優雅だった外国銀行

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43 ホンコン支店の運動会
2005年07月29日(金)



ホンコンのパリ国立銀行は、主事業所と小さな店舗が9店ある。 従業員数は800人を超しているそうだ。 日本の企業でも良くやるが、家族を含めての大運動会を毎年行っている。 1989年の大会に東京からの参加を呼び掛けて来た。 金曜日の夜に成田を出て、土曜日をホンコン観光、日曜日は朝から運動会、夕方にはホンコンを出て夜中に成田に着く、月曜日は出勤である。 大勢が同時に休む事は営業に差し支えるので致し方ない。 航空運賃だけを東京が負担し、ホンコン滞在費用と1日の観光をホンコン支店が見てくれる。 週末だけの忙しい旅であるにもかかわらず、希望者は、主に若い外人ディーラー達で占められたが30人を超した。 人選が面倒になった総務部長ローラン氏は全員を送り、がんばった人もいたし、プログラムの最初の方にあった、50メートル徒競走に申訳程度に出場し、ショッピングに行ってしまった女性も居たそうだ。

翌1990年の運動会にも参加を呼び掛けて来た。 東京支店としては、派遣をしない事に決めていたが、再三の派遣依頼に折れた総務部長は、小人数、男女各2名を送る事にした。

小人数となると人選が難しくなる。 「あの人と一緒ではイヤだ」となる。大人数なら、何となくごまかせるホンコンの人達との挨拶もしなくてはならない。 言葉の心配の無い人は運動嫌いが多い。 結局、謙治が人選をして引率する事になった。

謙治自身、運動が好きな方ではない。 友人にゴルフを薦められ、体力の無さを思い知って、ジョギングを始めたのが40才。 その後、45才位から自転車通勤を始めた。 謙治の住んでいる 総武線・下総中山駅近くから丸の内の銀行まで、おおよそ片道20�舛髻�帰りは少し時間がかかるが、朝は一時間弱で行ける様になった。 週に2・3回、夏も冬も続けて6年が過ぎた。 お陰で体力的には自信が出来ていたが、競技種目のどれをとっても自信が無い所か、初めてのものがほとんどであった。

急遽、練習が始まった。 運動会まで2週間。 遅い秋というより、冬の始めの11月下旬である。 ジョギングは、自転車に乗らなかった日と週末に、3�祖�走っていた。 だから、運動会でも1500�辰�3000�辰暴个茲Δ隼廚辰拭� だが、それだけの為に東京から行くのはつまらない。 出来るだけ出場する事にした。 槍投げや砲丸投げの練習は場所も道具もない。 幅跳は近くの中学校へ忍び込んで2・3度やって見た。 腰に思いがけない負担が架かるのを感じてそれ以上は止した。 200�辰鯀肝麓請�して見た。 恐らく30年振りになろうか、全力疾走は耳に、身体全体に心地好い刺激を与えてくれた。 だが、200�奪肇薀奪�の半周を過ぎた辺りから、スピードが続かなくなり、あえぎ乍らやっと1週を終えた。 1人で走ってこれである。 競争だとどうなるのであろう。 もっと悪い事に、翌日、足腰に激痛が走り、歩くのにも支障を来し初めた。

3日経ち、4日が過ぎても痛みは引かなかった。 特に、大腿部に電気を当てたようなビリビリとした痛みがいつまで経ってもとれない。 出発前の3日間の練習を休んだら、いくらか落ち着いて来たような気がした。

高校時代に陸上の選手だったという30代後半の男性、高橋を同行者に選んでいた。 女性も1人は大学の体育クラブで、時々1万�辰鯀�っていたという頼もしい人と、その仲良しの子を選んでいたが、それぞれは練習をした様子はなかった。

