父親は気が弱く、喧嘩などできない人だった。喧嘩はしてはだめだろう。でも世の中の人間は喧嘩ばかりしている。それが日常だ。戦争までするやつもいる。自爆テロまで。人は命とお金と尊厳は必死で守らなければならない。だから喧嘩もするだろう。でも人間だからルールを守って平穏に喧嘩をすることは可能だ。礼儀とは平和な喧嘩だ。好き嫌いとか善意とかバカなものを人に簡単に見せてはいけない。上手に喧嘩して自分を守りましょう。私は女性的で優しいので道徳に従って穏やかに生きたいのだがどうもそうではない。京都の人間が意地が悪いのは東国の人間にいつも蹂躙されてきたからじゃないかな。東国の人間は荒荒しく残忍だ。どうもそういう人間の相手をしてきたために西国では珍しく残酷だ。長く日本の首都だったのでしようがない。信長みたいな残酷な人間の支配も受けたことがあるのだ。静岡に行った時人間が東と西で全く違うと気付いた。勤勉だが残酷だ。武士と百姓しかいなかったためか。 喧嘩といってもルールや礼儀を守りましょうといっているだけだ。嫌なことをされて嫌な顔をして耐えているだけじゃなく文句も言いましょう。仕返しもしましょうということだ。仕方がないだろう。命と尊厳を守るためだ。侍になりましょう。残忍な侍に。 私は18のときに働くのが嫌になった。気が狂っていた。癒されたかった。世間から背を向けた。どうしてあんな風になってしまったのか。喧嘩は嫌いだ。戦争は嫌いだ。人間は戦争は嫌だろう。特に負け戦は。明治維新のとき長州軍があんなに勇敢だったのは勝てると思ったからだろう。勝てば官軍になれると。負け戦は誰だって嫌だ。俺は負け戦だと悟ったのだ。そのとき。そしてやる気を失った。今も回復していない。でも今はずいぶん利口になった。自分をなだめすかして働く術を覚えた。 意地悪されたら黙っていないで反撃するなり気持ちを伝えるなりしよう。喧嘩上等だ。俺がこの腐った世の中を世直ししてやるくらいの気概で行こう。私は影響を受けやすい。悪いものに触れれば悪くなる。だれでもそうか。ヤクザと付き合えばヤクザになる。好きとか嫌いとか関係ない。礼儀と常識で付き合うのが大人だ。俺も意地悪なところがある。姉の影響、いじめの経験、サドの影響、京都で過ごした日々、実家で過ごした日々。もう人生は終わろうとしている。これで良かったのか自問してみる。答を小説に書いてみる。 常識のみに従って生きていこう。芸術は自分の心を整理するためのものだ。根が優しくて弱い人間が意地悪で獰猛な人間に太刀打ちできるだろうか。でも喧嘩するしかないのではないか。今いる場所で生きていくためには。本気になれば簡単に勝てるよ。喧嘩上等。本気で勝負したことないじゃん。本気で勝負するべきだ。中途半端かもしれない。俺は病気になったとき喧嘩して殺されそうになった。今喧嘩すべきときかな。喧嘩とはいっていない。礼儀と常識の問題だ。好き嫌いでもない。昨日までの私とは違う。 人間は残酷なことをする生き物だ。京都人だけか?東京人も東北人も残忍だ。優しいだけの人間が生きていけるか。御伽噺の世界で生きていけるか。御伽噺でさえ残酷だ。常識を覚えることはプラスのストロークをいっぱい受けられ、回復する。だが争いの芽も受け取るのではないかな。今までは統合失調症的な平穏の中で生きてきたが、これからはやはり戦わなければいけないのではないか。戦うという意識ではなくて今まで怠けて寝ていたのが目を覚まして働き、生きていこうということだ。生きて働こうということだ。役に立つことをしよう。無駄遣いをやめようということだ。ばうは私にしゃかりきになって生きることを勧めない。家なんか建てるなという。力を抜いてスローライフを勧める。私は人を傷つけたり相争うことが嫌いだ。甘いということかもしれない。 人の心には善と悪が確かにあるのだ。