ありさかニキ
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| 2004年11月27日(土) |
とらいばるはいでじー |
連日の約2時間睡眠に加えて(わたし寝ないとだめな人なんです)慣れない運動と急激な寒さ、加えて過度の飲酒に加えましてその上さらにきわめつけにナニとは言いませんけれどもええうんあんな感じのいろいろな精神的ダメージと言いますか、えー、と、なんですか、
…こんなにヒドイ風邪をひいたのは2年ぶりほどで…
熱はすくないんだけどわたしの場合ノド風邪ひくと喘息とかぶるから悲惨で。身体ぶっこわれてますよみたいなセキが出て、そのあと変声期ですかみたいな声になって、それを越して今すでに声が出ていませんとか(笑)あーあーあー。世の中にメイルという通信手段があってヨカッタです…あはん。これはちょっと含みのある言葉です(言わなくてヨシ。
いろいろと思い出すだけで涙というか憂鬱の極みなあの話もあったりなかったりするのですが、まあその話はちょっと置いておいて(現実逃避)そもそもそれ以前にナニが一番やばいってあれですナニです、水曜日の夜から治ることなくヒビ風邪をひいていて、ナニといいますかほんとにつらかったのでわたしここ最近ロクにテキストひらいてないんですね。 …エ。 ゼミの発表いつでしたっけ?
チューズデーイ�堯福Β蓮Α�
いやいややばいんですやばいんですやばいんですやばいんですマジでマジでマジでマジで。 風邪ひいてたんだからしょうがないんじゃない?って言うけど、いやどうしようもなくなったら最終手段でその手つかうけど(結局使うのカヨー)、でも先週の火曜ヴィがうち学園祭でその週つぶれてるんですよ。どういうことかっていうと、火曜週1のゼミの時間まで、他の人はあと一週あと一週のペースなのに、わたしだけ先週休みはさんでるから、いくら風邪ひいていたとゆえ他の人よりハルカに時間的には得してるわけなんですよ。しかもさらにこの課題は春から言われていたもので、9月の終わりに発表終わっちゃった友達に比べればわたしには本当にその時点ですでに2ヵ月あまりの猶予があったわけですよ。 あああああああどうしようううううううう。 だってまさか風邪ひくとは思わないでしょう。どれだけ猶予を与えられてもやるべき仕事はやるべき時間のギリギリ最後でしか手につかないってわたしの性格知らないんですかわかってんですかねえねえねえねえ。
なんて。 まあ早い話、それならなんでアンタ今相変わらずここにいるんですかって。
いやいや、今日はちょっとおそらく見てもつまらないであろうニキを…。 いや、うん、ちょっと今までやった分をね、うん、まとめさしてくださいネ。
ところでまったく関係ない話で恐縮ですけど「オフコースなりー」のタッキーあれ見ましたあのCMのあのタッキーあのデコぴかのまろの「オフコースなりー」タッキーかわッ!!!!!!!まじかわいいですよやばいもうめっちゃかわいいですよめっちゃめっちゃめっちゃめっちゃまじもうメッチャかわいいですよっ!!!!!! 実は一時期ジャニーズが一世をふーびしていると見せかけてその裏でアンチジャニーズも頑なに一世をふーびしていたその時代、わたしは一体どうしていたかというとアンチジャニな友達に囲まれアンチジャニな姉に囲まれアンチジャニな弟に囲まれ「うんジャニーズきょうみないてす(・∀・)」なんてふざけた寝言ぬかしてましたがスイマセンスイマセンスイマセンスイマセンそのころからわたしタッキー好きでした顔がッ!!!!!! 顔がっ!!!!!!!! 生まれてこの方鼻血はあいにくと出したことがないのですが(まじ)、生まれてはじめて鼻血出しそうになるくらい男の人に対してくらくらしたのはまぎれもなくタッキー様が初だと思います。うふん。
…あ、様とか付けちゃったてへへ。
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というわけで西洋史ゼミ(こっちがメインです)。テーマはイングランドのヨーロッパ形成期における位置と構造についてです。 まずは5〜7世紀のイングランド。ローマ世界の再構造化とブリテン島について。
■一つのローマ皇帝権
5世紀中ごろの地中海を中心とした世界がどうなっていたかというと、そこは依然としてローマ帝国の内海ではあったんですけど、かんじんの帝国権力というものは西と東に二分されていて、しかも二つは同じ強さを待っているワケではありませんでした。 西の皇帝は中心性を失いつつあり、その結果西の「分解」は進行し、ゲルマン諸「集団」とローマ系住民との融合がすすみました。そして476年に西の皇帝は消滅し、インペリウムはコンスタンティノープルの皇帝一人に体現されましち。ちなみにインペリウムというのはローマ帝国の最高権力者が持つことのできる最高命令権のことナリ(「ナリ!」) そして5世紀末、地中海世界はローマ帝国と、その皇帝権を権威の源とする諸王国からなる「西方」に分裂しはじめました。
