蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 アクアリウム4

澤村はもう眠ったのだろうか。考えないようにしようとしたって、考えるのはいつも同じ男の事。家で過ごす澤村は、想像があまりつかない。それでも妻がいて、子供がいて、あたしのものじゃない。
夫婦のベッドで、抱き合って。間に子供なんか挟んじゃったりして。良き夫、良き父親の顔を浮かべ、目を閉じているのだろうか。

見たこともない女の人や子供が澤村に抱かれ、安らかな寝息を立てる姿が脳裏に浮かぶ。腕に立てた爪が、痛みを訴える。膝に額をくっつけて、胸の中の渦をどうにかやり過ごそうとした。
一度浮かんだ映像はどうやっても消えなくて、唇を強く噛んだ。

やっぱり飲みすぎたのかもしれない。今さら過ぎて。馬鹿馬鹿しくて、溜め息しか出やしない。きちんと閉まらなかったらしいゴミ捨て場のフェンスが、きいきいと揺れた。消えてしまえ。何もかも。消してしまえ。今だけでいいから。
かぶりを振って頭を上げ、息を吐き出したその時。



「天体観測?」

「……え」

目の前に立つ黒い人影に、僅かに息を呑む。小さくはない排気音。通り過ぎる車。そのライトが逆光になって、そんな色になっているのだと気付き、ゆっくりと瞬きした。
閃光のように感じたライトが去り、辺りはまた静かな夜が包んだ。

「あー…やっぱり、さっき泣いてた人だねえ。そうかなぁって思ったんだよね」

気の抜けたような声が、僅かな落胆を呼んだ。
澤村とは違う、少し高めの声。

一瞬でも。
澤村が気を変えて来てくれたんじゃないかって、そう思った。
喉の奥が狭くなる。息苦しい。

「どうしたの。顔色、良くないね」

可笑しそうにそう呟く声。

視界がクリアになる。黒いシャツを羽織り、作ったような微笑を浮かべる綺麗な顔。どこかで見た――何度か瞬きしてから、どこで見たのか気が付いた。

「あなた、コンビニの――」

「あれ。覚えてたんだ」

あっけらかんとして笑い、傾けられる首。そうして自分の項をなぞり、

「当たり前なの?」

「当たり前だわ」

相手の揶揄するような仕草も、今は腹も立たなかった。普段のあたしなら、初対面の相手にこんなに慣れ慣れしくされて黙って座ってなんかはいないだろうけれど、この夜は、今は立ち上がる気力を削がれたみたいに身体が重かった。男――というには幼すぎるようにもおもったけれど――はほんの少し唇を歪めてから、了解も得ずにあたしの隣に座った。
服が擦れ合うような距離。
赤の他人が座る距離にしては近すぎる。ましてや、知らない男なら尚更。そう思って眉を顰めてじろりと見上げた。

睨んだつもりだったけれど、相手は面白そうにあたしを見て、「怖い顔ー」とわざとらしい事を言うものだから、馬鹿らしくてやめた。

「何か、用なの?」

タイル模様のコンクリートが味気なく広がっているけれど、それは見上げていたとしても同じことのように思えた。
上を見ても下を見ても、同じ。見る価値がない。

「用? 用かーそれは特にないかなぁ」

僅かに細められる目。口調は砕けているのに、その眼差しは大人びて怜悧そうに見えた。それが話す内容とあまりにもアンバランスで、「用もなく話しかけたの?」笑ってしまった。

「なんとなく?」

真っ直ぐに投げられる視線は、とても素直で綺麗だと思った。

「暇つぶしに付き合えって聞こえるわ」

「あ、そんな感じ」

身勝手な用件を告げた相手は、薄く笑みを浮かべたまま、あたしを見つめる。断られるかもしれない、なんて露程にも考えてなさそうな表情。呆れる。だからどうでも良くなって、頷いて言ってやった。

「好きにすればいいわ」

立てた膝に肘を付いて、息を吐く。
きっと今のあたしはただの酔っ払いにしか見えない。だから、会ったばかりの子にまで気軽に声を掛けられて、暇潰しの相手なんかにされるのだ。

「星、見えないね」

「星なんて、いつだって見えないわよ」

「そんな事ないよ。少し晴れた場所へ行けば、わりと見えるんだよね」

相手は急に真面目な顔をしてそう言った。

「嘘」

「嘘じゃないって。今度見せてあげる」

「いつ?」

あまりに真面目な顔をするので、思わずそう答えてしまってから自分で自分に呆れた。何を真剣に聞き返しているのだ、あたしは。今度なんてある筈がないのに。その場限りの会話に、次を求めるなんて馬鹿にも程がある。
こんなだから、あたしは――。

「いつ――」

あたしの言葉を繰り返す相手を振り切るように、無理矢理立ち上がった。

「どこ行くの?」

「帰るの」

あたしは足に力を入れて、出来るだけ毅然として相手を見下ろし、それから背を向けた。

「あのさ、」

数歩歩き出してから聞こえた、引き止めるような声には振り返らなかった。エントランスに入り、エレベーターのボタンを押した。このマンションはオートロックではない。けれど、追いかけてくるような気配はなかった。

何処かで救急車のサイレンが鳴っていた。早く早くと急きたてるような音と赤い光。あたしはこの音を聞くと、他人も生きているのだと実感する。いつもどこかで、誰かに何かが起こっている。あたしが生きる時間を、誰かも過ごしている。

そういうことだ。


2009年03月20日(金)
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