一橋的雑記所

目次&月別まとめ読み過去未来


2005年11月30日(水)


綺麗な夢のその果てに(改訂版)その1.
※060609.


温む空気に冷たい気配がかなり入り混じり始めている事に気付いて、胸の中の落ち着かなさに気付く機会も増えた。
再開された学校生活。でも普段通りになるにはまだまだ障害も多く、何より、自分が頻繁に出入りしていた場所ほど、祭の被害は甚大で。

「また、さぼり?」

聞き覚えのある明るく真っ直ぐな声が、周囲の人の流れに逆らう方向へと歩いていた背中に飛んで来る。
ただ軽く右手を上げてやり過ごそうとしたけれども。

「あんた、普段が普段だったから、やばいって」

気配に気付いて振り返るのと同時に、腕を取られる。

「い、いいんだ。どうせ自習だろう?教師もまだ揃ってないんだし」
「自習でも一応、課題出てるし出席も取るのよ」

文句言わないの、と人の腕を勝手にぐいぐいと引っ張るお節介な奴。
祭の前の一時、鳴りを潜めていたその強引な姿は。まるでその間に挟まっていた凄絶な時間を切り取って過去を現在にあっさりと繋ぎ合わせてしまったようなさり気なさに満ちていて。
多分、私の心はこいつに、随分と救われている。
でも。

「……ちょっと、用があるから」

邪険にならないように気をつけながら、足を止め、その手を振り払う。
それでも、ちょっと吃驚したように彼女は目を見開いた。

「何?……まさかあんたまた危ないこと考えていたり」
「しないしない」
「……だよねぇ」

一瞬だけ真剣になった眼差しが緩むのへ、苦笑を返す。

「まあ……無理強いしても仕方ないか。ああでも、明日はちゃんと出るのよ?」
「分かった分かった」

面倒見が良いのにも程がある。
けれどもそこが、こいつの良い所でもあるから、否定はしない。
離した右手を、行ってらっしゃい、と振って、彼女はあっさりと背を向けた。その潔さが、ちょっと居心地良くて、面映かった。

――友だち、か……。

思わず胸の中に落とした呟きが、意外な重さを伴っていて。
私は、溜息を一つ、零していた。


綺麗な夢のその果てに・1

情報屋のヤマダが最後にサービスしてくれたバイクは結局、大して乗り回せない間に大破してしまったから、今の私には自分の足しかない。
住んでいた街中のマンションも引き払う羽目になった事だし、面倒だとは思いつつ、学生寮に入る事にした。
学園敷地内にあるその建物までは、徒歩にしてそう距離は無い。
一応就業時間内だから、あまり堂々としているのもどうかと思い、多少遠回りではあっても人目を避けるには好都合な校舎脇の植え込み沿いだとか、プールの裏の小路だとかを選んで歩く。
本当は、勿論、用なんてなかった。
ただ、今の自分にはまだ、校舎や教室の中に、居場所を見つけ難いだけ。
全校生徒の大半が戻ってきていないという理由で僅か1クラスに集められた高等部の生徒たちの中には、見知った顔が案外多かった。とはいえ、そこが、自分が帰るべくして帰ってきた場所だとはなかなか思えない。

――馬鹿だな、私は。

祭が終って、全てが終った。今まで自分が追い掛けてきたもの、全てを失う形で。
思い返せば、何て狭い場所で、何て無様な姿で独り、足掻いていた事だろう。
私を突き動かしていた復讐心もその為の行動も全て、その復讐相手の手の上での戯れ事でしかなかったのかも知れない、と。最終的に思い至った時には、自らを笑う気力すらなくしそうだった。
決して一枚板では無かった『一番地』。
そのどの部分が私を囲い、泳がせ、躍らせていたのかは今となっては分からない。
迫水辺りを突いた所で、決して彼は口を割りはするまい。
結局、奴を含めた関係者に手の内の全てを見抜かれた上で踊らされる事でしか、あの頃の私には生きる術が無かったのだろう。
私を、HiMEとして生き長らえさせる為に、だったとしても、そのお陰で今の自分が無事ここに存在している。その事実は、もはや、否定出来ない。だから、その事自体を恥じたり悔やんだりするのは無駄な事でしかない。そう結論付けるまでにいつまでも時間を費やすのも馬鹿馬鹿しい。そう割り切ることは出来たけれども。
こうして長らえた後の居心地の悪さに落ち着くには、まだまだ、時が必要そうで。

――……あいつは。

そんな事を思いわずらう内に、ふと思い浮かんでしまう顔が、あって。

――あいつは、それを、どこまで知っていたのだろう。

それだけが、心の何処かにずっと、引っ掛かり続けていた。
けれども、本人に確かめようにも、生徒会の引継ぎやら受験やらで相当忙しいらしくこの所は、寮ですらその姿を見かけない。
心配を掛けまいとしてか、定期的にメールを寄越してくれはするけれども、実際に顔を合わせて話したのは、数日前、それも消灯前の僅かな時間、偶々出くわした時が最後だった。

