ことばとこたまてばこ
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1970年01月21日(水) |
冷たくて、透明で、さらさらしていてー… |
暑い日の午後二時。 期末試験も差し迫った学校に行く気もしなくて、サボりながらぷらぷら散歩をしていた。昼間の活気に満ちた商店街の心地いい喧噪に包まれているとき、とろりと耳から透明な汁がたれてきた。 あたしはびくっとして耳をおさえる。 その感触をたとえるならば長時間泳いでいたプールから上がると耳の中に入った水がなにかのはずみで出てくることがある。すっかり自分の体温に暖まりきった水が出てくるときはとても熱く感じられる。そんな時なんとも言えない違和感を感じて指で耳をほじくるか、頭をどんどん叩いて水を流そうとする。
そんな感じであたしの耳から透明な汁がたれてきたのだ。 しかし、あたしは最近プールに入っていない。だからこれは水ではないはずだ。 それに汁は暖かくもなんともなく、その逆でひやっと微妙に冷たいのだ。 あたしは耳をほじくって指についた汁を眺める。 汁はまったくの透明だ。 くんくんと匂いも嗅いでみる。
瞬間、セミの音が遠くなった。
なんの匂いもしない。 その間にも汁は少しずつたれ続けている。 首をかしげて汁の出る耳を下向きにしてみると、足下の土がむき出しになっている地面に黒い染みがぽつぽつとできて増える。 体から出る体液としては気味の悪いくらい汁が流れている。 試しにあたしはそのまま立ってみた。
瞬間、商店街のざわめきがささやかになった。
買い物帰りのはみでたネギ袋をぶら下げた二人連れのおばちゃんが好奇心旺盛にそれでいて慎重にあたしをちらりちらりと見ているので、あたしは首を傾けたままおばちゃんの目を正面から見た。 おばちゃんはへたくそに肩をすくめ、とってつけたような表情で去っていった。 しばらく立っていたが、ずっとこうしていても汁は止まらないなと判断したあたしは首を振る。 ぴっぴっと汁が散らばった。
瞬間、道路を行き交う車のエンジン音が穏やかになった。
もう一度耳に指を突っ込んで、指で汁を擦りあわせてみる。 見た目や匂いから予測できるようになんの粘りもなく、限りなく透明な水のようにさらさらしていた。
瞬間、そばの線路を走る電車の音が落ち着く。
次にあたしは舐めてみた。 やっぱりなんの味も感じなかった。 でも、考えてみればそれっておかしい。 人間の体液だったら甘くはないけれども、苦いかしょっぱいかの味があってしかるべきなのに。 体液じゃないとしたらいったいどういうわけであたしの耳から出てきたのだろう。 この汁はいったいなんなのだろう。 指にたっぷりとついた汁がしたたる。
瞬間、こどもの甲高い声がなくなった。
たれる汁は耳たぶを伝い、あごの線をなぞって首筋に落ちる。 ぽつぽつと滴で流れていた汁の量が次第に増えて一筋の線となる。 自然に流れが止まる。
瞬間、音が消滅した。
あたしはたまげた。風景はいつもと変わらなくとりどりの色彩にあふれているのだが、音というひどく決定的な色彩に欠けていた。足がすくむ。 昼間の商店街に立ちつくす。 あたしは震えながら指に残っていた汁をちゅうちゅうと吸った。 理由はないけれど、この汁を吸わなきゃ駄目だって感じた。
ちゅうちゅう。
焦りと恐れと気恥ずかしさが吸う勢いを加速させる。
ちゅうちゅうちゅうちゅうちゅうちゅう
指が痛くなるくらい吸った次は、首筋に落ちた汁をぬぐっては吸い、耳に残った汁をこそげとるようにぬぐっては吸うことを繰り返した。
ハッと我にかえってみるとほんの少しだけ音が戻ってきていた。 今まで気づかなかったけど、目の前にあったお店のおじさんがおろおろと声をかけているのが聞こえたのだ。けれど、何を言っているのかが分からなかった。 口パクに合わせた雑音をおじさんがラジオかなんかでどこからか流しているとしか思えなかった。
これがあたしの聞こえなくなった理由。 耳が聞こえていた時、いつも当たり前のようにあったはずの音はあたしから遠く離れてしまった。 そのことにときどき不安になったりもする。 でもそれはしょうがない。 いまさらじたばたしたって戻らないものは戻らないんだから。 不完全な者が完全を求めたって、不完全の完全になるだけだ。 人工内耳、クローン生命体なんてそのいい例だと思う。 だからなんの意味も理由も分からないまま音が聞こえなくなったという、なんともまったく理不尽なこの現状をあたしは受け入れようと思った。 音があたしのものじゃなくなった今思うと、あの汁は音そのものだったんだなって分かる。
冷たくて、透明で、さらさらしていてー…。
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