心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2010年03月16日(火) スティグマのある病気の告知

統合失調症(精神分裂病)の告知を受けていない患者さんは意外と多そうです。医者は治療上のメリットがなければ、告知をしないのかもしれません。家族は告知を受けているけれど、本人はご存じないというケースもありました。

AAに来る人の中には、当然統合失調の人もいます。AAはアルコールの問題だけを扱っているので、統合失調か否かは問題じゃありませんが、しかし気になってしまう時もあります。例えば幻覚・幻聴の内容です。

昔の精神科は入院が必要になるような重度のアル中ばかりを診ていました。そんな時代でも、幻覚(幻視)・幻聴を体験する患者は半分以下だったそうです。それでも僕がAAにつながった十数年前には、幻視・幻聴体験を話す人は珍しくありませんでした。その後、健康日本21のような国策のおかげでアルコール依存症の二次予防が進み、比較的軽症のうちに治療を開始する人が増えた結果、幻視・幻聴体験を持つ人の比率はさらに下がっている印象を受けます。

だからAAのミーティングで幻視・幻覚の話が出るだけで少々珍しいことなのですが、その内容がちょっと気になってしまったりするのです。アル中の人の妄想はたいてい被害的で、例えば声の幻聴が聞こえる場合にはたいてい非難する内容で、幻聴が褒めてくれるということはまずありません。しかし聞いていると、それはアル中の幻視・幻聴ではなく、統合失調のさせられ体験や被害妄想ではないかと思えてくるケースもあります(この違いは言葉では説明しにくい)。実際に、後になって治療上の必要から告知を受けたという告白を受けたことがありました。

医者が告知しない理由は、統合失調症にスティグマがまとわりついているからでしょう。本人の悩みを増やすだけなら告知の意味がありません。陰性症状(感情鈍麻・思考困難・意欲低下など)主体で妄想がほとんどない人もいますし、若い頃は陽性症状が目立ったけれど今は陰性の残遺症状があるだけの人もいます。その若い頃に酒を飲んでいたなら、急性症状もアル中の症状の一つにされちゃっているかもしれません。あるいは本人はそれを妄想だと思っておらず、実際にあったことだと信じていても、話を聞いてみると、いろいろつじつまが合わなかったりとか。

酒をやめた後も生き辛さが残ってしまい、それはアル中以外の何らかの病気があるからではないか、と考える人は珍しくありません。例えば雑記に発達障害の話を書けば、「私は発達障害でしょうか?」というメールが舞い込みます。ところが統合失調の話を書いても、同様のメールの数はほとんどきません。それは、「生まれつき」のほうが統合失調より社会のスティグマが少ないからだと想像しています。

自分は何かの病気ではないかと考えて、それを調べてみる。そういう「自分探し」は決して悪いことばかりではありません。時にはそれによって解決に向かうこともあるでしょう。けれど、どんな真実が出てこようともそれを受け入れる覚悟がないのなら、自分探しはやめるべきです。医者が「うつ」と言っているのなら、そういうことにしておけば良いと思うのです。

統合失調と境界性人格障害(ボーダー)の境、統合失調と広汎性発達障害(アスペルガー)の境、統合失調と非定型うつ病の境、どれにも明確に区別できない曖昧な部分があるようです。はたしてそこで正確な診断が必要なのでしょうか。医者は病名に対してではなく、症状に対して薬を処方してくれます。病名は便宜的なものです。正確な診断があってもなくても、治療(例えばカウンセリングに行く)が同じなら、診断にどれだけ意味があるのでしょうか。

医者が告知しないのには理由があり、それを信じれば良いと思います。明らかに未治療である場合を除いて、第三者が首を突っ込むべきでない問題だと感じています。


2010年03月14日(日) 35周年記念集会

AA日本の35周年記念集会に行ってきました。
長野を出発したのは6時半。途中でのんびりモーニングセットを食べたせいで、9時半の開始時間に間に合いませんでした。でもちゃんとご飯を食べるのは大事なことなのです。
いくつかの部屋で同時進行でミーティングが行われており、スポンサーシップについてのミーティングを聞くつもりでいました。事前に仲間から案内があり、以前ごく短期間スポンサーをお願いした仲間がスピーカーをやることが分かっていたので、それを聞こうと思ったのです。しかし遅刻したせいでその部屋は満席。12の概念の部屋も同様に満席だったので、「関係者との分かち合い」の部屋を選びました。空いている席に着いてみると、横が葛西先生。斜め後ろは岡崎先生でした(岡崎先生とは面識をいただいていませんが)。

アメリカのドクターの話、山梨の大河原先生の話。それから質疑応答。

ある病院がアルコールのデイケア・ナイトケアに患者を囲い込むようになったおかげで、その近辺のAAメンバーが減っているという話がありました。病院は送迎してくれるので患者も楽だし、福祉事務所のケースワーカーもそちらを使わせたくなってしまう、という事情があるのだそうです。ところがデイケア・ナイトケアというのは社会復帰用のリハビリとしてはいま一歩であり、経済的に自立させようとした途端に再発というのもありがちな話です。