――……会いたいな。

本当は。
会って、ちゃんと確かめたかった。
あいつが、どこまで気付いていたのか。
そして、聞いて欲しいと思う。
その事であいつを責める気が私には全く、無い事を。

――……って。何を考えているのだろうな、私は。

何かから気持ちを逸らすような感触を胸の中に覚えて、軽く、首を左右してまた始まった物思いを振り払う。
プール裏の道は今のところ、手入れの必要性が低いと見なされているのか、敷石の隙間から逞しく延びる雑草が目立つほどに荒れている。油断すると、詮無い思考に捕らわれ始める私の注意を、時々、引く。
だから、今はただ、足場の悪い小路を歩く事に専念しようとして。それで。
いつもなら、とっくに気付いている筈の気配に気付くのがほんの一瞬、遅れた。

「……なつき?」

耳元に届いた声が、思いのほか近くて。
反射的に後ずさるようにして振り返った、その視線の先に。
さっきまで、私の頭の中を占めていたのと全く同じ、穏やかな笑みを湛えた彼女の顔があった。

「し、静留……!」
「嫌やわぁ、そんな、幽霊にでも会うたような顔せんでも」

口元に手を添えて、笑顔を深くしてみせる。
そんな彼女のちょっとした仕草に、どうしようもない後悔が押寄せてくるのを覚える。

「や、ち、違うんだっ。ちょっと、考え事をしていて、それで……」
「吃驚しただけ、どすか?」
「……う、うん……」

下手に回した気なんか、お見通しなのだろう。あっさりと言葉を補うと、彼女は口元の手を下ろし、それにしても久し振りやなあと、しみじみと呟いてみせた。

「あんじょう、学校行ってはります? 見たトコ、今日はサボりみたいやけど」
「あ…うん、いや、今日はちょっと……用があって」
「大事な出席日数、犠牲にせなあかんような、大事な御用?」

そらたいへんやなあと、くすくす笑う。

「そやったら、引き止めて悪かったんと違います? 堪忍な」
「いや……」

彼女の笑顔に、せめて苦笑いだけでも返せたら良かったのに。
私ときたら、視線を落としたまま、言葉を探しあぐねている。

「……もう、用は済んだから」
「そう?」

落とした視線をゆっくりと上げた私は、彼女が私服姿である事にやっと気付いた。

「今日は、お部屋探しやったんよ」

いつも通り、私の意図を先回りして彼女は答えた。

「大学の寮は条件が相当厳しそうやったし、入れるかどうか最後まで分からしませんよってに。もう普通のお部屋でええか思て」
「部屋……って。 もう、大学決まったのか?」
「ああ、そうどすなあ。なつきには、知らせ損のぉてたわ」

県外も幾つか受ける事は受けたけれども結局、風華に新設された大学に進む事にしたのだと、彼女は続けた。

「実家からも文句言われんで済むし。中途半端な大学通う位なら地元で進学せえ、言われて敵んし」

成程、彼女の実家は関西でも有数の大学街を擁する都市にある。

「……帰らなくても、良かったのか?」

つい、口をついて出た問いに、また思わず視線を落とす。
彼女は気にした風もなく、小さく笑い声を立てた。

「そやね。いずれは戻って来い、言う話になるんやろけど。学生の内くらいは、親元離れて自由に過ごしてたかて、罰は中りません。なつきかて、そう思わへん?」
「そうか……そうだな」

今度は、上手く笑えたかもしれない。

「そらそうと。御用の済んだなつきは今日はもう、寮に帰るだけどすか?」
「ああ……うん」
「ほな、一緒に行きましょか」

淡い色の長いスカートの裾をさばくような足取りで、彼女は私に背を向け、先に歩き始めた。
いつからだったろう。
彼女が、決して私の横を歩かなくなったのは。
後ろを行く事もまた、なくて。必ず、少し前を歩いて私には、背中越しの横顔しか見せない。
それはまた同時に。私の顔をまともにみない位置を必ずとる、という事で。
こ祭の後、二人の間に彼女が勝手に定めた、ルールの一つだということに私は、気付かない振りを続けている。

「そや。今日は晩御飯、どないしはりますのん? 鴇羽さんらと一緒?」
「いや。特には、決めていない」
「なら、久し振りにうちがご馳走しましょか?」

月杜まで出掛けてたから色々と食材を買い込めたし良かったら、と穏やかな声音で彼女は続けた。
多分ここで私が否と言っても、決して傷ついた顔を見せたりはしないのだろう。
そう思わせる、静かな、けれども、どこか遠い声。

「……うん。頼む」

答えた私の声は、我ながら。どうにも頼りなく、小さかったけれども。
彼女は振り返らなかった。
ただ、嫌やわ頼むやなんて水臭いわぁ…と。当たり前のような声音を、背中越しに返すだけだった。


久し振りに足を踏み入れたその部屋は、いつも以上に綺麗に片付いているように見えた。
記憶の中にあった細々としたものが無くなっていて、そうか、彼女はもう直ぐ此処を出て行くのだっけと、当たり前の事を私に、改めて見せ付けているようだった。

「直ぐ支度するさかいね」

そう言いながらキッチンの方へ向かった彼女の背中を見送ると、私はソファに腰を下ろした。
ビデオセットすら既に梱包済みなのかテレビ台の上段は開いている。けれども何故か、いつも私がこんな風に時間を潰す時に使っていたゲーム機と数本のシューティングゲームのソフトだけが、いつもどおりきちんと下段に収まっている。

