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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年12月29日(土) 今年一年 毎年年末になると、自由なテーマを選ぶAAミーティングでは「今年一年を振り返って」というトピックが挙がるのですが、ここのところ僕が出たミーティングは、BBか12&12を読むところばかりだったので、一年を振り返る話はありませんでした。
アルコール依存症の人と一緒に暮らしている家族は、依存症の人の言動に一喜一憂することになります。酒を飲んで欲しくないし、もし飲んでも迷惑をかけて欲しくないと願っています。けれど、アル中さんはさまざま理由を付けて飲むし、飲んでやらかすことにも言い訳をします。そしてたいてい「それを人のせいにします」。
お前のせいだと責められて、自責の念を持たない人はいません。そしてそれが習慣になります。
だから家族は、何とかアル中さんを(飲まないように、暴れないように)コントロールするために、いろいろ考えたり行動したり、まさにジェットコースターに乗っているような気分が続く日々を送ります。
はたまた、ACと呼ばれる人たちは、親の言動次第で、自分の気持ちが上がったり下がったり、これもまたジェットコースターに乗っている日々を子供の頃から暮らしてきたわけです。
「目の前で起きている人の言動に、大げさに一喜一憂しない」という新しい行動原理を身につける・・これが、今年アラノンの人たちからいただいた回復の鍵でした。
別に誰かの気分(機嫌)に僕が責任を負っているわけじゃありません。機嫌が悪い人を明るい気持ちにさせてあげる義務もありません。その人の問題は、その人の責任です。けれど、怒っている人の話を聞いてあげたり、落ち込んでいる人を励ましてあげたりするのは、人としての当然の優しさであり、必要なことでしょう。
でもそれは、自分のことができていればこそ、できることです。
AAの仲間やスポンシーが飲んだとしても、それは別に「僕が飲ませている」わけでもありません。当然なんですけど。上司の機嫌を取るのは僕の仕事の責任の範囲外です。
その人の問題と自分の問題を、きちんと切り分ける作業をしていく。これは一生の作業なんでしょうね。
2007年12月27日(木) 自助グループと呼ぶのは誤り? 上の子が学校で階段から落ちてくるぶしを骨折。2週間のギブス。同じ日に下の子が学校の授業でスケートに行き、転んだ時に手首を骨折。こちらも2週間ギブス。なんとも仲がよい姉妹です。
車のタイヤを縁石にこすってしまい、見事にバースト。修理がきかず、買い換えになってしまいました。タイヤは4本単位で流通しているので、1本だけ買うには注文しなくてはいけません。泣く泣く4本まとめて買いです。昨年買ったばかりのスタッドレスなのに。その金があったらDSが何台買えるんだか。
他にもイロイロ「ついていないこと」だらけですが、へらへら笑いながらやっています。会社の同僚に誘われてボーリング。5ゲームやってスコアが517。
さてさてさて。
AAとか断酒会とかその他を合わせて「自助グループ」と呼びます。これは英語のセルフ・ヘルプ・グループを訳したものです。自ら助けるグループというわけです。
ところが、海の向こうでは5年か10年ほど前から self-help group という呼び名はやめようという動きが活発になってきたそうです。self-help という言葉が誤解を生みやすい、本質を現していない言葉だからだそうです。
そもそもアル中の人は「アルコールに対して無力」なのです(断酒会でも酒に対して無力だといいます)。AAは無力な人の集まりです。ところが無力なのに、自ら助かるのも変な話です。無力な人がいくらたくさん集まっても無力のままです。ゼロはいくつ足してもゼロですから。自ら助かる力は無いはずです。
ハイヤー・パワーという自分(たち)以外の「力」によって無力が解決されるのであって、自分ではありません。
そこで別の呼び方をするのだそうです。例えば mutual aid group。これを「相互援助グループ」とか「互助グループ」とか訳してしまっては、言葉を変えた意味がないのでしょう。でもなかなかよい日本語になりませんね。
単純にサポートグループという呼び名の方がよいのかも知れません。
いずれにせよ、今後日本でも「自助グループ」という呼び方が廃れ、より適切な言葉が使われるようになるにちがいない、なって欲しいな、というお話を、複数からうかがいました。
2007年12月25日(火) 人のせい アル中的性格について、いろいろなことが言われていますが、僕なりの表現で言えばこうです。
「人から言われたやり方で成功するよりも、自分のやり方で失敗する方を好む」
