ぶらんこ
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2005年05月31日(火) モラル

「それはモラルの問題」・・・だって。
モラルってなに?道徳心?
じゃぁその発言はモラル的なわけ?
そんな言葉で誤魔化して、拘束しないで。
それとも、
脅されてるように聞こえちゃうわたしが、ただの弱虫なの?


モラルのあるなしではないでしょう。
良いも悪いもないでしょう。
「自由意志です」
それでいいんじゃない?


もちろん、そちらの判断も自由でしょうし。






2005年05月29日(日) 髪を切った

バッサリと。
・・・ということもないのだけれど。


昔、ものすごく長い髪の女の子が主人公の漫画があった。
タイトルは忘れたけれど、確か岩館真理子のやつだったと思う。
女の子は両親を事故かなにかで失くしてた。以来、ずっと、ひとりきり。
彼女は髪をずっと切らないで伸ばしていた。「この髪だけが、遠い記憶を持ってるから。」という理由で。
おぼろげだけれど、そんな感じの内容だったと思う。
物語は、そんな彼女を理解してくれる優しい恋人が出来て、ハッピーエンド。だったよな。。。
なんだかこうして文章にしてしまうと非常に陳腐になってしまうけれど、とっても素敵な絵だった。
わたしも髪を伸ばすんだー!などと思ってしまったし、こんな風に長い時を経ても、ふとフラッシュバックがあったりする。
漫画家ってすごいなぁ、と思う。絵描きであり、物語作家でもあり。。。。



人間の身体というものは、ひとつひとつの細胞から出来ている。
その細胞らがそれぞれ、皮膚であったり筋肉であったり赤血球であったり脳であったりする。
それら細胞は成長し、あるものは成長をやめ、あるものは分裂する。
部位によってその寿命も違ってくるらしいのだけれど、人間の身体の細胞のほとんどが約1年で入れ替わり、
すべてが入れ替わるのには約3年かかる、とされている。
(このことをきちんと調べたいのだけれど、解剖学の本がどうしても見つからないので、本当のところはよくわからない。
すべて、と言っても、髪の毛や歯、或いは爪といったものは含まれないのだと思う。)

どちらにしても、わたしたち人間の身体というものは、おのおのの細胞によって構成されている。
この一瞬にも、身体のどこかで新しい細胞が生まれ、同じように古い細胞が死んでいく。誰に命令されるわけでもないのに。
たぶん、細胞ひとつひとつには、なんらかの法則が働いているのだと思う。
それは何も人間だけでなく、植物であっても。
細胞には「心」のようなものがあるのかもしれない、と、誰かが言ってたけれど、きっとそうなのだと思う。
心。或いは、意識。ある本によると、「意識のひらめき」と書かれていた。


記憶にもっとも関与しているのは、脳細胞。。。かなぁ。
脳については(も)、未知の部分が大きいので、本当のところはどうなのかわからないけれど。
でも、脳細胞が死んでその記憶も消えてしまうか、というと、そんなことはない。
たぶん、古い細胞から新しい細胞へと受け継がれるのだろう。
だから人は、ある程度の記憶を持ち合わせているものだし、前世の記憶さえも持っている人がいるという。
死んでしまって、その肉体が滅びても、記憶(意識?)は生き続ける。たぶん、それがその人にとって必要であれば。なのかなぁ。。。。
そうなると、髪を切ろうが切るまいが、あまり関係ないのだな、なんて思ったりして。

でも、わたしが欲しいのは、「記憶」よりも「意識の拡大」だなぁ。
芸術家(表現者)と呼ばれる人たちって、そういうことを経験しているような気がする。無意識であっても。



うーん。。。。何を言いたいのか、よくわからなくなってしまった。。。。笑
まぁ久しぶりに髪を切って、なんとなくいろいろと考えた、ちゅうだけ。かもね。



2005年05月25日(水) すみのえの

たぶん知ってるあの場所は

遠い記憶のそのまた向こう

隔てるものはすべて放たれ

はてしないつながりを知る






2005年05月24日(火) 沖縄


           一番楽しかったところ
           美ら海水族館









                                                            一番心に残ったところ
                                                            ひめゆりの塔










2005年05月23日(月) 『愛する』の反対

「『愛する』の反対って、何だと思う?」
職場の同僚に聞かれ、ほんの少し考えてから答えたところ、
「すごい!わたし、わかんなかったのにー」と、悔しがられた。
思わず「やっほーぃ!」と大喜びのわたし。うほほほほ。
さて、答えはなんでしょう?


