2003年01月29日(水)
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私の会話はパラグラフなの
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しかし、寒いねぇ。 苗場も寒かったよ。雪はよかった。 片栗粉みたいにきゅきゅっと鳴る、スキーヤーが泣いて喜ぶ最高のゲレンデ。
しかし、寒すぎた。 風が強くてゴンドラも止まっちゃうし、雪粒で顔をこすられて、 L.A.に水晶の細かい粉を吹き付けて表皮をこそげ取るピーリングがあるって聞いたことあるけど、 そんな感じ。 痛かったよ〜。涙涙。
でも気持ちが良いから、また行くんだ。 全然上手くならないし、指が凍ったり顔が痛かったりで辛いけど、でもあの疾走感と、 冷たくて白くてピンと凛々しく張って、なお包容力がある、あの高原の空気感がたまらなく好きなの。
そんなに混んでなかった。 スキーヤー人口が増えない上に、ボーダーも一時の勢いが無い。 去年とかより、スキーヤー比率が増えたように感じた。
ボーダーうざいから消えてくれるとありがたいんだけど、経営的にはそうも云ってられないんでしょうね。 ボーダーっていきなりこけるし、溜まるし、視界が狭いから人にぶつかってくるし、 ターンの軌道が読めないし、ほんと近くによってこられると怖い。
別にスキー場関係者じゃないから、大声でぶちまけちゃう。 ボーダー嫌い!ハイバックでもけつにさしてなっ!(中指たててます)
ところで、話はいきなり変わるが、 職業とか業界をプライベートでも常にまとってる人って好きじゃなかったんだけど、 自分ってかなり染まってるとか、思って。
つまり、この間、ある人に「そういう話し方するんですねー。」って言われて、はたと気が付いたの。 自分って話し方にそんなに癖があるだろうか?と、 首をかしげて(イメージ "シマリス")、わが身を振り返ってみた。
思い当たるところはある。 確かに親戚のあつまりとかでは、禄に会話の流れが読めなくて、 いらいらしたりぼーぜんとしているか、どっちかなんだ。
話のテーマは何なの?結論はなんなの?その発言の意図は?とか、わからないことが多すぎるんだ。 ぐちゃぐちゃ話されると、しまいにむかつきを通り越して寂しくなってくる。 異国に一人取り残された気分で。 普段はなんとなく似たような人とばかり話しているので気がつかないけど。
要するに、私の会話はパラグラフなの。もしくはサビあたま。 最初に結論を言う。次に具体例や結論の詳細を言う。最後に結論を言い換えておしまい。 もしくはその後に、私が思うにですね、原因はこーいうことではないかと思うわけですよ、 とかなんとか分析を付け加える。
気が付けば、世間話もほぼこの構成でやってた。自分でびっくり。 例えば、"この間久しぶりに中学時代の友達と会った。最初はわからなかった。やっぱ太ると誰だかわかんなくなるよね。" と言いたいとするじゃん。
で、言い方はともかく先の文のつらなりが普通の会話の流れだと思うんだけど、私は多分違う。 「ただ老けるとか皺っぽくなるくらいなら誰だかわかるけど、はげとでぶはもう、別人だよねー。って、言うのはね、この間さぁ・・・」って、感じで話すと思う。 まず、一般論的な結論を頭に持ってきて、何について話すかを宣言してから、話を始めないと落ち着かない。
パーツの組み合わせで建てられた文章って言うのは日本の伝統じゃない。 構造がやわやわで等々と(もしくはずるずると)文がつらなる、 言うなれば「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」 から始まる『日本昔話』的な文章の流れが、日本の正しい文章だったはず。
ブロックを積み重ねるみたいな文章なんて、全く。情緒が無ぇなー。何が哀しくて毛唐のものまねなぞ。 外資的な風土に知らず知らずのうちに染まっていたのだろうか。 システム的な考えが骨肉化してしまったのだろうか。
改めて考えれば、他にもあるぞ。私の思考の癖。 とかく箇条書きが好き。問題をIF分岐で考える。 まず、AかBかで考え、Aならさらに、A-AなのかA-Bなのかを考える。
休みの日の予定まで箇条書きにするからな。 □洗濯をする。 □掃除機をかける。 □冷蔵庫にある納豆を食べる。 とかまで、全部書き出して、優先順位をつけて、済んだものにチェックを入れる。 きゃー、あらためて考えると変な人じゃん。
そんなんだから、自分の思いもそんなでんで整理しちゃう。 混沌をまるごと抱え込むことはまずしない。 箇条書きとIF分岐を駆使して、解きほぐし、 しかもそれに一見理にかなった分析と結論と今後の展望をつけて、ラベリングして引き出しにばしっとしまう。 自分の中のうつうつを言語化して始末つけるんだ。
それは、一種の逃避なのだと思う。 楽なのかもしれないけれど、人物としての面白みには欠けるよね。 もう、どーこーするには遅すぎるし、どーこーする気も無いけどね。 (と、言ってまたオチをつけるのであった。)
alain
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