まったりdiary

2017年04月28日(金)

26日(水)27日(木)と長岡→小千谷に行ってきました。(母と)
母の姉(91歳)のお見舞いです。翌日は母の実家、小千谷へ。
長岡でレンタカーを1泊2日で借りてレッツゴー。
長岡駅でのポスター。↓
撮影ポイント、何号車のここと何号車のこのアングルがいいヨ♪とアドバイスしてくれています。




長岡の信号機。おや?なんか・・・・・



��何と! 残り時間が表示されている!(赤信号の時も同じく赤で残り時間を表示)



母の姉、キミさんて言うんですが相変わらず可愛かった。そして元気!
「私より元気じゃん・・・・・orz」
と、母が自信喪失していた位です。
珈琲飲みながら(コーヒーもいける口だった!)一時間ほどお話しておいとま。
あいにくの雨でしたが、片道40分ほどのドライブを楽しみつつ夜はホテル近くの小料理屋さんで舌鼓を打ちました。
や〜〜〜山菜が美味しかった!(日本酒も)←景虎

翌日はスッキリとまでは行かなくとも、晴れ間の見えるお天気に。

今度は母の実家、小千谷です。
私はあの中越地震以降、訪れていないので景色も変わっただろうと思いながらハンドルを握りました。
なんたって山が崩れましたからね。
実家は家は大丈夫でした。が、村と街を繋ぐ道路が山崩れで寸断されて、また村中に避難勧告が出ていたので地震発生から2年近く、避難所生活を強いられていました。

あの地震の日。夕方でしたね。
職場のTVにみんなでかじりついて観ていました。
伯父曰く「電気は通らず、情報を得ることも出来ないわ余震が凄いわ山は崩れてるわで、村人が集まり話し合って山越えを決行することにした」のだそう。
一晩かけて山を越え降りてきたところを新聞社にパチリと撮られて一面に載ってしまったよ、とあの時おじさんが言ってたなあ。

そしてあの山の崩落に巻き込まれた車の事故。
TVで見た瞬間「え?あそこって・・・・」
そこは子供の頃からあまりに見慣れた景色で、ただただ絶句するばかりでした。

昔、新幹線がまだ通ってない頃。小千谷駅から車で走り、「あの山が見えてきたらそのすぐ手前を右に曲がる」と子供の頃から『あの山』は母の実家への目印だったのです。(そこを曲がって車で5〜6分のところ)

車に乗っていた男の子(当時2歳)が救出されたのは、何と4日後だったんですよね。助け出された時、おむつがパンパンだったと救助隊員が語っていましたが、私も当時TVを見ていて記憶があるのですが、車はバンパーをわずかにのぞかせる位でほぼ、岩・岩・土砂・岩・に埋もれていた。
余震が続き生存者がいる可能性はゼロに近いと思われての救助活動。
崩落現場に到着した隊員が、

「女性の声が聞こえます!」
「子どもがいる、と言ってます!」

と言ったことで、テレビのライブ中継画面には「2名生存」というテロップが流れた。(けれどお母さんは車や岩・土砂の下敷きでほぼ即死の状態だった)

情報が錯そうしてたのかも知れないけれど、でも助けられた優太君は
「お母さんがずっと一緒にいて怖くなかった」
「お母さんが歌をうたってくれていた」
と話したことが伝えられています。



かつて山だったところはなだらかな丘になっていました。画面左側、信濃川の中までも山は崩れ落ちて行ったのです。その崩れた山を割って道路は再建されました。(完成されるまで2年半もかかったという)そして信濃川の側にメモリアルパークが作られていました。


運転しながら、涙を堪えるのに必死でした。(運転できなくなりますんで)
忘れてはいけない出来事ですね。


この山沿いにある防空壕。昔はもっとあったのに。地震で崩れて無くなってしまったのか。



母の実家のお隣さんのしだれ桜。花びらがはらはらと舞い散る様がとても幻想的でした。ああーーー写真じゃあの空気が伝わらないぃ。なんかどのお宅もしだれ桜を植えてらしてそれはもう見事な景色でした。






ということで、新潟レポ?
お届けしました。

確かここはヒカアキサイトだったハズなんですが・・・・(;^^A)



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