はぐれ雲日記
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2002年03月10日(日) 母から聞いた東京大空襲 

1945年3月10日のこの日、10万人の江戸っ子が殺された。
0時を過ぎた頃、東京深川(江東区)付近に東側から侵入した一番機のB29は、焼夷弾を投下し、
木場付近に火柱が上がった。それを目標にして、次々と焼夷弾が投下され、それは、下町一帯に丸い火の輪を作るように投下されたのである。輪の中に取り残された人々は、逃げ場を失った。ここで、ようやく空襲警報が発令された。軍司令部も、前哨であったB29に油断したようである。
 その火の輪を目標に100機以上のB29が、多種多様の爆弾・焼夷弾を下町に投下した。なんと、20万発以上が狭い地域に投下されたのである。(生き地獄とは正にこのことかも知れない。) このB29の無差別攻撃は、2時過ぎまで続いた。
 折からの強風(乾いた北風)の影響で、火は次々に燃え移っていった。人々は、何とか逃れようと必死だったが、どうもにならず川に飛びこむ人もあった。被害甚大だった地区は東京の東部(隅田川流域)で、浅草・本所・深川付近では、ほぼ壊滅状態であった。朝になっても火は収まらず、あちこちで燻っていた。地面もまだ熱かった。街は完全に焦土と化し、至るところに黒焦げの死体が転がっており、川には火に追われて飛び込んで溺死した死体や焼死体が浮び、水面が見えないほどであったと言われている。 日本人は、太平洋戦争と言えば「原爆の恐ろしさだけ」を取り上げて、悲惨さや虚しさをお題目のように唱えるが、広島・長崎の人たちだけで戦争をしていたわけではない。このように、東京を初めとして各都市に空襲があり廃墟と化し、国民全体が苦しんでいた事実があることを忘れないでほしい。

この大空襲で死傷した人は、死者88000名(10万名を越えたという人もいる)を越え、負傷者は50000名近くに達した。罹災者は100万名以上、焼失した家屋は、25万戸を越え
た。

どんかくは東京は深川、木場の生まれ。
毎年この時期に無念の人々を思い出す。門前仲町が燃えた 郭も燃えた/貧しさに売られた娘たちが死んだ/前夜、朝鮮から連行された若者たち/朝鮮人徴用工 200余人も死んだ……」

以上は教科書が教えない太平洋戦争からの引用です。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~yunta/16.htm

黙祷・・・。


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