私の雑記帳
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自分が長く通うメンタルクリニックのBBSを読む。
自分が書き込むことはないのだけれど、 一部常連化した人達の呟きや叫び声のようなものを 斜め読みする。
どこの誰だかわからない、性別も年齢もどんな状態なのかも。 そんな人達の、たぶん苦しい気持ちは本当とは思う。 でも、正直人ごと。 匿名が、あれこれ自分主体で気持ちを書いていても 伝わらないし、意味もわからないことが多い。
ああ、苦しいのね、とか 「赤ちゃん見て泣いた」とか、「家族欲しかった私も」 なんて書いてあると、少し切なくなるけど やっぱり物凄く人ごとなのである。 ご本人にはどれほど辛いことであっても (生きている意味がわからない・・とか) 他者(たとえば私)には、リアルには伝わらないのである。
人の数だけ苦しみはある。
私だって私の事情なりに、本当の苦しいのである。 人がどう思おうと、私は苦しく辛く惨めなのである。 (人並みに恵まれていることもある。 まず、今のところ飢え死にしそうなことはないだろうし)
私の悪い癖、回りくどくなったけど、 ようは、喜びも悲しみも自分だけのものだと、実感する。
私の私なりの苦しみなんて、どんなに言葉を尽くしても 他者にはわかるまい。多少の想像力がある人なら ある程度は想像してくれるだろう。でもそれだけ。 良いとか悪いとかではなく、そういうものだろう。
でも、苦しいからナンセンスというか無駄なのに 書き残したり、言葉にしてしまうのである。
人が怖くて一人でいたいくせに、本当は寂しくて 誰かにわかってもらいたい。 そんなの無理なのに。
自分でも不思議なくらい、そのBBSの 悲しい悲鳴のような書き込みに対して たいして同情できなかった。 「この人も苦しいだろうなあ」と思うだけで。 だからこそ、私の苦しみも誰にもわかってはもらえないのである。
だから苦しみを吐くことよりも、 ほかにやることはあるのではないか?と思うのだが 実際、その先の答えは出ない。
先生は、「自分で自分の楽しみを見つける」という。 きっとそうなんだと思う。
あきらめるのは、眼も 耳も口も手も足も体の全てが自分の意思では どうにもならなくなったときだけだ、と言ったことが ずっと心に残っている。
「工夫の余地」があるなら、あきらめる必要はない、 というようなことだったと思う。
私もそのような心持で何かに向かえると、きっと 幸せになるのだと思う。
でも、まだ良くわからないから、試行錯誤しつつ 生きていくのである。
ふーーー。
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