アルコール依存症の治療が通院指向になり、また厚生労働省が精神科デイケアへの保険点数を手厚くしたおかげで、アルコールのデイケアが全国的に増えているのだそうです。患者の囲い込みはその地方だけの問題ではなく、全国的な現象というわけだ。しかし今後はそれも抑制傾向になるかもしれない、という話でした。

外部の環境の変化によってAAが増えたり減ったりするのは仕方ないことですが、あまりAA外部に原因を求めるべきではないと思います。患者さんがAAよりデイケアを選ぶのは、デイケアに魅力を感じるからでしょう。「回復」という点でAAに魅力を感じて貰えないことが問題なのです。AAの成長が語られるとき、それはメンバー数、グループ数、会場数などの量的拡大についてばかりです。量ではなく、質が語られねばならないはずなのに。

アメリカの都市部には、無料でドライアウト(アルコールの解毒)をやってくれる施設があるという話でした。期間は5日間程度で、解毒専門です。一方で、以前はたくさんあった長期治療施設(長期といっても3〜4週間だけど)は減っているそうです。これは3年前のホワイト先生のワークショップで語られていたことと同じです。アメリカ社会のアルコホリズムに対する態度が変化していることが背景にあり、依存症を病気として治療するよりも、道徳的な問題として懲罰の対象にしようとする潮流があるわけです。

たまたま隣に座っていた仲間が「リカバリーパレード」のチラシを持っていました。アメリカではそうした傾向を反転させようと「回復擁護運動」が活動しています。リカバリーパレードはその日本への波及で、

「アディクションや心の病などに対する社会の偏見を取り除くのは回復者自身の責任である」

というホワイト先生の言葉をスローガンとして、今年の秋に東京で回復者の祭典(パレードなど)を行い、回復可能な病気であることを社会にアピールする企画です。

さて、お昼に昼食難民になっていたら、東京代々木のグループの面々が通りかかったので、くっついていって一緒に食事をさせてもらいました。このグループの雰囲気は他では得がたいもので、僕は「東京で出席するのにお勧めの会場はありますか?」と聞かれたときに、迷わずお勧めする会場の一つです。東京神奈川県境で新しくグループを作った仲間に近況を聞かせてもらうこともできました。

午後は大きなホールで、アメリカやモンゴルや韓国のメンバーのスピーチを聴いていましたが、前夜からの睡眠不足もあって頭痛がしてきました。とはいえ寝る場所もないので、隅っこに行って頭痛薬を飲み、戻ろうとしたら、「ひいらぎさんですよね」と声を掛けられました。「家路」にメールをくれた人で、AA以外のグループの人でした。頭痛薬が効いてきたのか、それとも単に女性と話ができて嬉しくなったのか、僕のステップの解釈の押売り話を30分ほどしてしまいました。その人が何年もかけて悩んできた仕事上の問題と、僕が夕食後すぐに歯を磨く気になれない問題を、同じ「性格上の欠点」にまとめてしまったのは失礼だったかもしれませんね。

別の仲間が「最近人を裁く傾向が強くて」という話を持ちかけてきました。ここはAAの会場で皆が回復を分かち合っているのですから、文脈からすれば「性格上の欠点」に話を持っていくべきなのかもしれません。けれど、最近の彼の事情を聞かされている身としては、そっちへ話を持っていきたくありませんでした。

僕の考えでは、人間は誰だって「うん、うん、そうだね」と頷きながら聞いてくれる話し相手が必要です。結婚している男の場合には、奥さんがその役目を引き受けている場合も少なくありません。何かの家庭の事情で奥さんがその役目ができなくなってしまうと、旦那さんのメンタルがちょびっと不調になって、仕事やAAでのパフォーマンスが落ちてしまうのは異常なことではありません。そんな時にはスポンサーに話を聞いてもらうのもいいし、それが忙しくて捉まらないようなら、スポンシーにその役目を負わせてもオッケーだと思います。きちんとプログラムができているスポンシーだったら、心配いらないはずです。なにせ時間を割いて無償でプログラムを渡してあげたんだから、たまにはそういう形で「支払って」もらってもいいじゃないのさ。

昼間のプログラムが終わってホールからどっと人が出てきてホールに溢れました。そこで会った仲間と「ネット上でのAAメッセージの運び方」みたいな話をしました。立ち話もなんなので、長野から一緒に来た仲間と合計3人で夕食にラーメンを食べながら続きの話をしました。話の中身については、改めて雑記に書きたいと思います。

