ひよ子の日記
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2004年02月08日(日) 言語学?のつづき/本当に「かお」と繋がってるのかいな。

一昨日の言語学?で、ちょっと違うかもって思うとこ発見。


えっと、だから、「物が先にあって名前」、なのはあってるけど
私が生まれた時には、すでに言語が確立されていたから
日常で私が生活する場合は、物がさきにあるってより、
言語と対象物の関係を通して、世界を見ているってこと。


私が生まれた時は、言語が確立うんぬんかんぬんぬん、じゃなくて
人間が何かを頭に思い浮かべたり、初めてのものと出会った時。
それを言葉にした時点での話かな。。

こうして、私が文章を書いていて、
ここにこうして書き出された文章は、私の頭の中にある時とは
もう違うんだ。
さらにそれを誰か他の方が読むと、その方なりの理解をして
私の頭の中にあった時のこととは、もっと違うのかもしれない。
それをその方が言葉に還元して、「そうですよね」というような事を
言った時には、その方の頭の中とはまた違ってて(゜ペ)?

でもその辺はきっと、文章を読む、音楽を聴く、所の面白さでもあるから
脳みそ直結で、なんか脳から脳へ管通したりして、
コミュニケーションをしてたらそんな楽しみなんて、
つまんなくなるんじゃないかな〜。



でも人の体の感覚は、自分で感じられないから
「こんな感じするよね〜?」「あぁ、なんか体が重い様なね?」
って、だるいを説明しても、人によって微妙に違ったりする。
人間が認識してる「だるい」って、実はそれぞれ違うんじゃないかって思った。


で、、これは、きっと確かにそうなんだけど
これを考えだしたら、何も言えなくなる事に気が付いた。
だって、これは本当に「だるい」なの?って言ってるようなものだよね??
そしたら、言葉自体を疑ってる事に発展する。例えば、

「共通のだるいを表現する為には、他のことばで統一しよう!」

のような。じゃあ、その統一した言葉も、もしかしたら
それぞれ微妙に違う感覚を認識してるんじゃ‥‥ってなったら
すぐに言葉自体が役立たずになっちゃって、何も表現出来なくなる。

って考えてたら、「知の論理」(小林康夫/船曳建夫 編)で
L.ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』 105からの引用があった。


全てを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くことも出来ない。


おお!すごいなぁ。。

精神世界って、きっと昔と変わらないんだなぁ。。。
だから昔の人が考えた事を、また考えちゃうんだ。
んで、私の様な人間が考え付く事なんて
おおよそ昔の人が既に考えてて、本を見たら載ってるのかしら。。

すごいなぁ。。。
でもちょっと悔しいな。

そういうわけで、なにかを説明したり表現する言葉を信じないと
ぐるぐるまわって、始まらないことがわかった。
というか、それを「知の論理」の一番始めにもってきた理由なんだ。。

うわぁ、、なんかすごい。(それしか言えない)

この本、実は16歳の時に買って、読んだのですが
難しくて全然意味が分かりませんでした。
でも、今読んだら、ちょっとだけ分かるようになっていて嬉しい。

と、笑ってのほほんと終わりましょう。
(笑って誤魔化すとも言う。)


ひよ子

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