挙げ句に失敗は人のせいにするのです。
さて、僕が初めて今のAAホームグループの会場に顔を出したとき、そこにいた人たちは全員ニックネームを名乗っていました。動物っぽい変な名前を使っていました。その中で僕だけが植物っぽいニックネームを使うことになりました。
そのうち、ニックネームを使うのは変だと言って、本名の名字を使う人たちが増えてきました。あるいはアメリカ風に、ファーストネーム(下の名前)を使う人たちも増えてきました。そこで、僕もニックネームを使うのはやめ、下の名前を使おうと思った時期もありました。
本名は「すすむ」と言うのですが、これをそのまま使うのは、どうも気恥ずかしい。そこで、ショートネームを考えることにしました。
例えばAAの創始者ビル・Wのフルネームはウィリアム・ウィルソン。ビルは「ウィリアム」のショートネームです。ドクター・ボブも、フルネームはロバート・スミス。ボブはロバートのショートネームです。
Susumu のショートネームは何でしょう? Susie(スージー)というのは女性名ですね。SとUとMが入った名前だと Samuel というのがあります。愛称はサムかサミー。というわけで、「サムと呼んでくれ」という事にしたのですが・・・。
「このアメリカかぶれめ、アンタのことをサムなんて呼べるものか!」
と怒られてしまったので、仕方なく「すすむ」にして、さらに1年後に元のひいらぎに戻してしまいました。そういう僕のバカな話とは無関係に、最近は下の名前を使う人が増えてきました。悪いことではないんですけどね。
それでつくづく思うことは、日本人の下の名前って、みんなよく似ていて憶えにくいということです。
えみ・えみこ・みえこ・みえ・りえ・りえこ・・・もはや誰が誰だか。
みんな変なニックネーム使っている頃の方が、憶えやすくて良かったなぁ。だからもし呼び間違えても、それは僕の記憶力のせいじゃありません。最近の風潮が悪いのです。
2007年12月24日(月) 飲酒のコントロール アルコール依存症は「飲酒をコントロールできない病気」だと言います。
一番コントロールが効かないのが「飲酒の量」で、適量でやめておこうと思ってもやめられない、というのがその症状です。他に飲む時間(朝から飲む)とか、飲む場所とか、飲むシチュエーションなどなど・・コントロールできないことはたくさんありますが、ここではとりあえず量の問題に集中します。
では、依存症でない人は、はたして「飲酒をコントロールしている」のでしょうか?。ふつうの人は、もっと飲みたいのを我慢して、途中でやめているのでしょうか?
たぶんそうではないのでしょう。
宴会でもう少しビール飲みませんか? と勧めても、「いや、もう結構」とか「飲み過ぎると気分が悪くなるから」という答えが返ってくるのが通例です。つまり、ふつうの人は飲みたいのを我慢してなんかいないのです。彼らは、飲みたいだけ飲んでいるからこそ、2〜3杯でやめられるのです。
つまり、コントロールもしていないし、意志の力も使っていない、ただ満足するまで飲んで、もうそれ以上飲みたくないだけの話です。別に意志も強くないし、高潔なわけでもありません。人間満たされれば欲張りはしません。
一方、適量でやめられないアル中は、「意志が弱い」とか「意地汚い」とか道徳心がないとか責められます。しかし、いったん飲み始めてしまったら、体が次の酒を欲しがってしまい、それがあまりにも強いので途中でやめられないだけの話です。
いったん依存症になったら、もう満足するまで飲むことはできないのです。
これを聞いて「いや、俺はアル中ではないが、いつももっと飲みたいのを我慢して途中で切り上げているんだ」と話す人がいたとします。確かにその人は依存症ではないのでしょうが、すでに危険領域に入りつつある「プレ・アルコホーリック」(アル中予備軍)という状態でしょう。病気にならないうちに酒をやめるのが一番です。なってからじゃ遅い。
年賀状の準備で一日パソコンを見つめていたら、ドライアイになってしまいました。
2007年12月23日(日) なんだか面倒 その昔に言われた、オウム真理教とAAの共通点。
実名で呼び合わず、怪しげなホーリーネームを使っている。
イニシエーションと呼ばれる通過儀礼があり、それをやっていないと半人前だと言われる。
なんだか普通じゃない話ばかりしている。
奥義を究めると解脱し救済されるとか言う。
みんな「修行するぞ、修行するぞ」とうるさい。
怪しげな行政機構がある。
施設で修行してくるとポイントが高い。
まじめにやらないと地獄に堕ちるとか言われる。
こういう冗談を言っていると、ムキになる人がいて困ったりします。
今夜宅配のピザを食べ、明日ケーキを食べる作戦だったのですが、ピザ屋の予約が一杯でしたので、今夜ケーキで明日ピザとなりました。