夜は地元の仲間に誘われて名古屋観光に出てしまったので、結局ミーティングには一つも出ませんでした。たくさんの人たちが来ていました。ただ大きな集まりだと、せっかく知り合いと会ってもゆっくり話をする時間がないのが残念です。でも今回もまた人と知り合うことができました。長野に帰ったら夜半前。今回は同行してくれた人がいたので、交通費が半額で助かりました。実は5年ごとの記念集会に行くのは今回が初めてだったんです。


2010年03月11日(木) 信仰についても高すぎる要求を自分にしない

「ステップ2でつまずいている」と言う人がいます。

その考え方は否定しませんが、僕はそうした話を聞くと、心の中で「はたしてそうだろうか?」と考えます。実はその人はステップ1でつまずいているのではないか。アルコールに対する無力を認めることができていないんじゃないか、と思うのです。

しかし、それは置いておいて、ステップ2にも難しさがあるのは事実です。

ステップで使われる「神」という言葉は、あくまで「自分で理解した神」という意味です。決して他の人の理解する神ではありません。神という言葉を聞いたときに、キリスト教やその他の宗教の神を思い浮かべる人が多いのですが、その信徒でない限りその神を思い浮かべるのは適切ではありません。なぜなら、それはその人の理解できている神ではないからです。

理解できていない、つまり信じることができない対象(神さま)を信じようとしても、それは無理です。無理なことはやめて、いま自分が信じられるものを信じればいいのです。

ではいま自分がどんな神さまを信じているか?

たとえばこんな質問をします。もしあなたの願い事を叶えてくれる神さまがいるとしたら、あなたはその神さまに何をお願いしますか? マジで考えてください。

仕事の成功、お金、健康、異性などなど。人によって願い事は違うでしょうが、ちゃんと考えてくださいね。

では次の質問です。もしその願い事を叶えてくれる神さまが、本当にいるとしたら、あなたはその神さまを信じてもいいと思いますか?

はい。そういう自分に都合の良い神さまだったら信じてもオーケーだ、と答えられた人は、もう「信じることのできる対象(神さま)」を持っているわけです。

もちろん、そうした都合の良い神さまを信じることは、稚拙な信仰です。「そんな未熟な信仰ではいけない」と私たちは耳タコで聞かされてきました。祈りとは願い事ではないと聞かされてきました。だから私たちは自分の理解できる神さまを捨て、人の信じる神さまを自分も信じなければと四苦八苦してきたのですが、それは間違ったやり方でした。

「ほかの人が信じる神のことは考えなくてよいのだとわかって、とてもありがたかった。あまり適当でなくても、自分なりの考えで、神に近づき、神に触れることができた」(p.68)
「そうして時間がたてば、とうてい手の届かないものにしか思えなかった多くのことが、受け入れられるようになった自分に気づくようになる。それが成長なのだが、成長するには、どこかで始めなければならなかった。だから私たちは、自分なりの神への理解から始めた。たとえそれはせまく、かぎられた理解だったとしても」(p.69)

立派な信仰を持つに越したことはありませんが、すぐにそうなれるわけではありません。幼児洗礼を受けて毎日曜日に何十年も教会に通い続けて得られるような信仰心を、たった十数回AAミーティングに通っただけで得られるはずがありません。立派な神さまを立派に信仰するという無茶な要求を自分にするのは止めて、いま自分の立っている場所から出発するしかないのです。

自分がどうしても神を信じることができない、理解することができないと言う人は、信仰心についても「立派な信仰を持った自分」を無意識に要求しているのです。そうではなく、拙かろうとも等身大の信仰から始めるしかありません。

ステップ2は、どんな神さまを自分は信じているか、どんな神さまなら信じられるか、ということから始めるしかありません。それが「私はこんな神さまを信じています」と人に言うのが恥ずかしいような幼さであったとしても、ともかくそこから始め、あとはそれを成長させていくしかありません。


2010年03月10日(水) selfish/self-seeking(利己的と身勝手)について決着

今回はテクニカルな話です。

RDPの棚卸し表では、第4列(自分の過ち・欠点)には4つチェックする欄があります。
先頭から「利己的」「不正直」「身勝手・恐れ」「配慮(関心)の欠如」です。

これはビッグブックの以下の場所から来ているのでしょう。

 Where had we been selfish, dishonest, self-seeking and frightened? [p.67]
 自分がどこで利己的で、不正直で、身勝手だったのか。何を恐れていたのか。(p.98)

 Where had we been selfish, dishonest, or inconsiderate? [p.69]
 私たちはどこで自分勝手であり、不正直であり、思慮を欠いていたか。(p.101)

ここで問題になるのは selfish(利己的)と self-seeking(身勝手)の違いです。二つの違いについて入手できる情報と言えば、『ビッグブックのスポンサーシップ』に数行書かれているぐらいですが、困ったことにその文章が要領を得なくて違いがよく分からないのです。

先月奈良で、RDPの開発者ジョー・Mの後継者であるラリー・ゲインズ氏によるRDPのワークショップがありました。その中でも「この二つはどう違うのか?」という質問が出ていました。それに対するラリーさんの答えは極めてシンプルで、

