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ことばとこたまてばこ DiaryINDEX|past|will
まだ階段を登るにも苦労重ねた幼いあの頃、わたしは命の危険を顧みない、まさに無謀な冒険へと出ようとしていた。未だ見果てぬかの地。いつだってそこを想うたびにわたしはぞっくりぞっこんするのだった。わたしはまずイチゴが掌に収まるほどの小さな手で戸棚の箸入れ場のとってを掴む。前もって準備してあったゴミ箱に足をかけて、身体を持ち上げる。降り立ったは実に足場の不安定な場であった。一歩足を踏み外せば、戸棚の頂と比較すれば未だ標高は低いにせよ頭を打ちつけて小便を漏らすには足る高さであった。膝小僧が笑う。わたしはその恐怖を否定しなかった。手は汗ばみ吐息も荒くガクガクブルブルしながら激しく脈打つその小さき心臓を叱咤し、食器入れ場のガラスを慎重に開けて十分な足場のスペースを確保する。はたして成功した。ほわきゃーん、とひとまず安堵。けれどもあそこはまだあんなにも遠い。わたしは上を見上げてひとりごちる。しばしそうしていただろうか。さあ休憩はもう充分だ。わたしは登らねばならないのだ。なんとしてでも!そして精一杯に背伸びをして2段目の食器いれ場のガラスをそろそろと開く。ここからが執念場であるぞ!わたしは細い二の腕に力こぶをつくり、身体を持ち上げる。しかしなんとしたことであろうか!この時、わたしは掌に発する汗を甘く見過ぎていたのだ。極度の緊張と運動がもたらす汗の量はじょじょに広がり、手の第一関節のみで全身を支えることとなってしまった。しまった。忸怩たる思い。うう、とかすれた声が漏れる。いまや人差し指と中指の先でふんばっているのみ。幼子といえども生きてきた、その脳裏を走馬燈が駆け抜ける。びゅるびゅる。母の顔。ほ乳瓶。パイオツ。父の顔。公園で間違えて食べた芋虫の苦い味。駄犬のふぐり。夏目漱石。みっちゃん…ぐわあ、そうであったよ!みっちゃんのためにこのような大冒険をすることとなったのだ!みっちゃん!待っていておくれ!我ながら信じがたいほどのパワーがみなぎり、ぐらわあっ、と呻き、そして、わたしはついに食器入れ場2段目という前人未踏の地を踏んだのだ!爽快かな爽快かな。いつもならば見えぬ冷蔵庫の上の様子が実によく判る。きったないなあ。すわ、あれは半月ほど前に取り上げられた電子遊具!あのような地へと隠蔽されておったのか、誠に不憫な。待っておれよ、この旅が終わればすかさずお主を助けにゆくぞ!さて、ここまでくれば戸棚の頂はもはや目と鼻の先。みっちゃん…。幼子にだって性欲とまでは言わずともそれに似た思いは確実に有するのですよ。というわけでみっちゃんを思うが同時になにやら股間のあたりがぬらぬらするヘンな気分のわたし。あっはーん。いっやだなあ、もう。さあ、最後の冒険がいま始まる。まずわたしは両手を頂へとしっかり握りしめゆっくりと右足をも頂にかけて、渾身の力を込め全身を持ち上げた!この偉業をあなたがたは万古不易語り継がねばならぬよ。幼子はついに戸棚の頂へたどり着いたのだ。感激にぶるぶるする幼子。そして彼は発見した。はたせるかな、それは陰毛であった。ソレミヨ!この時、幼子の頭には天使がラッパを振り回して破壊してまわり悪魔がルンタラッタしていた。ソレミヨ!これでみっちゃんに「オトナのあそこの毛はどこにでも行くんだぞう」という自論を証明することができるであるよ!しかしなんだ、積年夢にも見た場所のはずなのにたいして面白きこともなき。がっかりだなあ。さあ、王の帰還ですよ。帰ります。と思って下を見たわたしは、目のくらむような高さに今改めて恐怖を覚えしりもちをついてしまった。これは…帰れない。そう気づいてしまったわたしは「あぎゃーんあひーんあふーんあべしゃらーべんびんびんびーん」と大声で泣きわめき、それを聞きつけた母親になにやってんのあんたこのばか!と罵倒されながら無事救助されました。遭難した人の救助料ってべらぼうに高額と聞き及んだのであるが…いくらするのかね?と母に問うが、なにやってんのあんたこのばか!と罵倒され尻をたたかれるのみでまったくやれんね。まあよい。この陰毛さえあればわたしは心底より満足なのだ。ほほん。
陽
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