* たいよう暦*
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なぜか、転校生、転入生の少ない学校で育った私は、「さようなら」は卒業式でしか知らなかった。 「いっぺんに、さようなら」 その先には常に新しい環境があった。
「さようなら」は、先生の為の言葉でもあった。 春になると、一人、二人、先生がやめていく。転勤していく。 今まで自分の先生だった人が、知らない誰かの先生になる。 そして、「さようなら」の次にはもう「こんにちは」はないかもしれない。 「何人かに、さようなら」 もう、会えないかもしれない先生たち。
会社に就職してから、「たった一人へのさようなら」というのを知った。 転勤。退職。 それまで家族よりも長い時間を一緒にすごした仕事仲間が、次の日から来なくなる。会わなくなる。 一人へのさようならは、いっぺんにさようならや、何人かにさようならより、ひりひり心にしみた。
でも、昔ほどさびしくは、ない。 また、会おうと思えば会えることを知ったから。 仲が良ければ良かっただけ、心がつながりあえば心がつながっただけ、また、きっと会えることを知っている。
昔ほど、さようならは、さびしくなくなったのは、人とのつながりは、そう簡単に切れるものではないと思うようになったから。 そして、そう思うようになったのもあるけれど、大人になったから、なのかな。 でも、「また、会おう」のある、さようなら、は、前ほど苦手ではなくなった。
「また、会いましょう。さようなら」 今日は、さようならの日。
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