「程度の違い」

というものでした。
selfish → self-seeking → self-centered の順に程度が酷くなっていきます。この程度とは「どれだけ求めているか」、つまり強迫感の強さです。この3つに共通するものは self つまり自分に(だけ)利益をもたらすという点です。

例えば同僚と昇進を争っていて、どちらかが上のポストに就けるとき、相手の足を引っ張ろうとして相手の能力に疑問を呈するアピールをする程度だったものが、自分が昇進できない不安が強まると、ウソの噂を流して相手を貶めようとする、とか。

別の例を挙げると、ある車を買いたいと思う。なぜその車が欲しいかというと、それを手に入れることでエゴやプライドが高められるから(つまりこの場合も利益を得るのは自分のみ)。他に使うべき金を惜しんで車を買うために貯金するだけでも selfish なこと。そして金が貯まって車を買いに行くと、値上げされていて金が足りないとする。さらに意固地に金を貯めても足りないとなると、今度はウソやズルや盗みをしてでも金を増やそうとする。このように欲求、恐れ、あるいは強迫感の強さによって、自己中心性というのは程度が強まっていくわけです。僕なりの言葉で言えば「人を押しのける力の強さ」でしょうか。

そう考えると身勝手と恐れがセットになっていることも頷けます。利己的と身勝手に本質的な違いはなく、ただ程度の違いと考えるのはシンプルで気に入りました。

なお、日本の回復研究会の配布している棚卸し表では selfish は自己中心と訳されていて、self-seeking は身勝手とされていたり、あるいはその言葉が削除され「恐れ」のみの欄になっていたりします。

自己中心性に関するラリーさんのコメント。
アル中は「自分に都合の良いものを、自分に都合の良い方法で、手に入れようとする。だから彼らが最も聞きたくない言葉は No だ」。


2010年03月09日(火) ストーリー形式の棚卸しを聞く

スポンシーの棚卸しを聞きました。今回はいままでの人生をストーリー形式で振り返るやり方で、従来の日本式の手法です。僕はこれにライフストーリー形式という名前を付けています。

書いてもらう前にスポンシーに出した指示は「これを書くのに何週間も、何ヶ月もかけてくれるな」でした。これが済んだら表形式の棚卸しに取りかかる予定なので、それが何ヶ月も先に伸びてしまっては、ステップ全体の進行が止まって困るのです。完璧を求めすぎる余り、時間がかかりすぎるのは良くありません。それよりも設定した期限までに仕上げることを要求したのです。

僕がこの方針をとるのには理由があります。僕はストーリー形式の棚卸しから性格上の欠点を分析する技法をスポンサーから受け継いでいません。聞いていれば大まかな欠点はわかるものの、その原因・根源を探っていく技量を持っていないのですから、そこに注力する意味はありません。表形式をやる前フリとしてやっているわけです。

このやり方にも利点があり、その人の人生全体を鳥瞰することで、行動や考え方の傾向を知ることができます。また登場人物も一通り把握できます。これは大事なことです。正直になりきれないスポンシーは表を書くときに、特定の相手を完全に無視して表に載せないことがあります。あるスポンシーは恨みのリストに奥さんと子供を載せませんでした。理由を聞くと、「妻と子に対してまったく恨みはありません」と真顔で答えたのでした。こんな具合なので、なにか重要なインシデントがあっても、その相手を表から外してしまう可能性は十分あります。棚卸しから誰かを外せば、埋め合わせからも外すことになり、それがステップ全体の効果を台無しにする可能性もあります。ストーリー形式を先にやっておけば、本人もスポンサーもそれをチェックできます。

ストーリー形式の場合、書くときも、話すときも、聞くときも、「考える」よりも「感じる」ことが大事であるように思います。しかし感じたことの効果は、月日とともに薄れていってしまうわけですが。

今回は全体を聞くのに3時間を要しました。これは決して長い方ではありません。けれど短すぎるとは思いません。なぜなら、今回の話では中学校以降は現在まで、ひたすら同じパターンの繰り返しだからです。場所を変え、相手を変えて、同じことを繰り返しているだけです(だから聞く方はすごく飽きる)。

おそらくご本人は、いままでの人生が同じことの繰り返しだったとはほとんど気がついていないに違いありません(けれどなぜ自分の人生がうまくいかないのか悩みはある)。酒や薬を飲んでいるときも、飲んでいないときも同じです。今回はソーバーが始まって数ヶ月での棚卸しでしたが、これが仮に数年後に聞いたとしたら、酒や薬を飲んでいた頃とやめた後でまるで変わっていないことに気づくでしょう。つまり、

