ことばとこたまてばこ
DiaryINDEX|past|will
ある日、おれは聴者の友人に悩みを打ち上げた。 「なあ、いま、おれ悩んでんだけれども」自分でも分かるほどにぎくしゃくとした手話で言った。 「ああ…、どうした?おれで分かることならなんでも」彼はおそらく声が伴った手話で言った。
おれは右に顔をかたむける。すると重力に引きずられて下向きになった耳から真っ黄色の膿がどぼどぼこぼれた。手で受け止めようとしても、すぐに溢れんばかりの膿が溜まる。おぞましい悪臭が漂う。掌3杯ぶんの膿が溜まった頃、おれは顔を真っ正面に戻した。
「どうしよう。この頃さ膿が止まらないんだ。臭いんだ」 彼は悪臭に瞬時顔をしかめた他に、表情らしいものを出さなかった。 「頭ん中、いや、耳の中に膿が詰まってるんだ。この汚物が。どうしよう。とても気持ちが悪いよ」 「何時から、何がきっかけで、耳から膿が出るようになったんだ」彼が言う。 「さあ。それがちくとも判らないんだよ。いつも常に出ていたようだし、ある境から急に溢れたようだし。どうしても判らないんだよ」 「じゃあお前の覚えている一番古い記憶でいい。何時からだった?」 「ああ、と、そうだね、故郷の稚内で小学校に入ったばかりの頃、そうだね、降り積もった雪をさくさく踏みしめて歩いていた時、突然どろっと。そうだ。その前日の夜はとても寒かったんだ。そしてとてもうるさかったんだよ」 「うるさい?」 「おかしいね。おれ聞こえないのに雪の一粒一粒がキュンキュン鳴っているんだよ。聞こえたんだよ。キュンキュンキュンキュンキュンキュンキュンキュンキュンキュンキュン…豪雪の一晩中、雪の数だけキュンが続いてさ。今思えばよく発狂しなかったなあ。ひひ、偉いね、おれ」 「…」 「その翌日、学校へ行くんだったか帰りだったか。はっきりしないけれど、とにかく通学路の途中雪を踏みしめていたら、ごぽっ、って膿が出てさ。白い雪に黄色い膿が映える様は実に気持ちが悪かったよう」 「おい、大丈夫か」 「あ?」 「大丈、夫か?」 「あ?あー、だいじょう、ぶ」 「いい?見て」 「だいじょーぶ。見てますよって」 「その膿、俺はたぶん音そのものだったんじゃないかと、思うよ」 「膿が音?」 「じゃないかと、思う」 「へへ、音が膿なの?はは、おっもしろーい。それもアリかもねぇ」 「黙って、おれの手を。見てくれ」 「…」 「おれは聞こえる。音を知っている。お前の言うような雪の音なんて、知らない。本当だ。知らないんだ。おれもよく判ってはいないんだけれども、なんでも雪は音を吸うらしいね。だからなのか、おれの知っている雪のある世界はどこまでも静かな世界なんだ。そしてそれが当然だと思ってい、たけれど…」 彼は手話を、そして言葉を切った。 「お前が言うことを聴いて初めて知った。雪世界にも音がある、と」 彼はしばらく強く眼を閉じていた。 「そうして逆に思ったんだよ。お前はおれの知らない音を、必要以上に聞いてきていたんじゃないかって。どれがどの音が聴くべきに耐えうる音なのか、聴かざるに済ますべき音なのか…こう言うとすれば、おれはお前よりも判別できるよ。でもお前の知っている音はお前しか知らない音なんだとすれば、そりゃ、しんどいよ」 「いや…、だって、でも」 「他の誰かと価値観を共有できる、ということのありがたさ分かってるでしょ」 「まぁ…」 「それと同じなんだよ。おれが安心できるだけの判断をすでに他の誰かが体験して語っている。ちょっと悔しくもあるけれど、まぁ、ホッとしてしまうね。安心してしまう。でも、お前は」 「おれ?」 「少なくとも、おれの知る間では無い。偉そうにとうとうと語ってきたけれど、それらもお前は既に知っていたんじゃないかな。だから、音を忌み嫌う対象として膿を出した…そう考えるのは無理あるかな?」 「分からない」 「当たり前だ。分かる、なんて言ってもらったらこっちが困る。それでいいんだと思うぜ。お前にしか聞こえない音。それってすげえ聴かせてくれ、って思うぜ」
膿は本当に悪臭を放っているかい? と最後に彼は言いました。
わからなくなった。
|