ぶらんこ
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今日はイースター(復活祭)。キリストの復活を祝う日である。 よって、今朝はEaster Mass(復活祭のミサ)へ行った。
神父さんの説教では、キリストが亡くなり葬られた後、墓所から遺体が消えてしまった聖書の話から始まった。 まだ若い神父さん(厳密には5月に神父になる)が熱く、今風の会話調で語るので、(英語が)とっても聞き取りやすい。 ・・・が、ふと考え事をしてしまい(よくある事)、気が付いた時にはなぜかある高校生の話に変わっていた。 なんだこりゃ?と思いつつも、実例を引き合いに出すことでよりわかりやすく話を進めたいのだろうと思い直し、辛抱強く聞いた。
でも、聞けば聞くほど、なんだか不愉快な気分になってくる。 内容は割愛するが、結局、彼はこの高校生のことを非難しただけじゃないのか?と思ってしまう。 もちろん、その高校生の名前も地名も出さないので、どこの誰なのかはわからない。 案外、実存する人物じゃないのかもしれない。 それでも、なんとなーく、、、心の中にモヤモヤとした陰りが残った。
悶々としていたら、隣でこころが掌に何かを書いてメッセージを送ってきた。 わからないから、後で。というサインをして、神父さんの説教を(一応)最後まで聞く。
けっして悪いことは言っていない。 さきのたとえ話も彼の言いたいことの導入なだけであって、不愉快に感じる必要もないのかもしれない。 きっと、そう感じる自分側にこそ、何かあるのだろうな・・と思う。
ミサが終わり、家へ帰る道すがら、ふと思い出してこころに訊いてみた。 「そう言えば、あのときなんて言いたかったの?」 「神父さんの話、長いねーーーー!って」 「なんだ。それより、あの高校生の話、どう思った?」 「オチはなんなんだ?って思ったけど、なんもなかったね」 「マミィは聞いててちょっと嫌な気分になったよ」 「別にわたしは。でも、あの高校生、実は自分なんです!っていうオチかと思ったら、そうじゃなかったねー」
そっか。。。 もしもそういうオチだったらば、これほど不愉快にもならなかったのだな・・・と気付く。 きっとわたしは、この神父さんが、「誰か」を咎めていることが気に食わなかったのだ。 自分自身の過去を反芻して引き合いに出したのであれば、これほど反応もしなかったのかもしれない。
「別に・・・いいんじゃないの?」と、こころが言う。 まぁね。そうだね。神父さんだって普通の人間だもんね〜。わたしが彼を咎める必要もない。それこそ、イカン!よな!
というワケで。
結果的にいろいろと考えさせられて、とぉっても良い説教だったな・・・と、思った次第。。。笑
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