「静留、これ……」

思わず振り返って呼び掛けた私に、冷蔵庫の扉を開けながら彼女が笑顔を返す。

「そうそう。それなあ、良かったら、なつきに貰ってもらお、思てるんよ。うちひとりやと滅多に使いませんよってに」

何の含みも持たせない声音が却って胸に差し込んできて。
私は慌てて、テレビの方に向き直った。

「……邪魔になるっていうのなら、貰ってやる」

思わず返した言葉が、思いの他自分の胸に突き刺さって、息が止まる。

「嫌やわあ……邪魔になるやなんてまで、思てませんけど」

私の勝手な物思いを、分かっているのか、分かっていないのか。
キッチンを行き来しながらそう返してきた彼女の横顔は、とてもとても、静かな笑顔だった。

液晶の画面を行きかう色彩や、耳を刺激する爆音や電子音に出来る限り意識を集中していたお陰だろう。
できましたえ、と彼女が声を掛けてくれたその時まで、私の思考は完全に停止していた。
攻略途中のゲームをあっさり諦めコントローラを放り出した途端に、御飯の炊ける匂いや醤油や出汁や…そんな食欲をそそる匂いが一気に鼻腔をくすぐって、思わず胃の辺りに手をやってしまう。

「ほら、ちゃーんと、手、洗ぅてきてからどすえ?」
「……分かってる」

ぶっきらぼうに答えながらゲーム機とモニターの電源を落とし洗面に向かった。
手を洗うついでに、目元も水で冷やすようにして洗う。
こめかみから目の奥に掛けて重いような疲労感。それを剥がし落とすように、随分と冷く感じられるようになった水道水で、何度も何度も洗う。
気が済むまでやってから手にしたハンドタオルは、いつも通り清潔な日向の匂いがした。
学園内で姿を見かけなかった間も彼女は、几帳面なその日常生活を崩す事は無かったのか。ぼんやりとそんなことを考えてみた。

いつもの事だけれども、彼女に食事をご馳走になる度に、食卓を埋める料理の内容には圧倒される。
同級の友人も面倒見が良くて料理が得意だから、そのルームメイト共々、時折夕食の世話になってはいる。けれども友人が用意するメニューは多分に食欲旺盛なルームメイト仕様の為か、比較的シンプルかつボリューム優先のもので。しばらくそんな、ファミレスのディナーメニュー的な献立に慣れていた私は、彼女の並べた久々の、まさに家庭料理と呼び得るそれにちょっと見入ってしまった。
以前、なんでこんなにきちんとした食事を用意出来るのかと思い切って尋ねて、実家に居た頃から自分が早くに亡くした母親の代わりに台所に立っていたから、とさらりと答えられてちょっと反応に困った事があった。
言ってしまってから彼女も、しまったと思ったのだろう。料理は、得手不得手のあるもんやしと、さりげなく言葉を継いで笑ってくれた。
そんな事をぼんやりと思い出して私の目の前に、そっと、御飯がよそわれた茶碗が置かれる。

「何や、お疲れみたいやねぇ」

笑い含みでそういって、彼女は私の真向かいの席に着く。

「食欲、あらへんとか?」
「いや、そんなことは無い」

言って、両手を合わせてから箸を手に取った。

空腹に突き動かされて暫く料理に集中していた意識と視線が、落ち着いた頃にふと、彼女の視線や気配に逸れた。
その瞬間、この胸の中に、訊きたかった事や話したかった事が溢れてくるのが分かった。
あの頃の彼女の真意を確かめたい。
けれども、そんな、じりじりと焦るような気持ちとはまた別な所で、彼女を過度に意識しないではいられない部分もその中にはあって、何か大切なことから目を逸らしたまま、解決方法を探っているような、収まりの悪さを覚えるのも事実で。
それをどうやって彼女に伝えたものか、伝えて良いものか。
折角こうして、久し振りに二人、向き合う機会を得たというのに。
何だか、自分がどうしようもない迷路に自らはまろうとしているみたいに思えて、手とったものを強く握り締めようとして。

「なつき、そんなんにまでマヨネーズ掛けたら、あかんえ」

笑い含みの声に制されて、黒豆やら蒟蒻やら筍やらを上品に炊き込んだ小鉢の上に差しかけていた、チューブを握る手を緩める。

「うちの味付け、そんなに愛想なかったん?」
「ち、違…! ちょっと、その……ぼんやりして」

拗ねたような声と表情はいつもの冗談だと分かっていても、反射的に、慌てて否定の声を上げてしまうと、彼女は楽しそうに笑い声を上げた。

「そっちのサラダには好きなだけ掛けたらよろしいよ?」
「わ、分かってる……!」

水菜やら刺身のツマ並に細切りされた大根や人参やらが盛られた皿に、腹いせのように遠慮なく、マヨネーズを絞り出す。

「なつき、舞衣さんの作ってくれる料理にも、盛大マヨ掛けてはるねんてな」

更に楽しそうに続ける言葉に、思わず顔を上げる。
彼女は、穏やかに目を細めて私を見ている。

「なつきに会うちょっと前に会うて、久し振りにお話しさせてもろたんよ」

何でもない事のように続けて彼女は、味噌茶碗を手にしてそっと啜った。

「ええお友だちやね。うち、安心したわ」
「……何でそんな事で」

安心するのだと言い掛けて、口を噤み、箸の先でサラダをかき回す。
理由なんて本当は、良く分かっている。
ただ、時間に急かされてじりじりとする気持ちや、祭りの前には無かった、彼女との間に生まれた距離への意識を、わざとの様に思い出させる彼女の言葉がどこか、悔しくて。

