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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年10月11日(土) 仲間の死 「彼には、アルコール無しの人生なんて考えられない。そしてやがてはアルコールの有る無しにかかわりなく、人生そのものについて考えられなくなってしまうだろう。そのとき彼は、誰も知ることのないような孤独を味わう。彼はまさにぎりぎりのところにいる。終止符が打たれるのを心から待ち望むようになる」〜p.220-221
2005年の春のことでした。横浜の女性フォーラムで開かれたAAイベントで、東北のメンバーの「第11章の先頭を読んで、これは自分だと思った」という話を聞いて、11章の先頭って何だっけ? とまるで理解できませんでした。
最後の入院の時、病院のケースワーカー室に古いビッグブックがあって、入院中に二度は通読しているはずです。退院後も事情があって毎日AAミーティングには行けず、かわりにビッグブックを読んでいましたから、11章だってずいぶん読んだはずです。
「ビッグブックの集い」なんてものに関わって以降、何度も何度もビッグブックは読んでいるはず・・なのですが、先頭から読み出しても11章までたどり着いた回数は意外と少なかったのかも知れません。
改めて読んで「これは自分だ」と思いました。
AAに来て酒がやめられて素晴らしい、と口では言いながら、実は再び無事に酒を飲めるようになれるんだったら、それこそ何でもしたい気持ちでした。その気持ちを無理に封じ込めていけば、やはり死にたい気持ちが浮かんできたものです。「なにがあっても酒を飲むことだけはダメだ」と思いこめば思いこむほど、死は近くにありました。
今は幸いそういう気持ちからは解放されています。まあ、することをサボっていれば、またぶり返してくるでしょうけれど。
11章の続きには「私たちはそこからどうやって脱出したのかを述べてきた」とあります。アルコールに代わる素晴らしいものはあります。けれど、それを伝える能力のない自分を情けなく思うこともしばしば。でも、それも含めて自分なのでありましょう。
ステップをやるのに早すぎることはない、という確信が強まった出来事でした。
あの春のイベントで一緒にお昼を食べた仲間と、新しいグループをはじめたのが半年前。思えば不思議な縁です。
「神さまは、運命の糸を紡いだり、チョンと切ったりする」
という言葉に思わず笑ってしまいましたが、まさにそんな感じであります。長い苦しみから解放されて良かったね、としか言いようがありません。
2008年10月09日(木) 職場の飲み会でした。 最近会社から実力のある人たちが辞めていきます。そういう人たちに限って、僕のことを前社時代から評価してくれていたので、社内で僕をひいき?してくれる人が減ることにもつながります。今回飲み会に誘ってくれた人は、そんな中でも会社に残っている営業部長さんなので、関係は大事にしなければなりません。
おまけに、その飲み会は元来6月に「離婚したHさんを励ます会」として設定されたものが、忙しくてずるずる10月までずれ込んだものなので、逃げるわけにもいきません。
部長さんは、数年前に離婚し、1年ほど後に再婚しています。離婚前から「次の奥さん」を準備していたわけではないそうです。1年で扶養家族ありに復帰したテクニックを伝授してもらう、っていう冗談を言っていたのですが、4ヶ月も経ってしまえば「そんなのどこへでもまめに顔をだせばいいんですよ」の一言でその話はお終いになりました。
話題はどうしたって、同僚の奥さんがどうとか、お子さんがどうとかいう話になりがちです。独身のやつに彼女がいるといないという話も。
4人で飲んだうち、部長を含めた若い二人は家庭持ち。僕は再婚指向。前社時代から10年以上のつきあいの同僚は、独身でおまけにしばらく前に10年以上つきあった彼女と別れたばかり。なので「で、彼女と別れて、その後どうなのよ」という話になりました。
彼曰く、「楽になった」そうです。
毎週日曜日に「どっかへ連れて行け」と言われて、一緒に遊ぶのは楽しかったけれど、しんどかったと。今は金が貯まってうれしいそうです。
寂しくないの? と聞いてみると、そりゃ別れた当初は落ち込んでいたけれど、雑種の子犬を飼ってから楽しくて、毎週末犬と遊んでいるそうです。
