隠そう自分であったりして。


2006年10月12日(木) 抗酒剤

3回目の入院の、最初の外泊の時に、すっかり酔っぱらって病院に戻り、次の外泊から抗酒剤を服用させられました。それが初めての抗酒剤でありました。
ナースステーション内でシアナマイドの入ったカップを渡され、それを目の前で飲んで見せ、さらには口を開けて飲み下していることを確認されました。
なんだかなーと思った記憶があります。
精神病院では服薬拒否をする患者は多いです(依存症以外の病気の人が多い)。薬を手渡して本人に飲めといっても、飲まずにゴミ箱に捨ててしまいます。だから、食事後に患者は水の入ったコップを持って一列に並び、看護婦から口の中に薬を投入してもらうのです。そして「飲んだよ〜」と口の中を見てもらう。「おいらは依存症で」と主張しても例外は認めてもらえず、列に並ぶのでありました。
アルコール専門病院に行って、そういうのとは無縁になったと思っていたら、シアナマイドでは同じことでありました。薬好きのアル中でも、抗酒剤は服薬拒否が多いらしく、手順は同じであります。

なぜシアナマイドを服薬拒否するのか。それは酒が飲みたいからだとする話もあります。もちろん酒を飲みたかったら、抗酒剤は飲みたくないのが道理です。
でも、酒はやめたいのだが、抗酒剤も飲みたくないという気持ちも理解できます。酒を飲むのも飲まないのも、自分の自由意志でやってきたんだから、抗酒剤で無理矢理飲めない体にしてもらわなくても、自分の意志で飲まない方を選択していけるはずだ。それをシアナマイドを飲めというのは、信用されていないし、断酒に前向きな気持ちも評価されていない、それが気にくわないという理屈です。
しかし、飲む・飲まないが自分の自由意志の選択だと思うのが間違っています。病気によって、常に「飲む方」にバイアスがかかっているのであって、酒に関しては自由意志はあまり役に立ちません。

自分は抗酒剤を3年飲みました。
シアナマイド(液剤)は背中が痒くなってたまらなかったので、ノックビン(粉剤)に変えました。ところが、地元の開業医にはノックビンの仕入れがなく、わざわざ僕のために仕入れてもらいました。
1年経った時に、「そろそろ抗酒剤を止めたい」と医者に相談したのですが、医者は否定的でした。こちらもわざわざ仕入れてもらった手前、無理押しには断れません。結局3年飲みました。整腸剤と混ぜてもらってたので、抗酒剤を飲んでいるということを普段は意識しませんでしたが。

3年経った時に、医者が「じゃ私からもバースディプレゼント」といって、ノックビンの打ち切りを告げられました。これでいつでも飲める体になったんだと思うと、ちょっと不安でしたが、そのうちそんなことも忘れました。

抗酒剤を飲みながらの断酒は、本物の断酒じゃない、なんていう言葉を聞きます。もちろん、断酒の真正は抗酒剤というモノサシでは計れないと思いますが。


2006年10月10日(火) 仮説(ネタがないとき用予備校)

ま、あくまでも仮説であります。

AAの中にいる女性はなぜこうも魅力的なのか?
(え? 自助グループにいる女性には魅力を感じない? さあ、帰った帰った)
そもそも魅力を感じていないのなら、この仮説は成り立たないですからね。

基本的には、女性の数が男性より少ないところがミソであります。

そもそも、スチュワーデスだとか、モデルだとか、受付嬢だとか、コンパニオンというような職業の女性になぜ男はあこがれるのでありましょうか。
制服を着ているから? モデルやコンパニオンは制服じゃないです。
容姿端麗であることが、そういった職業に就く条件であるから・・・それもあるかもしれません。
キモは、多くの男性と接する機会のある職業だからだとされています。
(多くの人に接するからこそ、容姿が求められるということもあるでしょうが)。