それは・・・『無関心』。
彼女曰く、マザーテレサの言葉なのだそう。昨日たまたまラジオで聴いたらしい。
でも、わたしが答えられたくらいだから、マザーだけでなくもっと多くの人が同じようなことを言ってるのかも。。。。


「愛する」の反対。
それは「嫌う」でも「憎む」でもない。
なぜなら、それらはある意味「気にかけてる」ということだから。だと思う。


『愛がもっとも気高く、もっとも神聖な行為であるのは、愛がその中に常に愛でないものまで包み込んでいるからです』
                                                         by タデウス・ゴラス


きっと、愛でないものだけ持つほうが、難しいのかもしれない。。。。




2005年05月22日(日) blessed

 
 海へ行こう。

 車があるってなんて素敵なこと。
 車を運転できるって、なんて素晴らしいこと。
 神さまありがとう。
 車がなければ、運転できなければ、
 こんな遠くまでひとりでやってはこれません。
 


大好きな海を見ながらにへらにへらと運転していたのだけれど、途中でパンクしてしまった。
なんてこと。見事にぺっしゃんこ。
よくまぁこんな状態で走れたモンだ、というくらいに。


パンクなんて初めてのことで、ちょっとパニックになってしまう。
スペアタイヤはある。でもジャッキがなさそう。(あっても使えないけど)
とにかく誰かに電話しよう。あーケイタイを持ってて良かった。
なのに電話が通じない、、、。圏外でもなさそうなのに(柱は3本立っている)、どこへかけても話中だ。
どうしよう、、、と思っているところへ、たまたま工事のお兄さんがやってきた。
なんてラッキー。彼はわたしの話を聞くと、鍵のかかった事務所を開け、電話を貸してくれた。
彼曰く、「ここらはケイタイは繋がらない場所」なのだそうだ。
ありがとう、お兄さん。


それにしても、JAFに入ってて良かった。
というよりもその前に、出かけるとき、お財布のないのに気付いて職場に取りに戻ったのも良かった。
お金はともかく、免許証もJAFの会員証もお財布の中だったからね。あー良かった。

電話でなんとか場所を説明し、JAFに来てもらう手配が出来た。
パンク修理は出来ないけれど、スペアタイヤをはめてくれるらしい。
「1時間くらいかかるかもしれませんが・・・」
市街地からはかなり離れたところなので、とのことだった。
そうだろう。ちょうど大隅半島を横切る感じで通ってきた峠道の頂上あたりだったもの。

JAFを待っている間、ぷーちゃんを連れてちょっとそこらを歩いた。
山を少し下っていくと、下のほうに人家がちょびっと見えてきた。小さな集落。
木々で覆われているけれど、底のほうから、川の水の流れる音もした。
それから車のほうへまた戻り、木陰に座ってぷーちゃんをブラッシングすることにした。
夕方でもないのに、ヤブ蚊がたくさん飛んでた。
そんなこんなで時間を潰してたら、JAFのおじさんがやってきて、さささっと作業を済ましてくれた。
ジャッキと工具さえあればわたしにも出来たかも。買っといたほうが良いかもしれないなぁ。。。。
さて、スペアタイヤは思っていた以上に貧弱だったし、なんとなく怖かったので、もう家に帰ることにした。
本当は水平線から昇ってくるお月さまを見る予定だったのだけれど。