よくしつけられて、言うことを聞く犬に慣れてしまうと、また今度人間の女を相手にするときに、とってもしんどいんじゃないかと周りの3人は心配したんですけど、彼は「もう女いらないかも」と言います。
若いときに感じた、あの女に対してムラムラする気持ちが戻ってこないそうで、要するに中年の坂を転がり落ちていると、性欲も次第に減退してくると言いたいのでしょう。「確かに、もうアダルトビデオとか見るのがめんどくさくなってるもんな」とか誰かが言って、皆で自分の中にもそういう部分を見つけて暗くなっていました。
沖縄料理の店で、烏龍茶がなかったので、ウコン茶2杯、ジャスミン茶1杯を飲みました。締めにソーキそばを食べたら味が薄いのが気になりました。七味をかけようとおもったら、瓶の中身が液体です。珍しいと思いつつ、念のため匂いを確かめたら、ぷ〜んとアルコール臭がしました。唐辛子を泡盛に漬け込んで七味の代わりにしているんだそうです。
味気のないそばを食べて帰ればすでに11時でありました。
2008年10月08日(水) そう思わないとやってられない お風呂は僕の毎日の楽しみです。
しかし、さすがに今日は遅くなったので、シャワーにとどめました。
それでも毎日自宅のお風呂に入れるって素晴らしい。とゆうか毎日自宅に帰れる仕事って素敵。これで自宅で誰かが待っていてくれたら、とか言い出すと、途端にグチっぽくなるので、それはおいといて。
シャワーを浴びながら、今日あった一つひとつのことを思いだし、はたして「その出来事に意味があったか」と考えてしまいます。有意義なことをしたのか、無為に過ごしたのか、あるいは害になっただけか。いろいろ考えても結論は「分からん」です。
無駄な時間を使ったようでいても、意味があったのかも知れません。
人の役に立ったと思っていても、実は足を引っ張っていただけかも知れません。
そう思うと、自分の行動、自分の毎日、自分の人生に、意味があるのかどうか、それすらも疑わしくなってしまいます。
でもたぶん、ずっと上の方から、大所高所から見渡して、いろいろと考えて意味を与えてくれる存在があるのでしょう。だから自分で意味が分からなくても、神さまが考えてくれるから大丈夫。てゆーか、そう思わないとやってられません。
自分でもっと努力すれば意味が分かるかも知れない、と頑張ってみることもできたわけですが、もうそれに疲れていたわけです。酒をやめたかったと言うより、飲むことに疲れていた。だから酒をやめたというのに似ています。
「AAはそれを必要とする人のためにあるのではない、AAを求める人のためにあるのだ」という言葉がありました。
○○はそれを必要とする人のためにあるのではない、それを求める人のためにあるのだ。
○○にテキトーな言葉を入れてみると、なんとなくそれっぽい警句になりますな。
信仰とか、
お金とか、
おっぱいとか。
最後は下世話かつ意味不明になってしまいました。きっと僕は疲れているに違いありません。
2008年10月07日(火) アル中になって アル中になって良かったか悪かったか、という話をしました。
そりゃまあ、アル中になって職も金も人間関係も失ったし、知らぬ間に若さも失ったし、精神病院にも入院しましたから、アル中になったことは損でした。
でもその一方で、それなりの恩恵もいただいているのは確かで、それは他に代え難いものです。
良かったか悪かったかと言われれば、「アル中でない人生は生きてみたことがないので比較のしようがない」としか答えようがありません。あのままアル中にならなかったら、今頃ボストンあたりに住んでパツキンの妻との間に可愛いハーフの子供をもうけていたかも知れません。あるいは、地元に残って中学校の先生になり、妙に若い奥さんをもらっていたかも知れません(なんだか奥さんにこだわるな)。
それに比べて今の生活が惨めというわけでもないし。なんとなく、いろいろと愛されているという実感はあります。妄想と現実を比較して、自分を自分で惨めにする必要もないのです。
良かったか悪かったかは分からないのですが、この世の中に自分はたった一人である以上、アル中でない自分は存在しません。アル中である自分しかいません。つまり「アル中である」ということは、自分と分かちがたい一つの個性であり、それがなくなってしまったら僕が僕ではなくなってしまいます。それは「片目が見えない」とか、「遷延性うつ病」とか、「血液型AB型」と同じ、僕の大事な特質です。
