希望の日記

2006年01月22日(日)

 どうも早く目が覚めてしまい、辛い。でも楽しいんだけどな。目覚めたまま布団のなかで横になっているのは。何もしなくて良い幸福な時間。安逸を貪りたい。これが私の強烈な願望だ。苦しみや争いは嫌だ。インターネットでいくら得をしようと同じことだ。夢幻だ。女が卑しいから嫌いなのではない。卑しくなかろうと美しかろうと嫌いだ。むしろそれゆえに嫌いだ。hやkは通り魔だ。何の理由もなくいきなり暴力を振るう。昨日もババアに何度も不愉快な思いをさせられた。だから嫌いだというのだ。過去母親と葛藤があった。しなくてもいい争いをした。療養していた頃だ。父が死んで私は母と向き合った。心底恐怖を覚えた。そして逃げてきた。母親は私をどこまでも追いかけた。引っ越して電話番号がわからなくなったときは錯乱して騒いだ。完全におかしくなっている。私のせいだ。私の家にしきりに来たがる。私と一緒に住もうという。完全におかしい。私が死んだ父親に見えるのか。恐ろしいことだ。そのせいで私は女が嫌いになった。自業自得だ。誰も私に興味を持つ女はいないのだからそれでいいじゃないか。私は回復不能なダメージを負った。母親の生霊が取り付いて私に襲いかかってくる。宗教が必要だ。西国三十三ヶ所の旅に出よう。
 体本位だと、優雅な振る舞いはなくなる。ツッキーの文体はオニババ文体だ。欲に取り付かれた女の姿をしている。体本位だと嫌なものは嫌だというようになる。自分の命にかかわることは遠ざけるようになる。次第にというより即座に正常化する。うつも治る。女を真剣に遠ざけることを考えた方がよさそうだ。仏陀のように幸いというか必然的にというか、性欲はほとんどなくなった。ただこの間の飲み会で隣に座られたときは暴力的な欲情を覚えた。しかしそれは非現実的で一瞬のことだ。この間の温泉旅行でわかった。女は受け付けない。全く。完全に。体が拒否している。義務だからと女に近づいてひどい目に遭う。義務なんかではない。私は犠牲者なんかではない。身近に命を付けねらうものがいたら安心できるわけがない。今の私はそういう状態だ。何の理由もなくキチガイ女がいきなり暴力を振るってくる。それが私の置かれた状態だ。何で無防備でいるのか。何で仲良くできるのか。臨戦態勢にならないといけない。落ち着いていられるわけがない。仲良くしゃべってなどいられない。私は母に感じたのと同じ激しい嫌悪感を女に覚える。何で女が私に暴力を振るうのかはっきりわかった。体で考えるなら、猶予の余地はない。女を遠ざけることだ。何で仲良くできないのか考える余地などない。非常に危険な状態なのに、何でおとなしく無防備でいるのか。襲い掛かってくるキチガイを何で信用するのか。自分に危害を加えないとどうして信じられるのか。
 私の体には女を嫌うという誤ったプログラムがインストールされている。それを消去することはできない。どうやったって無理だ。ついに体が拒否するに至った。セックスというコミュニケーションを拒否するに至った。でもからだが決めたことが正しいことでそれに従うしかない。私が女と仲悪いのは中学からだ。今に始まったことじゃない。体に従おう。
 体に従うというのはそういう過激な思想ではない。この間組み会で人のにおいを好きになったという話。そういうことだ。男と女のにおいが入り混じった人のにおい。それが好ましく感じたということは性の区別はそこにはないということだ。性という役割にこだわりすぎ、囚われすぎなのだ。性などというのは社会的後天的なものだ。体はもっと開かれたゆったりしたものだ。性とか権力に囚われすぎ、搾取されすぎなのだ。それに唯々諾々と従いすぎなのだ。体の言うことに耳を傾けよ。体は拒否も否定もしていない。穏やかに異議を申し立てているだけだ。脳の暴虐に。体の穏やかな声に真剣に耳を傾け、それに従えば、脳の誤作動は自然に静まるだろう。