| 2026年04月01日(水) |
0.000017%の“もしも” |
昼の休憩室で、同僚が「お休みありがとうございました」と言いながら、ちんすこうを配り始めた。
「へえ、沖縄行ってきたんだ。飛行機で?」
と誰かが言い、「もちろん。飛行機じゃなくてどうやって行くのよ」と笑い声が起こった。すると、
「私は飛行機だめなんだよねー。沖縄も北海道も一生行けないわ」
と言う。高所恐怖症と閉所恐怖症のため、乗ることを想像しただけで手汗びっしょりになるらしい。
実は私も飛行機は苦手である。
子どもができるまでは海外によく出かけたし、新幹線より早くて安いという理由で東京に行くのも飛行機で、という頃もあった。しかし、当時も好きで乗っていたわけではなく、前日の夜は「明日は胃カメラ」と同じくらいの気の重さがあった。
飛行機事故が起こる確率は車のそれと比べたらはるかに低く、もっとも安全な乗り物だと言われている。が、いかに稀なことであっても、もしものときは一貫の終わりというのが恐ろしいのだ。
フランクフルトからロンドン行きの飛行機にこれから搭乗というとき、隣の人が無邪気に言った。
「これ、昨日アテネで墜落したキプロス機と同じ型の飛行機だよ」
そういうことを言うのは降りてからにしてほしい、と本気でむっとした。事故の後は点検を強化するはずだからかえって安全よ……と自分に言い聞かせるが、身が固くなる。
考えないようにしながらシートベルトをして離陸を待っていると、突然後ろのほうで赤ちゃんが泣きだした。火がついたような泣き声を聞きながら、
「動物が地震を予知するように、大人よりずっと動物に近いところにいる赤ちゃんも本能的なもので不吉なことを察知したのではないか……」
追い打ちをかけるように、向田邦子さんのエッセイで読んだ話がよみがえる。
飛行機のエンジンがかかった途端、ひとりの男性が真っ青になって「急用を思い出した、降ろしてくれ」と言いだした。もう無理ですと止める客室乗務員を殴り倒さん勢いで力ずくで降りて行ったのだが、その飛行機は離陸直後に墜落。その乗客は元パイロットで、エンジン音からその不調を悟ったのだ------という内容で、私は赤ちゃんと一緒に泣きたくなった。
向田さんもその原稿を書いた時点では、未来に自分が飛行機事故で死んでしまうなんて夢にも思っていなかっただろう……などと考えると、さらに動悸がしてくる。
いままでで一番怖い思いをしたのは、ミュンヘンからバルセロナまでルフトハンザ航空の飛行機に乗ったときだ。
乱気流のせいか、離陸後まもなくから機体は揺れに揺れた。機長の指示で客室乗務員もずっと着席したまま。あちこちで悲鳴が上がるほどで、私も「まさか……うそでしょう……?」と手をぎゅっと握りしめた。
しかしこのとき、緊張感Maxの乗客を救ってくれたのは機長の「飛行には問題ありません」のアナウンスでも客室乗務員の(強張った)笑顔でもなく、前方の席に座っていた子どもたちだった。幼稚園児くらいの子が何人か乗っていたのだが、彼らは飛行機がぐらりと揺れるたび、実に楽しそうな歓声を上げるのだ。ビッグサンダーマウンテンにでも乗っているかのようなはしゃぎっぷりだ。
一時間半後、飛行機は大きく傾いたまま片輪ずつ着陸した。ものすごい衝撃だったが、ここでも子どもたちは「キャッホ〜!」。
飛行中、もし彼らが「ママー!」と泣き叫んでいたら、機内はパニックに陥っていたかもしれない。無事駐機場に入ったとき、拍手が沸き起こったが、あれには機長や客室乗務員への感謝、乗客同士の労いだけでなく、「坊やたち、ありがとう!」も込められていたと思う。
国際航空運送協会(IATA)が公表した統計によると、2024年の全世界の商用航空機の事故発生率は88万便に1件、死亡事故となると580万便に1件だ。
海外に行くときは“もしも”に備えて部屋を片づけ、ブラウザの履歴を消したものだが、こんな天文学的確率だったとは。ニュースで見る飛行機事故の映像が衝撃的だから、リスクを過大評価してしまうのだろう。
しかしさすがに、0.000017%は「リスク」ではなく「安心」の材料とするべきである。
宝くじは100万円(0.002%)だって「当たるわけないやん」と思っているのに、矛盾しているよねえ。
【あとがき】 飛行機に乗れない理由に「たばこを吸えないから」を挙げる人がたまにいます。機内禁煙になってから、知人はフライト時間が六時間を超えるところには行っていないそうです(ハワイ大好きなのに)。 三十年くらい前までは座席でたばこを吸えたこと、若い人は知っているかな? |