はてさて話は変わって、神さまは(ハイヤー・パワーは)、その人の回復のステージに見合ったものを与えてくれます。回復の度合いに見合った仕事とか、人間関係とか。見合わないものは、例え間違って与えられても、いずれ失うことになっています。
異性についても同じで、その人の回復のステージに見合った異性しか与えてもらえないのです。ろくでなしの相手を嘆いてみたところで、その相手を選んだのは(というか与えられたのは)、自分の回復がそこまでしか進んでいなかったからです。要するに釣り合いが取れているわけですよ。
と言う話は、現在進行形のカップルにはなかなか言えないものです。破局が訪れた後で、その片割れに「あなたがきちんとステップをやって、もっと回復すれば、あれよりずっと良い相手が与えられるよ」と言って励ましてあげるのがせいぜいでしょうね。
要するに、自分が満足できていれば、それでいいって話ですよ。
2008年10月05日(日) アルコールとセックス ネタがないので、適当な話題を拾っておきます。
アルコールを飲むと性欲はどうなるか。アルコールには前頭葉(理性)による抑制を取り除く効果があるので、飲めば男女ともに性欲が昂進します。ひらたく言うと、より「やりたい気持ち」になるわけです。
男性の場合、さらに血中のアルコール濃度が高めていくと、勃起中枢が機能しなくなって、ペニスの勃起力が急速に低下していきます。やりたい気持ちはあっても、できなくなってしまうわけです。デートの時にお酒を飲み過ぎちゃって、後で彼女に叱られた、という話はアル中さんに限らず、一般の人にもありがちな話です。
女性の場合には、アルコール濃度が高まっていくと、テストステロンという男性ホルモンが増加することが知られています。テストステロンは性興奮を高めるホルモンなので、当然性欲は高まります。しかし飲み過ぎれば眠く無気力になるのは男女同じで、「やりたいのにその気になれない」という結果になります。
結局のところ、過剰なアルコールは性衝動を高める一方で、性活動を抑制してしまい、フラストレーションが高まる結果となります。まあ、単純に飲みすぎは体に良くないと言っているだけなんですけど。
さて、肝臓がアルコールを分解するには、アルコール脱水素酵素が必要です。実はこの酵素は男性ホルモンの合成にも使われています。アル中さんのように毎日たくさんのお酒を飲んでいると、肝臓はたくさんアルコールを分解しなくてはなりません。すると、男性ホルモンの合成に必要な酵素が不足してきます。
結果として男性ホルモンが減ってくると、精巣が萎縮し他の男性ホルモンの分泌量まで減り出します、女性ホルモン優位の体になっていきます。筋肉は落ち、体毛が薄くなり、胸の脂肪が乳房化し(女性化乳房)、なによりも性欲が低下し、最後はインポテンス(勃起不全)になります。無精子症も。
「うちのダンナはアル中じゃないけれど、毎晩飲み過ぎて夜の生活ができないので、子供ができない」という話は、まずアル中さん間違いなしでしょう。
もちろんすべてのアル中男性がそうなるとは限りません。だいたいもともとのテストステロンの量には個人差があります。酒を飲みながら活発に性活動を行っていたという人もいますが、やっぱりテストステロンが多いせいなのか、頭髪が不自由な方が多いように思います。逆に「ホテトル嬢を呼んだんだけど、できなくて、金だけ払って返した」というような話をしている人は、ふさふさとした髪の毛を維持している、という傾向を感じます。
いずれにせよ、酒をやめれば精巣の機能は徐々に元に戻るようで、酒をやめて半年1年と経てば(個人差はあれど)男たちの顔は脂ぎってくるわけであります。もちろん煩悩も戻ってくるわけです。
そうならない場合には、うつ病などのアルコール以外の問題が隠れていないか調べてみるべきでしょう。
2008年10月03日(金) 恥? 病気であることは恥ずかしいことなのか、ということを再び考えてみます。
福岡で小学1年生が母親に絞殺された事件がありました。「我が子殺し」の倫理うんぬんという話はざっくり省きます。
僕はテレビを持っていないので、ニュース番組もお昼のワイドショーも見られません。新聞もとっていません。ニュースソースはネットの新聞社のサイトだけです。少なくともネットのニュース記事を読む限りでは、母親は「体調不良」あるいは「病気」であったとのみ、子供のほうは「特別支援学級」に入っていたという程度のあいまいな記述しか見かけませんでした。