女性に魅力を感じた場合、男はその女性を独占したいと思うわけです。これは自分の子供だけを産んで欲しいという太古から受け継がれた本能ですね。ところが人に接する職業の女性の場合、男は「自分より魅力的な男性に誘惑されてしまうのではないか」という不安を大きく抱えることになります。
要するに「嫉妬心」ですね。
嫉妬することは、相手に魅力を感じるということです。魅力を感じなければ嫉妬はしないですけど。そういう職業に就く女性は、熱烈なステディを持つと言われています。

嫉妬される愛情と、一緒にいると落ち着く関係は相反するので、必ずしも熱烈な愛情が好ましいとは限りませんが、まそれはともかく。

男に囲まれるということは職業に限りません。たとえば大学のサークル活動でも、女同士で固まっているより、多数の男性の中に少数派として混じっている女性は(その比率以上に)もてるわけです。

AAの中の女性にも同じことが言えるんじゃないでしょうか。
男女比が3:1ぐらいでしょうか。女だけで固まっているグループだとか、ひとりでいる女性もいますから、男性に囲まれている女性メンバーは、その比率以上に少ないでしょう。
というわけで、AAの中で男性に囲まれている女性メンバーは魅力的に見えるのであります。

AAを離れて一般社会の中に混じってしまえば、それほど輝いていないのかも知れないですがね。
(酸っぱいブドウの論理)。


2006年10月09日(月) 平凡

平凡な人間の中には、善と悪が入り交じって存在しているのでしょう。
誰だって、自分には悪い部分もあるけれど善性が勝った人間である(つまり基本的にはよい人間である)と信じたいものです。

たとえば僕はよくトイレの話をするのですが、自宅のトイレを汚したら自分で掃除する人でも、駅のトイレを汚しても掃除しようとはしないものです。そうではありませんか?
自宅のトイレを掃除しなくても、嫌な思いをするのは結局自分です。それか家人から非難されるか。いずれにしろ、リスクは負わねばなりません。ところが、駅のトイレから逃亡しても、非難を受ける可能性はごく低いものです。
公共のトイレがどんなに汚いものであるか、そういう話はもっともですし、それを無償で掃除する高潔な人間が少ないのも事実でしょう。
僕もたぶん逃亡するでしょう。逃亡を選択する心の暗闇があるわけです。
そうした暗闇に光があたっても結構平気でいられる人もいます。でも、まるで攻撃でも受けたかのように反撃したり、理屈で反論したり、イジメにでも遭ったように落ち込んだりする人もいるわけです。

自分も基本的にそうしたタイプであります。そうした過剰な反応をする人は、たぶん自分に対する期待値が大きすぎるのでしょうね。自分は平凡な人間であり、平凡な人間の中には、善も悪も同じぐらい存在していることを忘れているのであります。
どこか、自分を高潔な(優れた)存在であると見なしたい願望があります。しかし、高潔さはトレーニングなしにはたどり着けない場所でしょう。

結構平気な人は、人の心のは誰にでも闇があることを知っているし、自分もその一人であることを受け入れられるのでしょう。

棚卸しの作業をすると、そうした悪いものがぼこぼこ出てくるわけであります。
悪い部分は一生かかってもゼロにはならないです。霊的生活が完成した人はいないんですから。改善される部分もあるでしょうけど、ゼロにはならんです。
悪いものをたくさん抱えた、高潔でない弱い自分。ありのままの自分を好きになっていくしか仕方ないんじゃないかと思うのです。

結局の所、棚卸しの作業は、健全な自己愛を持つために必要な過程なんでしょう。

自分を愛せるようになるのは、誰かに愛されるのが一番なんだそうです。でも、生身の人間には、他人のありのままを100%受け止める大きさはないでしょうから、Higher Power ってもんが必要になりそうです。

自分が人とは違う(平凡ではない)だって、これが違うあれが違うと言い訳をするのは、アル中特有の「違い探し」でしょう。自分の性格的欠点に、いちいち言い訳を考えてみても仕方ない。平凡になる。自分にも(もちろん他の人にも)期待を押しつけない。がっかりしない。

