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2005年06月06日(月) |
夢喰い 【イレギュラー】 第十六話 |
【第十六話】
「弟から話を聞いて、まさか勝利くんがそんなことになってるなんて思わなくて」 憂いを帯びた表情で、溜息をついてみせる。 半歩ほど後ろに控えていた要は、相変わらずの同居人の開き直りっぷりに半ば感心し、半ばあきれていた。 神田勝利とは面識もなく、彼に対する予備知識もほとんどないにも関わらず、随分と親しそうな素振りが出来るものだ。
翌日、要は放課後と同時に家に飛んで帰り、一馬を伴って再び一竜を訪れた。 道すがら、やはりあまり乗り気ではない同居人に、一抹の不安すら抱いていた。 勝利に会うためには家の中に入れてもらう必要があり、怪しまれないためには多少の嘘も必要だったのだ。 要は、勝利の母親を前にして、罪悪感に蝕まれているというのに、目の前の男には微塵もそれが感じられない。 たいしたものだと思うし、反面恐ろしいとも感じる。 「英くんのお兄さんなの。わざわざすみません」 勝利の母が深々と頭を下げる。 「その後、経過はどうなんでしょうか」 憂えた一馬の声に、勝利の母は苦そうに笑って、首を横に振った。 「ぴくりとも動かなくって」 「あんなに快活な子が……ひどいですね」 「家が静かになっちゃって」 笑おうとして、彼女は失敗していた。思わず目頭を押さえる。 「こいつが」 一馬の手が、要の頭に乗せられる。 突然のことに、状況が飲み込めず、要は息を飲んだ。 「随分勝利くんによくしてもらっていたみたいだから、やりきれなくって」 左右の目頭を押さえたあと、再び母親は来客に微笑みかけた。 「いつまでも玄関先でごめんなさいね、あがっていって。私はまだ店があるけど、気にしないでね」
「なんていうか……すごいね」 考えた末に、要はそれだけを言った。 褒めているわけではなかった。 先に階段を上っている相手にも、それは十分伝わった様子で。 「……仕方ないじゃないか」 と、溜息が返ってきた。 「怪しまれるのは困るだろう」 それにしたって、肝が据わりすぎだ、と要は思う。 おそろしさすら感じてしまう。 「あまり、気分のいいものではないけどな」 どんな理由があるにせよ、嘘をついているということには変わりはないのだ。 うん、と要は小さくうなずいて返した。
突き当たりの扉を開いたのは、要だった。 昨日訪れたばかりの部屋は、全く何ひとつ変わらない姿のままで、目の前に広がっている。 机の上で開かれたままの教科書も、積み上げられたままの書籍も。 窓際に寄せられたベッドも、その内側で眠る少年も、何ひとつとして変わってはいなかった。 一馬は、ベッドの傍らに歩み寄った。 少年らしさを残した面立ちが、今は微動だにせずに深い寝息を立てている。 枕もとにしゃがみこんで、一馬は、初対面の少年を覗き込んだ。 項のあたりに視線を感じる。見守っている、というよりも祈っているに近い。 気がつかないふりをした。 右腕を持ち上げて、自分と少年との間にかざしてみる。 指の隙間から、生気にとぼしい顔が垣間見えた。 魔の棲むこの右手を、少年の額に押し当てるだけだ。たったそれだけのことに、踏み切れずにいる。 内側からゆさぶり、揺り起こす。覚醒させるといえば聞こえはいいけれど。 不法侵入には違いがない。あまつさえ、糧をせしめるのだ。 そうして永らえるあさましい生き様を、赦せたためしは一度もない。 背中にちりちりと突き刺さる視線が、責めているようだ。ためらうことを。 錐で穴を空けるような。虫眼鏡で紙を焦がすような。熱っぽく、痛みを伴う視線を確かに感じている。 ごめんね、と小さく呟いた。 君を喰らう所業を、どうか見逃してほしい。 掲げた右の掌を、一馬は、勝利の額に押し当てた。
一瞬で、触れた肌と肌とが境界をうしなった。 ぬるりとすべるように融ける。 熱を持った皮膚がうしなわれ、周囲の景色が重みとろみを持った液体のようにぐずぐずと崩れる。 だらだらと、滴る血液のように。 腐り果てた肉のように、上から下へ、色をなくして崩れた。 世界が壊れる錯覚。 何度味わっても、慣れるということを知らない。 これが、乱暴に境界を越える、ということ。 ひとが誰でも持っている、他者と自分とをくぎる線を、大股で跨ぎ越す犬畜生のような所業。 くずれてゆく”壁”に、思わず目を閉じた。 どれぐらいそうしていたのか、分からなくなった頃、頬に風を感じた。 閉ざした目蓋のおもてから、光がしみてくる。 ひょう、と風が耳元で鳴いた。随分、荒れて吹いている。
しみこむ光に促されるように、目蓋をひらく。 灰色の世界が広がっていた。 足元も、四方も、無機質なコンクリートに取り囲まれている。 ずいぶんと、高いところのようだった。 周囲に建物はみえない。くすんだ空がどこまでも広がっている。 ビルの屋上か。 それ以外には見えなかった。 がらんと、何もないまっ平な人工の地平が足元に広がっている。 耳障りなほど、風が鳴る。女の、苦悶の声のようにも聞こえた。 屋上の果ては、階段一段分ぐらい高くなっているだけで、柵などは無かった。 唐突に、一馬は、屋上の縁に座り込む人影を発見した。 柵や金網の無い際から、地上を覗き込んでいるように見える。 制服を着ていた。見慣れたものだ。修恵学園中等部の。 胡座をかくようにして座っていた少年が、肩越しにふりかえった。 黒髪が四方に跳ねている。顔つきは、悪戯好きで活発な少年のようだ。しかし、髪と同じ色の瞳は、利発そうだった。 取り立てて美麗であったり端麗であったりはしないけれど、人懐こい顔立ちに見える。 驚いたように、少年は目を瞠った。 「……誰?」 不自然な体勢に体を捻ったまま、勝利が問うた。 「どうやってここに来たんだ? お兄さんも出られなくなった?」 「出られなくなったのか?」 一馬は問い返した。 勝利は何度かまばたきをしたあと、コンクリートに片手をついて、立ち上がった。 「だって、階段が」 あらためて向き直って、勝利は一馬の後方を指差した。
「階段がどこにもないんだ」
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【続く】
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