それを率直に認めるべきだ。脳にはっきり根拠がある。爬虫類脳と哺乳類脳がある。生存を求める本能をつかさどる爬虫類脳は悪と映る。それを理性でおさえ愛情や優しさをつかさどる哺乳類脳は善と映る。しかしどちらも必要であって否定することはできない。完全にコントロールすることもできない。人間に完全を求めてはいけない。完全に悪を抑えこもうとするとヒットラーみたいな奴が現れて悪さをする。適度にガス抜きしないといけないのだ。 働くことは尊い。私は少しおかしくなっている。就職してからもおかしいがその前からおかしい。単純に考えよう。難しく考えるからおかしい。難しい本をあまり読まないほうが良い。ほとんど理解できたためしはなかったし、ますますそうだ。単純に今できることやれることからはじめよう。人と喧嘩することが今やることか。病気を治すことが大事なんじゃないのか。だって苦しいだろう。苦しい時に自分を追いこむようなことは止めろ。楽しいことしか考えない。人間らしく楽しく生きていこう。ばうは私のために文章を書いてくれた。私の望むとおりの人生を示してくれた。感激だ。できることからやっていこう。常識に従うこと。人のやっていることを真似すること。オリジナルは科学とか芸術の世界では必要だが、政治経済ではむしろ有害ですらある。ヒットラーはオリジナルな政治家だった。やったことは最悪だ。難しいことを考えたってだめなんだ。結果が重要なんだ。難しいことを考えて良い気分になるなんて止めたほうが良い。 シンプルに考えよう。人のやってることをやろう。常識に従おう。どれも簡単なことじゃないか。オリジナルな人生なんて宅間か少年Aになってしまう。人に優しくしよう。これも当たり前のことで自分の本来の姿に近い。人に意地悪するのは人間のやることではない。京都人と女に任せて置け。私のやるべきことではない。 楽しく明るく生きていこう。簡単なことだ。私は決して孤立していない。孤独ではない。常識を守って生きている。優しい。健全だ。ばうさんのいうことを聞いていれば間違いない。こんな風に考えることは初めてだ。人の言うことを聞かない奴だからなあ。 私は善と悪が解離気味かもしれない。ジキルとハイドかも。意地悪したくなったり、悪いことをしたくなったり。人生いろいろある。良い人だけ貫くというのは嘘がある。文校でも批判されていた。私は京都の意地悪な人々に影響されて爬虫類化していた。あるキチガイ作家のせいでもある。完全に悪い人間というのはいない。サドでも宅間でも一片の正気と良心があった、だって脳がそうなっているんだからしょうがない。宅間はカウンセリングを受けようとしたし、サドはフランス革命に参加した。私は解離しているから善だ悪だと分けて突き詰めて考えようとする。交じり合って区別がつかないのが普通だ。普通で良いのだ。優しさと残酷さは裏表だ。それが当たり前だ。普通の人と同じように普通の考え方をしよう。常識を受け入れよう。心を開けば世界が開ける。目が開かれる。私は再び世界に誕生する。凡人であれ。仏陀のように完璧に悟れるか?凡俗で良いじゃないか。ナンバーワンじゃなくてオンリーワンで良いじゃないか。。平凡だけど受け入れよう。私は楽観している。hやkも喧嘩する必要なんかないじゃないか。決着はついている。というか決着なんかつける必要ないじゃないか。私は楽観している。私はピュリファイされた。楽にやっていけそうな気がする。意地悪じゃないのに意地悪な振りをしてはいけない。 左翼かぶれだったのに銀行に入る。その前に法学部に入る。無理がある。分裂している。解離している。それをもろに受けて発狂した。もともと正常なのに無茶なことばかりするからおかしくなる。俺みたいなことやっていたら誰でもおかしくなる。