私の雑記帳
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2012年06月23日(土) 続く不幸

4月に父が亡くなり、父が家を建て独立するまで長く本家で一緒に暮らした、父の甥(私の従兄弟)が突然亡くなった。
父の葬儀では、弔事の代わりにお別れの言葉を、私たち姉妹が生まれる前の昔の父の思い出を、心温まる言葉で語ってくれた、本家の家長である。
仕事や町内連合会の役員などの激務で40代から透析生活になってしまっていたが、60で務めていた農協を退職して、今は悠々自適の生活だった。
父の生前、父がいなくなったあと困ったことがあったら、その従兄弟を頼るように言っていた、その人である。父が亡くなって二ヶ月も経たないうちに、もう向こうに行ってしまった。脳溢血であった。

一昨日が通夜で昨日が告別式。出棺の時の従兄弟のお嫁さんや子供たちの胸が張り裂けそうな悲しみが伝わってきて、どうしようもなく辛かった。私も大事な父を失ったばかり。大切な人との永遠の別れがどれほど辛く苦しいか知っている。

向こうで父とあったら父に「なんだ、もう来たのかね〜。ちょっと早すぎるよ」と言われていると思う。

父の葬儀の時のお礼の電話で話したのが最後になってしまった。
父方の本家の家長であったため、あらゆる取りまとめ的なことを引き受けてきてくれた従兄弟。うちだけでなく、どの家もこれからだれに相談したらいいのか途方にくれていることだろう。

20年、透析をやっていたからおそらく長生きは出来ないと思ってはいた。
でも、亡くなる時は、あっという間だった。本人は自分が死ぬという意識もなく、数日間の昏睡状態を経て息を引き取った。苦しまなかったことがせめてもの救い、と思いたいがそんな簡単な割り切り方はできない。

「五郎さん(うちの父)とは年の離れた兄弟のようで、喧嘩もしましたが、子供の頃は紙芝居やら手品やら、近所の子供達も一緒に遊んでくれたので、地元の同世代の人間で五郎さんを知らない者はいません。それは60を過ぎた今でも語り草です。東京オリンピックの頃に当時はまだ珍しかったカラーテレビをおばあちゃん(父には母親)のために買ってくれたりもしました。我々の自慢の叔父さんでした。」

というようなことを語ってくれた従兄弟。私自身の記憶はないが私が2歳に家を建てたのでそれまでは私も本家で暮らしていたのである。
小学生の頃は父が少しノイローゼになったこともあり、週末ごとに泊まりに行っていた。
だから、大勢いる従兄弟の中でも、本家の従兄弟は私たちには特別な存在だった。

あの世なんてないというが、できれば向こうの世界で父や他にも先に向こうに行ったみんなと再会して、いろいろ積もる話をしていて欲しい。

大事な人たちが次々と向こうに行ってしまうけれど、どうかどうか冥福を祈る。

人間は生きているうちに、やりたいことをやっておかなければと妹が言った。
その通りだと思う。
でも私の今の生活を、どのようにしたら良いのかすら、まだ私にはわからない。

ただただ寂しく悲しく辛く、途方にくれているだけの状態なのである。


pearl〈パール〉 |MAIL

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