人間は酒や薬をやめたぐらいでは考え方も行動も本質的に変わらない。

という当たり前の事実が判明するのです。(これは何も今回のスポンシーに限ったことではなく、僕を含めたアル中に普遍的な傾向でしょう)。
これは自分で自分を変えることの難しさ。「自分の性格上の欠点に対する無力」の認識につながります。これを理解するからこそ、ステップ6、7の「自分は自分の欠点に対して無力だが、ハイヤーパワーにはそれを変える能力がある」という考え方に発展できるわけです。

ここにおいてステップ2の「解決=ハイヤーパワー」という理解はとても大事で、それがないとどうしても「解決=自分の努力」になってしまいがちです。すると、自分の欠点を自分で見定め、自分で直そうとします。これは何でも自分の力で解決できるはずだと思いこんでいた、飲んでいた頃の考え方と同じです(その人を酒に導いた考え方と同じと言っても可)。酒をやめただけでは人は変わらないので、「古い考え」に戻るのは自然なことです。そうやってステップ4・5の効果が失われていくのでしょう。

僕はステップ4・5は一回やれば十分だと思っています。前回やった効果が薄れてしまったのでまたやらねばというのであれば、それは前回のステップ4・5が不十分だったというよりは、その前のステップ2・3がちゃんとできていなかったということです。その状態で棚卸しをやっても前回と結果は同じでしょう。

しかし今回も疲れました。


2010年03月06日(土) 安易に共感しない

病気を英語の頭文字で呼ぶことが増えています。例えば後天的免疫不全症候群はAIDSです。EDは「いーことができない」の略ではなく、勃起不全。最近眼科の壁にAGAというポスターが貼ってあったので、眼科の新しい病気かと思ったら「男性性脱毛症」でした。ハゲも眼科で治る時代らしいです。

DSM-5ではアルコール依存症が「アルコール使用障害(Alcohol-Use Disorder)」と名前が変わります。これも頭文字を取ってAUDと書かれるようになるのでしょうか。

ミーティングで「AUDのひいらぎです」とかアイデンティファイしたら間抜けな感じですが、そう言う人たちが増えればきっと慣れてしまうでしょう。

さて本題。

さて、スポンシーと話をしていて気をつけているのは、安易に共感しない、安易に同情しない、安易に慰めない、安易に癒さない、ということです。つまり、共感せず、同情せず、慰めず、癒さず、ということです。

スポンシーは何かしら傷ついているから相談してくるわけです。あるいは不安になったり(恐れ)、恨みを持ったりするからこそ、スポンサーにそのことを相談してくるわけです。

その時に、スポンシーの味方になって、スポンシーを傷つけた相手を非難すれば、スポンシーは安心するでしょう。「あなたは悪くない」と言ってあげれば、落ち込みから浮上してくるかも知れません。

けれど、それを繰り返していれば、スポンシーはあなたに「嫌なことがあったときに話を聞いてくれる良い友だち」以上のことは期待しなくなり、いざあなたがその役目から降りたときには、裏切られたと感じるでしょう。

それではスポンシーが自分で問題を乗り越える力を獲得できずに終わってしまいます。回復ではなく悪化の手助けです。

心に悩みや葛藤を抱えたまま生きることは、決して悪いことではありません。悩み続けていれば、心はいずれその悩みを乗り越える道を見つけるものです。前向きにそれに向き合っていくことにするか、変えられないものとして受容するかはともかくとして、何らかの道を見つけます。

スポンシーはそういう「自分で問題を乗り越える力」がずいぶん弱くなっているので、別の手段に頼ろうとします。それが例えば酒、ギャンブル、異性であったりします。嫌なことがあると、不眠のために処方された睡眠薬を夕方飲んで寝てしまう人もいます。薬の依存になっていなくても、嫌なことを乗り越えるために気持ちよくなる薬が欠かせない人は、いつまでたっても同じ程度の悩みで音を上げています。

やめたばかりのスポンシーは、本当に些細なことで悩むものです。細かなことで悩まず易々と乗り越えていけるようになって欲しいと願うならば、やはり安易な癒しは与えないことでしょう。

悩みとはゴミのようなものであり、心に悩みがあるとは、心という部屋の中に悩みというゴミがたくさん散らかっている状態です。健康な復元力があれば、いずれ心の中が整理され掃除されて、悩みと折り合いがついていくものです。この自然な復元力が失われているようであれば、「棚卸し」という積極的な行動によって整理整頓をうながすべきです。

一時的な効果しかない慰めを与えるより、永続的な効果のある12のステップへ導くのがスポンサーの役割だ、という当たり前の話でした。


2010年03月05日(金) ボーダーの人は本当にアル中か?

