今、手元には�機銑垢両�説があり、そのうち�機銑桂�を読んだ。 一時期、ハリポタや指輪物語が映画化され流行ったことを考えれば 同じ冒険ファンタジーに類するドラクエも、ある意味大々的な映画化とか『アリ』なのかもしれないなぁ…と思いつつ。
ただ、ドラクエが他ニ作品と大きく異なるのは、原作が『ゲーム』であるということ。 ゲームと言うのはシナリオ(原作)だけでなく、それを表現、可視化された映像が既に伴っており、更には操作も出来てしまう時点で、最早「原作+映画+α」であり、ほぼ全てのジャンルを総合的に網羅している「ゲーム」というひとつの大きな完成体から、逆に小説化と言った「表現方法を文字(文章)だけに限定する」という行為は、スピンオフ的な物ならともかく、どうしても土俵が狭くなり、少々無理があるのではないか…?
…と、�桂�の小説を読んだ時点で思ったのでした。 小説の内容は元あるゲームシナリオに少々肉付けをしただけに止めたように思え、また出来るだけ多くのゲーム内のイベントを上下巻2冊の限られたページに収めていこうとした結果、いわゆる「あらすじ」を読んでいるようだった。小説独自の設定もあったが、あくまで原作のゲームの世界観を崩さない範囲だったように思える。
今現在、�犬虜能蕕鯑匹鵑任い襪里任垢�、�犬�らは作者が変わり、�靴泙任亮衙,箸楼貪召靴董�登場人物をかなり掘り下げて、キャラクターの「個性」を強調させ、更に原作(ゲーム)にはないサイドストーリーや小説独自の設定を設け、「小説版独自のオリジナリティ」を創り出そうとしている努力みたいなものが、最初の部分を読んだだけでも伺える。 読者層も意図的に年齢を引き上げてきたようで、文章表現もずっと大人だ。
しかし、それはそれで実は大きな欠点があるんじゃないかと思うのですよ。 そもそもドラクエのようなRPGは、ゲームではプレイヤーの名前を自由に設定でき、シューティングやアクション等、他ジャンルのゲームとは違いかなりプレイヤーが感情移入しやすく、自分自身=物語の主人公 という構図が自然と作り上げられる流れになっている。 価値観や世界観といったものをある程度プレイヤーに委ね、割と幅を持たせているドラクエにあって、キャラの個性を立たせる(決めてしまう)行為は、受け入れられればこそだが、かなり厳しい目で見られるのじゃないだろうか。 映画で言うとこの、「自分が想い描いてたキャスティングと違う!」みたいな。
結局、実はどちらの作者もそれぞれの欠点がわかっていて、 あっちを立てればこっちが立たず、と割り切って書いているようにも思えるし 「これが私(作者)のドラクエよ、共感できる人は読んで」 と取れないことも無い。結局、落とし処はそこなんだろうなぁ。
ところで、ガイアの剣は手に入れなすったかい?
|