神のごとくゆるしたい
ひとが放ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまえにささげたい
「ゆるし」 という、八木重吉さんの詩。 昨晩。 寝る前に詩集を広げていて、この詩に、はっ、と。 想いを揺さぶられたような気がした。 八木重吉さんは敬虔なクリスチャンだけれど。 アタシはノンポリで。 でも。 けれども。 そのひとつひとつが。 キモチに触れてくる。
「ゆるし」 この詩のテーマとは違うけれど。 アタシ自身も常に想うことは、アタシの存在そのものの、「ゆるし」 このことについて。 今思い返せば。 うんと幼い頃から。 こましゃくれたガキの頃から。 ずっとずっとずっと。 想いつづけてきた、アタシ自身のテーマ。
宗教、という観点からではなく。 ココロ、から。 見えてくる、「ゆるし」とは何だろう……。 ムカシのこと。 「離人症」で苦しんでいた頃。 通っていた病院のセンセに、そっと聞いてみた。 「センセにとって、ゆるし、とはどういうことだとお考えですか?」 と。 センセにとってはそんなこと聞かれて、やっかいな患者だっただろうに。 少しの表情も変えることなく。 暫く沈黙した後。 個人的な意見で良ければと……。 『ひとつひとつを諦めて、諦めていく自分を受け入れること、それがわたしなりのゆるしです』 とおっしゃってくれた。 もうセンセの名前も忘れてしまった程前の話し。 けれど。 その言の葉だけは鮮やかに、記憶にペイントされている。
ひとつ、ひとつを 諦めて。 諦めていく自分を。 受け入れること。
簡単なようで難しい。 難しいけれど、どこかで、キモチ的に柔らかくなれる方法だとも想う。 こちらの路を進んでいけば。 明かりが灯されている出口が見えていても。 足がどうしても。 竦んで、初めのひと足が踏みだせない。 そんなコトもある。 ヒトって。 単純だけれど、複雑だね。
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