そりゃ一番やりたくないことを選択したんだから苦しいしやる気なくなるのも無理はないだろう。優しさを保つ余裕もなくなる。いじめにあって発狂する。争いごとは昔から嫌いだった。軍隊なんか嫌い。人殺しなんてモノのために人を消耗品のように使う。嫌に決まっているだろう。俺は意地悪でも残忍でもない。喧嘩も弱いし、へたれだ。強くなりたいとも今更思わない。父親の子だ。強いわけがない。私は平和がなにより好きだ。喧嘩や戦争は大嫌いだ。だから俺が喧嘩をしても勝てないし、根性ないから全然だめだ。争いごとの嫌いなやつは生きてちゃいけないのか。日本人は少なくともそうではなかった。私も影響受けやすいからアングロサクソン的非常な生存競争的ダーウィン流適者生存説に惹かれたが日本人は無理だ。差別とか大嫌いなのに悪いことを覚えてやってしまった。本性に反することをやったから結果が悪い。京都人の真似してもだめだ。 私は爬虫類的なやつが嫌いだ。人間らしい感情が豊かな人が好きだ。父親は臆病で爬虫類的なとこがあった。hやkも同じだ。そこが気持ち悪い。欲しいものは何でも手に入れずにはおかないあのしつこさ。キチガイと呼ぶ所以だ。私は身を守りたい。爬虫類から身を守りたい。十分可能だ。北原みたいなのが普通だろう。人の上に立つ人間はああでないと。俺も気が狂って爬虫類的になったこともあった。欲望の奴隷になったこともある。だがもう嫌なのだ。人間らしく生きたい。ばうさんのメッセージはそういう意味だ。けだものになっていないか。人間には仏性が備わっている。もちろん私にも。だからそれを出していこう。ばうさんは私が考えていたことを代わりに言ってくれただけだ。人間らしく生きたいとちょうど思っていたのだ。アングロサクソン的獣社会から脱出したい。女が嫌いな理由は爬虫類的関係になるのが嫌だからだ。どうしたってそうなるだろう。愛欲が出てくるだろう。仏陀はそれを恐れた。女に興味を持たないなんて逆爬虫類ぽいけど。それでもそれが一番良くて自己をコントロールできるのならそうすれば良い。物欲、性欲にとらわれて人間らしさを失うのは誰でも嫌だ。女が爬虫類的というのはおかしい。哺乳類的な部分もある。喧嘩がいいんだろうか。喧嘩上等だけど。ルールを守ることがいいと言っただけで喧嘩がオススメではない。爬虫類に勝てるのか。戦わないのが一番だ。土俵に上がらないのが。だって今の状態で戦えるか。月曜日カウンセリングを申し込もう。毎週で良いんじゃないのか。佳境に入ってきたし。俺の女を見る目は最近哺乳類的愛情がなくなって、単なる剥き出しの性欲または殺意と同じになっている。マンション問題が尾を引いている。egに参加したのが始まりだ。そのエネルギーがコントロール不能になって暴れている。無表情に女や人の顔を見て非常に気味悪がられる。文校で経験したことだ。人間誰でも同じだろう。99%以上遺伝的に同じなのにどうして優劣なんかつけたがるのだ。キチガイのもとだ。俺が一番嫌っていることをあのババアはぶつけてくる。だからキチガイだというのだ。仏教はやはり助けになる。前より格段にわかるようになった。精神調整法としても使える。獣になるのは誰でも嫌だし、避けている。自分でできなくなれば仏にすがれば良い。生きていくのは誰にも辛い。それを分担するのが人間じゃないのか。単純に生きよう。 私はhやkが来る前は仕事できていたのだ。今なぜできないのか考えたら、怒りの余り怒りをコントロールするのが精一杯で仕事が手につかない。あいつらが職場にいるだけでものすごいストレスで毛が抜ける。怒りをコントロールできれば何とか仕事ができるんじゃないかな。ストレスは誰でもたまる。悩みくらい誰でもあると北原は言った。その通りなんだけど、今の俺にそれを耐えろと言われても辛い。強くなろうとするからいけないんじゃないか。強がるからいけない。