けろよんの日記
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| 2025年10月19日(日) |
フィアラの歌 劇団ユメノイト第4回公演 (総括) |
オリジナル曲が30曲もあり、全てミュージカルを構成するに足る内容である ということに驚きを禁じ得ない。一番インパクトがあったのはやはり キー曲である「太陽の歌」でさすがメイン。 パーカッションがお腹にズンと来る感じで、力強い大地の歌。 どことなくアフリカを感じた。 もう一つ印象に残ったのがお祭りのシーンで、アイドル?が歌い踊り出た ところ。ミュージカルSIXへのオマージュかしら、と思いつつ。
衣装も、小道具も大道具もブラッシュアップが進んでいる。 民族衣装風の胸当て、フィアラの人がつけていた植物風の髪飾り、 騎士の正装、大きな大きな木。どこまで進化していくのだろうか。
物語は一幕の途中ぐらいから種族の対立にどう落とし前をつけるか? ということが気になって仕方なかった。 現実を考えて融和するのはどう考えても難しい。 厄災が発端の種族の仲違い(一方的に人の過ちだから尚更)を 共に厄災と立ち向かうという風に転換させたのが上手いなと思った。 タイトルのフィアラの歌はフィアラ単独では厄災を退けることが出来ず、 人との調和があってはじめてその効果を発揮する。 互いに手を取り合わなければ滅亡していたという仕掛け。 力を合わせて大きな仕事を成し遂げたことによる仲間意識。
(大きな主語になるけれども、地球規模で天変地異が起っている昨今、 地球人としては戦争や政争にかまけている場合ではないのになあ…… と溜息がもれる。)
となると、この脚本はアリアでもランスでも主役として設定できたかもだけれどもやはりレオでなければいけなかったんだろうね。一人のこどもとして 城下のいろいろなところで縁をつないで行く自由闊達な少年の明るさが必要。 こども同士の小さなグループに影響与え、アリアにも勇気を与える。それは同心円上に水が広がるがごとく周囲に広がる善意のドミノ。
種族の対立の話に戻ると フィアラ反対派の大人達はどうしてフィアラを排斥しようとするのだろう、 と途中で疑問を感じた。新規の異民族に対して警戒するのはわかるが、 大多数の人達は長年にわたりフィアラの力の恩恵に預かり平和裏に暮らしているのになぜ????としばらく考えた。 結局理屈の解らない不思議な力は例えそれが恩恵であっても某かしかの不安や怖れを感じる人もいる、ということかもしれない。例えばもっと幼い頃のアリアの歌、あるいは性格の悪いフィアラのいたずらで、サラが命の危険にさらされたなんてエピソードがあったらサラ両親の狂信的な排斥にも、もう少し早めに納得できただろうか。
メイナード博士はなんだか金の卵を産むアヒルだかガチョウを殺してしまった 物語の人のようだった(フィアラを殺してはいないけれど)。 古文書の翻訳をわざわざ改ざんしてまでフィアラの血を集めた理由はなんだったのだろうか、フィアラと人間はどこまで同じような種族なんだろうか。 最後に改心した理由はなんだったんだろうか、命の危険に化学では立ち向かえ なかったことがショックだったのだろうか。
アリアはなぜ歌の上手くないフィアラだったのだろう。 ホントは別に下手でもなんでもなかったのが、なにかきっかけがあって 歌を苦手とするようなことがあったのだろうか。 厄災を起すきっかけになった彼女の歌はどのような力を持っていたのだろうか。 彼女のフィアラの種族の中での立ち位置はどのようなものだったんだろう。
セドリック王子はなぜ、厄災に対し実質的なフィアラへの迫害を 止められなかったのか。自分の騎士より(マッド?)サイエンティストを 重用したのは無意識のうちでもランスに対する劣等感や反発があったのだろうか。
など、細かい疑問がいくつか出てきたこと、 また、途中で短い場の切り替えが何度かあり、逆に物語のテンポが落ちている?と思われる場もあったが、人物造形(特に5人の仲間)に説得力があったこと、座付き作家として多くの人にそれぞれ魅力的な見せ場を作り、破綻なく物語を回収、大団円まで持っていった力量には感服。 勿論、出演者の皆さんの演技との両輪で成り立つ訳ですが。
終演後の主催・作・演出の山上さんの挨拶を聞きながら、 そうか、これは実際に実現した話なのだ、と多いに納得。 ミュージカルの好きな女の子が仲間達とサークルを立ち上げ芽を出す。 年輪を少しずつ重ねていく過程で周囲の大人を巻き込み、 大きな木に成長して来た物語の体現なのだと感慨深かった。
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