ということで、今日はタイヤ修理をお願いするためにイエローハットへ出かけた。
ところが、修理よりも交換を勧められてしまった。うわー。
修理できないことはないけれど、タイヤの中のワイヤーが切れてるおそれがあるから、と。
それはとてもとても、危険な状態なのだ、と。
「これ、パンクしてからかなり走られたんだと思いますよ。」
なんてこと。。。。まったく、気付かなかった。です。。。。。。。。。
しょうがない。命には変えられません。交換してください。
ホント。命拾いしたみたい。
あのまま走っていたら、わたしもぷーちゃんも大事故で死んじゃってたかもしれない。


運転するとき(どこかへ遠出するときなんかは特に)、自然と感謝の気持ちが湧いてくる。
わたしの場合、車を運転していること自体が奇跡みたいなものだから。
アメリカでも、日本に戻って来てからも、免許取得には(今だから笑って話せる)相当のドラマがあった。
なので、今でも、運転するときには神さまにお祈りをする。
神さまありがとう。今日もこの車とわたしたちを護ってくださいますように。
何事もなく無事でありますように。
すべて良いようにしてくださいますように。



写真は、国道448号線の、内之浦町に入ってしばらく行ったところ。
拡がる海を見て思わず車を停めて撮った、一枚。
この写真を撮り、さて車に戻ろうか・・と振り返ったときに、パンクに気付いたのだった。。。。

たぶん、神さまが良いようにしてくれたのだと思う。
まだ生きなさい、ということなのだと思う。
いや本当に。

神さまありがとう。




2005年05月18日(水) difference


  ひとを責めること と 自分の考えを言うこと

  ひとに合わせること と ひとを思いやること

  自分を抑えること と 違いを認めること

  

なーんでわからんのかな? 
まったくどっちが大人なんだか。。。。 




2005年05月17日(火) 深呼吸

rude

欠けているものがあるとしたら、わたしのほう。
と、いうよりも、
わたしは「わたし」を見なければならないのでしょう。
「あなた」は「わたし」が投影されたものだから。


粗雑であっても。
荒々しくても。
憤ることも。
たぶん、すべて必要。。。。


だから悲しまなくていいのです。
そんなに心を砕かないで。

ただ、深呼吸すればいいのです。

深く。
ゆっくり。
丁寧に。



2005年05月16日(月) らしさ

早く仕事に慣れて、のびのびと自分らしい看護ができたらいいなぁ、と思う。
というようなことを友人に言ったところ、「自分らしい看護ってどんなん?」と聞かれた。
うーーーーん。。。。はて。。。どんなだろ??? 笑


なんとか言葉で表現しようとしたら、看護学校時代に書かされた「看護観」などというものを思い出してしまった。。。
そんなの、どうやって説明したらよいか皆目わからなかった。(今もわからない)
だから無理に言葉を探して、どうにかこうにか文字数を増やしながら仕上げた記憶がある。
たぶん言葉でなかったとしても(つまり、絵とかダンスとかでも)うまく表現できなかっただろうなぁ。
それはつまり、自分のなかで確固たるものがなかったからなのだろうな、と思う、あの頃は。


で、今は、というと。

確固たるもの、とまではいかなくとも、「何か」はあるような気がする。
それは、「信じる気持ち」というか「希望」のようなものというか。。。。
言葉にするとどこか違ってしまうような、掴めそうな何か。或いは掴みたい何か。
書けば書くほどに、遠ざかるような気もするのだけれど。。。。
とにかく、そういうことを患者さんやご家族に表現していくこと=わたしの看護。なのかなぁ、と、思う。
ありゃ。これってもうアートじゃないか。うん。。。。そうなのかもしれないな。そっか。そうだったのかも。。。。


ところで、今のわたしが自分らしいか、というと・・・まだまだ「らしく」ない。
なぜってどこか緊張してるものね。
だからくたびれたりもしてね。(いっちょまえに。)
でもそういうところこそが「わたし」でもあるワケで。。。あぁ ややこしや!