母親が進行性の難病に苦しんでいたことや、その病名。あるいは子供の発達障害の程度ということは、ニュースには現れてきません。確かに病名などは明かすべきでない個人情報であるのかもしれませんが、他のことであれば容赦なくプライバシーを暴き立てるメディアが、ことこれに関してはあいまいにお茶を濁します。
そこがあいまいであれば、事件に至るまでの母子の事情よりも、殺人事件後の母親の狂言に興味が集まってしまうのは当然でしょう。
発達障害ゆえに母親を追いつめざるを得なかった子供。子育ても困難な病状に絶望していた母親。そのように追いつめられて、殺人事件という結果になってしまったことの「やりきれなさ」がこの事件のキモであると思うのですが、どうも世間は狂言の真意などのほうに興味が映りがちです。もちろん、ニュースメディアと言えども商売なのですから仕方ないことなんけど。
殺人という最悪の結果になるのだったら、その前に助けを求めれば良かったわけですが、それができない、それがしにくい世間の有り様。そして、ニュースに病気や発達障害のことが乗らない世間の有り様。この二つは同一のものでしょう。
つまり、「病気であることは、あるいは障害は、隠さねばならない<恥>である」という社会の有り様です。そして「そんなことになるなら、その前に助けを求めれば良かったのに」という話が、同じニュースメディアに流れていくやりきれなさです。
考えるのが面倒になったので、ここらへんでおしまい。
2008年10月02日(木) AAオン・ザ・ライン 木曜日は残業ディということで、まだまだ同僚たちは仕事を続けていましたが、僕はフルタイム勤務に順応することも考えねばなりませんので、珍しく8時前には自宅に戻っていました。
最近では珍しく自炊もしました。スパゲッティをゆでて、インスタントのペペロンチーノのかけただけです。炭水化物と塩分しかありませんが、インスタントの玉子スープも飲んだのできっと大丈夫でしょう。
木曜日なので、以前お誘いを受けていたSkypeを使ったミーティングに参加させて頂きました。自宅にいてくつろいだ格好で、真面目なミーティングに参加できるのは、なんとも不思議な体験です。第一週はスピーカー・ミーティングということで、Nさんのお話しが続く間、実は僕は何をしていたかというと、マイクをミュートして洗濯物を干したり畳んだりしておりました。
パンツを畳みながら、Nさんの話に、しんみんりと自分の過去を思い出していたりいましたよ。ええ。
スカイプ・ミーティングについてのご案内はこちら。
http://aaskypemeeting-jp.blogspot.com/
聞いている人の表情が見えないので、face-to-faceのミーティングより若干話すときに緊張感が高いかもしれませんが、たぶん回数を重ねれば慣れるでしょう。近くにミーティング場がないという方も、あるいは(21:30-22:30なので)仕事で遅くなって地元のミーティングに間に合わないって方にもよろしいのではないかと。
僕も早く帰れたときは、なるべく参加させて頂きます。
リンク集にドバタケさんのブログ パンドラの希望 を追加しました(愛称「パン希望」^^)。それから九州沖縄セントラルオフィスの携帯用ページを追加しました(情報感謝)。
2008年10月01日(水) 対症療法をしない 午前中の仕事が一息ついたので、雑記を書いてみたり。
昨日のミーティングは「ステップ7」でした。
6と7は性格上の欠点と神との関係がテーマです。
僕は最近、「性格上の欠点は、いわゆる風邪の症状みたいなものなのではないか」と思うのです。
風邪を引くと、熱が出たり、咳や鼻水が出たり、頭が痛くなったり、めまいがしたり、お腹を下したり・・・といろいろな症状が出ます。
性格上の欠点もいろいろで、12&12のステップ4には「七つの弱点」として高慢、怠惰、飽食・・などがあり、ビッグブックには自己中心、不正直、恐れ・・などがあります。
で、風邪の症状のバリエーションと、性格上の欠点のバリエーションが、よく似てる気がします。症状を治そうとしてみても始まらないのではないか、と思うのです。
つまり、熱が出るから解熱剤、咳が出るから咳止め、下痢すれば下痢止め、そんな感じで対症療法をやって無理して活動するよりは、休めるならゆっくり布団で休んで風邪そのものを治すのが本筋です。同じように、高慢だから謙虚になろうとか、怠惰だから勤勉になろうとか、不正直だから正直になろうとか・・、これもやっぱり対症療法に過ぎないのではないかと。本筋は霊的な病を治すことだと思うのです。
