月に舞う桜
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高校時代の恩師から年賀状が届く。 この先生の字にはかなり特徴があって、一目で先生の字と分かる。丸文字で、筆圧が強い。 ちなみに、先生は男性である。顔は濃い。「ちょっと顔が薄いアラブ方面の人」と言っても通用するんではないだろうか。性格は真面目だ。顔が濃くて真面目で、しかし字は丸文字なんである。このギャップがかなり強烈だったので、黒板に書かれた先生の字を初めて見たときには、きっとクラス中が「おお!」と思ったに違いない。 とにかく、一度見たら忘れられない字なのだ。おもてには差出人の名前は書かれていなかったけれど、手書きの宛名を見ただけで「あ、T先生だ!」とすぐに分かった。
先生のお宅は、お子さんが二人とも受験生なのだそうだ。親としてやきもきしたりドキドキしたりしている様子が、短い言葉からでもよく伝わってきた。 けれども、こういうとき、私は親の立場ではなくて受験生本人である子どもの気持ちに思いを馳せる。私と直接関係あるのが親の方だとしても、だ。年賀状のあいさつ文を読んだ瞬間に先生のことは忘れ去って、受験期のあの独特の焦燥感や閉塞感や緊張感や重圧から来るストレスの塊を思い出した。 何事も、一番大変なのは本人だ。先生のお子さんたちも親の知らないところで悩んだり道が見えなくなったり周りからの期待に押しつぶされそうになったりしているのかなと思うと、「受験なんて終わってしまえばどうってことないよ。だから、人生賭けちゃだめだよ」とこっそり言いに行きたくなった。 自分自身を振り返って不思議なのだけど、受験の真っ只中にいるときって、どうして「この結果が全てだ、これで人生が決まる」みたいに考えてしまうのだろう。本当に大事なのは「希望が叶うかどうか」ではなくて、「自分のその後にどういう影響をもたらすか」なのに。
親と子がいたとき、私はできるだけ子どもの目線でいたいと思う。本当の意味で言葉を持っているのは大人だけだ。だから、大人は子どもに対して絶対的に優位なのだ。子どもの気持は子どもの方が分かるというのは当然かもしれない。でも、子どもの心情に寄り添ったり子どもをあるがままに受け入れたりするべきなのも、それができるのも、言葉を持っている大人の方だ。それなのに、世の中を見ていると、自分が第三者であるにもかかわらず親の目線でものを言っている人が圧倒的に多い。だから、せめて私だけは、と思うのだ。 普通に生活していれば、人間というのは過去をどんどん忘れていく。いつしか、子どもだった自分のことさえも。「大人になるにつれて親の気持ちが分かるようになってきた」というのは、それはそれで結構なことだし必要なことなのかもしれないけれど、それと引き換えに「子どもの自分」を忘れてしまうのでは、成長とは呼べない。 結局のところ、私は子どもだった自分を忘れたくないだけなのだろう。 あるのは、感情。ただ、それだけだ。いま生きている子どもたちやこれから生まれてくる子どもたちのことを真剣に想っているわけではないし、大人としての正義や道徳やヒューマニズムなんてものも、自分の本音を突き詰めれば、実はどうでもよいのだ。
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