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■ 竹富島リゾートについて
何年も竹富島へ行ってなかったので、竹富島憲章で決まっている土地売買はいけないと思っていたが、いつの間にかそっくり売られてしまっていた。
「竹富憲章」これって意味なかったわけだ?!
あくまで聞いた話だけをここに記しておこう。
まず、竹富島は、昔から商売はしていけないと言われていて、明治時代中期人頭税が終わって物納から金銭による納税に変わった。 それまで金を見たこともなかった人々にお金という概念が生まれた。 人頭税の重圧から解放されたといえ、お金がないから何もできず、でも金を得る手段は知らない。 そこで、一部の人が、多くの人が農作業しかできないので、農作業で得た豆だとか、収穫したもの織ったミンサーなどをまとめて石垣島へ売りに行って金にしてくれる人が現れた。 そういうことを「アチョーロー」というらしい。私の曾祖母の弟がそれで稼いでいた。 でも、島内では、商売自体はやってはいけないという暗黙のルールのようなものがあった。 戦後だけど島内で商売を始めた者がいたがうまくいかなかった。 でも戦前から島に一軒だけ商売をしているところがあった。 なぜだかそこはそれで成り立っていた。
物納から金銭による納税に変わった時点で金を得る構造にならないとおかしいのだけれども、竹富島では、商売はあまり受け入れられなかった。 現在は、いくつか営業している商店、民宿も何件かある。 竹富島に店がどっと並んでアウトレットモールみたいだったら島の意味はどうか?
そんな特性を持つ竹富島が観光リゾートに売ったのはなぜか? それは、あまりにも島の土地を売って外へ行く人が増えたので、竹富憲章を作ったのだそうだ。 ところが、あまりにも一生懸命だった当時の町長が島の放置状態な土地を勝手に町長の名義に書き換えていた(噂) これは、そういう事情にあったXさんから聞いた話だ。
町長にしてみれば島を守る苦肉の策だったのだろう。お蔭で守られた部分がある。 ところが、町長の島の土地守りに支援してくれていた沖縄本島のK場組が経済的におかしくなって支援から手を引いた。 それまで町長が売られた土地を買い戻したり、死守するためにやってきた支援してくれる後ろ盾がなくなった。
それで、借金が加算でみっちもさっちもいかなくなった。 そこへいろいろなところが申し出てきた。 そのなかには、外国資本もあった。 外国に買われてしまうよりはましということで、竹富島の街並み保存を守ること、島の決まりに理解を示してくれる一企業に売ることになったというのが顛末らしい。 本当は、島内外の人は大反対だが、みな一応は賛成にしているかたちをとった。 このことについて島の人は、あまり語りたがらない。 今さら言ってみたことで返ってくるわけでもない。
カタチは譲っても手放しているわけではないのだ。 今、島に住む親戚のおじさんや石垣島の*竹富村(登野城)に住む人々も同じで心中、穏やかではないはずだがポーカーフェィスしているだけさ。 ※石垣島の登野城には、竹富島出身者が多く暮らしているので別名竹富村と自分らで呼んでいる
2014年06月19日(木)
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