大きく見せようとか、人を出し抜こうとか、優越しようとかそういう気持ちが自分の気持ちを追い詰めている。ばうさんの言う通りにしていたら間違いないんじゃないかな。プロだから信頼に足る。 俺はプライドが高いから負けを認めたくないのかな。それで無表情な顔になってしまうのかな。喧嘩したかったらしたら良いのだ。とことんやって膿を出せば良いのだ。勝ち負けは関係ないじゃん。hやkは俺が嫌いだからいじめてるだけだろう。それだったら喧嘩してもいいんじゃないのか。良い人である必要あるの?礼儀を守らない奴に礼儀が必要なの?いい加減にして欲しい。昨日のキチガイ京都ババアも同じだ。きれていいのだ。その場で金返せと言ってやったら良いんじゃないのか。それかその場でその態度はおかしいと注意するのが権利だ。hも今俺に足向けたりして嫌がらせしているけど、許されると思っているのか。その場で注意してやれば良いのだ。 今日はなんばに行ってHISをのぞいたが国内旅行は梅田ということで諦めた。本当に疲れていることがわかった。スタバに入って買った沖縄本を読んだら気分が良かった。若い女のグループが私のことを揶揄するようなことを言ったが気にならなかった。子供の言うことだ。20代の女は10代の女の子からはおばさんといわれているのだ。20代より10代。10代より10歳以下2−4歳が一番好きだ。無邪気だからだ。爬虫類脳で言うと20代は爬虫類脳全開という感じで近寄りがたい。でも10代に近づくと変態扱いされる。今日は初めて街歩きを楽しいと思った。朝から神経がさえていた。もう大丈夫なような気がする。喧嘩なんかしなくても戦わずして勝てる気がする。アロマテラピーに行った。かなり癒された。神経が高ぶっているので痛く感じた。大体力入れすぎ。お尻が今日も痛い。戎橋筋を2往復位した。爬虫類脳全開だ。欲望をかき立てるだけかき立てる。どぎつい原色ファッションで肌を露出した女たち。おじさんは歩きづらい。 一人でいるとやっぱり獣道に迷い込むので人中が薬だ。人と交わるのが何よりだ。楽しいことが何よりだ。楽しいことだけ考えて生きていこうよ。ばうさんはナニゲニすごい癒し手かもしれない。知らぬ間に癒されている。私の問題点を鋭く見ぬいている。やはりただものではない。バカにしてごめん。私は自分のアホさ加減を棚に上げて人を馬鹿にしてしまうんです。こんなに離れていてしゃべったことなくても人柄がわかった。時間かかったけどね。ここまで信頼できるようになるまでは。Uさんはいまだに危なっかしい気がするのはやはりクライアント側だから仕方がない。頼る側。私も頼る側だ。頼り上手になりましょう。年を取って若返ったような気がする。若い頃は遊ぼうなんて思わなかった。風俗なんか遊びじゃなくて病気だ。今ようやく若者みたいに生きる喜びを感じられるようになった。隙間に零れ落ちるのだ。私の意識は魔境に迷い込んでしまうので、いつも正気に戻るように努めよう。獣道に迷い込んではいけない。二度と。 ばうさんには教えられたし癒されたなあ。今頃になって気付いた。egより帰ってきてからの方が学ぶことが多かったなあ。礼儀さえ守れば偉い人でも快く付き合ってくれる。だってプロだもん。安心して頼れば良い。甘えても良いのだ。ある程度ならば。礼儀と常識さえわきまえれば文字通り無限にプラスのストロークが得られるのだ。これで終わりということがない人の優しさの果てない泉が見つかったのだ。俺はもう大丈夫だ。喧嘩なんかする必要ないじゃん。俺はここ最近素晴らしく成長した。掲示板の皆さんともちゃんと付き合えるようになった。人が好きになった。やはり常識と礼儀の威力はすごい。限りなく世界が開かれていく。どうしてそんな簡単なことができなかったと思うが獣道に迷い込むとわけがわからなくなるのだ。でももう大丈夫だ。