7畳半

2011年05月31日(火) 書くことと見られることの意識

枡野浩一『石川くん』
を読んだ。石川啄木についての本。
最終的にはこの人の啄木愛すげぇな、って思ったけど、
ところどころ人目意識してたり、
文体とか考え方とかがたまにイラッときた。
…でもいいなぁ。
「自分らしさ」を売りにしてお金もらってんだもんなぁ。

なんか、「フツー」になることが愛されることだとか、
いい人なんだとか思って、
いろんなとこ削ってきたけど、
なんなんかな。
普遍的に共有できそうなとこだけ出すんじゃなくてちゃんと個性を出すって、
すごく怖いことよ。

否定したり受け入れることは簡単、
だけど個性を出すってのは積極的に否定されたり傷ついたりしにいくこと。
自分自身を含めて完全に分かりあえたりなんかしないんだから。
わかりあうんじゃなくて、違いを認めあえる。
でもしんどかろうよ、打っても響かんってのは。

うちの学んでる国語教育観だと、個性(自分の「読み」)がないと、
個性(他者の「読み」)を認められない。
なんでも受け入れるってことは、
どれも一緒に見えてるのと同じなんだろうな。

フツーであろうとすれば、
こうやって世界がなんなのかも、
愛するものがなんなのかもわからず消えていくんやろなぁ。
フツーとか優しさとか大人とかの定義を履き違えて、
簡単なことしかしてないんかな、俺って。

けど非凡だと思い続ける力はないっす。
もう凡人が非凡になるには胸を張って変人になるしか…ねぇ?
あと非凡(フツーじゃないこと)は自他共にめんどくさい。
フツーは楽だなぁ。
フツーも大変だなぁ。
バランスは大事だなぁ


(上記の文章を書いてしばらくして)
普段は俺のままでいいんだけど、
こう、強烈な個性を見せ付けられたとき、
俺って、俺のままでいいんかなって思ってしまう。
いかんねぇ。
この自分はかなり気に入っているのにね。
いろんなことを受け入れて生きていきていきたいの。
その目はホントは濁ってるかもしれんけど、
受け入れたとき、見える世界は綺麗なのです。


書くことは必ずうそを含むの。
悲しいって書いたときは「悲しい」って思ったときの後だし、
そもそもありのままなんてかけやしないし。

この日記も後で読み返していろいろ推敲してこの形になった。
いやぁ削った削った。
見る人は、この場合自分でもあるから、
書くときには読む自分がいつも頭の中にいる。
こいつがまた怖い怖い。
書くってほんとすごいね。

今書いてるレポートは、
推敲した日記を先生に見せるようなものなのです。


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万田 倫 [MAIL]

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