「堪忍な」

突然に零された言葉に顔を上げ、なぜ謝る、と返し掛けてまた、飲み込んだ。
それは、とても聞き慣れた彼女の言葉だったけれども。その顔に浮かぶのはいつもいつでも、自分に向けられていた穏やかな笑顔だったけれども。
その裏側に存在していたものを知ってしまった今となっては、それらがどれだけ、彼女の本当の心から遠いものか分かる、そんな気がしたから。

「……おまえは、いつも、そればかりだ」

つい、零してしまった言葉に。
彼女の手が、動きを止めた。


思わず零した言葉に、彼女の動きが止まる。
けれどもそれは本当に、一瞬の事で。
多分、少し前の自分だったら気付けなかった。
そんな、僅かな瞬間の出来事で。
あれから。
彼女が、二人の間に何か別のルールを置き始めた頃から。
何故だろう。
それまでは見えなかった、彼女の心の動きが。
見え始めている、そんな気がする。
それとは逆に、彼女には。
それまで見えていた、私の心の動きが。
見えなくなってはいないのかと。
どこかでそんな気が、し始めていた。

何故そんな言葉を漏らしてしまったのか自分でも分からず、手元の茶碗に視線を落としてしまう寸前。
ほんの一瞬だけ動作も表情も止めてしまった彼女が、もの問いたげな、それでも何の気もなさそうな風にして、小首を傾げたのが見て取れた。

「ふふ……うち、そんなにいつも謝ってばかりどすか?」

そう軽く返す事で、彼女はいつも、私の心が揺らぐのを防いできたのだと、今なら、私にも分かるから。
もういい、と。
もういいんだ、そんな事をしなくても、と。
言いたくても言えない言葉を、野菜サラダごと、嚥下する。

「ああ、また……。お野菜はちゃんと噛んで頂かなあきまへんえ」
「……分かってるっ」

彼女が何かを誤魔化そうとしたように、私も、何かを誤魔化そうとしていた。
でも。
そんな些細な事に突っかかるよりも、もっと。
もっと、話したい事が、確かめたい事が、あった筈だった。
今日一日、いや、逢えないでいた何日かの間中。一人になって、これまでのこと、これからのことを考えながら、彼女に聞いておきたい事、確かめたい事をずっと、考えてきていた筈だった。
彼女の事を想いながら、考えていた事が。
苛立ち半分に、慌しく一通り食べ終えた私が箸を置いたと同時に、彼女はそっと、席を立った。

「お茶、淹れましょな。それともなつきは、コーヒーの方がええ?」
「私は、どっちでもいい」

ぶっきらぼうに言い放つと。
ならお茶にしましょ、と笑い含みの声が返ってくる。
それだって、いつも通りの日常で。だのに、何故か、何処か、遠くて。

「静留……っ」

呼びかけた声は我ながら思いのほか鋭くて、ゆったりと振り返った彼女の瞳の奥に、刹那の緊張を走らたのが分かった。

「どしたん? えらい勢い込んで」

それでも、何事も無かったように微笑むから、私はまたもや、彼女から目を逸らしてしまう。

「……私は、お前に……」
「うちに……?」

緩く小首を傾げた後、続く言葉を待つように佇む彼女の姿が。視界の端で小さくぶれる。
私は。
お前に。
確かめたい事が。
知っておきたい事が、本当は。
本当は。

「……なら、お茶しながら伺いましょか?」

張り詰めた空気を吹き払うように、笑い含みの言葉が彼女の口から零れる。
その事に、救われたような、苛立たしいような。もやもやとした気持ちが胸の奥に渦巻いたけれども。
私も、軽く息を吐いて肩から力を抜く事にした。

「……ああ」
「あ、食器はそのまま置いといてくれはったらええよ」

言って、彼女は、背中を向ける。
言葉の軽快さとは裏腹にその背中はまるで、何かを拒絶するかのように堅牢で、近寄り難い頑なさを漂わせているように見えた。
いや。それさえも、もしかしたら、私の勝手な思い込みなのかもしれない。
彼女の姿をそう見せているのはもしかしたら、私自身の心のありようなのかもしれない。
その時、私は初めて。
本当は、彼女の心を、気持ちを。
その中に秘められた想いの全てを、ただ知りたいだけなのかもしれないと、気付き始めていた。




2005年11月29日(火)


綺麗な夢のその果てに(改訂版)その2.
※060609.


隙のない動作で片づけを始めた姿を、ただ眺めているのも何故か辛くて。
逃れるような気持ちを胸の片隅に抱えて席を立つ。
今更、食事前に手を付けていたゲームに興じる気分にもなれなくて、ソファの上に深く腰を落ち着ける。
背中で感じる彼女の気配は穏やか過ぎて、静か過ぎて。
儚くて、遠くて、何だか耳を塞ぎたくなる、そんな気がして。
我知らず立てた両の膝に額を押し付けて。
頭を抱えるようにして目を閉じた。



――……なつき。

声が、聞こえる。
懐かしい、でも何処か切ない、声。
一心に走り続けている日常の合間、あるいは、ひと時のまどろみの生暖かい夢の中、。
そんな、ふとした瞬間に振り注ぐ、優しい呼び声。
決して、むやみに心の中にまでは、踏み込まずに。
距離を置いて、優しく包み込むようにして。
穏やかな時間の狭間に私を。置き去りにして見守ってくれるような、そんな……。