12月初めのホンコン啓徳国際空港は、さすがに熱くはなかったし、話しに聞いていたホンコン独特な匂いも感じなかったが、空港だけではなく、セントラルに向かうタクシーから見る景観に圧倒された。 すさまじいアパート群にである。 東京のぼろアパートとは比較にならない、恐ろしいまでの規模とエネルギー。 増築に継ぐ増築で、道路に倒れかかるのではないかと思うのは、ホンコンに対して無知だからなのだろうか。 あとで分かったのだが、九龍地区の目抜き通り商店街ですら、アーケードのひさしの上は、さすがに道路方向に傾いては無かったが、ぼろアパートが連なっている事に変わりはなかった。そして面白い事に、多分、寒さに無関係だからなのであろうが、ガラスが壊れている窓たくさんあった。

金曜日に着いた謙治たち4人は、翌土曜日をホンコン支店訪問に当てた。 ホンコンの銀行は、まだ、土曜休業になっていなく、いわゆる半ドンである。

ホンコンのビジネス街は狭い、その気になれば、ほとんどを歩いて行けるのではないだろうか。 クイーンズ・ロード・セントラルの主店舗に行ってみた。昔、駐在員副代表であったシュナール氏から聞いた事があったが、商店が並ぶ雑居ビルの一階に、決して奇麗とは言えないキャッシュ・カウンターがあり、2人の女性テラーが働いていた。 謙治たちは、運動会のために東京から来た旨を告げ、それぞれがホンコンドルを特別レイトで買うほんの数分の間に驚く事に遭遇した。 カービン銃を持った軍服姿の青年とアルミトランクを提げた中年の男が奥から現れ、慌ただしく出て行ったのである。 東京からの4人は、唖然として見送っていたが、2人のテラーには何の変化もなかった。 これは、通常の現金輸送のスタイルなのだそうだ。

事務所は別の所にあるエスカレーターで2階に上がるのである。 上がった所に受け付けがあったが人はいなかった。 謙治は、びくついている連れの3人を尻目に、どんどん奥へ入って行った。 東京支店がまだ土曜日が休日ではなかった頃は、半数出勤をしていた。 ホンコンでも、その様にしているらしい。 しかし、引っ越しなので、準備の為に出勤しているのだといって、大勢が書類の箱詰めをしていた。 移転先は、すぐ近くの新しいビルで、既に、コンピューターチームや輸出入部等が越していた。 謙治たちの世話をする事になっているリー氏も、新しいビルに居るので行く事にした。

大きなビルの4階全部を使っているパリ国立銀行ホンコン支店は、窮屈な日本の会社の事務所を見慣れた謙治の目にもさえ乱雑に見え、通路は狭く曲がりくねり、まさに迷路と呼ぶに相応しく思えた。 移転の主な目的は、コンピュータールームの整備拡充にあったらしく、コンピュータールームのみが広く、機能的に、そして、厳重に作られていた。

監査部の部長として多忙を極めているリー氏は、運動会の実行委員長でもあった。 今回謙治たちが来る事になったのも、リー氏の再三にわたる要請に応じたのである。 勢力的で好感の持てるリー氏は、事務所内の案内が一応済むと、次の案内、飲茶となった。

銀行の下の階、3階に大きな、広大なと言いたくなるような中華料理店がある。 千人は入るのではないかと思えるような食堂で、その喧騒たるや、ラッシュアワーの新宿駅を何倍にもしたようなもので、会話すら満足に出来ない。順番待ちを呼び出す拡声器が、がんがん鳴り響く中で、数百人が大声でわめきながらごった返している。 予約が出来るレストランではないので、リー氏は既に、部下を席取りに行かせてあった。 騒音の中で、中国人たちは実に良くしゃべり良く食べる。 強烈なエネルギーを感じてしまう。 彼等の、お茶の注ぎ方が面白い。 茶碗を並べ、大きな急須の口を上げないで、次から次ぎへ注いで行く。 テーブルがびしょびしょになるのなど、全く気にしないのである。

謙治たち4人は、昨晩、町を歩き回った。 今朝も、ホテルのではない、本当のホンコンの朝食を求めて外へ出た。 昨晩もそうであったが、ホンコンの人達は、家庭で食事をしないのではないのかと思うくらい、夜も朝も外食している。 夥しい数の人達が、これもたくさんある小さな食堂で、素早く注文し、たくさん食べ、さっさと出て行く。 謙治は、朝食に粥と焼きそばのセットを頼んだのだが英語が通じない。 同じ物を食べている人の皿を指差して、やっと手に入れたそれは、安くて美味しくて、東京での朝食の二倍のボリュームがあった。