競争とか性欲とか権力とかそういうものに囚われない非フロイト的な自然な領域があることを確信している。フロイト的悪夢に騙されてはいけない。体はすぐに少しのもので満足する。脳はいつも暴走してとても食べきれないものを欲しがる。一生かけても使い切れないものをせっせと稼いでどうなる。今の若者はそういうからだの声を表現しているのだ。ニートとかそういう形で。私は企業内ニートだ。体と脳を性から解き放とう。体はもっと穏やかなものだ。人のにおいで満足するほどの穏やかなものだ。
 女を嫌うのは脳の暴走だ。脳ではなく体に従うことだ。性を貪ってはいけない。人間はそういう意味ではちっとも進歩していないし、賢くはない。体が一番賢い。脳が肥大化し、体を貪っている。体を取り戻そう。
 私の中には性の区別は乏しいのではないだろうか。だから私の書いたものは男女区別なく受ける。性の区別のない世界の方が広々として豊かなことは疑いない。私がババアが嫌いであろうがなかろうがどっちでもいいことだ。ババアの挑発に乗ってはいけない。本当の幸せをつかむのだ。それはもう体が知っているのだ。
 あの組会のときに感じたあの気持ちが大事なんだと思う。あの時は男女なんか全く意識してなかったじゃないか。女が嫌いというのは差別に基づいている。私は差別論者だ。だからそれが女の気持ちを逆なでする。知らずに人を傷つけている。体に従っているとそんなことにはならない。自然に人を認め愛することができる。
 あのときの気持ちを今も持っているのだから、女がどうとか全くどうでも良い。問題にならないんじゃないか。あの酒屋のおっさんが嫌いなのは差別主義だからだ。嫌味だからだ。
 体が大事だ。体本位だ。体は行き詰まってなどいない。いつでも豊かでしなやかで強い。女はそのことを知っている。しなる枝は折れない。私は行き詰まってなどいない。体が行き詰まることなどありえないのだ。自分で自分の心を追い詰めているだけだ。
 性というのは人間の一部にすぎないのに全てと思い込んでしまう。もてたからどうしたと思う。馬鹿馬鹿しい。夫がいるのにもてたいなんて狂っている。性が存在を侵食している。ちょっと前までの私だ。ババアを前にして感じる恐れは殺人鬼を前にした子供のようなものだ。耐えられない恐怖だ。
 体を中心にしよう。そうすれば恐くない。脳本位になっていると妄想が芽生える。大学時代私がやっていたのは勉強ではなく妄想だった。本当に狂人になってしまった。体本位になればどうすべきかすぐわかる。大人にならなくて良い。子供のままで良い。体本位であればそれでいい。体本位であれば絶対にうまく行く。
 あのキチガイヤンキーもキチガイババアももう大丈夫だと思う。腹が立たない。体本位で行けば馬鹿馬鹿しくて腹なんか立つわけがない。北原も全く腹が立たない。感謝とかわざとらしいことを持ち出すまでもなく、普通に腹が立たない。私が変わったからだ。
 この間h君が会社でもはじけたら良いんじゃないかと言われたのが嬉しかった。確かに話していると楽しかった。もてたからじゃなくて話が噛み合ったことが嬉しかった。普通に会話に参加できたことが良かった。確実に変わった。私は。決定的に、不可逆的に。良い方向に変わった。体から言葉が出てくるようになった。私は理屈っぽいことを考えると途端に妄想になる。z氏にも何度も指摘された。女とか男とか全く関係ないという気がしてきた。何か意味あるか?全く無意味だ。男だ、女だと馬鹿だった。母親が私を父親と同視しているらしいがどこにそんな証拠があるのか。妄想だ。ツッキーにもそうは思わないといわれた。仮に一万歩譲ってそうだったとしてどうなんだ。無理もないじゃないか。お前がそうさせたんだから責任を取れ。母親の願いをかなえてやれ。それがお前にできる唯一の親孝行だ。