まぁでも、少しずつ慣れてきた感じ。
大変だけど、正直なところ、毎日が楽しい。
そして、これから、もっともっと楽しくなる予感がある。
やっぱり脳天気。
そういうところもまた、わたしらしい。のか??? 笑




2005年05月11日(水) 好きです

良いコミュニケーションをとるために。

� 嶌F�も元気か」
まずは相手の健康状態をチェックする。身体の調子が良いか悪いかで、言葉の出方も変わってくる。
�◆崗亟蕕�あるか」
笑顔があるということは、心の状態が良いこと。笑顔がなければ・・・笑ってもらおう!
��「どんなことを考えているのか。を当てる」
相手は何を考えているのだろう?もし、否定や抵抗があるとしたら、これは意思の表れ。喜ばしいこと!

以上、ある訪問言語療法士の話から抜粋した。
彼の訪問対象は、失語症の患者さんである。
失語症の方は、口から言葉を発することが困難であるばかりでなく、言葉の意味を理解することもまた、容易でない。
彼らは、自分の思っていることは頭のなかでわかっていても、それを相手に言葉で伝えられない。また、違った言葉が口から出てしまったりする。
伝えたいことがなかなか伝えられない。伝わらない。
どんなに辛いだろう。。。と、思う。
このことは、彼らの伝えたいことを理解できない聞き手(家族・友人)にとってもまた、苦痛が大きい。


けれども、上記の3点に留意して関わることで、より良いコミュニケーションが図れる、という。
そのなかには「待つ」ことや「あきらめる」ことも含まれる。
言葉を発する患者さんの気持ちを支持し、言葉が出るのを静かに「待つ」。
そして、待つ時間が長すぎることのないよう、ある程度の時間が過ぎたらあきらめ、「やめる」。
うまく言えないけれど、たぶん潔い気持ちが必要なんだなぁ・・・と思う。
そしてその根底には「出来なくてもいい」という想いがあるような気がする。良い意味での「あきらめ」。
「はずす」という言葉のほうが近いかもしれない。なにも特別なことではなく、ただ、退く。
受容。寛大。


彼の話のなかでとても素敵な箇所があった。記事が手元にないので、うろ覚えなのだけれど。

「たとえば、こう聞いてみるのもいいです。『私のことが好きですか?』
いろんな答えが得られますよ。さて、どう思ってるんでしょう?
相手が何を考えているか当ててみるんです。面白いですよ。」

これまた、なんと潔いことでしょう。。。
きっと彼は、良い答えなどを期待してはいないのだ。(いや、もちろん良い答えのほうが嬉しいに決まってるけれど)
それ以前に、彼は、まず、相手のことを好いている。
それって、とってもとっても、大事なことだと思う。
彼は常に「わたしはあなたのことが好きですよ」そんな心で接しているのだと思う。
だから、待てる。はずせる。そしてまた、始められる。


「好き」という気持ちは無敵だ。
何もかもを含み、やさしく包み込む。
ひとと関わるとき、いつもそういう心であれば、きっとすべてが違ってくるだろう。


あなたはわたしが好きですか。
わたしはあなたが好きです。


2005年05月10日(火) またあした

おやすみ。

おやすみなさい。


それだけでいい。



2005年05月08日(日) みもたまも


 夕暮れせまる空
 いちめんに拡がる雲たちが
 大きなおおきな
 天使の翼のように見えました
 優しく強く
 どこまでも
                              母の日 おめでとう



 


2005年05月06日(金) 白い包帯

夢を見た

タクシーに乗っていた
わたしの連れは右手に包帯をしていた
けっして新しいとはいえない
少しほどけかかってるような、白い包帯だった
どんな傷なのかわたしは知らないけれど
もう治っているのかもしれないけれど
わたしは連れの右手を取って
「良くなりますように」
そう祈っていた
連れは何も言わず、ただ、なすがままにまかせていた

そんな夢を見た



わたしは何を癒そうとしていたのだろう?
どこへ向かおうとしていたのだろう?


