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2004年10月11日(月) 文藝賞に触れてみた。(普通にまじめにエッセイ調かもしれない。まじめなので一言メールの返信もない)

 おでかけして、帰ってきて。
 手の中にあったのは、文藝冬号と、ツモリチサトの下着
 だって、名古屋だと税金取らなくてさらに5%引きだったんだもの……!


 で。文藝はですね。文藝賞発表だったから。地元では見つからなかったのでまだ発売していないのかなぁと思っていましたが。意外とペラい本で。
 なのにレジで999円
 中途半端だよ……。


 で。ちょびっとだけ文藝賞を読みました。うーん、女性の方、私と二つしか違わぬ。
 作品タイトル「人のセックスを笑うな」でペンネームが「山崎ナオコーラ」。うわぁ。素晴らしいセンス。読みたい、と思わず唸る。セックス。しかし、あの、芥川賞の「蛇にピアス」と違ってすごく爽やかに描かれる。このタイトルであるのに、さらさら流れていって、それが返って心地いい。かいつまんで言えば不倫話なのに、そんな汚れた部分をさらけ出さない。淡々と過ぎていく、物語。でも、選ばれた言葉が心地いい。
 十九歳の「オレ」。三十九歳の「ユリ」。その、日常を切り取った恋愛。なのに浮かび上がっていく二人の生活のリアル。
 描き出される日常は淡々としている。でも、時折、「オレ」の視点にはっとする。「オレ」はどこまで「オレ」? 空気と触れ合っている部分が、境界線? 私にもわからない。文学っていうのは、こういう当たり前の部分も問題として、答えを見つけ出そうと模索して。哲学にはできない領域をも孕んでいる部分がある。私はそう思っている。答えを明確に出さないことで、答えを差し出す方法も、文学にはあると、私は思っている。
 受賞インタビューで、作者は「私は映像イメージが湧くようなものや、ストーリーにうっとりするようなものは書かない。言語表現として面白いもの、ぎりぎりのもの、甘くて硬いものを書きたい。」と語る。目から鱗、とはこのことか。私の目指しているものと真逆のものをこの人は書いて、そして、書ききった。でも、そんなことはない。きちんと私の中で映像イメージが湧く。ただ、書き方として、きっちり描写しているわけでもなく。それはある意味、私が目指したい世界。とても追いつかないけれど。
 とても心地のよい文章。言葉。それで彩られる日常。ときどき、はっとするような「オレ」の世界。視点。
 ペンネームとタイトルを見たときの印象を裏切られた。いい意味で。求めていたものと全く違った作品。これで「蛇にピアス」の文章だったら、やっぱりで終わるところ。
 夢中で読んだ。原稿用紙102枚。ウェブ作品なら、よほど面白くないと正直長くて読むのが苦痛になる長さ。ともすれば、一般書籍においてもなかなか難しい長さ。だけれど一気に読んだ。
 面白かった。心地よかった。
 結局、陳腐な感想に落ちる。



 ちなみに、男性の方はというと、年齢下。どうでもいいけど、見た目が麗しい。今、男性の方を少しだけ読んだ。うわぁ。面白そう。「寒い。寒いよ、パトラッシュ」が地の文で現れた。素晴らしいセンスだ……!
 白岩玄「野ブタ。をプロデュース」
 少しだけ読んだところ、言うなれば、私の書いた「僕たちの日常」の春人一人称をもっとずっとすっごく研ぎ澄ませた文章……という感じ。いや、比べる対象が間違っているんですけど。どんどん読んでいくと……うん。前者とは、全く違う、新しい風。まぁ。あとで。読もう……(※つまり一気には読めなかった)。















 ――私が、なぜ、文藝なんてまじめそーな純文学誌(しかも季刊)を購入したのか。
 前述の通り、文藝賞が載っているからだ。
 さらにいえば――文藝賞応募要綱が載っているからだ。
 つまり――なんだね。応募してみよっかなー、とか思っていたからだ。
 しかし。だ。文藝のこの文章を見て、一瞬でひるむ。
「第41回『文藝賞』は、応募総数2028篇。第1次予選通過として35篇を選出し、その中から予選通過として14篇を選出しました。」
 ……でも、後から考える。この言葉にひるむということは。元から、第1次予選が通過できればいいなぁとしか考えていないわけで。その先のことなんて端から考えていないのである。仮にも、応募しようかな、と思う人間が。
 そんな自信のない人間が書き出す小説が、果たして本当に面白いのだろうか?
 やはり、応募するのであれば、自分の中で最高に自信のあるものを応募しなくちゃいけないんじゃなくて?
 ――そんな悶々としたものを抱えてしまった、この文章。果たして、私はどうするのか。今のところ、終着点を考えてはいない。





