ぶらんこ
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2005年10月02日(日) 刈り入れ

  稲刈りをした。
  生まれて初めての経験。
  あっ      という間に過ぎた
  素晴らしい一日だった。

 
  写真は、刈った稲の干し場を作る「お父さん」。
  メチャクチャかっこいい。ますます大好きになりました!




黄金色に輝く田はとてもとても、美しい。
青空の下で、垂れた稲穂は静かに刈り入れのときを待っているように見える。
実りの秋。
こんな風景を見られるなんて、訪問看護という仕事って本当に素晴らしい!と、運転しながらにっこりしてしまう。
それから、自分の田でもないのに(田のことをまったく知らないくせに)、稲刈りはいつなんだろう・・・と、気になって仕方がなかった。


稲がすごく強いものなんだということを、わたしは今日、初めて知った。
刈られた稲は青いビニールの紐で束ねられ、干しやすいように並べられている。
束ねるまでは、稲刈り機が行ってくれるらしい。(知らなかった!)
そして、並べるのは人の手で行われる。
また、田の端っこは機械では出来ないので、手(鎌)で刈る。
手で刈った稲は、ビニール紐ではなく、藁で束ねられる。
そんな稲の束たちを手作業で干す。
根っこの部分を真ん中あたりからねじり、前に半分、後ろに半分として、竹竿に干していく。

やり方を教わって、おそるおそる始めた。
最初はおっかなびっくり。こんなやり方で、お米がマズくなりやしないか、と心配したりして。
でもだんだん慣れてくると、なんとなく大胆になってくる。
なぜって、無造作に行っても、稲はしっかりと付いているから。
それに、投げたり放ったりしても、大丈夫。
馬鹿みたいだけれど、そんなことに感心してしまう。
そんな強い稲たちを触っていると、なぜだか嬉しくなってしまう。
この一粒一粒がお米になる、とか、そういった直接的なイメージではなく、もっと大きな、心の底から溢れてくる何かがある。
それは感謝の気持ちであり、喜びであり。

今日初めて稲に触れるわたしがそうなのだから、ずっと世話をしてきた彼は、かわいくて愛しくてたまらないだろうなぁ・・・と心から思う。
一粒一粒が、彼の子であり、生命であるのだろうなぁ・・・と、思う。


「刈り入れのとき」という言葉が好きだ。
ゆったりと深呼吸したくなる。
それでいて、どこか背筋をしゃんと伸ばしたくなるような、これまでの自分を振り返るような気持ちにもなる。

今日、「刈り入れ」というものにほんの少し触れたような気がした。
気が遠くなるような準備のときを経てやってくる「刈り入れのとき」。
草を取ったり鳥を追い払ったりもぐらよけを立てたり。
雨の日があり、風の強い日があり、日照りの日が続いたり。
それらすべてが必要なことだった、と、受け入れるような、大きな心。
自然のなすことに、そのまま心を沿える、ということ。
訪問先でぼんやりと感じていた、田を持つ農家の方々の「おおらかさ」をあらためておもう。
稲を干しながら、わたしもそうありたいなぁ・・・と、祈るような気持ちになる。

「ぼち、ぼち、やってくださいよー」
彼のにこやかな笑顔が、心に深く優しく灯っている。


真夏日となった、暑い一日だった。
日焼け止めを塗ったつもりだったのに、頬が火照ってチリチリする。
それでも気分爽快。
こんな経験が出来たことを心から嬉しく思う。
次はこころも連れて行きたい。



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