台風一過の青空とはいかず今日も不安定な空模様だった。
高知県中部で線状降水帯が発生したニュースが流れる。
ちょうど「よさこい祭り」が始まる日であったが
高知市内は難を逃れられたようで予定通りに開催されたようだ。
今年で70回と伝統ある祭りであるがあまり興味はなかった。
テレビで生中継されていたのをちらっと見ただけである。
仕事は明日から16日までお盆休みとなった。
今日はお客さんの初盆のお宅にお供えを届ける。
49日が済んだばかりのお宅もありまだ悲しみが癒えていない。
故人の思い出話をするだけで涙が溢れているのだった。
「日にち薬」の話をした。一日一日が薬であること。
今日を乗り越えたら明日とゆっくりと前へ進まねばならない。
決して忘れるためではないのだ。受け止めるための日々だと思う。
やがて一周忌が来るだろう。傷口はもうきっと乾いているはずである。
残されたものとしてまた新たな一歩を踏み出して行くのだ。
それが故人に対する一番の供養ではないかと私は思っている。
すべてのお宅にお供えを届け終えて帰りながら漠然と考えていた。
亡くなった人達はいったい何処に行くのだろうと。
それは生前の姿を鮮明に憶えているからこそよけいにそう思う。
天国は本当に在るのかそこでも暮らすことが可能なのか。
そうしてそこで何を想って何を伝えようとしているのだろう。
人の命は永遠ではないが魂は永遠に存在するものだと信じている。
そう信じなければ魂の行き場所が無くなってしまうではないか。
ただそれをカタチにすることが不可能なのだろう。
魂には与えられる実体が無いのだから当然のことだろうと思う。
死んでしまっても「私は死にました」と誰にも言えない。
思い残すことがあっても「忘れていました」とは言えないだろう。
死んだらすべてが終りなのだそうだ。それは本当のことだろうか。
それを確かめるためには自分が死んでみるしかないのだった。
いつかは逝く。こればかりは誰にも止めることが出来ない。
交信することも出来ないのだろうか。
「イマテンゴクデス カイテキデス」まるで電報のような文面だ。
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