不意に。
頬に何かが触れる気配を感じて、はっと目を見開く。
一気に覚醒した感覚が四方に解放されてゆく。
大きく身を捩った時、身体を覆っていた何かがはらりと落ちた。

「……ああ、目ぇ、醒めてしもたん?」

笑い含みの声は、ローテーブルの向こうで茶器を用意していた彼女のもの。
時間の経過を感じさせない仕草で悠々と急須を手にしている。

「……すまない」
「ううん。やっぱり、疲れてはったんやね」

もうちょっと寝ててもろてても良かったんに、と微笑みながら、薄藍色の湯飲みをテーブルのこちら側へそっと置く。

「甘いもん食べたらちょっとは疲れ、取れますえ?」

言って桜色の皿に乗せた和菓子をその隣に並べる。
有難う、と口の中でもごもご呟きながら。胸から膝に掛けてずり落ちている綿の毛布を傍らに押しやって座り直す。

「ふふ……せやけど、なつきはほんまにどんな格好でも寝られる子ぉやねんねぇ……」
「な……っ」
「あんたが居眠りしてはるとこ、これまでも仰山見てきたけど」

ソファの上に三角座りで寝てはるん見たんは初めてやわ、と。口元に手を添えて、彼女は肩を震わせている。

「……! 静留……!」

声を荒げて身を乗り出そうとして。
背けられた彼女の横顔に漂う。気付くか気付かないかの、僅かな緊張感を感じ取ってしまって。
こめかみの辺りに上がり始めていた血液の流れがすっと。引いていく。

「……静留……」

正直すぎる自分の声が、彼女の肩にぶつかる。
ほんの一拍、何かを置くようにしてから、彼女は顔を上げる。

「堪忍。笑い過ぎやね、うち」
「それは……」

良いから、と零しかけて、膝の上で掌をぎゅっと握り締める。

「ああ、また謝ってしもぉた」

何でも無い事のように続けて彼女は自分の分の湯飲みと茶菓子を整えると、真向かいにそっと正座する。
以前ならば同じさり気なさで多分、私の隣に席を占めたろうに。
そんな一つひとつが少しずつ少しずつ、二人の間に、積み重ねられていって、やがてそれは、新しいルールになっていく。新しい当たり前になっていく。歩く時の、あの微妙な位置や距離のとり方のように。
彼女がそれを、望んでいるなら。
ならば、私は。
私は……。

「どないしたん……?」

お茶、冷めてしまうえ?と。ほんのり微笑みながら促す、その姿が、既に、遠い。
聞きたい事があるのに、確かめたい事があるのに。

たとえば。

お前は、いつから私を見ていたのだろう。
いつから、私を知っていたのだろう。
いつから、自分がHiMEである事を、私が、HiMEである事を知り。
私の求めていたものの空しさに気付いていたのだろう。
私が失ったものは、私の元へは永遠に戻らない事に。
その事実に私がいつ、辿り着くと思っていたのだろう。

そんな取りとめも無い思いが胸の中で渦巻き始めて唇を噛む。
それは今、自分が言葉にしてしまえば、彼女を責める形にしかならないものばかり。
けれども、違う、そうじゃなくて。
彼女を、責めたい訳じゃなくて。
ただ、知りたいだけだ、どうして、私だったのか。
そこまでして、どうして、私だったのか。
それなのに何故、今更。
どうして、お前は、私から。
どうして、私から……。

「……なつき……っ?」

知らず顔を伏せてしまったのと同時に。
焦ったような彼女の声が耳を打った。

「どないしはったん…!」
「え……?……あ……っ」

まずい。
なんで、こんな。

気が付けば、私の目は。
自分でも分かるくらい、熱を帯びた雫を、馬鹿みたいにあからさまに、零し始めていた。

「ち、違う……!」

焦った私は。
気遣わしげに身を乗り出して、手を伸ばしてきた彼女をまるで。
まるで、拒むように、顔を背けてしまう。

「……なつき……」
「……あ……」

ためらいを滲ませ、差し伸べた手を止める彼女の瞳。
その中に確かな痛みの色を認めた瞬間、直視出来ないまま私は、大きく頭を振りながら、叫んでいた。

「やめろ!お前が悪いんじゃない……!だから、もう……!」

ぐい、と右袖で勢いをつけて顔を拭い、そのまま、腕に両の目を押し付ける。
こんな、自分で制御出来ないままに溢れる涙。
そんなものを、彼女の目の前に晒すのは、酷く卑怯で情けない。

「頼むから……」

―……『頼むから』……?