■ブリテン島の二つの地帯
ブリテン島(つまりイングらん)はローマ帝国が縮小する中でも特異な場所といえます。
東部ではゲルマン諸「集団」…えっと後にサクソンとかアングルとか呼ばれる有名な彼らですネ、ええとその彼らの移住が継続的に進行してきて、ウイットビからハンプシャ(そういう場所があるのです)を結ぶ線(たて線)の東側に定住地を作り上げますた。 その生活圏はゲルマン諸「集団」がローマン・ブリトン人と制服(意図的に誤字w)・融合を繰り返しながらつくりあげていった�爛�ニ�瓩噺討个譴襪發痢�です。みたいです。この�爛�ニ�瓩麓腓縫蹇璽淹�代からのキヴィタス(いまでいう市とか町とかそんな感じのローマ的区分け。都市)をかんこつだったいしたもので、カンタベリやロチェスタなどもその例です。 クニの構造は大まかに「中核」と「周囲」に分けられます。「中核」は各クニに一つ、「クニヌシ」の住む集落のことを指していいます。「周囲」は三ないし四家族からなる血族の集落が展開したもので、奴隷を所有する自由人から構成されます。自由人ってなんだろう(わかんないんですか。 周囲はクニヌシ一族の家計を維持すべく食物と奉仕を中核に提供し、中核集落ではクニヌシが奴隷を使って所領経営をしていて、それは貢納と収奪という重層的な収取構造をしていました。
一方の西部ではローマン・ブリトン人のキヴィタス的クニが存続していました。東部と違ってそこには�爛蹇璽淌�なるもの�瓩了爪茲�より強く残っています(具体的にどんなんなんだろうわかんないス)そしてそれは同時に亜ローマ圏がブリトン島西部に封印されたということデス。これらのクニは教会を中心にしてキリスト教的信仰を維持していました。 西部のクニも東部同様クニとして「中核」と「周囲」の二重構造を有していましたが、ローマの影響が相対的に強く残っていた事、経済的先進性を依然として留めていた事、修道士達が優れた農業技術を誇っていた事など、いずれも大規模な所領経営が存続していた事を暗示しています。 ちなみに東部のゲルマン諸「集団」は、この時点では西へと拡大する力を持った大部族国家を作り上げてはいなかったため、この東西の均衡は7世紀に入り、地中海世界の再構造化の一環となるまでは破られる事はありませんでした。
■王国のふたつの型
部族と王国を理念的に整理してみると、以下のふたつに分けられます。 ひとつは「細胞分裂型」で、これは国の名前が人名、もしくは王の名前に結びついています。 この場合王国は小規模で、王権も王の資質を共有する「王家」ではなく、王個人に代表されます。この王国は、王の子供達が父親の元を離れ、新しい国をつくり出しながら拡大します。つまり王家が拡大しない以上、部族の拡大も必然的に制限されていくといえます。
もうひとつは「挿し木型」といって、これは国に集団の名前が結びつき、王位継承請求予備軍たる王家と系属から王朝が成り立っています。 このとき王国は王家の一員、または系属の代表者を被支配地域の新しい支配者として送り込みながら拡大します。それゆえに前者とちがって共同統治者、従属王、貴族が存在し、広い地域をその支配圏としています。 また王国統合の要としての王家の系図を必要とし、王国の中心集団は王家を中心とする統合への共属意識をもち、かれらを苗床として部族意識がはぐくまれていきます。
7世紀にかけて、東部ではこの「細胞分裂型」から「挿し木型」への展開がみられます。 諸集団の継続的な大陸からの移動、それに伴う戦争状態、ローマ教会の布教、大陸フランクでの「国家」形成のイデオロギー(かんたんにゆうと西ローマ帝国滅亡後の当時のヨーロッパではフランク王国がが自分たちと違ってでっかい国家をつくりあげちゃっててエエエエエなにそれなにそれなにそれーな状態)などの様々な圧力を受けて、いくつかの小王国は、ウズマキのように周辺のクニを巻き込みながら部族国家へと発展していきます。
マス☆
…うわあー序章なげーーーーーーーーーー(汗(力尽。 やっぱり全部言ってたんじゃ間に合わないよなあ…これでもけっこうはしょったつもりだったんだけど、もっとすっきりまとめなくちゃだなあ…うーんうーんうーんうーん…。 とりあえずあとなんにちだブラザー(卒倒。
あ、ちなみにミエをはるとここでストップしたのはキリがよかっただけであって、実際はもうチョコっと勉強はすすんでいますのよ。…ハイ。
…そういえばカレイドスコープどうなったんだろう…(ぁ。
そしてここまで読んでくださったアナタに無限大愛w
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