ステップ4は、改善のためにありのままの現状を把握するのが目的で、自己非難の材料を探すためのものではありません。


2006年10月07日(土) 不平等について

AAホームグループのミーティングへ。

僕のソブラエティが、あなたのソブラエティよりも長いとします。
なぜ僕のほうが長いのか。その理由は「僕のほうが早くAAにつながったから」だろうと思います。そのことをもって、僕があなたより優れていることにはなりません。
僕より長いソブラエティを持つ人はたくさんいます。その人たちも、僕より早くAAにつながったというだけのことです。
けれど、結果として年数の差は出てきてしまいます。それは公平ではないですが、世の中はそれほど公平なわけでもありません。そのことを私たちは「変えられないもの」として受け入れています。もし、逆転を狙うなら「先ゆく仲間」が再飲酒してくれるのを願うだけになります。

あっちこっちのミーティングに出かけ、イベントやサービス活動にも参加しているメンバーは、知り合ったメンバーの数も増えます。そういう人のバースディ・ミーティングは賑やかなものになります。そういう人は「恵まれている」のです。
一方、何らかの理由で、ホームグループのミーティングが主で、あとは地元の病院メッセージを支えているという人は、知り合いの数も多くなく、バースディにやってくる人数も少なくなります。
記念の色紙だって、たくさん書かれた何枚もの色紙を受け取る人もいれば、ちょっと淋しいのを1枚だけもらう人もいます。
それは明らかな不平等ですが、だから悪だとは言えません。

神さまから配られたカードは、一人一人違っています。良かったり悪かったりします。それを平等にしろと言ってみても始まりません。勝負にならないと泣いていても、何も変わりません。私たちは、配られたカードで楽しく遊ぶことを望まれているのです。

人による評価はわかりやすいです。たくさんの人の集まるところには、何か魅力があるんだろうと思ってしまうのが人間です。しかし Higher Power (もしくは神)による評価のほうが大切です。
神さまは、いつも私たちのことを見ていてくれ、欲得なく評価してくれます。

だから、かえりみられないメンバーがいることを、気に病む必要はありません。たいせつなのは、その人たちのスピリチュアルな状態がどうかということです。そして、それはすべてのメンバーの関心事でもあるはずです。


2006年10月06日(金) 12のステップ(異訳)

1.私たちはアルコール(または麻薬、食べ物、ギャンブルなど)に無力であり、人生がコントロールできなくなったことを認めます。
2.自分より大きな力こそが、私たちを健全な状態に戻してくれると信じます。
3.私たちは自分の信じる「大きな力」に自分の意志と人生をゆだねることにします。
4.自分自身を深く掘り下げて、勇気をもって自己評価を行います。
5.自分自身に対し、また他人に対して、自分の悪いところを正しく認めます。
6.これらの性格上の欠陥をすべて取り除いてもらう、心の準備が完全にできました。
7.謙虚な気持ちになって、欠点を取り除くことができますようにと願います。
8.自分が傷つけた人すべてのリストを作り、その人たちに進んで償いをしようと思います。
9.傷つけてしまった人には、できるだけみずからの手で償いをします。ただし、それによって相手や他の人間を傷つけることがないようにします。
10.引きつづき自己評価をおこない、自分が悪いと思ったらすぐにそれを認めます。
11.祈りと瞑想をとおして神にもっと深くふれるように努め、その意志を知り、それを実行する力を授けてもらうためにひたすら祈りをささげます。
12.これまでのステップをとおして精神的な目覚めを体験したら、同じような悩みをもつ他の人にもそのメッセージを伝え、この「12のステップ」をあらゆることにあてはめて実践するよう心がけます。

ものごとにはそれにふさわしい時間がある
It Takes Time.

気楽にいこう
Easy Does It.

人は人、自分は自分
Live and Let Live.

その日のことだけを考えよう
One Day at a Time.

問題を複雑にしない
Keep It Simple.

いつでも戻ってきて、うまくいくよ
Keep Coming Back. It Works, If You Work It.

前へ進んで、大きな力にゆだねよう
Let Go and Let God.