じゃあ霊的な病とは何なのか・・。AAの言葉で説明せずに、別のところ(実はうつ病の本)から引っ張ってきましょう。
・自己肯定感の欠如(自分との親密さの欠如)
・他者との親密さの欠如
・神との親密さの欠如
スピリチュアルな健全さとは、自己信頼があって、他者や神と親密な関係を築いている状態でしょう。同時にこれは「霊的に目覚めた、アルコールから解放された状態」として、AAメンバーが目指すべき目標です。
大切なことは、ステップ2と3の理解。スピリチュアルな目覚めが、私たちをアルコールからも他の問題からも救ってくれるという理解。そして、ステップ全体はそれを目指す手段だという理解です。
ところが、ステップ2と3をすっ飛ばして、6と7で「性格上の欠点」と向き合ってしまうと、そもそも自己肯定感がない人、あるいは他者(神)との関係に親密さより恐れを感じている人は、たとえばこんな風に考えてしまいます。
「自分は怠惰である。だから人から認めてもらえないのだ。怠惰をやめ勤勉になれば、みんなから良い人だと認めてもらえるのじゃないか」
こうやって努力しても、なかなか人から「よく頑張ってるね」とほめてはもらえません。いずれ努力するのが嫌になって、「ステップって難しくてできません」と言い出すでしょう。この人は解熱剤を飲んでがんばって仕事している人に似ています。そのせいで風邪をぶり返し、寝込む羽目になって人に迷惑をかけ、「どうして俺こんなにがんばったのに、ほめてもらえずに責められるんだろう」と逆恨みをしているのです。
自分、他者、そして神との親密さ。これこそが性格上の欠点を取り除く本筋です。欠点だらけでも他者から受け入れられ愛されるものですし、神様はあなたがどんなに欠点だらけでも愛してくれます(だって神様はなんでもできるんでしょ、欠点があるからあなたを愛せないなんて決しておっしゃらない)、だからこそあなたは欠点だらけの自分に対して、深い深い自己肯定感を育てていけばいいのです。
そうやって気がついたときに、怠惰がちょっとだけ勤勉に変わっていたりしますよ。
「幸せは蝶のようなものである。蝶を掴もうと思えば逃げられるけれども、他のものをじっと見つめていれば、いつの間にか蝶が静かに肩の上に止まっていたことに気づくものである」
2008年09月30日(火) 不思議と言えば不思議 単純に考えて、ビッグブックという本は、AAという集まりを広報(広告)するために出された本ではありません。
AAの最初の100人は「自分たちのメッセージと他に類のない体験を、世界中に伝えるため」に「本を出版する」という手段を選びました。それがビッグブックという本として結実したのです。
最初の100人は、AAを広める手段として、メンバーが全米あるいは世界中に散って、各地でAAグループを立ち上げていく方法は取りませんでした。同様に、スポンサーからスポンシーへと直にメッセージを伝えていくやり方だけに頼ることもできなかったのです。当時の彼らがそのことに固執していたなら、AAの広がりは遅々としたもので、半世紀たってもAAが世界で百万を超えるメンバーを抱えることもなかったでしょうし、日本にAAが伝わってもいなかったでしょう。
日本人の僕が今AAで飲まない生活をさせてもらっているのも、そうした彼らの決断のおかげです。とりあえずそれに感謝です。
ビッグブックの1939年初版の「個人の物語」の最後には "Lone Endeavor"(孤独な努力)というストーリィが載っていました。これはロサンゼルス在住のPatというアルコホーリクからの手紙です。Patはどうしようもない飲んだくれだったのですが、彼の母親が医者からAAのことを聞き、AAのオフィスに問い合わせてビッグブックの原稿を入手しました。
彼の手紙は、彼がビッグブックによって助かって、今では他の人たちの手助けを始めていると結ばれていました。ニューヨークのAAメンバーの興奮は大変なものでした。彼こそ「本だけによってメッセージが伝わった最初の例」だったからです。というわけで、彼の手紙は初版の入稿に間に合わせて掲載されることになりました。また、感激したメンバー達はカンパを募り、長距離バスの切符を買って、Patをニューヨークへと招待しました。