年賀状やらなくちゃと思いながら手がつきません。というわけで雑記もテキトーです。
早く寝たいのですが、僕が寝る部屋にテレビがあり、まだ皆が見ているので布団を引いて静かに本を読むわけにもいきません。どうしてこんなにテレビばかり見るのでしょう? こいつらテレビホーリックじゃないかと思いますな。
2007年12月22日(土) 自然治癒? ずるずると続けてきた病院メッセージをお終いにしました。あとは地元のグループのメンバーが続けていってくれるでしょう。もう自分が行くのはお終いにしよう、と決めてから、実際に実現するまで1年以上経過しています。
実は、今のホームグループが別の週の病院メッセージを冬場の3ヶ月担当するので、春までは通うのが続いちゃいますが。ちっとも終わってません。
10年そこへ通いましたから、数百人の依存症患者さんの話は聞いたでしょう。入院が初めてという人も少なくありませんが、2回目(あるいはもっと)という人が多かったように思います。
前回の入院からどれぐらい経過しているか、それも人さまざまで「一日持たずに即日再入院」という人もいれば、年単位という人もいました。たいていは、退院→シラフの期間→一見正常に飲めている期間→酷い飲み方の期間→再入院、という経過をたどります。病気がある程度進んでしまえば、飲まない期間は長くて数ヶ月で、飲んでいる期間が長くなるのですが、中にはシラフで長い時間を過ごす人もいます。
しらふの期間が10年以上という人は3人いました。3年、5年飲まなかったという人はザラです。実はそういう人は自助グループ(AAや断酒会)や医者にまったく通っていないか、通っていたとしても最初の数ヶ月だけだったりします。
断酒のために積極的な努力をしなくても、断酒が続いていく人が実際にいるのは確かです。しかしその人たちがまた飲んだからこそ、僕がお会いするチャンスを得たわけです。その人たちは再飲酒した理由は、短期間で再飲酒する人たちと変わりません。大きなトラブルが乗り越えられずに酒を飲む人もいれば、何気ない日常の中でふと飲んでしまう人もいます。
僕が2回目の入院の時に「生まれて初めて会ったアル中さん」は入院経験二十数回のツワモノでしたが、それでも十数年前には何の努力もなしに2年間酒をやめていた経験があると語っていました。
アル中はたまたま何年か酒をやめることがある。その事実は以前の僕を恐れさせました。自分はそれなりに頑張ってAAをやり、そのおかげで飲まないでいると思っているが、実はたまたま酒がやまる何年間かと、自分のAAの何年間が重なっているだけで、断酒は偶然の産物なのではないか・・と。
そういう不安を打ち明けると、仲間に「あなたのように努力している人がAAの恩恵を得てなかったとしたら、他の誰が得られるというのか」と諭され、それもそうだよなとテキトーに納得したのでした。
でも今では、僕の最初の何年間かの断酒は幸運によるものだと、はっきり知覚しています。あの頃は実に危なかったのだと。自分の力で酒をやめていましたからね。
ミーティングのあと、若いメンバーとお茶していてそんな話を思い出したのでした。たとえ何年酒をやめていても、飲んだときのみじめさに違いはないぞよ。
2007年12月21日(金) 近況 会社の忘年会。いくら何でも一次会が4時間というのは長すぎる。6千数百円というのも高すぎ。まわりの人が酒を飲んでいるのは気になりませんでしたが、タバコの煙が煙いのはとても気になりました。
いつもパソコンに向かっているサラリーマンは、50才になっても、55才になっても、目尻にしわが寄らないものだ・・などと考えていました。
ここのところ数ヶ月、次女が不登校気味です。
朝に母親が大騒ぎしても、次女は眠いらしくて起きてきません。いじめられているとか、勉強が分からないとかではなさそうですが、友だちがいなくてつまらないそうです。だいたい子供のくせに夜更かしするのが良くありません。
先日父兄面談があって、保健の先生から「精神科にかかったらどうか」と勧められ、市内の開業医へ受診しました。精神科と聞くと気後れしてしまって、ということは我が家ではまったくありません。パパもママも精神科にかかり続け、おねーちゃんも以前に通っていたのですから、「むしろその方が普通」だと思っているでしょう。
例によって、ホンのちょっぴりの薬が乳酸菌の粉に混ぜて処方されたのと、「DSとパソコン禁止」と言い渡されました。長女はこの件とは無関係ですが、「おねーちゃんだけDSオッケー」というわけにもいきませんので、二人とも禁止です。
二人で「どうぶつの森」にゴキブリが出ちゃうと心配しています。
薬よりもDS禁止のが効果があったと思うのですが、とりあえずここ2日ばかりは、次女も自分で起きて学校に行っています。一時的に良くなっているだけかも知れないので、あまり期待感を抱いてはいけないでしょうが。