目覚めてから思い出すのは
連れの深い瞳と
白い包帯と。。。。




2005年05月05日(木) しあわせなひと

とてもとても素敵なおばちゃんと会えた。

おばちゃんはすぅごく明るい。
笑顔。笑顔。笑顔。なんだって笑い飛ばす。そのせいかな?ほっぺたなんかツヤツヤ。
「おばちゃんの肌ってとっても綺麗」 わたしがそう言うと
「真っ黒でしょう〜」 おばちゃんは恥じらいながら笑った。
そういうところ、すごくかわいい。80歳に近いだなんて、とても信じられない。


おばちゃんはずっと、だんなさんとふたりで暮らしている。
ご主人さまはもう長いこと、寝たきり。
病気が進行して、おじぃさんは言葉をも失ってしまった。それでも、おばちゃんにはちゃんと聞こえている。
きっとふたりは、わたしたちの知らない方法で話をしているのだろう、と・・・思う。



広い畑の一本道。おばちゃんが、おじぃさんを車椅子に乗せて歩いている。
おばちゃんは、カメラを見ながら、おおきく笑っている。
おじぃさんも、ほんの少し顔を上げて、ちいさく笑っている。
引き伸ばされた一枚の写真は、おじぃさんのベッドから見えるところに飾られている。
畑の緑は濃く、青い空はどこまでも高く。
おばちゃんの手拭いが、眩しいほどに白く光っている。



なんもせんでね、と言うのに、おばちゃんはちっちゃな台所で、カチャカチャ音を立てながらお茶を準備してくれた。
本当は「してはいけないこと」になっている。でも、断る必要がどこにあるというのだろう?
おばちゃんの話を聞きながら、一緒にお茶をいただいた。
おじぃさんの痰のこと、吸引のこと、入浴サービスのこと。
おばちゃんの息子のこと、孫のこと、猫のこと。
庭のテッセンのこと、山の中の畑のこと。。。。

「畑は大変よー。こんな忙しくせんでもいいのにっち、思うんだけどねー」
おじぃさんがいるので、畑に出られても2時間が限度だからどれもこれも中途半端になってしまう。
「そうこうしてるうちに、雨が降るしなぁー」おばちゃんはおでこを叩きながら笑う。
「おばちゃん、野菜の出来るのがかわいいんでしょう」わたしがそう言うと、
「もうね、自分ではよぅ食わんのにねー、畑は楽しみなんじゃねぇー。うん。野菜がかわいいねぇ!そんとおり!」
なんとも言えないほどに嬉しそうな表情になる。


おばちゃんは、自分の暮らしを自分で創っている。
自分が思うように。やりたいように。
おばちゃんの笑顔の秘密はそこにあるのかも。。。。


わたしも、おばちゃんのように笑っていたいなぁと思う。


しあわせなひとは
まわりのひとをも
しあわせにする



2005年05月01日(日) 瞬間


ひとはいつか、その生を終え、死ぬ。
すべてのいのちがそうであるように。


先週の列車脱線事故で、百人を超す人々が犠牲になった。
彼らは皆、それぞれがいつもどおりの朝を迎え、いつもどおりに出かけて行ったのだろう。
事故に遭おうとは夢にも思わず・・・。
「人生、何が起こるかわからない」とはよく言われるけれど、残されたご家族の深い悲しみをおもうと胸が痛んでたまらない。
どうぞすべての人々が一日も早く癒されますように。。。。


  ただ自分の人生を生きて、他の人にもただそれを許したなら、
  神はすべての瞬間にも、マスタードの一粒にも、生まれては消えてゆく雲のどの部分にも、存在することになる。
  神はそこにいるのに、それでも人はまだ探し続けなければならないと信じていた。
  人生はただ信じることだということを受け入れるのでは、あまりにも簡単すぎてしまうから。

                                  『ベロニカは死ぬことにした』 パウロ・コエーリョ









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