すごく希望が出てきた。掲示板の皆さんも私の良い変化に気付いてくれたみたいだ。直感的にわかる。ばうさんにも世話になったなあ。もういつでも掲示板卒業できるぞ。たこ焼きさんみたいに。人を嫌ったり憎んだりする気持ちが嘘のように消えた。いつもは汚いば○あとかひどいことを考えるのに成長したのだ。どんなに醜い人を汚いとは思わない、いとおしいと思う。素晴らしい成長だ。人を厭わしく思わなくなった。成長だ。人を厭うものはいつかきっと人に厭われる。現に私は若い女性に厭われることがある。おばさんにも嫌われたらいくらなんでも好きにはならない。母親くらいだ。どんなに嫌っても心配してくれるのは。人を嫌うより愛する方が良くないか。どうして人を愛せないだろうか。私は小説をやり始めてからかなあ。人が嫌いではなくなった。嫌いと思う人と付き合うのがほんとのおとなの付き合いじゃないか。嫌いというのは差別であって故意に人を嫌っているに過ぎない。おばさんだから、ぶすだから。ばかだから。人を嫌う理由などいくらでもあるが全部嘘だ。人を嫌いになるのは意地悪だ。差別だ。自分を守りたいのだ。e女史だって本当に嫌いなのか。そうじゃなくて故意に人を馬鹿にしたいからいじめたいから、支配したいからそう装っているに過ぎない。そんな権利があるだろうか。ハンセン病患者が嫌いというのは理由がない。うつらないんだから。いじめたり隔離する理由などない。仮にうつるとしてもいじめちゃだめなんだけどね。そうじゃないなら尚更でしょう。すごい気付きが次々に起こる。常識と礼儀をちょっとわきまえただけでこんなに変化した。私は何も変わってはいない。自己変革などではない。そんなことは不可能だし可能だとしてもやってはいけない。私は行動を変えただけだ。常識と礼儀を全て受け入れますと。すると世界は嘘のように開かれた。これが当たり前のまっとうな人間というものじゃないかな。人を嫌うより好きになるほうが100万倍楽しい。人に意地悪するより優しくしたほうが一億倍楽しい。楽しいことばかりやって生きようと言ったばかりじゃないか。人に親切にして少しでも住みやすくしよう。昨日は変だった。京都人の悪口なんか言ってごめんなさい。彼らも辛いのだ。あんな住み辛いところに住み続けなければならない。性格も悪くなるよ。権力者に蹂躙され支配され続けたのだ。田舎ものどもがあとからあとから這い登ってくるのだ。意地悪の一つもしたくなるだろう。 やっぱり傲慢ではいけない。悪い癖だ。ブッダのように謙虚でなければ。忍辱という言葉もある。昨日は良くない私が出たが、今日は大きな気付きをしたなあ。私はもう大丈夫だ。これで私の九重も完結したんじゃないかな。もう大丈夫だ。私は素朴な愛情深い良い人間だ。決して人非人ではない。九重の人々はアフターサービスも完璧なのだ。人を差別したり馬鹿にしたりしてはいけない。私はおばさんが嫌いというがその理由は差別的なものだ。同じことを若い娘たちに受けている。自業自得だ。ありもしない理由をでっち上げて人を嫌いになるのは止めよう。失礼な話だ。礼儀と常識をわきまえよう。人に親切にしよう。人を愛そう。常識を身に付けよう。s口は京都出身で意地悪だった。口の悪さが身についている。京都の街中の人は皆ああなのだ。あいつだけではない。でもほんとは親切なのだ。こんな俺を雇ってくれるなんて情が深いのだ。その代わり裏切ると恐い。女にも同じことを感じる。とりあえず嫌いでも好きでもないというスタンスしか取れないが、女が嫌いでも別に良いのだ。女としてだめでも人間として礼儀を守って付き合うことは可能じゃないか。差別したり、馬鹿にしたりするのが一番いけない。簡単明瞭なことだ。
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