あまり真面目な話ではないので、話半分に聞いてください。

パーソナリティ障害(人格障害)の一つに、境界性パーソナリティ障害(BPD)というのがあります。いわゆる「ボーダー」の人たちです。これは女性に多い。

BPDにはアルコールを含む薬物乱用が多いことが知られており、治療中のBPDの5割〜7割に薬物乱用があるそうです(アメリカの話)。では、アルコール薬物依存の人にボーダーは多いのか? 調査によって、また薬物によっても幅があるのですが、1割〜4割ぐらいです。ただ、対象を女性に限ればもっと割合は増えるかもしれません。BPDと薬物乱用が合併すると、より深刻なことになり、反社会性行動や自殺企図が増えるデータがあります。

ボーダーの女性アル中は、ネットにもAAにもいます。ただ、僕が知っている人はサンプル数としてはそう多くはありません。その多くないサンプルから僕が感じていることは、

この人たち本当にアル中かなぁ?

ということです。

彼女たちの飲んでいた頃の話は、結構すさまじいものです。・・・けれど、やめる気になったときは、結構スッパリ酒をやめています。やめる気になるまでは大変なのですが、その気になりさえすれば(BPDのないアル中さんに比べれば)結構簡単にやめてる感じがするんですよね。

もちろん彼女たちの飲酒時の状況を、DSM-IVでもIDC-10でも操作的な診断基準に当てはめれば、ちゃんと「アルコール依存症」っていう診断になるのでしょう。ただし操作的診断基準の問題については、素人の僕がここで改めて書くまでもありません。

彼女たちの飲酒は、どんなにすさまじかろうと、詰まるところボーダーの症状に過ぎないのじゃないか?

という印象です。
だからってBPDのアル中さんを別扱いする必要があるかどうかは判りません。ただ、女性のAAメンバーがスポンサーを選ぶときは、そのことを考えた方がいいような気がするのです。


2010年03月04日(木) 批判に対して

いままで最も批判を多く受けたAAメンバーは、誰あろうビル・Wだと言われています。AAの内部からも外部からも、常に激しい批判にさらされていました。(もちろん陰口やうわさ話にもさらされていました)。例えば、「ミーティングに出ていない」と最も非難されたメンバーも、やはりビル・Wであったと言われます。AA創始者としてドクター・ボブと共に「特別」な立場にあった彼が、ミーティングを普通のメンバーのように使えたわけはなかったわけですけれど。

だから、批判に対してもっとも経験を積み、どう対処すればいいか一番考えたのもビル・Wであったでしょう。彼の著作である12の概念や『ビルはこう思う』には、批判を受けた場合について、繰り返し書かれています。

批判を楽しい気分で聞いていられる人はいません。また、楽しい気分で聞かなければならないわけでもありません。

批判が的を射ていたならば、私たちはそれに対して感謝すべきです。自分で気が付けなかったことに気づかせてくれたのですから。

批判が100%真実ということは滅多にありませんが、いくばくかの真実はたいてい含まれているものです。批判は個人に向けられるときもあれば、AA全体に向けられるときもあります。たとえば、ここの掲示板にも、わざわざAA批判をしにやってくる人たちがいます。

例えば「AAはタバコを吸っている人が多い」という話は何度も出ています。おそらくその真意は「だからAAには行きたくないんだよ」というもので、AAに行かないエクスキューズが行われているだけです(自助グループに行く人は行く素晴らしさを述べ、行かない人は行かない言い訳を述べる傾向があります)。批判の真意がなんであれ、AAにタバコを吸う人が多いのは事実です。そうした継続的な批判や、医療関係者からのお小言があるおかげで、AAで何年かした人たちの中に、タバコをやめる人たちが出てくるわけです。

「近くにミーティング場がない」という話は、遠くの会場まで行きたくないという言い訳であることが多いのですが、そうした話のおかげで「やはりいずれは全国津々浦々まで会場をちりばめねばならないね」と未来の目標が再確認されます。

「神とか言っているのが人を遠ざけている」という話からは、やたらめったら信仰を語る危うさを学ぶことができます。

もちろん、批判が誤解による場合もあります。その場合には誤解を解く努力をしてみるべきですが、相手が聞く耳を持たないのなら、少し苦笑いをして忘れるほかありません。こうして私たちの謙虚さがちょっぴり鍛えられます。

AAメンバーとして最初の1〜2年は、スポンサーがビシビシお小言をくれるでしょう。あんまり危なっかしければスポンサーじゃなくても誰かが厳しい助言をしてくれます。しかし何年か経ってくると、あんまりお小言は言われなくなってきます。それは多少は回復成長があったからでもありますが、概ねは年数が経って周りが小言を言いにくくなっただけの話です。

自己満足はAAメンバーの成長を止めます。自分はよくやっている(十分良くやった)という意識ほど危険なものはありません。慢心があると、批判に敏感になり、自己防衛的な言い訳に終始して、そこから何かを学ぼうとする姿勢になりません。人はそうした姿勢を実によく観察しているものだと思います。なぜ自分の努力に相応しい、年数なりの評価が得られないのか悩みがあるとするならば、自己満足ということについて考えてみるべきでしょう。