 私は反社会的だ。それは良くない。毎回飲み会に行っているのは何のためだ。ナンパじゃないぞ。親睦のためだろ。仲良くなりたいからだろ。それなのになぜ引いてしまうのかわからない。矛盾する行動だ。それだったら来るなということになる。前回は組会のときに良い感じを味わった。初めてのことだ。それをそのまま飲み会でも出せばいいのにナンパ大会になってしまった。それはオニババ化しているということだ。でも私は漸くそういうモードを脱した。人を出し抜いて自分だけ得をしようとかホリエモンみたいな。ホリエモンはただひなのと自家用ジェットでパラオに遊びに行きたかっただけの田舎もんで側近が悪い知恵をつけたのが悪い。
 仕事真面目にやろうと思った。それは病気なんか関係なく慣れだ。気持ちの問題だ。私の頭を覆っている妄想を体本位で吹き払えば今すぐできる話だ。今私は悪いことをしているのだという罪悪感が必要だ。長いこと悪いことばかりしていたので良心が麻痺しているのだ。それが私に必要なことで薬でも心理療法でもない。倫理観だ。悪いことをしているならすぐ改めよう。それだけのことだ。体本位で行けばすぐわかるはずだ。問題は倫理観だ。悪いことをしている。だから改める。これは病気の問題じゃないだろう。体本位で行けば全く簡単な問題だ。男とか女とか興味あるか?全く興味ない。
 明らかに私は悪いことをしている。悪いことをしている状態をまず改めよう。それが私のやるべき第一の仕事だ。遅刻をしているなら遅刻を止めれば問題は解決する。
 今日は充実した一日だった。本屋で西国三十三ヶ所巡りの本を買ってから、難波から今宮戎神社の方に歩いていった。歩く前にキャベツ焼きを食べた。おいしかった。110円とは安い。それから喫茶店でコーヒーを飲んだ。400円。大しておいしくないアメリカンコーヒーなのに高すぎる。失敗だった。それから日本橋を歩いて抜けて今宮戎に行った。誰もいなかった。老夫婦が一組、参拝していた。ばあさんの方は少ない賽銭で長いこと拝んでいた。欲張りなやっちゃ。それから参拝して、通天閣へ向かう通りを抜けて新世界を抜けて天王寺公園を通り抜けて天王寺駅から帰った。人間らしい気持ちになった。何て気持ち良いのだろう。人間らしく生きるとは。体本位で生きるとは素晴らしいことだ。
 明日から真面目に働いて文句を言われないようにしよう。悪いことは止めよう。悪いことをして金をもらえる奴なんていない。ありえない。もう大丈夫だ。体本位で生きれば悪いことは思い浮かばない。
 体本位になれば、女なんか全く恐くない。男女なんか意味ないのだ。わたしにとって。体本位であれば何も恐れることはない。悪いことはしないこと。当たり前だ。私は中学時代からおかしかった。遅刻を繰り返し、教師に反抗した。それ自体は良くあることかもしれない。でも妄想の芽はその頃からあった。高校を通じて膨らんだ妄想は、大学時代にはじけた。それからも妄想に苦しみ、今に至る。でも体本位という考えに思い至り、希望が出てきた。体本位で妄想を吹き飛ばそう。妄想が晴れて、真面目に働ける。悪いことはしなくなる。悪いことをしていない気で悪いことをする。これは改めよう。良いことをしよう。悪いことをしない。ヤンキーの仲間になってはいけない。悪いことはしてはいけない。体本位でいいことだけしよう。そうすればどんどんいい方向に行くだろう。男女なんか関係ない。体本位であればそんなことは何の意味もないことがわかる。
 体本位になれば身分に関わらず誰とでもコミュニケーションできる。体は全ての人が共通に持っているからだ。体から出てくる言葉は自明である。誰にとっても。だから通じる。誤解の生じる余地はない。妙心寺のババアみたいに根性の捻じ曲がった奴はまれに誤解するが。


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