大事なことから先にやろう
First Thing First.

もっともっと考えよう
Think Think Think.

講談社『まにあうよ、いまからでも』〜スヌーピーたちの生きることが楽になる12のステップ〜

現在日本AAが用いている12のステップは こちら


2006年10月05日(木) アルコール症者救済の12段階

1.我々は自分がアルコールに対して無力であったこと、かつて自分の生活が自制できなかったことを認めた。
2.我々自身よりももっと偉大な力が、我々を健全な状態に立ち返らせることを信じるようになった。
3.我々は神を理解し、自分の意志と生命とを神の加護に委ねることを決心した。
4.我々は自らの厳しく勇敢な道徳的資産を作った。
5.我々の過ちの委細を、神にも自分にもまたもう一人の人の前でも認めた。
6.神がこれらの性格上の欠点を全て正して下さることをお願いする用意が調った。
7.伏して神に我々の欠点を正して下さるよう願った。
8.我々が傷つけたり害した全ての人の表を作り、その人びとに直接償いをしようと決心した。
9.8.の行為のために、その人や他の人を傷つけない限り、どこまでもできうる限り直接償いを果たした。
10.我々は人格的な資産を獲得し、自分が間違っている時はすぐさまそれを認めた。
11.我々に対する神の意志とそれを実行できる神の力を知るためのみに祈る時、我々が神を理解している場合、祈りや黙想によって意識的な神との接触を強めようとした。
12.これらの各段階を経た結果として心からめざめたとき、我々はこの御神託をアルコール症者に伝え、これらの生活方針を我々の実生活において実行した。

診断と治療社『アルコール辞典』(1979年初版発行)。

現在日本AAが用いている12のステップは こちら


2006年10月03日(火) 仲間のバースディ

仲間のバースディ・ミーティングへ行きました。
ここのところ2回続けてバースディMの空振りを経験していただけに、三度目の正直でありました。

バースディ・ミーティングを行う理由については、様々な考え方があると思います。だから、何が正しくて何が間違っていると言うつもりはありませんが、少なくとも「バースディ者本人のためだけに行っているわけじゃない」のは確かだと思います。

何年かのソブラエティを重ねると、晴れがましいことは気恥ずかしいからという理由で、バースディ・ミーティングをしなくなってしまうAAメンバーもいます。バースディとはみんなにお祝いしてもらう場だと思うのは、一面的な見方です。
そもそもバースディとは、がんばった人を皆が誉めるためのミーティングではありますまい。どちらかと言えば、自分のソブラエティは仲間のおかげであるという感謝を示す場であろうと思います。だから、ケーキを買ってきて皆に食べてもらうのでありましょう。
時間が経過しても、その感謝が減ることもないならば、等しく感謝を表明し続けることは必要だと思います。

もうひとつの理由は、新しくAAにやって来た人たちのためであります。
AAでは、飲まないでいる期間の長さについて、それほど頻繁に話がでるわけじゃありません。だから、仲間のソブラエティの長さは、普段はあいまいにしか分かりません。AAにつながったばかりのメンバーは、はたして自分は何年AAを続けていけばいいのか、そもそも自分がこの先飲まないでいられるのか、不安を持っているが普通でしょう。
バースディ・ミーティングは、そうした不安を解消し、勇気づけていくメッセージのひとつの形だと思います。それは言葉によるメッセージとは、また違ったものを伝えてくれると思います。

何がしてもらえるかではなく、自分が何を贈れるかを考えれば、バースディ・ミーティングもそれほどおろそかには出来ないと思うのですが・・・まあ、無理強いは出来ないし。
まあともかく、昨夜は、ドアを開けたらちょうどろうそくが灯されるところだったので、安心しましたよ。


2006年10月02日(月) 厳罰化で交通事故は減るか?