 別に、小説家になりたいわけではない。
 これは、多分、投稿して落ちる自分への、いいわけだ。


 先日、父が他界した。
 他界することは、前からわかっていた。ずっと、前から。覚悟はずっとあった。覚悟していたのに、その日が来たら、その覚悟はあっけなく崩れた。残された家族全員で泣いた。父も逝くときに声を上げて泣いた。でも、誰が泣いても、父の死は覆らなかった。
 父の死。それは、私の中でとてつもなく大きな事件だ。なのに、世界は、そんなこと気にもしないで過ぎていく。まるで、こんな些細なことと言わんばかりに。
 父は文章を読むことが好きな人だった。ただ、小説は彼が大学時代に捨ててしまった。フィクションはつまらない、と、父は論文や評論に傾倒していった。
 その父は、文章を書くことも好きな人だった。母と遠距離恋愛していたときは、三日に一度手紙を出したという。便箋五枚もしたためて。その手紙は母が父と共に燃やすように棺おけに入れてしまった。思い出ばかり、追ってはいけないから、と。
 小説を出そうかな。そう思い始めたのは、父の死に起因するような気がする。思い始めたのは、父が悪くなってきてからだ。私は、父に自作の小説を読んで欲しかった。けれど、読ませられる小説がなかった。当時、「夜明け前」なら……と思ったこともあったが、あれは結局、生き残った苦しみを死ぬことで解放されるというテーマであったため、死に向かう父にはとても読ませられなかった。そうしているうちに、父は文字を追うことができなくなった。
 だから、一般公募に出そうか。父はもう文が読めない。けれど、結果だけなら、教えられる。
 私の考えは非常にシンプルだ。
 だけど、父は他界した。急に病状が悪化したと私が思うのは実際は嘘で、父の体内は緩やかに冒されていっていた。結局、小説は書ききることもなく。宙ぶらりんのまま、残る。
 話を戻して。父は、文章を書くことが好きな人だった。
 死んでから、いろいろなものが出てきた。父が購入し、一月だけ使っていたノートパソコン。手帳。本にしたためた、会社の人への遺書。そこに記された文章。
 私の文章に似ていた。これは、本当だ。
 だから、ますます。小説を出してみようかな。そういう考えに至った。
 なのに、そこに現れる自信のなさ。
 やっぱり、どうするかは決めていない。それに、だって、父は他界してしまった。もう、読んでくれない。
 死んだら終わりだ。母が毎日のように呟く。死んだら終わりだ。死んだら終わりだ――だって、生きていないのだから。たとえ、天国なんてものがあるとして。そんなものが生きている人間に何の関係があろう? そんなもの、何の意味も為さない。生きていてくれた方が、よっぽどましだ。
 なのに、もう、父が死んでから明日で三七日だ。三週間が過ぎる。
 私の世界まで、日常に戻ろうとしている。とてつもなく、大きな事件だったはずなのに、元に戻るのは、娘の私でさえ簡単だ。まるで、ただの、人生において誰しもが迎える些細なことだと言わんばかりに。
 これが些細なことだとしたら。別に、特別な気を起こす必要もなくなるような気がする。小説家になりたい、わけでは、なかった。言い訳かもしれないけれど。それは、多分、父に認めてもらうためだけのためで。文章が好きな父。兄たちは父の研究者である血を多分に受け継いで。私は文章面を受け継いだ。その父に、文章で褒めてもらいたくて。
 その父は、今、骨しかない。箸で、拾った。そんなものに、結果を伝えても、もう、どうしようもないんじゃないか。だって、父は生きていない。

 
 書いているうちに、なんだか考えがまとまってきた。文章というのは不思議だ。頭の中でぼやけているものを、文字という媒体に落とすと、確かにはっきりした形で形成されていく。
 さて。どうしようか、文藝賞。やっぱり、決めていない。
 出すとしたら、「その隙間の向こう側」完成版。最初は、心理描写せずに情景のみで心理を伝える、という目標で書いていたのだけれど、とても私には難しくて、気づいたら如何に省略して情景を伝えるかに切り替わっていた。省略の多い文章だ。あまりにも、実験的。私の文章なのかどうかもわからないが、確かに私から生み出された文章にストーリー。
 さてはて。終着点は如何に。










































 ――おかしい。文藝賞について書いていたはずが、筆が乗りに乗って、自分の心境をたまらなく露呈していた。思うままに書いた文章なので、その、練っていないので、文章として重複が多いし、なんだか文脈も掴めませんが、そのままの勢いを取っておきます。
 ……まぁ、たまにはいいかもしれない。真面目モード。――真面目すぎて、あまり読む人もいないだろうけれど(スクロールで流して、この辺は読むかもしれないが)、その、あんまり、中身、気ニシナイデクダサイ。




一言ございましたら。

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