何を。
私は、何を今更。
彼女に願おうとしているのだろう。
願えるのだろう。
熱くなった頭の片隅に、冷えた感情がするりと差し込む。
何も知らないでいたのは、私の方で。
何もかも知っていたのは、彼女の方で。
それでも、私を。私を、好きだと言ってくれた。
守り続けてくれた。
ずっとずっと、多分きっと。
彼女自身は、何もかもを、堪えるようにして。
何があっても、平気な振りをして。ただ、私の為に、私の為だけに。
でもそれは。
それは。

押し付けた腕の下で両の目の奥が軋むように痛む。
けれども今、彼女を見つめるのは、怖かった。
今の自分の顔を彼女に見せるのは、怖かった。
全てが終わり、全てを知った。
だから多分、これからが私にとっての本当の、始まりで。
だからこそ、ずっと私を見てきた彼女が、これから取ろうとしている道が、選ぼうとしている道が。
どんなものであるのか、薄々でも分かってしまったから。
彼女が見せるどんな表情も優しさも、私にとっては、遠く辛く、痛いのだと。
本当は、気付いていた。知っていた。
そんな甘ったれた自分を直視することが、本当は、怖かった。
全てを彼女の口から聞く事を求めながら、どこかで今、彼女が自分を避けてくれている事に安心していた。
でも、多分、それだけでは済まない。済む筈が無い。
そんな日がやがて訪れる事が、ただ、怖かった。悲しかった。

ようやく、本当に、ようやく分かった。分かってしまった。
私が知りたかったのは、過去なんかじゃなくて。
今の。
これからの。
彼女を。
本当は……。

――……願う資格が、今の私に、ある筈なんてない。

冴えた脳裏で揺れ動き続ける、冷たい感情。それが、彼女を止める為に全てを賭けた、何の迷いも無かったあの日の自分すら許さない勢いで、自らを責めたてる。
想いの形が違う、ただそれだけの理由で、彼女を失いたく無くて。
その願いの強さが、彼女を追い詰める事がある事にさえ思い至らないでただ、彼女を求めて戦った。
そんな自分自身がどうしようもなく、情けなくて、辛かった。

今更なのは。
彼女ではなくて。
本当は…ほんとうは……

「なつき…!何してんの……っ!」

不意に。
思いがけない近さで激しい声がした。
強く両腕を引かれて、視界が転倒する。
何が起こったのか分からない間に背中がソファの上に押し付けられ、口元に何か、柔らかいものを押し当てられる。

「口、開けて!早う…っ!」

耳元で叫ばれた途端に、舌の上に鉄錆びた、でも、何処か覚えのある、甘苦い味が広がる。
思わず見開いた両の目の、視野一杯に迫る、彼女の顔は、いつか見たものよりも、もっともっと。
辛そうな、痛々しい、涙顔。
彼女は。手にしたハンカチを私の口元に強く押し当てていた。
私といえば、一体何が起こっているのか分からないままに、こんなに近くで彼女の顔を見たのが酷く懐かしくて、それだけで何だか胸が詰まるような思いに襲われていた。

「……静留……」
「喋ったらあかん…!」

思わず零した声を彼女は、怒ったような叫びで制すると、口全体を塞ぐように、ガーゼのハンカチを押し当ててくる。

「何で……何で、こないに血ぃ出るまで……っ」

こみ上げてきたものを振り払うように彼女は、折角直ぐ近くに寄せてくれていた顔を、強く横へと逸らしてしまう。

――……血?

そうか。
この甘いような渋いようなのは、血の味。
何度か渡った危ない橋の経験の中、確かに覚えのある味。
思い至った途端、唇の右端にじんじんと鈍痛が沸き始める。
知らず噛み締めていた犬歯がおそらく、思いの他深く、そこへ食い込んでしまったのだろう。
そんな事を、馬鹿みたいに冷静に確認しながら、背けられた彼女の横顔を、まじまじと眺める。

―……静留……。

押し付けられた布が邪魔で、声にならない。
けれども、こんな事くらいで酷く動揺している彼女を、何とかしてやりたくて。

――……大丈夫、だから。

きつく掴まれ、ソファに押し付けられた左手はそのままに、空いた右手で彼女の肩を軽く押しやろうとして。

――……違う、そうじゃない。

考え直して、そのまま、彼女の首筋にそっと回して。
何かを堪えるように震えているその頭を、抱え込んだ。

「……なつき……っ?」

驚いたように身を剥がしかけた彼女には構わず、そのまま、自分の肩に引き寄せる。
その拍子に、唇に押し当てられていたハンカチが僅かにずれて引き攣ったような痛みが走る。
けれども、そんなものは、もう、どうでも良かった。

「何してはるんのん……!ちょぉ……離し……」
「いや……だ……」

傷は痛む。
言葉を漏らせば、唇だけではなくて、この胸の中でさえ。
でも。
でも。だからこそ。

「なつき……っ!」
「痛いのは……幾らでも我慢できる。でも、私は……」

私は。
彼女の泣き顔は、もう。
見たくないから。

「……泣かないでくれ。私は、大丈夫だから……」

言った自分が、また、泣きそうで。どうしようもなくて。
でも、今度は唇を噛み締める訳にもいかなくて。
だから私は。
彼女の頭を、強く強く。
自分の肩に、強く強く、押し当てるようにして。
抱きしめる事しか、出来ないでいた。


2005年11月28日(月)


綺麗な夢のその果てに(改訂版)その3.
※060609.改訂まだ途中。



どのくらい、そうしていただろう。
時折、近くの部屋や廊下から小さく物音が響くのが聞こえて。
その度に、何故だか夢の中に居るような気分になって。
自分の左肩に押し付けた、彼女の温もりに意識を集中する。
そうやって、実際には数分ほどの時間を過ごした後。
ずっと、身体を強張らせ、震え続けていた彼女は。
不意に、大きな息を深くゆっくりと吐くと。
諦めたように、その肩から力を抜いた。
同時に、左手首を抑え込んでいた彼女の右手が。
そっと、離れていく。
それを、私は。
何だか切ないような気持ちのまま。
視界の隅で、見送るしか、無かった。