直近の交通事故の経験は、今乗っている車が納車されてから3週間のときでした。
朝の混み合う時間帯で、僕は始業に遅れそうで急いでいました。近道をするために、信号のない交差点を右折ようとした時でした。近道しようと意志決定するのが遅れたので、結構な急ブレーキになってしまいました。それでもタイヤが鳴ったり、ABSが働いたりするほどでもなかったのですが。
いざ曲がろうとするときに、後ろからキキーとブレーキ音がした後、軽くゴンという衝撃がきました。営業車のバンに追突されたのでした。運転していたのは若いおにーちゃんで、助手席の上司との話に気を取られて反応が遅れたと言っていました。
お互いの保険屋に連絡を取って、事故証明は要らないということなので、5分で別れました。
こちらも急ブレーキを踏んだ責任があるのですが、追突の場合には100対0で、追突した方が悪いという規定がありますから、揉める要素はありませんでした。非常識なほどの急ブレーキでもなかったし、非常識なほど車間が短かったわけでもない。まして、車の中で会話することを非常識とは言えません。車に乗っている限りは、避けることの出来ない類の事故でした。
ちなみに、新車購入直後の事故では、保険屋に新車への交換を要求できます。ディーラーも乗り気だったのですが、納車まで45日待ちと言われたので諦めました。

交通事故はゼロにはならないだろうと思います。十分に安全な車間距離をいつも確保できているわけじゃありません。十分安全な速度で走っているわけでも、人と車が十分安全なほど離れているわけでもありません。現実にはいつも危険領域に足を踏み入れ、人間の能力以上のものを要求されているのです。
だから、一定の確率で交通事故は起こってしまいます。たとえ僕が、あれ以来事故に遭っていないとしても、今日仕事から帰る途中に事故に遭わないとは言えません。

飲酒運転の厳罰化は、確かに飲酒事故を減らすでしょう。でも、事故全体に占める飲酒事故の割合はそれほど多くはないでしょうから、交通事故の件数はそれほど減らないのではないかと思います。

それでもなお厳罰化をするのか。それは、飲酒運転は「避けられるもの」であり、あえてするのは故意犯であるという解釈があるからでしょう。たしかに、被害者にしてみれば、もし運転者が酒を飲んでいなかったら、という感情を持つのは当然と言えます。

厳罰化をすれば、理性の働く人たちは、飲酒運転を避けるようになるでしょう。それでも、(私たちがよく知っているように)飲酒に関しては理性の働かない人も相当数残ると思われます。
その上で、厳罰化をし、道徳心に訴えたにもかかわらず、どうしてこの人たちは飲酒運転をやめないのだろうと、人々が考え出したときに、初めて「やめられない病気」という概念がクローズアップされてくるのではないかと考えています。


2006年10月01日(日) 脱穀

実家に脱穀の手伝いに行ったのですが、土曜日は子供たちが英語教室の体験入学に行きたいと言うので、それを待っていたら出るのが送れ、着いたのが午後五時。初日の作業はもう終わっていました。あとは、後かたづけだけ。
日曜日は朝起きたのですが、眠かったので、もう少しだけ眠らせてもらおうと思い、もう一度起きると既に昼でした。子供たちが後かたづけを手伝ってくれたらしいですが、母には「お前は何をしに来たのだ」と言われる始末です。

次の週末は東京。その次の週末は資格試験と、気の抜けない日々が続きます。

コミケ代表の米沢嘉博氏、肺ガンで死去

二十年以上前に、ご自宅にお邪魔したことがあります。
税務署に捕捉されている年収が五十数万円で、奥様の扶養家族になっているお話だとか、自宅マンションの玄関前に本が入った段ボールが積み上がっていて、消防署から撤去命令が出ている話をうかがいました。そして、Alice in Wonderland のポルノ版を見せていただきました。二十歳前の小生には刺激が強すぎましたが。
東京おとなクラブ」で、ホーテンス・S・エンドウとか中森明夫という人に会ったのも同じ頃です。
現在僕が勤めている会社にも、若い世代にはオタッキーな人間が多いです。でも、コミケで同人誌とかソフトを売っていた過去は封印して生きているので、彼らと関わりあいになることはありません。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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