東京の4人の辞退にもかかわらず、リー氏はホンコンの案内と、夕食、そしてヴィクトリア・ピークの夜景まで付き合ってくれ、まだ宵の口だと言いつつ11時過ぎにホテルに送ってくれた。

ホンコンの小さな食堂群は、果たして閉店するのだろうか。 11時過ぎのたくさんの食堂は、何れも人で溢れていたし、人通りも一向に減った様子が無かった。 朝早くから、昼も、夜も、そして真夜中も町は人で溢れ、食堂は、屋台は、休む暇が無いようであった。

翌朝、連れていかれた所は、地理的には分からなかったが、400�蛋甘係�トラック、屋根付の数千人分の観客席を備えた、公営の立派なグラウンドであった。 「雨が降ったらどうするのか」という、期待を込めた東京選手団の問に、「全く問題ない」と、つれない答えが帰って来たのがこれで分かった。

人種の坩堝という言葉がある。 パリ国立銀行ホンコン支店は正にそれであった。 中国系の人達が圧倒的に多いのであるが、米英仏伊、マカオの関係かポルトガル人も多い。 インド人もたくさん居る。 気の良い、愉快な大男が居たが、エジプト人であった。 韓国人も居るという事であったが。「日本人は?」彼等は暫く考えていたが、不思議そうに「日本人は居ないね」と言った。

準備運動で、ゆっくり走っていた謙治は、心配していた大腿部の痛みを感じ初めていた。 朝一番の種目は、謙治の参加する1500�蛋�であった。 8人出場中、400�奪肇薀奪�の半周も差を着けられ8位でゴールした謙治は、1500�蛋�が、こんなに苦しく感じた事はなかった。 大腿部の痛みが増して来た。

出来るだけ多くの種目に出場する事にしていた謙治と高橋は、複数の競技に掛持ち出場になってしまう事が多く、走り幅跳びと砲丸投げの会場を行き来したりして休む間も無かった。 多くの種目が、謙治には初めての経験であり、槍投げの槍の軽さに戸惑い、ハンマー投げのステップを見よう見真似でやったが失敗したのを皮切りに、ほとんどの競技に参加し、笑いを振りまく事に専念した。 100�蛋�も200�蛋�も出場したが、足の痛みは耐えられる段階を超していた。 だから、最後の種目、5000�蛋�には出場を取り止めた。 男女混合だという急遽3000�辰暴未泙辰燭海龍サ擦法▲曠鵐灰鵑�らの女性の参加者は1人も居なかった。 東京から、この種目のみに来た大学での1万�蛋�者は、女性が1人になってしまっても果敢に挑戦し、途中ほとんど徒歩のようになったが、拍手喝采の中ゴールにたどり着き、3000�蛋�女子の部1位になった。

各種目共、上位3位までにメダルが授与されていた。 東京からの他の3人には何もなかった。 気を使った競技委員たちが、東京組みにもメダルをと、予定に無かった種目を追加した。男女各2人での400�奪螢譟爾鯏豕�チームを含めて3チームで行う事になったのである。 謙治は、競技委員に感謝しつつも閉口していた。 もう、足が言う事を聞かなくなっていた。 救護班が設置されている事を思い出し、あえぎ乍ら行って見た。 窮状を訴えられた平和をむさぼっていた2人の看護婦に薦められて、大きな容器に入った白い液体を手のひらに取り、両の腿に擦りつけた。 いくらか痛みは引いたようであったが、責任を果たすのが大変であった。 10日位後に、謙治の大腿部が腫れ上がり、随分苦しんだが、白い液体に被れたのだと思っている。

ともかく、参加する事にのみ意義のあった東京チームは、3000�箪�子の金メダルと400�奪螢譟爾瞭璽瓮瀬襪髻�競技委員のご好意により獲得する事が出来た。 前年は、台北からも選手団が来たのだそうが、今回の成績の良くなかった4人の東京選手団にたいし、表彰式での拍手は温かかった。





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