大きな吐息を一つ漏らすと彼女は、静かに身じろいだ。
離れ難い気持ちと、ようやく押寄せてきた自身の行動に対する困惑とが、私の胸の中で、せめぎあいを起こしている。

「……なつき」

その間にすっと入り込んできた彼女の声の静謐さに、上っていた頭の血が、すっと降りる。

――違う。本当に、追い詰められているのは、私じゃない……。

唐突に思い出して、それから、ゆっくりと腕を解く。
彼女は、私の当てたハンカチに添えた手はそのままに、そっと身体を起こした。
その顔はでも、やっぱり逸らされたままで。乱れて頬に張り付いた髪が、その表情すら伺わせてはくれなくて。

「静留……」
「ほんま、あんた、無茶ばっかりやね……」

ぽつり、と、色のない声が、辛うじて見える口元から零される。
ほんのりと紅いその唇は、かすかに震えているように見えた。

「……ごめん」
「謝ることないけど……血ぃ止まるまで、ちゃんと抑えといてな」

空いた手で無造作に私の手を取ると、ハンカチの上に添えさせる。
そのまま何かを考える暇も与えず、彼女は、静かに立ち上がった。

「ま……静留……っ!」
「喋ったら、あかんて」

丁度一歩分の距離を置いて佇むとようやく此方に向けた、その顔に。思わず、息を飲む。
彼女は、笑っていた。
笑いながら、一粒の涙も流さず、泣いていた。

「あんまり、酷い様ならお医者さんへ行かんとな。綺麗な顔に、痕でも残ったらおおごとどすから」

そんな事を呟きながら空疎に目を細めて、背を向ける。

「ま……待て!静留……っ!」

慌てて身を起こした私を振り返りもしない。その姿に、身震いする程の既視感を覚える。
瞬間、背中を駆け上がった何かを無理矢理抑え込んで。私は立ち上がった。

「待て、話が……」
「喋ったらあかん、言うてますやろ……!」

思わずその手を取って振り返らせると。彼女の厳しい紅い瞳に射抜かれる。

「し、ずる……」
「うちはもう、あんたをこれ以上傷つけとうない」

叫ぶように吐き出された声が静かに、胸元を叩いた。

「せやから、もうこれ以上……」

不自然に途切れたその声音が湛える。
これまで一度も聞いた事のない血の滲むような響き。
不自然な位穏やかなその声に打たれたように。頬に血が集まるのを覚えた瞬間。
駄目だ、と思う間も無かった。
彼女の、胸元で握りこまれた両の手を強く掴み取るように引き寄せる。当然、口元からハンカチが落ちる、けれども、構ってなどいられない。

「今更そんな事を言われたって、私は、聞けない!」

蒼白に近い顔に、真紅に近い瞳の中に走る、痛みの色を目に焼きつけながら。私は、叫んでいた。
泣かせたくはないと、確かに思っていた。
悲しませたくはないと。
けれども、その気持ちさえ振り解くようにして、叫んでいた。

「お前が私の側から居なくなるのは、嫌だ……!!」

傷ついたその瞳を真っ直ぐに見据えて。
その痛みを与えているのは自分だと分かっていて。
それでも、叫ばずにはいられなかった。

「勝手なのは分かってる、だけど、私は嫌なんだ。
お前が居なくなるのだけは、絶対に……!」

卑怯だ、と激しく鳴り響く胸の鼓動が軋み声を上げる。
そんな言い方で彼女を繋ぎとめようとする自分の浅ましさに眩暈を覚える。
優しくしたい気持ち、傷つけたくない気持ちの裏側で。何をするか分からない程の激しさで、彼女を求めている自分。
知らない。
こんな自分は、これまで、知らなかった。

「なつき……」

苦しそうに、悲しそうに、彼女が私の名前を呼ぶ。
強く戒めるように握り締めたその手首の細さに、胸が痛む。
でも、離せない。離したくない。

「……堪忍……」

今度こそ、彼女は。
面伏せ、肩を落として、静かに、涙を流していた。
色を失った頬に、傷跡のような軌跡が走る。

「うちの……せいや……堪忍……堪忍な……」
「……!」

何が。
何が彼女のせいだと、言うのか。
何処までも、何もかもを自分の背に負おうとするその姿を。悲しむよりも早く、冷えかけた頭に再び一気に、血が集まる。

「静留……っ!」

叫んでも、叫んでも。
決して、届かない気がした。
辛くて、切なくて。
言葉にすら、ならなくなるほど、悲しくて。
きつく掴んだその手首に。この手の痕が、いつまでも残れば良い。そんな事さえ。酷く、苦しい胸の中、考えながら私は。
こんな自分を、今の今まで。知らないままで居たいと願っていたのかと。
自分自身を激しく責め立てたい衝動に、駆られていた。




痛くない筈はないのに。
彼女は眉一つ動かす事無く、静かに涙を流し続けている。
光を失ったかのようなその瞳の中には。
何一つ映ってはいないようで。
そう、私の姿すら、映してはいないようで。
その事が、辛かった。


綺麗な夢のその果てに・6


いつだって、彼女は、自分の事は何一つ語らないままに。独りで何かを決めてきた。
私の為に、と思う事ですら、いつだって。
そんな彼女の、寂しいまでに厳しい優しさに守られなければ私は。多分、何処かで折れてしまっていた。
だから、分かる気がする。
今なら、分かる気がする。
彼女が、何を恐れて離れていこうとしているのか。
悲しかった。
でも、それ以上に、情けなかった。