抱えている悩みや苦しみを言語化することが下手だと、なにか他の手段で表現せざるを得ないのでしょう。夜更かしや不登校もその表れですね。たぶん。
ちなみに長女のほうは、新しい携帯でメールに夢中です。
2007年12月20日(木) 傷つけること 4回精神病院に入ったうちの3回は、いわゆる「アル専」でない一般の精神病院でした。当時、日本の精神病院の9割以上のベッドは、統合失調症の人に使われているとされていました。それは今でも大きく変わっていないと思います。
最初に断っておくと、病院に入院しているのは、社会生活に支障をきたすほど病気の症状が出てしまった人たちであり、統合失調の人の大多数は普通に社会の中で暮らしているということです。社会生活できないほど症状が重い人が入院する、という点では依存症も同じです。
もうひとつ断っておくと、統合失調の人に危害を加えられたことはありませんし、他の人が暴力にあっているのも見たことがありません。あることはあるのでしょうが、僕は見ませんでした。それよりも「しらふのはずの」アル中さんたちのケンカや暴力沙汰はたくさん見かけました。暴力という点ではアル中さんの方がずっと危険です。
とはいえ、統合失調の人との生活は気苦労があります。なぜ怒っているのか、なぜ傷ついているのか、なぜこんな行動を取るのか、了解不能な行動にまごつくばかりでした。まごつくばかりでなく、それに接するこちらの心も疲れ、傷つきました。人が了解不能な行動を取ることは、それに巻き込まれた人を傷つけます。
依存症者が酒を飲みだすとコントロールが効かずに変になってしまう、ということは本人も家族も比較的簡単に納得するようです。その背景には、酔っぱらってしまうと理性が効かなくなるから変になる、という理屈があるようです。逆にしらふの時はまとも(正常)だという思い込みがあります。
ところが「もう二度と飲まない」と誓った人が、また飲み出すのが依存症という病気です。マトモな人がなぜ酒をまた飲むのか? それは狂気だからですが、そのことは本人も家族も否定したい。だから、意志の弱さとか道徳心の欠如に原因を求めてしまいます。実は狂気だから了解不能な行動をしているだけなんですが。
ともあれアル中の了解不能な行動(再飲酒)は、周囲の人を激しく傷つけます。暴力や暴言が無かろうとも、再飲酒が了解不能であるから周囲は傷つきます。
だから、私たちが「傷つけた人に埋め合わせをする」時に、なぜ私たちの行動があれほど了解不能だったか、ということは説明する必要があるでしょう。それをすっとばして謝罪だけですますのは片手落ちだと思います。
性格的欠点うんぬんのまえに、まずはその狂気と自分が向き合わなくては。自分の問題と向き合っていない人から謝罪されても、印象が悪いだけでは?
2007年12月19日(水) 怒り ブログのほうにもちょっと書いたのですが、PHSを機種変更しました。
通常機種変更は端末をお店に持ち込む必要があります。通信販売の場合には事前に端末を宅急便で送ってから、数日後に変更後のが届くという面倒な手順が必要でした。ところが今回は、通信販売で申し込んだ2日後にはPHS端末が届き、その書類に記載された日時になると、特に手続きなく以前の端末が使えなくなり、新しい端末が使えるようになりました。ネットワーク経由で切り替えができる。便利な時代になったものです。
端末選びは悩みました。アドエスというWindows Mobileを積んだPDA式の機種は2万円以上するので手が出ません。安い(0円)のは音声通話が基本の端末ばかりです。東芝のは(いまや携帯電話では当然の)赤外線通信とmicorSDが使えますが、操作性が悪い。京セラのは操作性が良いものの、赤外線もSDも使えません。
最終的に不満ながらも京セラ製を選びました。
そうしたら二日後に「アドエス無料」という年末キャンペーンが始まってしまいました。
それを見て、しまった失敗した、あと2日待っていれば(高いから諦めた)不満のない端末が手に入ったのに・・という後悔とも怒りともつかない感情に襲われました。
割賦販売で機種変更してしまうと、その端末を2年使うという条件がつきます。2年は機種変更ができない。2年後にはこの年末キャンペーンは終わっているでしょう(当たり前)。
「私は著しく不満である」、この不満をぜひとも表明しなくては・・・。
と勤務中にもかかわらず、僕は携帯電話に手を伸ばし、ウィルコムオンラインストアに電話をかけました。そして「2日前に機種変更して、今日届いたばかりですが、今日からアドエス無料キャンペーンが始まったので、やっぱりそっちに換えてもらえませんか?」と話しました。
