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結婚式の半年前に、結婚が決まった。
北海道では結婚披露宴をする際の発起人は、両家の友人たちがする。 当時も、私と夫の友人たちを中心に10人ほどの発起人が決まり、 発起人会(つまり、飲み会)を、1959年の1月に開催した。
第一子が生まれたのが、同じ年の12月。 長女は「できちゃった婚」だと思っていたようだが、そうではない。 結婚が決まってから妊娠したのだ。
もしあの時、妊娠・出産していなかったら、結婚後に始まる夫との結婚生活を 早々に打ち切っていたのかもしれない。 まさに、子はかすがい。 夫と私の、腐れ縁夫婦の始まりだった。
子どもを産むその前の日まで、働いた。 洋食屋は、忙しかった。 妊娠中は、平日は午後から閉店までと、日曜は一日中手伝った。 ウエイトレスの仕事は、ほとんど立ちっぱなし。 相変わらず夫は、仕事中に大声で私を怒鳴った。 私のみならず、他のウエイトレスにも怒鳴った。 当然、ウエイトレスはどんどん辞めていった。 辞められないのは、結婚した私くらいのものだった。 仕事中、お客さんがたくさんいる時でも、夫は罵声を浴びせた。 何度も、店の外で泣いたものだ。 泣きながら、歩いて家まで帰った事も数え切れない。
夫はというと、仕事とはそういうものだと思っていたらしく、家に帰ると 静かな夫でいた。当時はまだ、家庭にいる夫は普通の夫だった。
そんな状態でも流産もせず、予定日の4日後に娘が生まれた。
豪雪で列車も止まり、母が病院へ来たのは娘が生まれてから随分あとだった。
娘を出産後3ヶ月して、仕事を再開した。 娘は、無認可の保育所に預けた。 娘はカンが強い子で、週に7日、夜泣きした。 午前4時前後になると、必ず1時間ほど泣き続けた。 夫は、娘が泣くと背中を向けて「どうにかせーや」と言った。 私は、娘を抱いて必死であやした。
午前10時から午後6時まで、洋食屋で働く日々が続いた。
娘が一歳になった頃、夫に怒鳴られる数が極端に減った。
怒鳴られなくなった頃に、夫は言った。
「ワシ、生まれ故郷に帰ろうと思う」
今も昔も、言い出したらきかない人だ。 私が「うん」と言うまで、自分の思いを語り続けた。
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