こんなことを書くと、まるでAAをストイックな求道のように感じ、そんな陰気なやり方は嫌だと思う人もいるかもしれません。けれど、仕事であれ人間関係であれ、慢心による怠惰がトラブルの原因になっていることは多いものです。「下りのエスカレーターを逆にのぼっているようなもの」とは、回復というジャンルに限った話ではありません。生活全般、人生全般に及ぶことです。

時には頭ごなしに叱られることが必要なこともあります。そうした損な役回りを引き受けてくれる人はあまりおらず貴重な存在です。年数が経ってくればなおさらです。


2010年03月02日(火) 抗うつ薬の作用機序の続き

抗うつ薬がなぜ効くか、という話は以下に書きました。
ダウンレギュレーション
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20091117
ネガティブな認知バイアスの解除
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20091118
残念ながら元ネタにしたDr.KOBAのブログが閉鎖されたため、元の論文をたどれませんが、たどったところでabstructしか読めないのであまり意味はありません。

抗うつ剤はシナプス間隙に放出されたモノアミン(セロトニン)の再吸収を阻害するため、セロトニン濃度が上昇します。これによってうつが良くなるのだと考えられています。しかし、セロトニン濃度は抗うつ薬を飲んだ直後から上昇するのに対し、うつの症状の改善には2週間〜6週間もかかり、この時間差が謎になっています。

これについて、濃度が上昇するため受容体の数が減少する(=ダウンレギュレーション)ためであるという説を紹介しました。これは素直に読むと、セロトニンに対する感受性が下がることに効果があるわけです。
一方で、抗うつ薬を飲み始めた直後から、物事をネガティブに捉える認知バイアスが解除されていることが観察され、その効果が発揮されるまでに時間差があるのだろう、という説を紹介しました。こちらも素直に読めば、抗うつ薬の作用機序は、カウンセリングによる認知行動療法と同じで、(内分泌のレベルではなく)認知のレベルの改善によるものだ、というわけです。

ところがSSRIでは受容体の減少が起きないため、ダウンレギュレーションが一般的な作用機序とはみなされない、という説がでています。

人間の脳は大人になってしまうと神経の再生は行われず、ただ死滅して徐々に減っていくのみと考えられていました。しかし、記憶をつかさどっている海馬では、その一部で神経細胞の新生が続いていることが分かってきました。(この神経新生は加齢とともに減っていくので、これが加齢による記憶力の低下の原因かも)。

うつ病の人の脳では、この神経再生に必要なBDNF(脳由来神経栄養因子)の濃度が減っていることが分かっています。これにより海馬神経新生が阻害されることがうつの原因だという考え方があります。抗うつ薬の服用によってBDNFの濃度はすぐに戻るものの、神経新生が進んで海馬が機能を取り戻すまでには数週間かかる、という説です。

コルチコイドというのは人がストレスを感じたときに分泌される「抗ストレスホルモン」ですが、これが海馬におけるBDNFの濃度を低下させ、海馬の再生を阻害します。海馬はコルチコイドの濃度にも関わっているので、海馬が傷害されコルチコイドの濃度が上昇すると、さらに海馬が傷害されることになります。

うつ病患者の脳では海馬が萎縮しているとされますが、ストレスによって海馬が自分を傷つける悪循環を、抗うつ薬が逆転させる、という話になるわけです。そうなると、うつ病も器質性の病気ということになります。

今世紀になって統合失調症の脳に萎縮があることがわかってきました。うつ病や統合失調症は内因性の病気とされてきました。統合失調はドーパミン、うつ病はセロトニンの内分泌系の異常であって、アルツハイマーのような脳の組織変性は起きていないと考えられていたわけです。けれどやっぱり器質の問題だったのかも知れません。

21世紀は器質の時代か・・・。


2010年02月27日(土) AAの無名性について

掲示板での暁さんやかんたさんの文章を読んで、AAのアノニミティ(無名性)がいかに誤解されているか分かりました。

ある種の誤解は放置しても構わないと思うのですが、あえて無名性について書こうと思ったのは、Slaying the Dragonに「AAに関する誤解の多くは、AAをよく知らない人たちがAAについて発信した情報が元になっている」という話が載っているからです。また、昨年終わり頃に掲示板で、そうした誤解に基づいた文章を放置することの危険性を指摘する投稿もありました。

だから、これは暁さんやかんたさんに向けての文章ではなく、より広く情報を発信する試みです。なお、誤解が起こったのはこの二方の責任ではないと僕は思っています。AAにとって無名性がそれほど重要ならば、それを積極的に広報すべきです。パンフレットを配っても良いし、ネットで情報を発信してもいい。日本のAAには無名性についてのパンフレットがありますが有料(200円)ですし、ネットで公開して配布コストを抑えているわけでもありません(NY GSOのやり方とは対照的です)。
それは、日本のAAは無名性が誤解されていることをそれほど気にしていない・・・わけではなく、AAの情報発信力が弱いだけの話です。