するとウィルコムのお兄さんは「あのキャンペーンは新規契約だけで、機種変更は対象外なんです」とやさしく教えてくれました。
し、しまった。感情が先走って、キャンペーンの内容を良く読むのを忘れていました。機種変更は対象外なのか。僕は何かの利益機会を逃したようで怒っていたのですが、実は最初から何の利益機会も与えられていなかったのです。持っていないものを奪われたといって怒る理不尽。非は100%僕にありです。
というわけで、僕は「誤解をしていました。お忙しいところお手数をおかけして申し訳ありません。ごめんなさい」と謝ったところ、お兄さんは快く許してくれました。その言葉の明るさは仕事の仮面以上のもののように思われました。あー、良かったと思いましたよ。
以前の僕だったら、自分の非を認めたがらなかったに違いありません。新規契約だけって書いてある字が小いせえよとか、相手も仕事だしとか、難癖をつけて過失割合を減らそうと努力したでしょう。謝りたいから謝るのではなく、「謝らされている」という感覚が抜けなかったでしょう。
しかし、何であれ「相手に余計な手間をかけさせてしまった」という事実からは逃れられません。だから、ともかく相手の手間に対して感謝と謝罪をしたかったのです。
努力してこうなったのではありません。いつの間にか(おそらく神さまが)僕を作りかえてくれたのでしょう。僕は欠点を取り除いて下さいとお願いし、欠点の除去とは直接関係ない(ように僕には思える)別のことをしていただけでした。不思議な効き方をするものです。
え? そもそも最初にそんな怒りを感じること自体がおかしい? 電話してごねようと思うのが変? まだまだ回復途上でありますから。それに抑圧するとうつになったりするし。
2007年12月18日(火) 共依存に関して 妻が駅ビル商店街の抽選で当てた家電製品は3択式で、イオン式ドライヤー、フット・バス、iPod shuffleから選ぶようになっています。僕としては、iPod を金を出して買うことは一生ないと思うので、ぜひ iPod にしたいと提案しています。
白樺湖から先は圧雪路でした。今期初めての雪道なので、おっかなびっくりの運転でした。スキー場はもうナイター営業中です。帰り道、「滑るから気をつけてくださいね」と言われたのですが、標高の低いところは温度が高いし、道も白くないと思って油断していました。
トンネルから出た北斜面がすっかり凍っていて、あっと思った瞬間にはもう車が回り出していました。とっさにカウンターが当てられませんでしたが、幸いブレーキが効いてくれました。ABS付きでなかったら、ガードレールまで行っていたでしょう。
しかし最大の難関は、その次の峠で立ち往生したトラックがいくつも路上に放置されて、通行を妨害していたことでした。
さて、アルコホリズムを、肉体の病気と精神の病気に分けて考えるAAのやり方を、共依存というテーマに当てはめてみましょう。「医師の意見」の病気を表現したくだりに、
「飲んでいないときのアルコホーリクは、落ち着きがなく、いらいらが強く、不機嫌であって、飲んでいっぺんにふっと楽になる感覚を再び体験せずにはいられない」
というのがありますが、これを
「共依存関係にハマっていない時の共依存者は、落ち着きがなく、いらいらが強く、不機嫌であって、再び共依存の関係にハマることで、ふっと楽になる感覚を再び体験せずにはいられない」
と言い換えてみましょう。
「そこで、多くの共依存者は欲求に負けて共依存関係を再開する。すると、より深い共依存関係への渇望現象につかまる。そこでお決まりの段階が始まり、関わりすぎては、後悔に襲われ、もう絶対に関わらないと固い決心をするという悪循環が、何度も何度も繰り返される。心理現象のような霊的変化が全面的に起こらなければ、その人には回復の希望はほとんどない。」
ちょっと関わっただけなのに、より深い共依存関係へと進もうとする「渇望現象」が起きてしまうのは、最初の一杯に手をつけたアルコホーリクが次の酒を求めるのと同じ肉体の病気です。その渇望は具体的には脳の中で起きています。
一方、理性が働いているはずのしらふのアルコホーリクが、なぜか最初の一杯に手をつけてしまうのと同じように、何度も繰り返した悪循環への一歩を踏み出してしまうのも「精神の狂気」です。
その処方箋は「心理現象のような霊的変化」です。
過食拒食、買い物、共依存というような、ゼロにするわけにはいかない依存の場合、abstinence の境界線をどこに引くのかは難しいことですが、一度始めてしまうと起こる「渇望現象」と、やめていたはずなのにまた始めてしまう「精神の狂気」に分けて考えれば、おのずと境界線が見えてくる・・・と思うのです。
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