| 2006年07月17日(月) |
レヴィナス『フッサール現象学の直観理論』(序言) |
�(�法とは何か
・方法とは、道具のようなものではない。 ある方法がもともと用意されていて、様々な探求に当てはめればよいということはない。 なぜならば、あらかじめある方法を用いるという事は、 探求する前に、探求すべき事柄がその方法によって明らかになる性格のものであると 前提してしまうことに他ならないからである。 方法は、問う事柄の性格に応じて、根源的に作り出さねばならない。
・形而上学においては、心的存在の独特の存在の性格の、その「意味」に相応しい探究の方法が要求される。
・存在の意味の学は、それがまさに存在の諸特性を認識する時に前提されてしまうので、ア・プリオリである。
存在者を究める学(諸科学)≠存在の意味の学(オントロギー)
→存在者を問うような仕方では、問えない。 方法についてのいかなる考察も、それ自体常にある存在理解の上で 行われている!
・フッサールのテキストを読むにおいて、 我々はフッサールが直面したのと同じ事柄(Sache)に迫る。 ただし、その事象を理解するために、書かれてもいないようなことを 想定したりするんじゃなくて、 フッサールの思索過程を、その事象に基づいて理解するのである。
�◆慙斥�学研究』―心理主義に対抗する
・当時は、哲学は科学でなければならないという思い込みがあった。
→存在を問う学問が、存在者を扱う学問と同じ探求の方法を取ろうとするほうがおかしいだろう。
・数学や物理学的な探求の仕方を絶対とすること→自然主義という。
・自然主義に立脚した心理主義。 自然認識の方法でしかなかったカントの認識論を 精神科学(実験心理学)の類似の理論によって補完すればいいと考えられた。 それが心理主義。
→あくまで、認識の問題だけであった。
心理主義は一つの存在論を前提としている。 それは、自然認識の方法を絶対化するところの自然主義。
精神、心など、「物体、あるいは自然物でないもの」を、自然物と同じように考えてしまっている。 (しかもこのことについて無批判である。)
認識に先立つ、ア・プリオリな学が要請される。
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