AAの無名性には二つの意味があります。

ひとつはプライバシーの保護です。ただ、プライバシーを守らねばならないのは、何もAAに限った話ではありません。昔ならいざ知らず、これだけプライバシーという権利への意識が発達した世の中にあって、そのことを強調する必要はありません。
つまり、プライバシーの保護は、いわば常識です。AAの伝統にもそのことは書かれていません。

ではその常識をなぜ強調しなければならないのか。それは飲んでいる人や、まだやめたばかりの人は、プライバシーを強く気にする傾向があり、傷つきやすいからです。AAにはそうした傷つきやすい人たちが集まる場所であり、例えれば「バスケットの中に生卵がたくさん入っている状態」です。強いショックを与えれば、卵がたくさん割れ、バスケット全体が台無しになりかねません。だからこそ、生卵を運ぶときのように衝撃を与えないよう気をつけねばなりません。

精神的な健康を取り戻すと同時に、そうした過剰な傷つきやすさも薄れていきます。人の集まりである以上、うわさ話や陰口がある程度あるのは仕方のないことです。人のやることに自分のコントロールは及ばない、それを「変えられないもの」として受容していくのも回復・成長です。

また、「私たちアルコホーリクは、自己規制力をあまり持たない」(p.126)とあるように、常識を逸脱するほど陰口にふけりやすい人たちだからこそ、あえて常識を強調しなければならない、というアル中特有のちょっと情けない側面もあります。

僕のホームグループはたった数人しかいませんが、僕は皆の本名、住所、電話番号、メールアドレス、およその年齢、出身校、家族構成、過去の出来事などなど知っています。そこには匿名性などというものはありません。ただ、余計なことは言わないとか、余計な詮索はしないという常識があるだけです。

こちらの意味について、僕はアノニミティ(無名性)という言葉は使わず、プライバシーという言葉を使うことにしています。プライバシー=アノニミティ、という誤解を防ぐためです。

では、もう一つの意味。本来の意味でのアノニミティとは。

ひらたく言うと、AAメンバーであることで有名にならない、ということです。だからこそ、anonymityの翻訳に「匿名」ではなく、有名の反対の「無名」が選ばれています。人の集まりにはリーダーがあり、リーダーがその集まりの代表者として対外的に活動し、全体を代弁します。また内部には文字通り指導的な立場となります。そうした立場の人は、時に名前が売れ、人から尊敬を集めることがあり、それを職業とすることもあります。

アル中のリーダーになったところで、世間的なうまみはないんじゃないか、と思うかも知れません。けれど、自助グループではないものの、ダルクの近藤代表を見れば、テレビや新聞雑誌への露出がとても多いことに気づかれるでしょう。本を書いて賞も得ています(サインもらいました)。もちろんダルクはAAでもNAでもないので、そのことに何の問題もありません。

けれど、AAはそういうことをしません。有名人を作り、その人にAAを代弁し情報発信してもらう戦略は採りません。なぜなら初期の頃に、それをやってさんざん失敗したからです。

つまり、AAを一生懸命やっても世間的な賞賛は手に入らない。無名性とは自己犠牲の精神であり、そこに回復や成長があります。それはまた、ハイヤーパワー(神)の前でのメンバーの平等を意味します。

であるからこそ、AAメンバーであることを明らかにして、インターネットというメディアを使って情報発信している僕には、AAの中で風当たりが強いことがあります。「彼はネットでのセレブリティ(有名人)である」という批判をもろに受けます。無名性や自己犠牲の精神に反しているというわけです。

もちろん、無名性について決められた原則、メディアでは本名や顔写真を出さない、に従っていますし、これを職業として金銭を得ているわけでもないので、多くのメンバーは好意的とまでは言わないまでも、無関心中立でいてくれてます。情報発信の少ないAAにとって貴重だと励ましてくれる人もいます。人が僕をどう評価するか、それも僕には力の及ばないことです。

AAに来たばかりの人は、恐れと不安で一杯であり、自分のことはなるべく知られたくないと思っています。人からマイナスの評価を受けることを過度に恐れており、うわさ話に敏感になっています。プライバシーの漏洩に敏感なのではなく、マイナスの評価への恐怖があるのです。

僕らがその人たちに「大丈夫、心配いらないよ」と言ってあげられるのは、AAにアノニミティ(無名性)があるから「ではなく」、僕ら自身がAAに来たときに同じように感じていたからこそ、その不安に共感し、思いやりを持つことができるからです。

そのような配慮を示せるほど余裕にある人ばかりがAAにいるわけではありません。回復途上の人たちもいます(ある意味メンバー全員が回復途上とも言えますが、それは別の話)。AAは回復したメンバーだけで構成されることは永遠にない、常に未完成であり続ける団体です。そうである以上、プライバシーのことで常に傷つく人が出てきてしまう。しかし回復した人たちばかりの集まりになったら、それはもうAAではありません。その逆説が「AAらしさ」でもあります。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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