が・・・、メンバーが待ちかまえる中、ニューヨークに着いたバスからはPatが降りてきません。彼は長距離バスの中で飲んだくれてしまったのです。というわけで、初版の二刷りからは "Lone Endeavor" は削除されてしまいました。というドタバタ劇ですが、最初のメンバー達が「本によるメッセージの伝達」にいかに執心していたかを伝えるエピソードとして、僕はこの話が好きです。ちなみに、"Lone Endeavor" は「経験と力と希望」というAAの本に再録されています。
「私はビッグブックを信じている」と真顔で言う人たちが、なぜあの第二版の序の一節だけ信じようとしないのか、僕には不思議でなりません。いや、ビッグブックを詳しく読めば、あの本のあちこちに、「この本を読んで、孤独にステップをやって、ともかくその地域の最初の一人になって、他の人を助けてくれ」という強い意志を感じるものだと思いますが、どうやってそれを無視しているのでしょう。
まあ、人のことはどうでもいいか。自分のこと優先で。
2008年09月28日(日) 雀鬼 アルコール摂取による気分の変動は大きかったと思います。そりゃ酩酊飲料ですからね。
酒を飲んでいた頃は、アルコールに比べれば、カフェインや糖分など「たいして意味はない」と思っていました。それぐらい、アルコールの影響は大きかったのです。
でもしらふになってみると、カフェインや糖分による気分の変動もかなり激しく感じられます。
男女でデートをするときに、食事の後でお酒を飲みに行ったり、あるは最初から居酒屋で飲んだり・・それは「お酒を二人で飲むと楽しいから」ってのはわかるのですが、なぜ喫茶店で二人でコーヒーを飲んだりするのが楽しいのか理解できませんでした。アルコールの代わりにカフェインという化学物質を使っているのですね。
気分がすっきりして高揚し、ますます二人でいるのが楽しくなる、というわけです。もしくは、甘いものを食べて、血糖値が上がってくるのも楽しいし。
僕が、アルコールの価値だけを偏重、偏用していたので、カフェインや砂糖の効用に気づかなかっただけなのです。お酒をやめたら甘いものが好きになる、って話もこの範疇でしょうか。
AAミーティングの後で仲間と食事に行くと(いわゆるアフター)、ついついドリンクバーを頼んでしまい、2杯も3杯とコーヒー紅茶を飲むと、気分が高揚して話が楽しいのですが、2時間もするとかえってイライラしてきます(そりゃアフター長すぎ!)。おまけに帰宅してから不眠です。
カフェインも毎日習慣的に多く摂取すれば、あっという間にハマりそうな気がします。朝起きたときに、薄目のレギュラーコーヒーを一杯飲んだ後は、せいぜい業務時間中に飲むコーラか、夕方のAAミーティングで薄いインスタントコーヒーを飲むのが、僕にはちょうど良い量です。糖分の効用も身にしみて分かっています。
「コーヒー飲んでテンションあげないとやってられない」
という話を聞くと、ああ、この人もカフェイン・ジャンキーなんだなと思ってしまいます。でも人のことは言えません。
昨日はスポンシーの棚卸しの最後の表を聞きにいったのですが、途中のコンビニでブラックのコーヒーを買っていきました。
「珍しいですね。コーヒーは飲まないんじゃなかったんですか?」
「これ飲んでテンションあげないとやってられません」
ステップ4の表で、あまりに登場人物が多いので、ステップ8の表に書き写すのに時間が長く、途中で見捨てて帰っちゃいました。こうなることは4の表を見たとき分かっていたのですが、まさか、4の表を書いている最中に「あんまりたくさん登場させると、あとで8/9が大変ですから、ほどほどに」とは言えませんしね。表はともかく、実際の埋め合わせはなかなか進みませんが、長生きして少しでもリストを消していってください。
雲の上から、ケータイの電波の届く地上へ帰ってくると、いろいろメールや留守電が入っていました。コーヒー飲みながら深夜までスカイプなど。おかげで、横になっても朝方までまんじりともできず。
午前中は眠くて仕事もぼちぼちでしたが、先ほどドリンク剤を飲んだので、そのカフェインが効いてきました。これから夕方までがんばります。
「これ飲んでテンションあげないとやってられない」
僕も立派なカフェイン・ジャンキーかもしれません。
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