ふつうのおんな

2007年05月23日(水) 来週そして再来週

母の誕生日が来る。60歳だ。
「せめてあと2年。60まで生きたい。」
と病院のベッドに座ってぽろっと涙をこぼしながら母が生きたいと願った日が来る。

入退院を繰り返しながら、つまり普通の生活をおくれる日を織り交ぜながらであればあと2年といわず何年でも生きていて欲しかった。
だけど母は5月の半ばから何も食べられなくなり、5/28の朝から正気を失った。

あのままの状態での2年であったら母も家族も地獄だっただろう。

しかし、58歳と6日の生涯はやはり短い。

亡くなってもなお恋しがられるような母親をもてたことだけでも幸せなことだ とオットは言った。
私もそう思う。
そう思うがどうにもならない気持ちなのだ。

母方の祖母は原爆が落ちた後の長崎を歩いて回ったらしく、原爆手帳を持っていた。
祖父も多分持っていたと思う。
祖母は60代で心臓と肺を患って入院したが、もうちょっとで退院というところまで回復して、突然亡くなった。
詳細なことは聞かなかったが「あの医者が担当した患者は早死にする」と不名誉なうわさが地元で流れている医者が担当だった。

祖父は母と同じく60前に腎臓を患って入院し、入院中に盲腸になったが発見されず腹膜炎になって亡くなった。
どんなにおなかが痛い この痛みはおかしいと医者に訴えても取り合ってもらえず いわゆる「手遅れ」になってから腹膜炎だとわかって。
もう遅かった。

ああいうのを医療事故というのだね。

少なくとも母は医療事故で亡くなったわけではない。
だが、皆 はやい。


父は母の死のあと「奥さんはひとりでじゅうぶんだ」と言っていた。
それはそうだろう、と。
あの壮絶な最期は父の心にも何かを残したはずだ、と。

もうすぐ三回忌だ。

5月にはいってから母の命日である6/3までというのは、去年もそうだったが毎日必ず何度も母を思い出し息が苦しくなる。
通勤途中でもふと涙が止まらなくなる一番つらい時期だ。
だんだん夢見も悪くなり、汗をびっしょりかいて目が覚めることもたびたびある。

ただただ 忘れられないのだ。
笑顔の母ではなく、苦しんだ母の顔を。

苦しみのほうが色濃く、母との思い出が微笑みをもたらさないのが辛いのだ。

何故私の中の母は笑顔になってくれないのだろう。
たった一度だけ 線路の向こうから歩いてきながら満面の笑みで「えっちゃあん」と呼んでくれたあの夢。
あの夢以外の母はいつも具合が悪く、苦悶の表情のままだ。


その答えも三回忌にでるんではないだろうか。

chick me
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