「静留……」

彼女を、そんな寂しい檻に更に堅牢に、閉じ込めたのは、私だ。
あの日、偽りなく言葉にした、私の思いだ。
でも。

「……」

彼女の手首を戒めていた両の掌を開く。
強張った指の間から、その温もりが遠ざかる。
淡い血の色をした、この手の痕が。自分のした事だというのに痛々しくて、見ていられなかった。

「……静留。お前が望もうと望まなかろうと」

だのに、私の唇は、激情の勢いを残したまま、また。
偽れない気持ちを言葉に代えて、吐き出してしまう。

「私だって、いつかは、変わる」

ひっそりと。
彼女の肩が小さく揺れる。

「それを恐れているのは、お前だけじゃない」

零される言葉とその意味を。多分、私以上に理解する為に。彼女が息すら堪えて耳を澄ましているのが分かる。

「そんな事、お前は良く知っていたんだろうな……だから……」

一旦握り締めた右の掌を解いて、そっと伸ばす。
脳裏を掠める既視感。
あの日彼女が差し伸べた、震える掌。それすら恐ろしくて、怖くて。
初めて見た、彼女の泣き出しそうな怯えたような表情にすら。気付けないままに、その手を拒絶した。
今、私の差し伸べた掌を彼女は、拒まない。
けれども、その頬にこの指の先が触れても。色を失った頬はぴくりとも動かなかった。

「でも……私は嫌だ。嫌なんだ」

白い、涙の跡を、親指でそっとなぞる。

「お前に守られるだけの自分でいるのは、もう、嫌なんだ」

言った瞬間、彼女の頬が微かに揺れた。
口元が、歪むように緩んだように見えた。

「……せやったら……」

何処か遠い所で鳴る風のような声が聞こえた。

「尚更、うちがあんたの側に居る訳には、いかへん……」
「……! 違う、そうじゃなくて……!」

聞け!と叫び出しそうになる気持ちを堪えて、彼女の顔を覗き込む。
悔しかった。
守られていたのは、事実で。
何も知らないでいたのも、事実で。
何処かで私が、折れてしまわないように、彼女が。
全てを見越して、私の側に居てくれた事が。
嬉しくて有難くて…それでも、悲しくて。
だから。
どうすれば良いのか。
何処から、やり直せるのか、知りたかった。

「私は……私は、お前に守られる私でなければ、
 お前の側には居られないのか……?!」
「……違う……!」

弾かれたように、彼女が顔を上げる。

「そうやない……なつき、そうやないんよ……!」
「違わない、私にとっては、違わない……っ」

瞬時に炎のような色を取り戻した彼女の眼差しを振り切るように。大きく首を振って、叫ぶ。

「だったら、そんな風に私から、離れようとするな……!」

またこみ上げてきた涙を堪えたくて。痛む唇に再び、歯を立てる。

「なつき……!」
「私は……もっと、お前を……」
「あかん…て…っ!」

ぱんっ!と、頬を張られる音に遅れて。唇の痛みを越える痛みがそこに広がった。

「もう、分かったから……」

痛みに思わず緩んだ口元を彼女が掌で押さえ込むように塞ぐ。

「これ以上……自分を痛めつけるのんだけは……お願いやから……!」

酷いな、と。
彼女の血の気を失って冷たい掌を感じながら。再び震えだしたその肩を眺めながら。
熱と冷気がひっきり無しに入れ替わる頭の片隅で思う。
でも、どんなに酷くてもいい。
あの日以来、何もかもを独り決めしたまま。自身の身も心もずたずたに引き裂くようにして。私の目に留まらない場所で何もかもを独りで。勝手に考えていた彼女を、私は。
知りたかった。繋ぎ止めたかった。
多分、それだけを、望んでいた。

「静留……」

塞がれた口元を気にする事なく、私は言葉を繋ぐ。

「私は、お前を、もっとちゃんと、見ていたい。分かりたい」

お前が望もうと、望むまいと。
この想いが、何と名付けられるものだろうと。
もう、構うものか。
たとえ、返される答えが、拒絶であろうとも。
もう、怯んだりしない。
恐れたりしない。
傷つく事も、傷つけられる事も。
悲しむ事も、悲しませる事も。

睨みつけるようにして見据えた彼女の顔が。呆然としたまま、色を取り戻すのを見ていて。ことり、と胸の中に何かが落ちるのを感じた。
ああ。
また、分かった。
あの日の、お前の気持ちが。
こんな気持ちを、自分独りで抱え込んで。再び拒まれるのを恐れて、逸っていただろう、お前の気持ちが。
だから。

「……お前は、本当は、どうしたい……?」

投げ掛けた問いに、どんな答えが返ろうとも。決して、逃さない……その気持ちに嘘はなかったけれども。
口にした瞬間、心が震えた。
何も問わずとも、私の心の幼さも弱さも知っていた。あの頃の彼女のようには、いかない。
明かされない心を思いやれる強さも広さも私の中にはまだ、ない。
だからせめて、答える彼女を見誤らないようにと。
私は、自分の瞳に、力を込めた。



一橋@胡乱。 |一言物申す!(メールフォーム)

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